109.今を生きる
ロートシュタイン領の街の入り口は、活気ある市場のようになっていた。
つい先程終わったばかりのワイバーン掃討戦。いや、ラルフが「狩り」と称した時間が終わり、冒険者たちはこの場で解体作業を始めていた。
何せ数が数だ。冒険者ギルドや市場まで、大量の肉を運ぶのはあまりに非効率。ということで、商会や旅の行商人たちがこの場で直接買い付ける、競りが急遽青空の下で開催されていた。
「五十!」
「むむむ。では六十!」
「七十だ!」
威勢の良い声が飛び交い、冒険者たちも金が入ってウハウハだ。どうせその金は、夜には居酒屋領主館に落とされるのだろう。
しかし、こうも大量だと、肉の市場価格が暴落しそうだ。肉屋のアントニオに文句を言われかねない。
ラルフは、そんな凄惨な、しかし活気に満ちた「惨状」を見て歩いていた。解体され、馬車に運び込まれるワイバーン。巨大な包丁でワイバーンの尻尾を切り落とす冒険者の姿は、なかなかに血みどろのスプラッターだ。
その時、一人の冒険者が駆けてきた。
「領主さまー! ちょっと面白いことになっておりまして。森まで来てもらえませんか?」
その言葉に、ラルフは興味を引かれた。
「ほほぅ。面白いこととな!」
「はい! 一匹、巨大な赤いワイバーンを取り逃がしたでしょ? 見つかったんですよ!」
「ほう。アレを仕留めた奴がいるのか」
あの巨大な個体は、通常のワイバーンとは一線を画す強敵だった。それを仕留めた者がいると聞いて、ラルフの顔にわずかな驚きが浮かんだ。
「いや、仕留めたというか、なんというか……」
冒険者は、歯切れ悪く言葉を濁す。ラルフは魔導車:ロードスターにその冒険者を乗せ、森へと向かった。
森の奥。そこには、大勢の冒険者たちがたむろしていた。そして、彼らの言葉は、ラルフの眉をひそめさせた。
「へっへっへぇ。我らが領主さまが来たらなぁ、テメェなんざ丸焼きだぜ!」
「へっへっへっー。美味しく料理されちゃうぜぇ」
「あの人はなんでも食うぜぇ。テメェの眼玉、脳味噌、内臓。骨からも出汁をとってすっからかんよ!」
「ぎゃーはっはっはっはっー!」
なんてガラの悪さだ。その目の前にいるのは、彼らの言葉に怯えたように身体を縮こまり、震えている赤い巨躯の、あのワイバーンだった。その大きな瞳は、恐怖に潤んでいる。
「お前ら、……なんか、酷いぞ」
ラルフは、冒険者たちを窘めた。しかし、彼らは聞く耳を持たない。
「何を言ってんです! こいつらは俺たち人間を殺す魔獣なんすよ! 昔の仲間が、ダンジョンでこいつらに食い殺されたのを見たこともある!」
「そーだ! そーだ! 殺っちまえ!」
冒険者たちの目には、魔獣に対する憎悪と、過去の記憶が焼き付いている。彼らにとって、ワイバーンはただの獲物ではない、復讐の対象なのだ。
「はあ」
ラルフはため息をついた。確かに彼らの言い分もわかる。だが、この怯えるワイバーンを見ていると、どうにも気が乗らなかった。
そして、その巨躯にゆっくりと近づき、手を伸ばす。赤いワイバーンはビクリと身体を震わせ、さらに怯える。
潤んだ、慈悲を乞うような目が、ラルフを見つめ、か細く「くぅーん」と、まるで仔犬のような声を出した。
「……ッチっ! あーもー!!」
ラルフは、天を仰いだ。その弱々しい鳴き声と、怯える瞳に、彼の心は動かされた。
「領主さま! 何を躊躇ってるんです!」
「そうですよ! そいつを見逃せば、傷が癒えたそいつは、また他の場所で人間を喰らう!」
「人間と魔獣はわかりあえないんですよ!」
冒険者たちの言葉が、ラルフの耳に届く。
「わかりあえない?」
いや。わかりあえる奴を、ラルフは知っている。学園に通っていた時の同級生に、確か魔獣を従えるテイムの魔法使いがいた。確か、そのコツを習ったことがある。
ラルフは、覚束ない記憶を辿りながら、地面に魔法陣を描いた。
「上手くできるか、わからんが……」
ぶつぶつと詠唱を唱える。そして、赤いワイバーンの鼻先に、そっと手を伸ばした。
「もう二度と人間を襲わないか? 僕に従うか?」
その魔力波長を合わせ、ゆっくりと問いかける。ワイバーンの身体の震えが、少しだけ収まる。
(お前の名は……。名は……)
名を与える行為は、まさに親と子の関係に近いものを刻む儀式だ。その存在の記号、他者との繋がり、そして自己の認識。あらゆる縁を結ぶための、最初の儀式。
(赤いワイバーン、……レッドバーン? レッド……、レッド)
よし! ラルフの脳裏に、ひとつの名前が閃いた。
「で。そのワイバーンを、飼うことにしたと?」
ここは領主館の庭。ラルフの連れてきた巨大な魔獣を見て、エリカとアンナは呆れた顔で言った。ハルとミンネは、ワイバーンの巨体に怖がって、遠巻きにしている。
「うむ! こいつはレッドフォード! 案外カワイイ奴だぞ!」
ラルフは、得意げに胸を張った。
「レッドフォードって、トカゲごときにたいそうな名前をつけたわねぇ」
エリカが白い目を向ける。
「旦那様、誰が世話をするのですか?」
アンナは、いつもの無表情で冷静に問いかけた。
「餌はこいつが勝手に飛んでって森の魔獣でも食うだろ。⋯⋯それより、散歩に行かないか?」
ラルフは、悪びれる様子もなく言った。
「散歩って、犬じゃないんだし」
エリカが呆れて言う。
「チッチッチ! わかってないねぇ、エリカくん! こいつの散歩は、特別だぞ!」
ラルフは、人差し指を立てて得意げに笑った。
「はー?」
エリカが、さらに怪訝な顔をする。
「空の散歩さ!」
そして、
「うわーー!!!」
「高い! 高い!」
「飛んでる! ホントに飛んでる!」
ラルフとエリカとミンネとハルを乗せたレッドフォードが、巨大な翼を広げ、ロートシュタインの大空に舞い上がる。風を切る音が、心地よい。
「しっかり掴まってろよー!」
ラルフが叫ぶ。下には、おもちゃのように小さくなったロートシュタインの街が広がっている。
「凄い! 凄いわよ!ロートシュタインが全部見える!」
「王都も見えそう!」
「すごーい! あっ! ほら! 下で皆手を振ってる!」
ミンネとハルの歓声が、空に響き渡る。誰しも一度は憧れる、空を飛ぶという夢。ラルフは、この世界に転生できて良かったなと、心から思った。この自由と、そして、彼を取り巻くかけがえのない人々との日々。煩わしく忙しなく騒がしいことばかりだが、それでも、今を生きたい。とラルフは強く願った。
その夜、居酒屋領主館の中では、昼間に仕留められたワイバーンを使った料理で賑わっていた。香ばしい肉の匂いが、店中に充満している。
一方、庭の隅では、レッドフォードが小さくなって震えていた。同胞たちの肉を喰らい、騒ぐ人間たちは、レッドフォードにとっては悪魔の宴のように感じられた。
彼は、人間の持つ恐ろしさと、そして、飼い主であるラルフの奇妙な優しさを、同時に感じていた。