世界五分前仮説
その噂を初めて目にしたのは、インターネット掲示板であった。無数に溢れる投稿の一つ。
暗闇の室内でギラギラと人工的な明かりを放つPC画面に、部屋の主である健二は釘付けとなった。
彼自身が建てた掲示板のタイトルは、『オススメの心霊スポットを教えてくれ』。
「黄泉神社……?」
書き込みによると、鳥居をくぐった際に、自分自身が別人に変わるという。世界五分前仮説は事実である、とも書き加えられていた。
世界五分前仮説とは、世界は五分前に作られたもので、人々の記憶も情報として与えられたに過ぎない、という仮説だ。
別人に変わるという点で、世界五分前仮説が挙げられているのだろう。
他のサイトに飛び、黄泉神社について情報を集めていく。
健二は地図アプリから場所をマーキングする。伸びをすると、机の端にある写真立てが揺れた。
木造の古びた神社を背景に、顔面アップで自撮りをしている。若干浮腫み気味の頬が目立つ。薄らと墓地が端に写り込んでいた。特段、特筆することのないありふれた一場面。
趣味の心霊スポット巡りの一環で、どこかの地で撮った写真だろう。健二自身、数多くのスポットに足を運んでいるため、撮影場所は記憶にない。
荷物を纏めた健二は、早めにベッドへと沈み込んだ。
■□■□
電車に揺られること三時間。健二は介護職の平日休暇を利用して、例の神社へと向かっていた。
電車の窓から通り過ぎていく景色は、目的地に近付くに比例して、質素なものへと変わっていった。現代的な街並みから、川や木々の緑が溢れる田舎の景観へと。
平日なこともあり、乗客が少ないため景色を眺めることへの抵抗はなかった。
電車をいくつか乗り継ぎ、埼玉県の地を踏む。地図アプリを頼りに、目的地の登山道へと辿り着いた。
埼玉県秩父市。複数の山脈に連なる両神山の道外れに、神社はあるらしい。
登山道を登っていくと、石仏が祀られていた。ここは霊山でもあり、日本百名山の一つという。
道のりは緩やかではあるが、セミの耳障りな音や太陽の厳しい直射日光が、すぐに健二の呼吸を乱れさせていた。
「こんな所にあるのかな」
二つ目の標識を確認して、登山を続ける。舗装された登山道とは言え、砂利や大小の石ころが身体のバランスを崩していく。
一歩踏むと、じゃりっと土踏む音。道端には、彼岸花の血色が一面を染め上げていた。
それからしばらく歩き進めると、三つ目の標識が視界に現れた。書き込みによると、この標識を目印に、登山道から左に外れて進むと目的地に辿り着くらしい。
鬱蒼と生えている木々と草むらが、横手に阻む。
「こ、ここから……?」
健二は、訝しむように目尻を細める。若干の抵抗はあったが、移動時間と運賃は既に払い終えている。
恐る恐る足を草むらに踏み入れると、視線を左右に向けながら指示通りに進んでいく。
健二は介護施設の現場職として勤務している。介護現場では、高齢者である利用者の病気悪化や老衰などによる突然死が多い。身近に死という存在があるのだ。
そのため、心霊スポットに特別抵抗はない。無趣味であることに加えて、旅行気分で気軽に歩くことができるのが、健二にとってもストレス発散となっていた。
「はぁ……っ」
山頂までは七時間。しかし、標識を外れてから目的地までは三十分と掛からない。
緩やかな道のりで女性でも余裕と書き込まれていた。しかし、事前情報とは対照的で、健二は既に大きく肩を揺らし呼吸をしていた。
踏み出す一歩が、重くどっしりと疲労を増やしていく。
時折、草むらが不自然に揺れるため、蛇ではないか、と心の中で冷や汗を流す。
体感二十分を超えただろうか。それは、唐突に現れた。
背丈をゆうに越した鳥居は、真っ赤に表面が染められている。
「……っ」
不意に、背筋が張る。太陽の暑さをも冷やすかのような、肌寒さ。
事前情報には、木々に覆われ緑も伸び切っていると言われていた。
十年前に廃棄された神社らしく、当時はこの辺りで失踪事件が多発していたようだ。地元民やネットの書き込みで風評被害を受け、畳まざるを得なかった。神社は廃棄され、取り壊す費用を地方が払うことなく残っているという。
しかし、誰かが整備しているのかと錯覚するほどに、普通の神社として聳えていた。
石で舗装された敷地内に佇む神社。髪の毛を、涼しげな山風が吹き抜ける。裏手には、墓場があるらしく、墓石が並べられていた。
健二は、来た道に振り返る。しかし、視線を前に戻すと、躊躇いながらも鳥居をくぐった。
「……なにも起こらないか。ま、普通か」
まさしく普通の神社だった。神主さんは居ないが、手を水で清める場所もある。手水舎だ。
「これって腰にも効果あるのかな」
介護職は、腰を痛めやすい。高齢者は思いのほか体重がある。そのため、持ち上げる動作で、腰を壊して退職する人は大勢いるのだ。
健二は、悪びれもなく水を腰にかける。すると、滴った水滴が靴まで染みてしまう。綺麗に磨いていた靴も、ここまで来る途中に汚れたのだろうか。
「結局別人になるっていう噂は嘘だったのかな」
肩をすくめ、強張った顔の緊張が解れた。お賽銭を投げ終え、帰ろうと踵を返した。
その拍子に女性のように長い髪の毛が、目元に掛かる。鬱陶しげに払うと、健二は鳥居を抜けようと向かった。
「……ん?」
くぐり抜けたはずの鳥居が、目の前から消えていた。膨大な神社の敷地が広がっている。
背丈も色も目立つ鳥居を見失うはずがない。健二は、視線を素早く左右に巡らせると、息を詰まらせた。
「これが世界五分前仮説……? どちらかと言えば、異世界に迷い込んだような感じかな……」
記憶に不自然なものは存在しない。体調にも変化はない。別人に成り変わった事実はあり得ない。
圏外の携帯を閉じると、やむを得ず鳥居のあった方向へと向かう。敷地は膨大なようで、どこまで歩いても鳥居は見当たらない。
山脈に位置するという事実にも関わらず、平坦な地面が続く。
セミの鳴き声が、世界と孤立したかのような物寂しさを感じさせる。
携帯を確認する。一時間は歩いただろうか。不意に、電話の振動音が手に伝わる。
怪訝そうに眉根を顰めた健二。しかし、仕事の電話かと思い、掛け主の名前も見ることなく着信に応じた。
「……健二?」
知らない女性の声。ピクリと視線が細まるも、健二は逡巡して納得したかのように頷いた。
「あぁ、お袋」
健二の母親だった。他愛もない会話を投げ交わす。
「どこに居るの? 久々に出掛けてるのね」
「黄泉神社ってところ。埼玉県の秩父市。お袋は知らないと思うけど」
「え……またあの神社に行ってるの?」
母親の言葉に、健二は一瞬の間を置く。首を捻る。不思議に思いながらも、軽い認知が来ているのかもしれない、と解釈した。
無視して電話を切ろうとした矢先。母親の震えた泣き声が携帯越しに届く。
「お、お袋……?」
若干不気味に感じながらも、夕飯は要らないと言い、着信を終わらせた。携帯をポケットに仕舞うと、視界がゆらりとぼやけた。
激しい頭痛に、唇を噛み締める。恐らく、脱水症状だろう。登山道を踏んでから、ここまでの二時間程度、一切水分を摂取していない。喉元が苦しく咳き込み、前によろけてしまう。
神社の縁に座ると、横たわった。視界の霧がかりが強い。不意に、どこからか視線を感じ、目の前に虚な瞳を向けた。
すると、介護職員や母親、職場の受け持つ利用者の姿が辺りに浮かび上がっていく。
「なんなんだ……」
ため息混じりに閉じかけた双眸が、下に動く。やけに膨れた腹が目に入る。
介護現場で酷使する肉体には、贅肉を蓄積する余裕すらない。
仕舞った携帯が、転げ落ちた。反射した画面に映り込んだのは、四肢が丸く太り、とても介護職員とは思えない醜い姿の自分。
ふと、健二は職場で担当していた男性利用者を思い返していた。走馬灯というものなのだろうか。
その利用者は片麻痺を患っており、食事の介助が必要だった。何度も食事介助で接している内に、打ち解け健二自身よくして貰ったのだ。何気ない疑問が、口から溢れた。
「あの利用者って、どっち側が麻痺しているんだっけ……」
機械的にプログラムされたように、無意識的に仕事をしているためか、忘れてしまった。
疲労したストレスを休暇日にゲームで発散する。二十四時間通してゲーム画面に座り続ける場合もあるため、片手間で摂れるカップ麺やエナジードリンクは重宝していた。
体力を持ち直した健二は、手水舎で溜まった水を手で掬い、喉元へと通した。乾き切った口中が、活き活きと湿っていく。騒めくセミ達の輪唱が、心地良い。
鳥居の方向へと足を向けると、それは目の前に現れた。やはり、熱中症に冒され、敷地を彷徨う夢でも見ていたのだろうか。
携帯の液晶をもう一度確認するも、顔の浮腫んだ姿が反射する。別人とは言え、とても喜べる肉体ではない。
唇を強く結ぶと、鳥居をくぐる。標識まで戻って来た矢先。意識がふらついたと思いきや、身体が地面へと落下していく。そして、視界が暗転した。
■□■□
数ヶ月は伸びたであろう髪の毛を、生温い夜風が撫でた。
意識を失った健二だったが、正式な登山道で倒れたため、幸いなことに別の登山客に通報され、そのまま救急搬送されたのだった。単なる熱中症ということで、特別入院することもなく、即日解放。
零時の終電前には、家の玄関前へと帰っていた。
鍵を回して自宅の床を踏む。すると、リビングから慌ただしい足音がこちらに向かっていた。エプロン姿の母親に加え、パジャマの父親。二人は、驚愕したかのように目を丸くし、お互いの顔を見つめ合っていた。
「お、お帰りなさい……め、珍しいわね。健二が私たちの前に顔を見せてくれるなんて」
「あ、あぁ……ただいま」
自身の息子であると母親が発言したことで、別人から自分へと戻ったのだと安堵する。肩から息を吐くと、健二は二階の自室へと移動する。
扉を開けると、捨てられたカップ麺が辺り一面に散乱していた。小蝿の耳障りな音に顔を顰めながらも、エナジードリンクの缶を踏まないように足場を選んで椅子に座る。PCを起動すると、買ってきたコンビニ弁当を開け、摘んでいく。
夜の黒が支配する部屋に、PCの液晶モニターから人工的な明かりが不気味に点滅していた。画面に映り込んだ自身の姿。瞬間、健二の手元から割り箸がすり抜けた。言葉を失い、絶句している。
「ゆ、夢……じゃない? まさか、世界五分前仮説は本当だったのか……っ」
醜く太り果てた自分自身の体型が、煌びやかなブルーライトに晒されている。しばらくすると、健二は、ははっ、と乾いた笑みを上げた。
「なるほど……そう、だったのか」
伸び切った長い髪、皮脂汚れが溜まった顔。カレーのように黄ばんだ歯茎。
写真立てに目を向けると、まさしく今の自分自身が自撮りをしていた。
――そう、世界五分前仮説ではなかった。健二は、既に悟っていた。現実的な事実を。
介護福祉士の専門学校を中退し、それから三十二歳になるまで無職ニートであったこと。つまり、社会不適合者であることに。
黄泉神社に行ったのは、他の誰かの人生に変わりたいから。社会から弾き出され、自室で閉じ篭もるような生活の人生が、嫌だった。
健二が介護職員であることは、専門学校を卒業した後の空想。現実逃避していた自身の思い込みに過ぎない。存在するはずのない記憶。
介護実習で目にした現場は、想像以上に悲劇的な介護現場であった。お漏らしをする高齢者には、オムツを履かせテープで固定。弱った筋力では、自分で脱ぐことができない。排泄物がオムツの中に溜まったとしても、職員は一切見向きすらしない。一週間後、排泄物がオムツから溢れ出ると、床や服を汚した罰として何度も殴打されていた。
命令に従わない高齢者には、暴力的な虐待は当たり前。中には、手足を縛り付け、性的な行為を強要されていた者もいた。凄絶な介護現場だった。
健二が受け持った利用者は、片麻痺を患っていた。介護実習とは言え、本格的に食事の介助をする訳ではない。しかし、その利用者は食事を満足に摂ることができないにも関わらず、職員は誰も手伝おうとはしなかったのだ。健二が自主的に食事介助を行った。
だがしかし、正式な資格も知識も乏しい実習生だった健二は、あるミスを犯してしまう。最終日、食事介助の際に、勢い余って食べ物を一気に利用者の口元に入れてしまった。胃から逆流した嘔吐物を吐き出しながら、利用者は意識昏睡に陥り、その日に死亡。死因は、誤嚥による窒死。そう、健二が利用者を間接的――否、直接殺してしまった。
「……っ」
罪の意識に囚われた健二は、専門学校を自主退学。そして、自室で引きこもり生活を送るようになったのだ。幸いと言うべきか、健二の行動は問題視されなかった。実習生の監視が義務付けられている担当職員や、虐待の方面が問題視され、健二自身の行いは、黙認されたのである。虐待現場の発見という功績によって。
神社は、現実世界にある本当の姿を映し出しただけであった。普段作り上げていた別の自分ではない、目を背けたくなる自分に。醜いと考えていた、この姿に。
何度も他人の人生――変わることを願い、黄泉神社に通っていた。行った記憶は、都合よく消却され、その都度神社に向かう。現実からひたすらに逃避して。
■□■□
一ヶ月の月日が経った。さらに伸びた髪の毛は、床にまで落ちていた。日々積み上がっていく、踏み場のないカップ麺とエナジードリンクの缶。健二は、早朝起きすると再びあの掲示板を開く。
「秩父か……日帰りでギリギリ行けそうかな」
シワだらけの服に着替えると、財布をポケットに仕舞い込んでドアノブに手を掛ける。しかし、捻ることはしない。エアコンによって冷め切った感触が、手の皮膚に染み込んでいく。それは、心の中にまで浸透していくかのよう。
不意に、目元から涙が溢れ出てきた。悲しくも辛くもない。だがしかし、心臓はなにかを訴えかけるように、激しく鼓動している。
「っ……」
PC画面に戻ると、掲示板のタブを消す。新たなウェブサイトを開くと、文字を打ち込み検索を掛けた。一番上のサイトをクリック。職業訓練――ハローワークの申し込みサイトに。
現実逃避することでは変わらない。自分が願うことを、行動に移さなければ。
健二は、PCをシャットダウンすると、ドアノブを掴む。行き先は、既に決まっている。
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