108.虐殺の空
"それ"は、深く暗い場所で目を覚ました。ダンジョンの奥底。そこは黒き魔力が飽和し、無より異形のモノを生み出す坩堝。魔獣。その身に宿るのは、純粋な衝動――破壊し、殺し、喰らう。
"それ"は、自分には力があると自覚していた。大空を駆ける堅牢な翼が、獲物を切り裂く鋭い爪が、そしてすべてを灰燼に帰す強力なブレスが、己の優位性を雄弁に物語る。亜竜、すなわち人間たちにワイバーンと呼ばれるその存在は、深淵より次々と生み出される同胞を見た。
魔力暴走、別名:スタンピード。
"それ"は、衝動のままに、ダンジョンを飛び出した。
地平の向こうには、ヒトの暮らす街が見える。その周りには、数多くの同胞たちが、獰猛な咆哮を上げながら空を埋め尽くしていた。おそらく、あの街はすぐに食い荒らされ、炎によって燃やし尽くされるだろう。それが、この世の摂理。弱肉強食。
その時、
「《超電磁砲》」
そんな声が聞こえたかと思うと。
パンッ!
と、隣で羽ばたいていた一回り大きなワイバーンが、まるで風船が破裂したかのように爆ぜ、細切れの肉片となって空から落ちていく。
その光景に、"それ"は本能的な恐怖を覚えた。
"それ"が目を凝らすと、街の入り口には、想像を絶する数の人間が集まり、こちらを見上げている。あれは、そう、冒険者と呼ばれるヒトだ。ダンジョンによって生み出された"それ"は、同時にその場所に関する基本的な知識をも宿されていた。
しかし、その人間たちの群れの中央には、一風変わったヒトが立っている。このワイバーンの軍勢を前にして、腕を組み、不敵な笑みを浮かべているのだ。その姿は、あまりにも異質だった。
"それ"は、感じとった。
(ああ、あれは、ダメだ……。本当にダメだ! おそらくさっきの攻撃は、あのヒトが放ったものだ。あれは、自分よりも遥かに圧倒的な強者。……本物のバケモノだ)
その存在から放たれる圧倒的な魔力の波動。それは、魔獣である己の全存在を震え上がらせるほどだった。
そして、そのバケモノは、口元をニヤリと歪め、高らかに叫んだ。
「冒険者諸君! 我がロートシュタインは良い街だろう?! 向こうから"美味しいお肉"が飛んできてくれるのだ! さあ、野郎ども!! 一狩りいこうぜぇ!」
ここロートシュタイン領の領主であり、公爵。そして、この王国最強の大魔道士、ラルフ・ドーソンが、狂喜に満ちた声で叫んだ。
その言葉は、ワイバーンたちにとって、理解不能なものだった。美味しいお肉?
ラルフの言葉に呼応するように、冒険者たちが歓声を上げる。その中には、一際目立つ、狂気的な笑顔を浮かべる女騎士の姿があった。
「ワイバーンのチャーシューって、美味いのでしょうか?! どうなんでしょうね? マスター?」
ミラ・カーライルは、愛剣を鞘から引き抜きながら、ゾッとするような笑顔でラルフに問いかけた。その剣の切っ先は、すでに空を舞うワイバーンに向けられている。
「私は、角煮が食べたいですわ! 甘く煮込んだ」
そして、その隣には、純粋な食欲を瞳に宿した、とんでもない存在がいた。クレア王妃だ。彼女は、王家に伝わる二振りの聖剣、右手に聖剣:タイコンデロガ、左手に聖剣:アンティータムを構えている。王妃の周囲には、聖魔法による加護の光が渦を巻き、彼女の闘争心――いや、食欲を如実に表していた。その神々しいまでの輝きは、もはや聖戦士のそれだ。
それは、大虐殺とも言える時間の始まりだった。まさか、ワイバーンたちは、自分が捕食される側だとは、夢にも思いもしなかっただろう。街を襲い、人間を喰らうはずだった彼らが、今、捕食の対象として見られている。その事実に、ワイバーンたちの知性は、絶望に打ちひしがれた。
スタンピードは、彼らにとって新たな生存競争の始まりではなく、一方的な「食材狩り」の始まりに過ぎなかったのだ。ロートシュタインの空は、これから血と肉の匂いで満たされるだろう。そして、その匂いは、人間たちにとって甘く危険な、食欲をそそる香りにしかならないのだ。
"それ"は、自分たちを生み出した大いなるダンジョンの意思に、文句を言いたくなった。
(聞いてないょぉ!)