107.故郷の味
ラルフは、重い頭を抱えながら目を覚ました。
視界に映るのは、見慣れた居酒屋領主館の天井だ。昨晩の喧騒が、まだ耳の奥で微かに響いている気がした。昨晩は何やらわけのわからないイベントに駆り出された気がするが、記憶はあやふや。
どうやら、一階の客席のベンチで酔い潰れて眠ってしまったらしい。まあ、いつものことだ。
ふと隣を見ると、エルフのミュリエルが抱きついてイビキをかいている。やかましぃ。
絡まった彼女の手を雑に解くと、ミュリエルは小さく唸り、腕をさらに絡ませてきた。仕方なく、そっと彼女の頭をベンチに下ろして、ラルフはゆっくりと体を起こした。
厨房から、楽しげな声が聞こえてくる。コンコンと包丁の音が響き、香ばしい匂いが漂ってきた。
「おーい、お兄ちゃん起きた? どうする? 何か食べる?」
厨房の入り口から顔を覗かせたのは、ミンネだった。その後ろから、獣人のハルが、ぴこぴこと猫耳を揺らしながら、同じように顔を出す。
どうやら、二人は朝早くから仕込みを始めているようだ。その元気な声に、二日酔いの重い頭でぼーっとしながらも、ラルフは無意識のうちに口を開いた。
「あー、パン食いたい。イチゴジャムで」
「はーい! 先に顔洗ってきなよー」
ミンネとハルが、楽しそうに厨房へ戻っていく。ラルフは、重い体を起こし、顔を洗いに向かった。冷たい水が、少しだけ頭の痛みを和らげる。
朝食は、こんがり焼かれた厚切りのパンと、たっぷりのイチゴジャム。そして冷たい紅茶。ラルフはイチゴジャムの小瓶からスプーンで掬い上げ、パンに塗ろうとした。
その瞬間、チリリっ、とこめかみが痛んだ。転生者であるラルフは、時々このように前世の記憶がフラッシュバックする。それは、何かを強烈に思い出そうとする時の、脳の悲鳴のようなものだった。
(なんだ? 何を思い出しそうになった?)
何か、強烈に食べたい物がある気がする。その味覚の記憶が、脳の奥底から呼び起こされようとしている。
(どこでだ? それをどこで食べた?)
ラルフは前世の記憶を辿る。あの、渋谷の道玄坂の途中、雑多なビルの谷間にあった、ひなびた暖簾の居酒屋。
カウンターの上に鎮座するダルマ。誰が書いたかさっぱりわからないサイン色紙。そして、トイレの扉に貼られた、謎の世界一周の船旅のポスター。
懐かしく、そして失われた風景が、鮮明に蘇る。
ハッ! と、ラルフは目を見開いた。
("あれ"を忘れていたではないか!)
書類仕事を瞬殺させると、ラルフは魔導車をぶっ飛ばして漁村に向かった。そして、買いつけてきたもの。それは、
「イカーーーーーー!」
居酒屋領主館の厨房に木霊するラルフの慟哭。しかし、彼の奇行は慣れたもので、誰も気にしない。エリカは「また何か変なの作ってるわよ」とでも言いたげに、呆れた顔でチラリと見ただけだ。
ラルフは早速、買ってきたイカの下拵えをはじめる。イカを切り分け、丁寧にワタを取り出す。軟骨を取り出し、ペリペリと剥がしていく。(こんなところにもプラスチックによる海洋汚染が?!)とか言ってみるのは、前世のSNS上でのお約束だ。
ラルフが作ろうとしているのは、あの店の名物でもあった、イカの塩辛だ。その作り方は、ラルフは前世でYouTubeで見たことがあった。味醂の代用として、酸味の少ない白葡萄酒と少しのハチミツを加える。それを丁寧に混ぜ合わせ、数日。保冷庫で寝かせる。熟成を待つ間、ラルフの期待は膨らんでいった。
数日後、居酒屋領主館で出されたそれは、ある種の衝撃を常連客達に与えた。
「うげぇ! なんだよそれ! 腐った魔獣の脳味噌か?!」
「泥と管虫かよ?!」
客たちの罵声と悲鳴が飛び交う。確かに、そうなるだろうなぁ。という予想はしていた。見た目は確かに⋯⋯、前世でも外国人がこの日本の伝統食を恐る恐る食べている動画を見た気がする。その独特の見た目は、異世界の人々にとっては理解しがたいものだろう。
ラルフは、そんな喧騒を余所に、ヒョイっと、箸でそれをつまみ上げた。熱々の白飯の上にポンと乗せ、パクっ!と口に放り込む。
「うげぇ!」
「ギャー! 食った?! ホントに食いやがった?!」
「頭おかしいんじゃねーか?!」
「イカれてやがるぜ!」
(イカだけにな!)
とラルフは心の中だけで呟いた。口いっぱいに広がる濃厚な旨味と、塩辛独特の風味を堪能しながら、心に満ちる懐かしさを無言で味わう。
やはりというか、食文化とは難しい。その隔たりの境界には、海よりも深い河が横たわっているのだ。
しかし、ラルフはそんなことには頓着しない。目の前の「イカの塩辛」は、彼にとって至福の味なのだから。
そして、彼は気にせず、海からの恩恵を深く深く、一人静かに堪能した。冷酒をちびとやりながら、ラルフは、この異世界で忘れかけていた、故郷の味に浸った。