ストーカーになる未来しか見えない
繰り返し見る夢がある。
その夢では、私は壮年の男の姿で、傅く人々を睥睨していた。誰もが、私を王と呼び、首を垂れる。私が王に即位した時、国は戦争のさなかだった。長い戦争で、疲弊しきった国の王位など、貧乏くじでしかない。それでも誰かが果たさねばならず、第七王子であった頃より、知略に長け、戦果をあげ、将として有能だと褒めそやされていた私に、白羽の矢が立てられた。
愚鈍な王ではなかった。怠惰な王でもなかった。その自負はある。それなのに、膠着状態の戦争に見切りがつけられ、停戦協定が結ばれて、人々がつかの間の平和に慣れてまもなく、叛逆の刃が向けられた。私には、そうならざるを得ないと言えるほどの欠陥があった。私は、人の情がかけらもわからない。他人の喜びも、悲しみも、まるで共感できない。民の心を慮り、寄り添う方法を知らない。その必要性を感じることができない。冷酷な王だと厭う声は大きくなるばかりだった。平和な治世の王など、務まるはずもなかったのだ。
王である私の最期の夜は、殊更よく夢にみる。
静かな夜だった。私は、静まり返った謁見の間で、絢爛豪華な玉座に腰掛けていた。傍らには、黒く大きな獣が侍り、時折り、甘えるように膝に頭を乗せてくる。その度に、ゆったりとその美しい毛並みを撫でていた。この獣は、人を疑い嫌悪するわたしの唯一の友であり、戦場を恐れず駆ける勇敢な戦士であり、かけがえのない相棒であった。
黒い獣がすっと身を起こし、部屋の入り口を睨んだ。私の前に立つと、体勢を低くして、ヴヴヴと唸り声をあげる。ヒクヒクと耳が動いている。夜の静寂を破り、軍靴の音が近付いていた。待ち人のようやくの訪れに、私は満足気に微笑んだ。
「待ちかねたぞ」
私の前に、二人の男が並んだ。年の離れた弟と、一歩下がって護衛の男。護衛が一人だけということに驚くが、そのたったひとりが、英雄と謳われる男だと気付いて納得する。弟は、淀みのない美しい動作で、膝をついた。
「マルセルか。よい選択だな」
私は、数多いる王位継承権を持つ者たちの中で、彼を選んだ有能な宰相を褒めた。
「おれは、戦渦の人々を導いて勝利をもたらし、この国の戦神となるべくして育てられた。ほかは何ひとつ知らぬ。しかしお前は違う」
マルセルはより深く首を垂れた。低い唸りで威嚇する獣に怯むことなく、冷たく銀色に光る短剣を、恭しく捧げてくる。
「王よ。誰よりも無慈悲で聡明なる王よ。どうか、ご自害を」
「いいや、それでは生温い。お前が我が首を刎ねるのだ」
民衆の前で、断頭台に登ってもよいかもしれないなと言えば、マルセルはぐっと唇を噛み締めて、強い口調で言った。
「貴方の最期は、私だけのもの。その死に顔は、私の胸だけに」
「そうか」
私が頷いてそれを許すと、マルセルは、短剣を投げ捨て、腰に佩く剣を抜いた。一歩踏み出したマルセルに、私の忠実な護衛である漆黒の獣が飛びかかる。雷鳴のごとき鳴き声をあげ、俊敏な動きでその喉笛を噛み切ろうとする。鮮血が舞った。獣の頭蓋が飛んで、ゴロゴロと私の足下に転がった。護衛の男が、一太刀で獣の首を刎ねたのだ。剣先から血を滴らせながら、男が羨望の呟きを漏らした。
「なんと羨ましい最期か。仇なす者に牙を剥き、主人を護って死にゆくか。恐れを知らぬ、獰猛な王の牙。戦神である王の隣りを許された、唯一の命」
私は、血みどろの獣の生首を拾い上げ、そっと額を合わせた。冥土の獣に呼びかける。
おれの愛した魂よ、来世こそは幸せであれ。今生ではついぞ果たせなかった、平穏な生を謳歌するのだ。そして、願わくば、また、いつか隣りに――
主人の命令に忠実な獣は、きっとそれを果たすだろう。
護衛の男が、顔を伏せる。王の死に際を目にすることは、許されない。マルセルが私の体に身を寄せた。彼の剣が、心臓を貫く……
……
………
…………
目を覚まして、いつもの夢かと思う。冷酷な王の生涯。所詮は夢だと忘れてしまうには、あまりにもリアルな夢だ。寝返りを打つ。見慣れた自室。視界の端には、赤いランドセル。長い夢を見た後は、自分がまだ幼い少女であることに、違和感を覚える。年相応の無邪気さを身につけられないのは、十中八九、あの夢が原因であろう。昨日も、同級生の少女にノリの悪さをうとまれ「さくらちゃんって、つまんないね」と貶されたのだ。
ベッドから抜け出して、制服に着替え、階下に行く。リビングに入ると、真っ黒な犬が尻尾を振りながら近づいてきた。薄汚れた捨て犬を拾ったのも、あの夢の影響のひとつ。夢で愛した獣に、どことなく似ていると思ったのだ。自分がすべて面倒を見るからと、渋る両親を説き伏せた。娘の滅多にない我儘に、両親は渋々、頷いてくれた。ハヤテと名付けたその犬が、足に戯れついてくるのをいなしながら身支度を整える。ダイニングテーブルには、一人分の朝食があった。多忙な両親は放任主義で、私に対しても無関心だった。子どもらしく振舞うのが面倒な私にとって、都合の良い環境だ。ハヤテがいるので寂しさも感じない。この薄情さも、夢の影響だろうか。
……
………
…………
何百回も同じ夢を見ているので、有象無象の群れの中でだって、あの獣を見つけられる自信がある。しかし、まさか何気なく立ち寄った近所のコンビニで出会うとは思わなかった。
入店のメロディを鳴らして自動ドアをくぐった矢先に、人とぶつかりそうになった。一目で不良であるとわかる見た目の、柄の悪そうな青年だった。その青年も、連れ合いとのおしゃべりに意識を向けていて、同年代の中でもとりわけ小さな私に気付かなかったようだ。慌てて避けると、重いランドセルで後ろによろめいた。
「っと、あぶね」
大きな手が私を支える。
「わりぃな、ちっせぇから見えなかっ……」
青年の言葉が、不自然に途切れる。肩を掴んだ手が、ぶるりと震えたのがわかった。私は愕然とする青年を見上げて、気が付いた。彼が王の獣であると。獣は人の姿をしていた。姿形がすっかり変わっているのに、懐かしさすら覚える。
青年はおもむろに私の首筋に鼻梁を寄せ、獣の仕草でクン、と匂いを嗅ぐと、
「クッソ、ありえねー」
舌打ちとともに、悪態を吐いた。私は無意識のうちに彼の頭を撫でた。私が転ばぬよう受け止めたことを、褒めるように。傷んだ金色の髪は、パサパサとしている。獣の艶やかな毛並みとは、程遠い。
「チョットー、そのコ誰よ? 知り合い?」
外野から声がかかる。青年の連れ合いが、不審げにこちらを見ていた。青年は、ハッと我に返って、私の手を乱暴に振り払った。「こんなガキ、知らねぇよ」と言いながら、半ば突き飛ばすようにして私から身を離した。
「オイ、アンタ、俺のこと、犬扱いするんじゃねぇぞ」
青年が、私を睨んで吐き捨てるように言った。私は、彼が鋭い眼光に隠した感情の揺らぎを見る。ーーあれは、怯えか。恐れかもしれない。その切実な感情を前にして、私は、彼に声をかけることを躊躇した。
青年は私から逃れるように視線を逸らし、踵を返して足早に去って行った。
あれから、数日。
青年は、時々、私の前に現れる。下校の時間、小学校の前に出没するようになったのだ。校門の側で、煙草を咥えて座り込んでいる姿は、下校する生徒たちを怯えさせ、先生たちに警戒の目を向けられている。青年は気まずそうにしながらもそこにじっといて、私が彼の前を通るとようやく動き出し、少し離れて、ついてくる。声をかけてくることもなかった。寄り道をすれば、律儀に店の前で待っている。私が家まで辿り着き、ドアを閉めて鍵をかけるところまで見届けてから、帰って行く。
そんな奇妙な帰り道を繰り返していた、ある日のこと。あと少しで家に着くという所で、にわか雨が降り出した。朝の天気予報を観て、念の為にと持っていた黄色い傘をさす。瞬く間に雨脚は強まり、ザァザァと土砂降りになった。そっと、傘越しに後ろを見る。雨に打たれずぶ濡れになりながら、それでも青年は私に付いて歩いていた。
玄関先で、傘をたたみながら、また振り返る。いつもと変わらず、青年が門扉の前で佇んでいた。私は、ドアを開けると、青年に声をかけた。
「おいで」
大きな声ではなかった。これでは降り頻る雨の音に紛れてしまったのではないかと懸念したが、杞憂だったようだ。青年は、警戒する獣の足取りで、家の中に入って来た。青年の顔を見上げる。私と目が合うと、青年は慌ててそっぽを向いた。垣間見えた彼の表情は、あまりにも複雑だった。様々な感情をごちゃ混ぜにして、煮詰めたような。歓喜、昂揚、懐旧、寂寥、懊悩、困惑、不安、恐怖、慈愛、……。
青年の髪先から雫が落ちた。
「こっち。着替えを用意するから、お風呂に入っていて」
私は、青年の手を引いて、風呂場に案内する。彼の着替えは、父の衣服と未使用の下着を拝借し、タオルの側に置いた。彼の濡れた衣服は、洗濯機にかけた。それから、温かい飲み物でも入れようとキッチンに向かう。いつの間にか、チャカチャカと爪の音を立てながら、ハヤテが後ろをついて歩いていた。ソファに座り、淹れたばかりのコーヒーを飲む。傍らにはハヤテが寄り添い、時折り、甘えるように膝に頭を乗せてくる。その度に、柔らかな毛並みを優しく撫でた。
私の膝でまどろんでいたハヤテが、素早く身を起こしてリビングの入り口を見た。そこには、こちらを睨み付ける青年がいた。明確な敵意。賢く気性が穏やかで、鳴き声をあげることすら稀なハヤテが、興奮したように吠え立てた。
「――ヴウゥッ!!」
青年は歯を剥き出しにして低い唸り声を上げ、ハヤテを威嚇した。ハヤテはすっかり怯えて、部屋の隅に引っ込んでしまう。
青年はハッと我に返ると、愕然として色を失い、頭を抱えて勢いよくしゃがみ込んだ。
「ありえねぇありえねぇマジありえねぇ犬に嫉妬して威嚇するとか」
青年は、蹲ってひたすらにウーウーと唸っている。私は彼の旋毛を眺めていたが、ふと思い立って、その傍らに膝をついた。大雑把に拭いただけとわかる髪の毛を、新しいタオルで丁寧に拭って、大きな手を取ってソファまで誘導し、そこに腰掛けると彼の頭を膝に乗せた。ドライヤーを使って、髪の毛を乾かしてやる。白い指先が、金色の髪を何度も梳いた。サラサラと流れる髪の隙間から、詰るような目が覗いている。その瞳に映った私が、そっと微笑んだ。私の隣りに在ることを、褒めるように。
青年は、悪態をつきながら身を起こした。乱暴な手つきで、私の足首を攫う。小さな爪先に、唇が触れた。
彼は、人としての矜持を脅かす、獣の性に怯えている。けれども本当は、私に甘えたくて、仕方がないのだ。