194.シャロンの像
ロートシュタイン領の地下街計画は、まさに疾風怒濤のごとく立ち上がり、そして、人々の日常へと溶け込んでいった。そのあまりの迅速さに、住人たちはただただ呆気にとられるばかりだった。
皆、我先にと新名所の見物に押し寄せた。しかし、そこにあるのはただ広大な空間のみ。商業の賑わいはまだ遠い。ただ一層の真ん中、まるで世界の中心のように、まん丸の魔石の上に腰掛けた不気味なガーゴイル像がぽつんと佇んでいるだけ。かつて悪魔を封印したというその石像は、訪れる人々の好奇の視線を集めながらも、その存在の真意を誰も理解できなかった。
店もない空間が先に開放されたのは、領主ラルフの深謀遠慮ゆえの安全策だった。もし商業施設として完成された形でオープンすれば、その目新しさから人々が殺到し、群衆事故が起きかねない。前世の記憶を持つラルフは、特に階段や閉鎖空間で起こる悲劇の惨状を鮮明に知っていた。だからこそ、彼はこの地下空間に、徐々に、しかし確実に人々を浸透させていく道を選んだのだ。
「まずは、お前が出店してみるか?」
ラルフが白羽の矢を立てたのは、エリカだった。彼女の作るカレーパンは、もはやロートシュタイン領の名物のひとつだ。
「あんな何もないところで? ポツンと?」
エリカは困惑しつつも、搬入通路から屋台を引き入れ、ガーゴイル像の真隣で商売を始めた。すると、当然だが、彼女のカレーパン目当ての客足は途絶えることがなかった。時折、ガーゴイル像を気まずそうにちらりと見上げるエリカの姿を、ラルフは微笑ましく眺めていた。
案の定、すぐに地下街への出店を求める問い合わせが殺到する。広大な空間とはいえ、場所には限りがある。ラルフは鑑札を発行し、一ヶ月ごとに抽選を行う暫定的なルールを設けた。この施策はまだ試行段階であり、将来的に彼が構想していた「グルメギルド」が設立されれば、管理運営を委ねることも視野に入れていた。
一方、ガーゴイル像として封印された悪魔は、内に渦巻く怒りと復讐心を持て余すしかなかった。
(今は耐えるしかない……。いつかこの封印を破り、この地に恐怖と混乱を……)
しかし、彼を苛んだのは、それだけではなかった。
人々は好奇心から、必ず彼の像に視線を向ける。その好奇の視線が、悪魔にとって信じられないほど気まずく、落ち着かないものだった。
(ジロジロ見るな!)
心の中で叫んでも、どうすることもできない。やがて、そのガーゴイル像前は、人々にとっての待ち合わせ場所として自然と定着していく。
「じゃあ、悪魔像前でな!」
「悪魔像? ああ、羽付きゴブリン像のことか?」
当初は呼び名も定まらなかったが、ある日、グレン子爵とグルメギルド出版のカイリーが像を見上げながら交わした会話が、運命の歯車を回す。
「なんで、悪魔なんかの像にしたんだろうなぁ?」
首を傾げる子爵に、カイリーは噂で聞いた話を披露した。
「これは、悪魔を追い払ってくれる悪魔らしいですよ?」
最近推理小説に夢中な同僚ヘンリエッタの影響を受けていたカイリーは、一つの大胆な仮説を立てる。
「あっ! もしかして、シャロンって、この悪魔の名前なのでは?」
最大の出入り口が「シャロン・ゲート」と呼ばれているのを耳にしたことがあった彼女は、その整合性に納得した。
「シャロン? 悪魔にしては、洒落た名だなぁ」
「もしかしたら、悪魔じゃないのかも知れませんね……」
謎は深まるばかりだが、二人は顔を見合わせ、とりあえずとばかりに両手を目の前で組み、像に向かって謎の祈りを捧げた。
(ヤメロぉぉぉ! 俺に祈りなど向けるなぁ!)
悪魔は激しい不快感に苛まれた。祈りとは神聖なものであり、悪魔に捧げるなど言語道断だ。しかし、周囲の人々は「祈ると何かご利益があるのかなぁ」と、その行為をあっさりと受け入れてしまった。
そして、その奇妙な慣習は、若者たちのデートの待ち合わせ場所として定着するにつれ、恋愛成就の祈願が圧倒的に増えていく。
(シャロン様! どうかこの恋が叶いますように!)
パン屋の次男が、憧れの花屋の娘との初デートに胸を膨らませ、熱心に祈りを捧げる。
(ヤメロぉっ! お門違いにも程がある!!)
シャロン様、あの人が振り向いてくれますように!
シャロン様、彼女とお付き合いできますように!
シャロン様、今日こそ彼がプロポーズしてくれますように!
純粋な恋心に満ちた祈りが次々と投げかけられる。
(だから! シャロンって誰だよ?! そんなこと願われても困る!!)
封印された悪魔は、ひたすら困惑するしかなかった。
恋愛成就だけではない。人々の素朴な願いもまた、絶え間なく悪魔に向けられた。
今日も美味しいご飯をありがとうございました。
皆が幸せに暮らせますように。
お金持ちになりたいです。
いつまでも健康でいられますように。
今日もこの場所を守って下さりありがとうございます。
美味しいラーメン食べたい……。
悪魔とは元来、人々の恐怖や欲望を糧とする存在だ。
その発生源である地獄とは「人間社会の負の集合意識が流れ着く場所」であり、悪魔はそこから生まれる、かすかな影のようなもの。彼らが形を得て成長するには、恐怖や憎悪といった強烈な負の感情が必要だった。
だが、このガーゴイル像に向けられたのは、純粋な願いと信仰心。
人々の信仰心を浴び続けた結果、悪魔の存在そのものが再定義され始める。
そして、シャロンと呼ばれる像は、その姿形までもが徐々に変容していく。人間は緩やかな変化には案外気づかないものだ。数年後、この像を見上げたラルフ・ドーソンも、その違和感に首を傾げたが、「気のせいかな……」と深く考えることはなかった。
後年、地下街はロートシュタインの名所となり、その中心には「シャロンの像」が不動のランドマークとして鎮座していた。
そこには、大きな魔石に腰掛ける、すべてを諦めたような、何かを達観したような、異様なほどに目つきの悪い、一人の女神像が静かにたたずんでいた。




