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100.カレーの定義

「おーい! "本日の宮廷料理長の一品"くれぇ!」

「俺もだ! 俺も!」

「私も!お願いします」


 客たちは、我先にと注文を飛ばす。本日も、居酒屋領主館は満員御礼。

 ざわざわどころか、すでにお祭り騒ぎの様相を呈していた。客たちの目当ては、もちろん、"本日の宮廷料理長の一品"だ。


 あれ以来、なぜか宮廷料理人のサルヴァドル・バイゼルは、週に三回か四回ほど、こうして居酒屋領主館に姿を現し、勝手に手伝いに入るようになった。


「王城での料理番は大丈夫なんですか?」


 ラルフは彼の身を案じたが、サルヴァドルは涼しい顔で「弟子は育ててある」と答えるばかりだ。どうやら、彼には彼なりの考えがあるらしい。


 サルヴァドルは、ここに来るたびに「試作研究のついでだ」とか言いながら、領主館の従業員たちに賄いを振舞ってくれた。

 それは、宮廷料理人という彼の地位を考えれば、ラルフ達にとっては破格の贅沢である。

 しかし、問題が起きた。どこから聞きつけたのか、客の一部が彼の料理を食べたいと言い出したのだ。


 普通は無理だろう。何を言っているのだ? 彼は、料理界の最高峰である宮廷料理人なのだぞ。そうラルフが思ったら、サルヴァドルは「いいぞ!」と、快く引き受けやがった。その潔さに、ラルフは呆れるしかない。


 まあ、それならと。ラルフは彼の来る日だけ、特別な一品として、日替わりの総料理長の創作料理としてメニューに載せた。

 そして、それが噂が噂を呼び、瞬く間に大人気となった。宮廷料理人が作る料理など、通常なら平民は一生口にする機会はないだろう。そんな稀少価値も相まって、居酒屋領主館は連日、大盛況だった。


 そして、本日の一品は、

 見るも鮮やかな、

 "トマトの肉詰め バゲットを添えて"だった。


 ラルフも食べてみたが、その完成度にとんでもなく驚かされた。

 敢えて少し硬めのトマトを選び、それを丁寧にくり抜き、くり抜いたトマトと挽肉、パプリカとタマネギ、刻んだキノコ、そして数種類のハーブやスパイスを混ぜたミートソースとチーズをトマトの器にたっぷりと詰め込む。  

 

 それをオーブンでじっくりと火を通すのだ。


 しっかり火が通ったトマトは、酸味を失う代わりに、まるで果実のジュレのような甘さを纏う。切り分けたそれを、カリッと焼かれたバゲットに乗せて食べる。口の中に広がる肉の旨味とトマトの甘酸っぱさ、そしてチーズのコク。まさに至福だ。


 ラルフは、「まるで超高級なピザトーストだ!」という庶民的な例えしか浮かばない自分の感覚が、少し恥ずかしくなった。しかし、その例えが、この料理の持つ親しみやすさと、同時に奥深さを的確に表現しているようにも思えた。


 しかし。そんな大人気を、どうしても気に入らない人物が、約一名。


 ラルフの奴隷にして、居酒屋領主館の看板娘、エリカだ。


「ぐぬぬぬっ!」


 厨房の片隅で、エリカは唸り声を上げた。彼女自慢の、日替わり「本日のエリカのカレーライス」が、宮廷料理長の料理の陰に霞んでしまっているのだ。客たちの注文は、総料理長の一品に集中し、カレーライスの注文は明らかに減っている。


「さすが宮廷料理人ね。……しかし、あたしはカレーで負けるわけにはいかないのよ!」


 エリカは、謎の対抗心を燃やし、サルヴァドルの方を睨みつけた。総料理長は、そんな彼女の様子に、


「は? はぁ……」


 と戸惑うばかりだ。小さな貴族令嬢にいきなり絡まれれば、そりゃあ戸惑うだろう。彼は、エリカの「カレーへの情熱」を理解する由もない。



 翌日から、エリカの「カレー闘争」が始まった。彼女はラルフに教えを請い、もっとカレーのバリエーションはないのか? と熱心に尋ねた。ラルフは呆れながらも、彼女の情熱に押され、様々なカレーの知識を授けた。


 キーマカレー、バターチキンカレー、

 なんなら海産物を使う手もあるという、シーフードカレー。

 薬草やハーブを使った薬膳カレー。

 何を使っても許される。何を入れても結局カレールーがすべてを内包し、そのアイデンティティはどうにも崩しようがない。カレーという料理の懐の深さに、ラルフ自身もまるで迷宮にでも迷い込んだ感覚に陥った。

 エリカは、その知識を貪欲に吸収し、日夜、新たなカレーの開発に没頭した。


 ある日、ラルフはふと興味が湧き、厨房で料理の試作をしていたサルヴァドルに声をかけた。


「サルヴァドルさん! もしあなたが創作カレーライスを作るなら。どんなカレーを作るの?」


 なぜかエリカが対抗心を燃やす敵である総料理長に、彼はそんな質問を投げかけてみた。


「そう、だなぁ。……ちょっと、作ってみるか」


 サルヴァドルは、少し考え込み、すぐに材料を揃え始めた。エリカもその様子に興味を覚え、チラリと彼の作業を覗き込んだ。


 そして、エリカとラルフの目の前に出されたカレーライスは、まさに衝撃の一品だった。


「さあ、どうぞ。柑橘とチキンのカレーライスです」


 サルヴァドルの言葉に、ラルフは目を見開き、かなり戸惑う。

(か、柑橘?)

 なんというか、酢豚にパイナップルくらいに賛否がありそう、とラルフは思った。

 カレーと柑橘という組み合わせは、どうにもラルフの常識では考えられない。


 恐る恐る一口。


 ラルフとエリカは、同時に驚愕した。


 口の中に広がるのは、柑橘の爽やかな酸味と、バジルのようなハーブの清涼感、そして鶏肉の旨味。それに、ピリッとした爽やかな辛さが加わり、今まで食べたことのない、しかしとてつもなく魅力的な味が広がった。


 また庶民派の味覚を持つラルフは、「あー、カレー味の唐揚げにレモンかけた感じだわ」と思った。

 その感想に、彼の庶民感覚がまた顔を出す。腐っても公爵なのに、だ。


 一方エリカは、その革新的な味に、


「ぐぬぬぬぬぬっ!」


 と奥歯を噛み割るのではないか、という様子で悔しがっていた。彼女のカレー闘争は、さらに激化するだろう。



 そんなある日、サルヴァドルが来られない日があった。

 ラルフは、皆のために賄いを作った。メニューは、孤児たちにも人気の、白くて温かい煮込み料理だ。


 すると、それを目の前にしたエリカが、首を傾げながら尋ねた。


「これは、ご飯にかけるのよね?」


「え? あ、まあ。かけるのも、⋯⋯まあ、ありだな。好きに食え」


 ラルフはそう答えた。その論争は、ラルフの前世でもあった。"シチュー"はご飯にかけるか否か。

 永遠のテーマである。


「これは、何カレーなの? 白カレー?」


 エリカの問いに、ラルフは思わず吹き出しそうになった。


「いや、カレーじゃない。それはシチューだ」


「えっ、だって具材はカレーじゃない?!」


 エリカは、煮込み料理の中の、肉と野菜を指差した。確かに、見た目だけならカレーと大差ないかもしれない。


「いや、確かに一緒だけど! それはカレーじゃないんだよ!」


 ラルフは、必死に説明しようとするが、エリカは納得しない。


「じゃあ、カレーは何を持ってカレーとみなすのよ?!」


 その言葉に、ラルフはハッと息を飲んだ。


 何か、哲学的な問いかけのようにもラルフは思ったのだ。


 "何を持って、何となすか?"

 この問いは、単なる食材の定義を超え、存在論的な根源へと誘う。皿の上の具材が、ある時はカレーとして認識され、またある時はシチューとして区別されるのは、いかなる本質に基づくのか?

 己が「カレーである」と認識する時、その認識は、絶対的な真理として宇宙に刻まれるのだろうか。あるいは、その認識は他者の解釈、すなわち集団的意識の反映に過ぎないのか。もしそうであれば、カレーのアイデンティティは、個々の主観を超えた客観的な存在として確立されるのか、それとも、無数の主観的解釈が織りなす間主観的実在に過ぎないのだろうか。

 この現象は、宇宙における摂理の探求にも似ている。我々が観測し、定義する現象は、本当にその本質を捉えているのか? あるいは、我々の観測行為自体が、その現象に新たな意味を与えているに過ぎないのか? カレーの「カレーたる所以」を決定づける観測者は、一体誰なのか。そして、その定義が普遍的な宇宙の法則として機能するならば、その法則の根源はどこにあるのか。

 カレーという日常的な存在を通して、我々は、実在の根否、認識の限界、そして宇宙の究極的構造という、深遠な問いに直面せざるを得ない。この一皿に宿る哲学は、まさに宇宙の神秘を凝縮したメタファーと言えるだろう。いや、だがしかし!


 ラルフはハッと思考の海から浮かび上がった。

 そして、


「いいから、早く食っちまえよ⋯⋯」


 と、なんだかアホらしくなってしまった。


 エリカは「むー!」と納得いかない様子で頬を膨らませた。

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― 新着の感想 ―
カレーライスとハヤシライスとブラウンシチューライスは見た目で判別がつかない
明治時代は『汁かけ飯』と呼ばれていた『カレーライス』 そういえば、シチューをご飯に掛けるのも、 『汁かけ飯』だよなぁ⁇ 定義に悩んで、夜しか眠れない。
お腹すいたぁぁぁぁ、お昼にカレー食べに行こう
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