19.酔いどれ領主の夜
夜も更け、居酒屋領主館の客足が引いてきた時間帯。カウンターの奥まった席で、ラルフはすっかり出来上がっていた。顔は赤く、目はとろんとし、手にしたエールジョッキを傾けながら、呂律の回らない言葉を吐き出す。
「で、わかる? そこでバーン! だよ、バーン! って、魔法ぶっなしてやったわけよ! ヒッく!」
何を言っているのか、正確に理解できる者はこの場にはいなかった。同席しているのは、居酒屋領主館の常連中の常連、グレン・アストン子爵と、東大陸との交易を任されている女船長、メリッサ・ストーンだ。
「いや、すまんが、わからん」
グレン子爵は、呆れたような顔で、しかしどこか楽しそうにラルフの言葉を聞き流している。彼にとって、ラルフの酔態はもはや日常の風景だった。
「領主さま、飲み過ぎですよ」
メリッサは、眉をひそめながらも、ラルフのジョッキからエールを取り上げようとする。だが、ラルフはそれをかわし、さらにエールを口に流し込んだ。
「なんのめにいきてるかって、そりゃこのためにいきてるってどぅっばるやってんつれってんでぇ」
完全に意味不明な言葉を叫び、ラルフはグレン子爵の肩をバンバン叩いた。客が引いてきた夜更けから、メイドたちに店の切り盛りを任せて、ラルフは日常的に深酒をしている。もちろん、メイドたちは徹底したシフトを組んでいて、ブラック労働にならないように細心の注意が払われている。
そんなラルフを横目に、グレン子爵はメリッサに話を向けた。
「で、メリッサどの。東大陸の商家が、その香辛料の独占契約をしたいとのことだったね?」
グレン子爵は、ラルフが酩酊状態にあることを察し、代わりに本題に入ろうとした。メリッサは、その配慮に感謝するように頷いた。
「あっ、はい。そのご相談をしたかったのですが、領主殿は、こんな感じなので……」
メリッサは、困り果てたようにラルフをちらりと見た。東大陸から持ち帰った珍しい香辛料は、この国の貴族たちの間で瞬く間に評判となり、複数の大商会が独占契約を申し出てきていたのだ。
「どぅるってんすなんか? おれでいやろ、ヒャッはっはっはー! おい! ヒューズ! のんでるかー?」
ラルフは、突如として意味のわからないことを叫び出すと、隣の席で一人静かに飲んでいた馴染みの冒険者、ヒューズに絡みに行ってしまった。ヒューズは、慣れた様子でラルフの相手をしている。
グレン子爵は、そんなラルフの様子を見て、小さく笑った。
「なるほど。よかろう、その件は私が引き受けようかのぉ」
子爵の言葉に、メリッサは驚きを隠せない。
「あっ、いえ。その! 他所の貴族様に、ご迷惑をおかけするわけには……」
彼女は、あくまでも領主の仕事であるため、他家の貴族に押し付けるわけにはいかないと戸惑う。しかし、グレン子爵は、それを気にする素振りも見せずに、にやりと笑った。
「いや、いい。私も儲けに噛ませてくれないか。それに、私が金を稼いでも、どうせドーソン家の酒場に金を落とすだけだからな。それでいいな?! ドーソン公爵?!」
グレン子爵は、絡みに行っていたラルフに向かって大声で問いかけた。
「あー! オケオケ!」
ラルフは、ろくに話も聞かずに、適当に返事を返した。その姿は、まさしくポンコツそのものだ。
メリッサは、呆れてため息をついた。この領主は、本当にこれでいいのだろうか。
しかし、グレン子爵がこの商談を引き受けてくれるとなれば、話は別だ。
彼はこの領地でも有数の財力を持ち、商業ギルドにも顔が利く。何より、彼の食への情熱は、ラルフにも劣らないものがある。東大陸の珍しい香辛料の価値を、彼は正確に理解してくれるだろう。
グレン子爵は、ラルフの適当な返事を聞き届けると、満足げに頷いた。彼は、この商談をまとめることで得られる利益はもちろんのこと、東大陸から新たな食材や香辛料が安定して入ってくることへの期待に胸を膨らませていた。それが、最終的にはドーソン家の酒場で、新たな美食となって自分のもとに還ってくることを知っているからだ。
「しかし、公爵様は、本当に変わった方ですね」
メリッサが、ポツリと呟いた。
「ああ、まったくもってな。だが、それが彼の魅力でもある。そして、何よりも、彼はこの領地を、そして我々の生活を、より豊かにしてくれる存在だ」
グレン子爵は、ジョッキに残ったエールを飲み干し、遠くを見つめるように言った。
その視線の先には、ラルフがヒューズに「おい! 俺の酒が飲めねぇのか!」と絡んでいる姿が見える。
酔いどれ領主と、彼の周りで着々と進む領地改革。居酒屋領主館の夜は、今日もまた、様々な思惑と賑わいに満ちていた。