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1.若き領主の退屈と閃き

「はぁ……暇だなあ」


 豪華な装飾が施された執務室の奥、領主の座る重厚な椅子に身を沈めたラルフ・ドーソンは、手にしたワイングラスを傾けながら、心底うんざりしたようなため息をついた。

 窓の外では、まだ夕陽が西の空を赤く染め上げている。時計の針が指す時間は、まだ日中の終わりを告げるには早すぎる。


 ラルフ・ドーソン、22歳。

 このロートシュタイン領を代々治めるドーソン公爵家の一人息子である。数年前、王都の学園を卒業するや否や、父である先代領主から呼び戻され、有無を言わさず領主の座を押し付けられたばかりだ。

 その父と母はといえば、早々にすべての責務から解放されたとばかりに、二人仲良く「気ままな旅行に行ってくる」と置き手紙を残し、この領主館から姿を消してしまった。

 跡を継いだばかりの若き領主は、しかし、困惑するどころか、与えられた職務を驚くべき速さで片付けていた。

 

 彼は、お約束の、転生者というやつだ。しかし、

 彼には転生特典と呼べるような特別な力はない。

 だが、前世の地球で培った知識が、この中世レベルの異世界において、驚くほどの事務処理能力として発揮されたのだ。

 膨大な量の書類、複雑な計算、滞りがちな交渉事。それらすべてが、ラルフの手にかかれば瞬く間に処理されていく。

 今日の執務も例外ではなく、三ヶ月先までの収支報告の素案をすでにまとめ、各部門との照合作業すら終えていた。


 この世界の娯楽といえば、吟遊詩人の歌や、ごく一部の貴族が行う狩猟、あるいは限られた祭事くらいなものだ。

 そんな中で、ラルフは幼い頃から唯一熱中できるものを見つけていた。

 それが、前世の知識を応用した魔法の研究である。この世界の魔法は、未だ体系化されていない部分が多く、その実力は、魔道士の権威団体である賢者の塔からも一目置かれるほどだった。

 だが、それもあくまで研究という名の趣味の延長であり、生業とは別次元のものだ。


「ねぇ、アンナ、一緒に飲もうよぉ」


 空になったグラスを差し出し、ラルフは傍らに控えるメイドの一人、アンナに甘えたような声をかけた。アンナは、艶やかな金髪を束ねた、きりりとした顔立ちの女性だ。公爵家に仕えるメイド頭として、彼女はラルフのずば抜けた事務処理能力も、人並外れた魔法の才能も、すべて理解している。

 だが、同時に、彼女はラルフの「残念な部分」も熟知していた。


「執務中ですから」


 アンナは、眉一つ動かさずに答えた。冷淡な響きではないが、その言葉には一切の揺らぎがない。


「えー、僕の執務はもう終わったんだから、いいじゃんちょっとくらい」


 ラルフは頬を膨らませ、不満げに口を尖らせる。その姿は、とても公爵家の当主とは思えない幼さだった。


「はぁ……どうして旦那様はそんなにお仕事が早いのですか? 期限が三ヶ月も先の決算書類まで終わらせてますし。もうご結婚なさって、跡継ぎでも拵えたらどうですか?」


 アンナは呆れたようなため息をつき、半ば呆れて忠告した。

 この居城に仕える者たちは皆、若き領主の異様なまでの仕事の速さに、ある種の戸惑いを覚えている。

 仕事が早く終わるのは良いことだが、あまりに早すぎて、かえって彼らが手持ち無沙汰になってしまうのだ。

 そして、何より領主としての最大責務は、この家を存続させること。つまりは、結婚して子をなすことである。


「えー、まだいいでしょ。はぁあ、居酒屋行きたいなぁ」


 ラルフは、自分の言葉尻がどこか不自然であることを認識しながらも、思わず本音が漏れてしまった。この世界に馴染んで久しいが、それでも前世の習慣がふとした瞬間に蘇ることがある。


「はい? 今なんと?」


 アンナが、聞きなれない言葉に反応して、わずかに目を丸くした。


「あー、いや。なんでもない」


 ラルフは、慌てて口元を手で覆った。


 居酒屋。そう、仕事終わりに仲間と気軽に酒を酌み交わし、他愛もない話に花を咲かせる場所。

 この世界には、そんな場所は存在しない。酒場はある。だが、それは騒がしいだけの場所か、あるいは貴族が社交のために集まる場所か、そのどちらかだ。

 仕事終わりにサクッと一杯、という概念もなければ、そんな気安い飲み友達もいない。そもそも、貴族である自分が、気軽に酒場に出入りすることなど許されないのだ。

 ラルフは、執務室の隅に整然と並び立つメイドたちを眺めた。

 アンナの他に、数名のメイドが控えている。皆、公爵家に仕えるにふさわしい、質の良い衣装を身につけ、礼儀正しく立っている。

 "無駄だなぁ"、とラルフは思った。心の底からそう感じたが、さすがに口には出さない。

 まさか、経費の無駄だからといって、彼女たちを解雇するわけにはいかないだろう。彼女たちは、この領主館の格式を保つ上で必要な存在なのだ。

 だが、この広大な領主館で、これだけの人数が手持ち無沙汰になっているという事実もまた、ラルフの頭を悩ませる。

 メイドとしての仕事は、一日のうちの限られた時間でしか発生しない。彼女たちもまた、退屈を持て余しているのではないだろうか。


 そう、居酒屋だ。


 その言葉が、ラルフの脳裏で再び反芻される。

 その瞬間、稲妻が走ったかのような閃きが、ラルフの頭の中を駆け巡った。


 あ、居酒屋、自分でやればよくね?


 そうだ。簡単なことだ。

 この広大な領主館の一階。使われていない部屋はいくらでもある。そこを改築し、居酒屋として利用すればいい。

 そして、時間を持て余しているメイドたち。彼女たちに、給仕をさせればよいのだ。ただ立っているだけの時間も、有意義な労働時間となる。もちろん、それに見合った報酬も支払おう。


 そして、肝心のメニュー。それも問題ない。

前世の知識にある、居酒屋メニューの数々。酒に合う簡単なつまみから、手の込んだ料理まで、いくらでも再現できる。この世界の食材や調味料で、どこまで再現できるかは未知数だが、そこは魔法の腕の見せ所だ。魔法を駆使すれば、不可能を可能にできるかもしれない。


 ラルフの顔に、それまでの退屈を吹き飛ばすような、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

 これは、


 なんだか知らんが、面白くなってきたぜ。


 こうして、この異世界に、前世の記憶を持つ若き公爵によって、誰も想像しなかった「居酒屋領主館」が誕生するのだった。


お知らせ: 他作品も連載中です。

タイトルは『クラゲの沈む月の砂漠に』。

そちらは異世界転生もチートもグルメも出てきません。 純文学なのか、エンタメなのか、もしかしたらラノベなのか。 興味ある方は是非よろしくお願い致します。

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― 新着の感想 ―
とんでもない作品に出合えました\(^o^)/
とても面白かったです! 読者が共感しやすい『暇』を提示した後、ワクワクする居酒屋という『発見』、これで読者の心をわしずかみ、最後に『手持無沙汰のメイド』や『前世の知識』や『魔法でメニュー開発』といっ…
居酒屋を経営するのか、居酒屋を作って入り浸るのかでかなり違うww
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