117.風の匂い
ヴラドおじさん、ことウラデュウス・フォン・バランタイン国王陛下は、水上都市の少し下流の小川で釣糸を垂らしていた。
ロートシュタイン領の離宮に滞在中、お忍びで趣味の釣りを嗜むのが常だ。川面を滑る風が、彼の髭を優しく揺らす。
「ヴラドおじちゃーん。調子どう?」
朗らかな声が、静かな水辺に響く。振り向いたヴラドの目に映ったのは、いつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべたラルフ公爵だった。一国の国王と公爵の会話とは思えないほど、二人の間には熟れた空気が流れている。周囲の護衛騎士たちも、もはやこの光景に驚く様子もない。ただ、穏やかな眼差しで主君と公爵のやり取りを見守っているだけだ。
「むっ、何用だ?」
「何釣れた?」
ラルフは屈み込み、ヴラドの傍らに置かれた魚籠を覗き込んだ。中には立派な鯉と、ぬめぬめとしたナマズが釣果として収まっている。
「鯉と、ナマズだな」
「イールは?」
ラルフの問いに、ヴラドは眉をひそめた。
「まさか、あのニョロニョロも、食べるのか?」
「もちろん。美味いよ?」
ヴラドは信じられないといった顔をした。しかし、奇想天外な美食を生み出すラルフであれば、もしかしたら、と彼の言葉に耳を傾ける。柔らかな日差しが、二人の横顔を照らす。小川のせせらぎが、のどかな午後のBGMのように心地よい。
「あっちの岩場の方でよく掛かるな。ちょっとやってみるか?」
「よっしゃ! じゃあ、ちょっと餌を提供しましょうか」
ラルフはそう言って腕まくりをし、背後の土に手を着いた。
「む?」
ヴラドが訝しげな声を上げる。その視線の先で、ラルフは呪文を唱えた。
「この辺ならいるかな……――ニョロニョロ、ニュルニュル出ておいで、《蠕出電誘》」
魔法により地中に電流が流れる。すると、
「ぎゃーーー!」
甲高い悲鳴が響き渡った。エリカだ。地中から這い出してくる、ぶっといミミズたちに、彼女は顔を真っ青にして飛び退いていた。
国王の釣りの腕と知見は確かなものだった。岩場の隙間から次々と目的のニョロニョロ、つまりウナギを釣り上げていく。
黒く光る流線形の魚体が、陽光を浴びて艶めかしい。エリカはその様子を遠巻きに見ていたが、恐怖と好奇心が入り混じった複雑な表情を浮かべている。しかし、居酒屋で提供するには数が足りない。この食材は今晩は試作と試食に留まるだろう。
領主館に帰り着くと、ラルフは桶の中で黒光りするウナギを嬉しそうに眺めていた。その表情はまるで、宝物を見つけた子供のようだ。
ミンネとハルも興味津々といった様子で、その滑らかな生き物を指先でチョンチョンとつついたりしている。
遠くの物陰からエリカが、その光景を警戒するような眼差しで見つめていた。
「こっちに持ってくるんじゃないわよ!」
ラルフはニヤリと笑うと、その一匹を両手でギュッと掴んだ。
「わー! ニョロニョロ〜!ニョロニョロ〜!」
「ぎゃーーー!」
エリカの悲鳴が館中に響き渡る。ラルフはまるで悪ガキ小学生男児のように、ウナギを片手にエリカを追いかけ回した。廊下を駆け巡る二人の姿は、どこか微笑ましい。
さすがのラルフも、前世でウナギを捌いた経験はない。しかし、彼の前世には「YouTube」という便利な動画配信プラットフォームが存在していた。漠然とではあるが、ウナギの捌き方を解説した動画を観た記憶がある。
悪戦苦闘しながら、なんとか身を開き、串を打つ。随分と不格好にはなってしまったが、まあなんとか形になった。
七輪の上に、串を打たれたウナギが置かれる。熱々の白飯が用意され、醤油、米酒、砂糖などを調合した甘辛いタレが、プツプツと音を立てる身に塗られていく。
ジュウジュウと焼ける香ばしい匂いと、甘いタレの香りがふわりと漂う。この段階になると、エリカも恐怖を忘れたかのように、近くにやってきて興味津々でウナギをガン見している。
彼女にとって「ニョロニョロ」は忌避すべきものだが、「白飯に載った茶色い物」は、美味しさの象徴なのだ。
四人は並んで席についた。食卓の中央には、湯気を立てるうな丼が鎮座している。
「いただきまーす!」
ラルフが箸を取り、一口頬張る。
「これよこれ!」
懐かしい味に、彼の顔は至福に歪んだ。とろけるようなウナギの身、甘辛いタレ、そしてふっくらとした白飯。完璧なハーモニーが口の中に広がる。
しかし、彼はまだ知らない。この香ばしい匂いに誘われて、居酒屋領主館の前には、すでに長蛇の行列ができつつあるということを。夕暮れの空が茜色に染まり、風に乗って、香ばしい匂いが遠くまで運ばれていく。
今宵も居酒屋領主館は、きっと活気に満ち溢れることだろう。