122.牢屋
ロートシュタイン領主館の地下深く、冷たい石畳の床にブロディは横たわっていた。薄暗い牢獄には、湿った土と、僅かなカビの臭いが漂っている。王都の路地で反社会的な仕事をしてきた彼にとって、新進気鋭の魔導士ラルフ・ドーソンが治めるロートシュタイン領で「デカい山」を踏もうとしたことが、まさかこんな形で打ち砕かれるとは。
同じ牢屋に閉じ込められた仲間たちも、皆、絶望の淵に沈んでいる。おそらくは縛り首か、良くて奴隷落ち。そのような末路を覚悟していなかったわけではない。いつか、どこかで、悪党は悪党らしい最期を迎える。それは頭では理解していたはずだ。しかし、いざその時を迎えると、何をどこで間違えたのか? という、どうしようもない後悔が、心の奥底から湧き上がってくる。娼婦の子として生まれてしまったことか?生きるために人を騙すことを生業としたことか?いや、ロートシュタインでデカい山を踏もうとしたことか?
答えは出ない。ただ、縄で首を括られるか、奴隷として鉱山に売り飛ばされ、使い潰されるように死んでいく。その未来はすぐそこにある。なんだか、それはそれで安堵してしまった。もう、必死に明日生きる金を稼ぐ必要がない。もう、疲れていたのかもしれない。彼の瞼の裏には、薄汚れた路地の光景が、走馬灯のように駆け巡っていた。
その時、ギー!と重々しい音を立てて、地下牢の扉が開いた。途端に、どこからともなく美味そうな匂いが、じめじめとした牢獄の空気をかき消すように漂ってきた。ブロディは、思わず身を起こす。
そして、そこに現れたのは、
「おーい。野郎ども。メシだ」
と、まさかの領主であるラルフ・ドーソンその人だった。彼は湯気を立てる美味そうな料理が山と積まれた手押しのワゴンを、軽々と押して現れたのだ。その顔には、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいる。
「はっ?」
「えっ、ええ?」
と、仲間たちも困惑の声を漏らしている。彼らの目には、ラルフの姿と、その手にある豪華な料理が信じられないといった風に映っている。
「おーい。ハリソン、腹減ってるかぁ?」
ラルフは、ワゴンの横に立ち、ブロディに向かって呼びかけた。
「いや、だからハリソンって誰です?! 俺はブロディですって!」
ブロディは思わず突っ込んでしまった。ラルフにとっては、地面師はハリソンという謎の固定観念があるらしかった。
「とにかくメシだ。食えるだけ食ってくれー」
ラルフは、ブロディの言葉など気にも留めず、牢屋の鍵を開け始めた。カチャリ、と鈍い音がして、鉄格子が開かれる。そして、そのまま平然と料理を運び込み始めた。
チャーハンに青椒肉絲、エビチリに大根サラダ、春巻きにギョーザ。熱気を帯びた料理の湯気が、食欲をそそる香りを牢屋いっぱいに広げる。極めつけは、なんとハイボールと白葡萄酒まである。牢屋の片隅に置かれた料理の山に、一緒に捕らえられた仲間たちはすでに涎を垂らしている。彼らの目は、まるで飢えた獣のように輝いていた。
「これ第一弾だから。次はチャーシューと寿司と、あと炭酸水余ってるから、なんかテキトーに酒も飲んで」
ラルフは、そう言いながら次々と料理を並べていく。その手つきは、まるで居酒屋の大将のようだ。
「いや! 俺たちゃ罪人なんだから臭いメシが定番だろ?!」
と、思わず鋭い突っ込みを入れてしまうブロディことハリソン。彼の言葉は、もはや条件反射のようだった。
「臭いメシってどうやってわざわざ作るんだよー? これは居酒屋の余り物なんだよ。とにかく食え。めんどくせーなー!」
ラルフは、本当にめんどくさそうな表情で言い放った。その顔には、一切の悪意も打算も見受けられない。ただひたすらに、目の前の「面倒なこと」を早く終わらせたい、という気持ちだけが込められている。
仲間たちは、もはやブロディの言葉など耳に入っていない。彼らは早速、湯気を立てるメシにがっついている。
「なにこれ美味っ! むしゃむしゃ、美味っ!」
「こんな上等な酒、生まれてはじめて飲んだぜ。あー、もう、死んでもいいわ」
彼らの間からは、感嘆の声が次々と漏れ聞こえる。その表情は、まさに至福の境地だ。
そしてブロディは、どこか皮肉めいた笑みを浮かべた。
「けっ、まあ、いい。……どうせ、俺たちゃ縛り首か、奴隷落ちでしょ? これが最期の晩餐ってわけだ……」
そう言いながら、ブロディは熱々のフライドチキンにかぶりついた。カリッとした衣の食感、ジューシーな肉汁が口いっぱいに広がる。
「えっ! 何これ?! 美味っ!」
ブロディの顔が、驚きに染まった。その味は、彼の想像を遥かに超えていた。
するとラルフ・ドーソンは、そんなブロディの反応を満足げに眺めながら、淡々と言葉を続けた。
「お前らは、奴隷落ちだろうなぁ。米農家に買われて、その生涯を米作りに捧げるのだ。実は割と米不足なのだよ、ロートシュタインは。ただまぁ、米農家はなぁ……、大変だぞ。まあでも、冬はやることないから、冒険者の真似事をやったり、魚の養殖やったり、仕事はいくらでもあるから。美味しいお米を作りながら、罪を償ってくれ!」
ラルフの言葉は、ブロディの心に響いた。それは、彼が想像していたような、過酷で絶望的な未来ではなかった。米農家。ロートシュタインの豊かな大地で、米を作る。冬には冒険者の真似事、魚の養殖。仕事はいくらでもある。それは、悪党として生きてきた彼にとって、あまりにも穏やかで、そして希望に満ちた未来だった。
「はぁ?! やあ。いい人生だなぁ?! 俺、マジでロートシュタインに来て良かったかも!!」
ブロディことハリソンは、ロートシュタインの名物料理に舌鼓を打ちながら、満面の笑みを浮かべた。冷たい牢獄の中で、彼の心には、温かい光が差し込んだようだった。