10.商業ギルドとレシピ
ある日。領主館の執務室には、居酒屋領主館の帳簿が広げられていた。ラルフは、その収支表の数字を指でなぞりながら、唸るように呟いた。
「なあ、これ。儲かりすぎてね?」
目の前に広がる数字は、彼の想像をはるかに超えるものだった。連日の盛況は、そのまま莫大な売上高に直結している。
「あれだけ連日忙しければ、当然と思いますよ。旦那様が手間暇かけて作り上げた、あの美味なる料理と飲み物。それらを一度味わえば、誰もが虜になります」
アンナは、涼しい顔で答えた。彼女は、ラルフの仕事の速さだけでなく、その商才にも舌を巻いていた。
「でもまあ、税を取りながら、さらに魅惑のお酒と料理で民衆からお金を巻き上げるとは、さすが旦那様です。まさに、悪徳領主の鑑といったところでしょうか」
アンナの言葉に、ラルフはむっとした表情を浮かべた。
「おいおい、こんな善良な領主さまを捕まえて、なんて言い草だ。俺はただ、皆に美味しいものを届けただけなんだぞ」
その時、コンコンコン、と執務室の扉がノックされた。
「あのー。領主さ、あっ、お兄ちゃん。商業ギルドの、方がお会いしたいと」
扉の向こうから、ミンネの小さな声が聞こえる。彼女は、最近では領主館の雑務を手伝うだけでなく、ラルフの料理の助手としても活躍している。その甲斐あってか、以前よりもずっと、声に張りが出てきたようだった。
「おお、商業ギルドか。通してくれ」
ラルフが答えると、扉が開き、小太りの男が姿を現した。彼は、商業ギルドのマスター、バルドルという。実際に、小さな行商からこの地位にまで上り詰めたという叩き上げの商人だ。その顔には、商売で鍛えられた抜け目のなさが見て取れる。
「これはこれは、ドーソン公爵様。ご多忙の折、お邪魔いたします」
バルドルは、にこやかな笑みを浮かべながら、深々と頭を下げた。しかし、その目の奥には、獲物を狙うかのようなギラついた光が宿っている。
「それで、ご用件は?」
ラルフが単刀直入に尋ねた。
「はっ。実は、公爵様の居酒屋領主館で提供されております、あの革新的な料理の数々でございますが……レシピをギルドに登録なさってはいかがかと」
バルドルの言葉に、ラルフはわずかに目を細めた。ギルドにレシピを登録すれば、そのレシピが公的に認められ、模倣される際のルールや、製作者へのロイヤリティなどが定められる。ギルド側は、その登録料やロイヤリティの一部を徴収できるため、莫大な利益が見込める。ギルドマスターの真の思惑は、まさにそこにあった。
「ほう、レシピ登録か。いいだろう、お任せする」
ラルフの即答に、バルドルの顔に戸惑いの色が浮かんだ。まさか、これほどあっさりと承諾されるとは思っていなかったのだろう。通常であれば、レシピというものは秘匿され、門外不出とされるものだ。
「そして、登録料だが、それも問題ない。むしろ、二次利用も承諾する」
ラルフの言葉に、バルドルの目はさらに見開かれた。二次利用、つまり、他の者がそのレシピを使って商売をすることも許可するというのだ。これは、ギルドにとって願ってもない申し出だ。莫大な登録料だけでなく、そこから発生する権利収入も見込める。
バルドルは、内心でほくそ笑んだ。この若き領主は、よほど商売のことが分かっていないらしい。レシピを秘匿せず、むしろ広めるなど、まさに愚の骨頂だ。
「か、かしこまりました! 公爵様のご期待に沿えるよう、ギルド一同、尽力させていただきます!」
バルドルは、喜び勇んで執務室を後にした。
ラルフは、その後ろ姿を眺めながら、フッと笑みを漏らした。
彼にとって、レシピを秘匿しないのは、前世の感覚からすれば当たり前のことだった。むしろ、料理を真似してくれる同業他社が現れた方が、自分の店が楽になる。
そう、彼の目的は、人気店による負荷分散なのだ。一軒の店で領民全員の胃袋を満たすには限界がある。
優秀な模倣犯が出てくれば、この領地全体の食文化が豊かになり、経済も活性化するだろう。
後日。商業ギルドの幹部たちは、応接室で笑いが止まらない状況だった。彼らの前には、ラルフから提出されたレシピの山が積み上げられている。
「まさか、あの公爵が、これほどまでに簡単にレシピを公開するとはな!」
「しかも、二次利用まで承諾だと! これで我がギルドは、とんでもない登録料と権利収入を得られるぞ!」
幹部たちは、酒を片手に、自分たちの手腕を称え合っていた。
その時、一人の職員が、血相を変えて応接室に飛び込んできた。
「ギルドマスター! 大変です! 領主様から提出されたレシピが、あまりに膨大でして……それらを再現し、登録する作業で、業務がパンク寸前です!」
職員の悲鳴のような報告に、幹部たちの笑い声がぴたりと止まった。
「何を馬鹿なことを言っている! 大量だとしても、登録するだけだろう!」
ギルドマスターが、不機嫌そうに職員を叱責した。職員は、震える手で、ラルフから提出されたレシピの一部をギルドマスターの前に差し出した。
ギルドマスターは、その書類に目を通した。
ギョーザ、フライドチキン、ポテトサラダ、ラーメン、塩ラーメン、味噌ラーメン、エビチリ、麻婆豆腐、青椒肉絲、回鍋肉、牛丼、カツ丼、親子丼、肉巻きおにぎり……
そして、さらにその下には、数え切れないほどの、聞いたこともない料理の数々が延々と書き連ねられていた。
それぞれの料理には、詳細な製法が、専門用語を交えながらびっしりと記されている。
「ふ、ふざけやがって! あの若造領主が! デタラメだ! 全部デタラメだ!」
ギルドマスターは、顔を真っ赤にして叫んだ。こんな膨大な量の、聞いたこともない料理のレシピを、一体どうやって再現し、登録するというのだ。しかも、中にはこの世界に存在しない材料の代用品まで指示されているものもある。
「お前ら、今から領主館にいくぞ! あの若造に一言言ってやる!」
ギルドマスターは、怒りに震えながら立ち上がった。幹部たちも、顔を青ざめさせながら、その後を追った。
しかし、彼らが領主館に到着し、居酒屋領主館の扉を開けた時、彼らの目に飛び込んできた光景は、彼らの怒りを吹き飛ばし、代わりに絶望をもたらすものだった。
店内は、熱気に満ち溢れていた。見たことも聞いたこともない料理が次々と運ばれ、客たちは歓声を上げながらそれに舌鼓を打っている。冒険者たちが「ラーメン追加!」と叫び、商人が「エビチリも頼む!」と注文し、貴族らしき男が「このカツ丼、病みつきになるな!」と感嘆の声を上げている。
料理を口にした誰もが、至福の表情を浮かべていた。
ギルドマスターは、その光景を呆然と見つめた。彼は、まるで悪い夢を見ているのだ、と信じようとした。目の前で繰り広げられているのは、現実とは思えないほどの、新たな食文化の誕生と、それによってもたらされる、圧倒的な繁栄だった。
そして、その中心にいるのは、彼が「商売のことが分かっていない愚かな若造」と嘲笑した、若き領主ラルフ・ドーソンその人だった。