111.酒と経済
「ハイボールくれ!」
「こっちも! ハイボールおかわり!」
「ねえ、ハイボールっていうの、美味しいの?」
居酒屋領主館は、今日も活気に満ちている。客たちの声が飛び交う中、カウンター越しにラルフは熊肉を煮ていた。
「ハイボールはなぁ、いいぞー。……なんというか、いくらでも飲める!」
冒険者の男が、隣の若者に得意げに語る。
「いや、全然説明になってないからぁ」
若者のツッコミに、周囲は「キャッハッハッハ!」と楽しげな笑い声で応じる。
ラルフは感じていた。居酒屋領主館をはじめてからわかったことだが、この世界にも流行というものが確かに存在する。つい先日までは、フレーバービールや甘口の葡萄酒が売れ筋だったが、いつの間にか、客たちのトレンドはハイボールへと移り変わっていた。
確かに、ラルフの前世でも、謎のブームが数年単位で周回していた気がする。謎のホッピーブーム、謎の氷点下ブーム、謎のクラフトビールブームに、クラフトジンのブーム。昨今の若い女性は日本酒に注目している、なんてブームも耳にした。夜の世界では、小っちゃくて可愛らしい色とりどりの小瓶に詰められたお酒が「映え」文化のトレンドとして根強い。もちろん、ハイボールのブームも幾度となく訪れた覚えがある。
ラルフは、あのような現象は、大手広告代理店の策略か、メーカーの市場開拓戦略という、バチバチの資本主義構造下の商業戦争とも言える覇権争いだろうと、達観していた。
しかし、どうやら、トレンドとかムードというのは、健全にも民衆から自発的に立ち上ってくるものもあるらしいと、少し安心してしまった。この世界の流行には、裏に潜む大人の事情よりも、純粋な好奇心や嗜好が色濃く反映されているように見えたからだ。
「お待ちどーさん。熊鍋とハイボールね!」
ラルフは、熊鍋とハイボールの乗った盆を差し出した。冒険者ギルドからの熊肉の注文は途切れない。今やロートシュタインは、ジビエの聖地と化しつつある。
「おせーよ! 領主さま! 腹が減って死にそうだったぜ!」
そう言って、冒険者の男は、二杯目のハイボールをがふりと豪快に飲み干した。
すると、男はグラスをカウンターに置き、眉をひそめた。
「むっ! さっきのハイボールと、味が違ぇぞ! さっきの方が、なんというか。……焦げた匂い?」
ラルフは、その鋭い味覚に感心した。
「おっ! わかるんだ! 実はね、さっきのは、イーラ・クレイグさんの造った火酒。今出したのは、トニスさんの所で作ってる火酒ね!」
ラルフは、にこやかに説明した。居酒屋領主館では、複数のドワーフの醸造所から火酒を仕入れている。
男は、その名を聞いて、大きく目を見開いた。
「トニス?! トニスって言えば?! ドワーフの、魔剣技士のトニスか?!」
「あー。うん。魔剣作ってる、そのトニスさんだね」
ラルフが頷くと、男はさらに驚きに満ちた声を上げた。
「まさか、酒も作っていたなんて……。いや、でも、納得だわ。俺の得物の、魔剣:ウイスタンは、あの人の傑作だからな。趣味が合うわけだ」
何を納得しているのかよくわからないラルフだった。魔剣と酒の味の趣味が合う、というのは、彼にとって理解の範疇を超えた感性だ。しかし、この一言が、思わぬブームの火付け役となる。
この出来事をきっかけに、居酒屋領主館では、火酒の味比べブームが訪れてしまう。冒険者たちは、それぞれのドワーフの醸造所が作った火酒の銘柄を覚え、競うようにその味を語り始めた。
「今年のイーラ・クレイグは、いつもより樽香が深いな!」
「いやいや、やっぱりトニスさんの火酒は、喉越しが違うぜ!」
「俺は断然、ローデス爺さんの火酒派だね。あの骨太な味わいがたまらん!」
ドワーフたちが作ったそれぞれの火酒には、いつしか「イーラ・クレイグ」「トニス」「ローデス」といった、彼ら職人の名前がそのまま銘として定着していく。
そして、それを買い求める人々は、冒険者も、商人も、貴族も関係なく、己が一番うまいと思うドワーフの酒造のボトルを、まるで宝物のように買い求めるようになった。
「この火酒は、うちの領地の特産品にするぞ!」
そう言って、貴族たちがドワーフの醸造所に直接交渉を持ちかけ、独占契約を結ぼうとする動きすら出てきた。ドワーフの火酒は、瞬く間にこの世界の新たなブランドとなり、その市場規模は日増しに拡大していく。
ラルフは、居酒屋のカウンターからその様子を眺めていた。彼が単に「美味しい火酒」として仕入れたものが、ドワーフ職人の名声を高め、新たな市場を生み出し、そして貴族や商人たちの思惑を巻き込んでいく。
結局、彼自身が、前世で達観していたはずの資本主義経済の尖兵としての役割を担ってしまったことへの皮肉に、なんとも言えぬ気分になってしまった。無自覚な行動が、結果として巨大な経済効果を生み出す。
それは、彼が前世で嫌というほど見てきた、あの「商業戦争」と何ら変わらない。皮肉にも、彼が安心した「健全なブーム」も、最終的には巨大な資本の渦へと吸収されていく。
ラルフは、グラスの中のハイボールを静かに見つめた。
泡が弾けるたびに、どこか乾いた笑いがこみ上げてくる。
結局、世界は変わっても、人々の欲望や、それが生み出す経済の原理は、本質的には変わらないのかもしれない。