第8話
3人で寝室の前に戻ると、さっきまでとは様子が違っていた。
「クソ! 血が出ている。父親に噛みつくなんて」
バーガンディ様が自分の手を押さえながら毒づいた。手を噛まれて出血しているようだ。噛んだのはカベルネだろう。オペラ様が救急箱を持ってきて、バーガンディ様の傷を手当する。
カベルネはひどく興奮している。それと対峙しているのはフェンネルだ。カベルネがでたらめに殴りかかると、フェンネルがヒラヒラとかわす。実力に差がありすぎて戦いにもなっていない。まるで子供と大人だ。
騒ぎを聞きつけたオペラ様がやってきて、フェンネルに争いを止めさせた。そんなところだろう。
「ヤックの分際で! 絶対に殺してやる!」
カベルネが大声でわめいた。フェンネルは腰を落として拳闘の構えをする。無言の回答。「これ以上やるなら反撃するぞ」という意思表示だ。
気圧されたカベルネは「おぼえてろ!」と叫んで逃走してしまった。
「お父様!」
メルロー様が駆け寄った。
「大丈夫だ。あのバカ、カードの負けを建て替えてくれと言ってきた。このままだと自分の財産を差し押さえられると。ハハッ。自分の負けは自分で精算しろと言ってやった。贅沢ばかりしてきたのだ、身を切ることを経験すれば身に染みるだろう」
「傷は平気ですか?」
「指先を切った。痛みはあるが、それだけだ」
メルロー様が安堵の表情を見せる。そしてすぐに真剣な表情になった。
「でしたら、お父様に聞きたいことがあります。こんな時に聞くべきではないかもしれませんが、もう先延ばしにはしたくありません。母のことです。母が帰ってきたという話です」
「そうだな。きちんと話すべきだ。変な誤解を与えてしまってすまないと思っている。わたしが見つけたのはシラーの残したワインなのだ」
バーガンディ様は痛みを堪えながら、ゆっくりと喋った。
やっぱりワインのことだったのだ。
メルロー様がうなずく。
「シラーが試験的に作っていたワインだ。おぼえているか? 我が家の中だけで飲んでいた、まるでブドウジュースのように若々しいワインがあっただろう? アレを見つけたのだ。どういうことかわかるか?」
「どういうことでしょう?」
メルロー様が首をかしげる。
「わたしにもわからなかった。シラーは死んだはずなのに、もう5年も経っているのに、まるで絞ったばかりの果汁のように若々しいワインだった。シラーが生きていた頃と同じ香りがしたのだ。それでわたしは、シラーが帰ってきたと口走ってしまった。本当にすまない」
メルロー様が首を横にふる。
「しかし、わからないのはワインの製法だ。どうしてこんなに長く、新鮮さをたもっていられるのか…… それでわたしはシラーの残した日記を読むことにしたのだ。生前シラーは『絶対に日記を読むな』と言っていた。もちろん自分が死んだあとの話ではないのだが、その気持ちを尊重して、これまでは読まずにいた。しかし、このままではシラーのワインは消滅してしまう。シラーが本当に死んでしまう。シラーのワインを蘇らせたい、そう思ったのだ」
バーガンディ様は日記を読み込むために部屋に籠もっていた。これで残る謎はひとつに絞られた。
つまり、シラー様が残した不思議なワイン、おそらく魔術の仕掛けがある、その秘密を解き明かせば、オペラ様の言う「呪い」も解けるはずだ。
「母のワインには、わたしも興味があります。そのワインを見せてください」
メルロー様はもう恐れてはいない。母との確執に決着をつけるつもりだ。
「あの、つまりバーガンディ様は、シラー様のワインの秘密を研究するために、寝室にこもっていたということでしょうか? でしたら協力できると思います」
わたしも名乗りを上げた。
この事件を解決するには、ワインの謎解きに加えてもらわなければ。
「協力とは?」
バーガンディ様が怪訝そうな顔をする。
「はい。わたしはマダムの従者であり、魔術師でもあります。あちらのフェンネルはボディガード。魔術と武術でマダムをサポートする役割なのです。それぞれ王国でもトップクラスの実力だと自負しております」
マダムの正体は第2王妃のオペラ様だと告げてある。ここは王家の権威を利用させてもらおう。
「なるほど、マダムのお抱えというなら、たしかに有能な魔術師なのでしょう。しかしこれはワインの話です。魔術師の出番はありませんよ」
「シラー様は精霊と契約していました。大気の精霊シルフです」
そう告げると、バーガンディ様が深刻な表情になる。大気の精霊と言えば、心当たりもあるはずだ。
「せっかくですが、ワインの製法は門外不出なのです」
しばらく迷っていたが、拒否されてしまった。でもまだ諦められない。
「絶対に口外いたしません。どうかお願いします」
「お父様、トフィーさんは信用できると思います。助けてもらいましょう」
「メルローのためにもお願いします」
「しかし、このワインにはバーガンディの命運が……」
メルロー様とブラン様が援護してくれた。それでもバーガンディ様は納得しない。
もうダメかと思ったそのとき。
「ワインの秘密が漏れたとして、心配するようなことは起こりませんよ」
オペラ様だった。毅然とした表情でさらに言葉を続ける。
「いいですか、あなたは昨年からバーガンディワインの質が落ちたと思っているようですが、そのような評価は聞いたことがありません。王都の美食家たちは『味が変わった』と言っていますが、バーガンディワインの評価を下げようという者はいないのです。あなたの娘は、あなたが思っているより優秀な醸造家です」
バーガンディ様が「本当か?」とブラン様にたずねた。
「はい。以前の方が好きだという人もいますが、むしろ評価は上がっています。帝都の品評会でも過去最高と」
残酷な事実が告げられる。
メルロー様の性格からして、自分の技量を大袈裟に自慢したりしない。シラー様より評価が高いとは絶対に言わないだろう。おそらく「母にはかなわない」と言っていた。それを真に受けたバーガンディ様だけが、このままではワインの評価が下がり、家が傾くと思っていたのだ。
「なるほど。わたしだけが何もわかっていなかったということですか…… わたしはメルローの何を見ていたのでしょう? 妻のことばかり考えて、娘をないがしろにしてしまう。同じ過ちをまた繰り返してしまったのですね……」
大男のバーガンディ様が、落ち込んで小さく見える。
「お父様。夢中になると周りが見えなくなるのは、わたしも同じです。バーガンディ家はそういう血筋なのでしょう。それで真実が見えなくなる。客観的な意見を取り入れるのが近道だと思うのです。このトフィーさんは母の死の謎もあっさり解いてくれました」
シラー様の錯乱死の真相を説明した。シルフで大気を操り、高山病にかかったという推理だ。
「高山病…… 高山病の患者なら見たことがある。あのときシラーは吐き気や呼吸困難を訴えていた。それに顔が真っ青だったのだ。まるで幽霊にでもあったような青白い顔だと思った。言われてみれば、アレは高山病そのものだ」
「はい。肌が青白くなるのは低酸素血症によるチアノーシスですね」
バーガンディ様のわたしを見る目が変わった。
「トフィーは優秀な魔術師です。この程度の問題なら、立ちどころに解決するはずです。わたくしが保証します」
そしてついに、わたしは寝室に入ることを許された。
もしも解決できなかったら、オペラ様にまで迷惑がおよんでしまう。わたしにできるだろうか。緊張しつつ扉の中へ。
メルロー様は落ち着いている。もう完全に吹っ切れたようだ。
バーガンディ様が部屋に灯りをつける。
ソファーとローテーブルが置かれたリビングスペースがあり、その奥にベッドルームがある。家具や小物はシラー様が生きていたころのままにしているようだ。
部屋の中央にあるローテーブル、その上に布をかけた何かが置いてある。バーガンディ様が布を外すと、大きな陶製の壺があらわれた。
左右に取っ手がついた細い首の壺。アンフォラと呼ばれるものだ。黒のアンフォラに白抜きで模様が描かれている。
アンフォラは古代の壺で、骨董品や美術品としてあつかわれる。保存容器として実際に使われるのは珍しい。ワインを保管するなら普通は木樽。小分けにするならジャグかピッチャーを使う。わざわざアンフォラのような物を使うのは、古代の儀式を再現する必要がある場合だけ。ようするに常用するのは魔術師くらいだ。
「応接室に飾られていたアンフォラ? どうやっても蓋が開かなかったアンフォラですよね?」
メルロー様が質問すると「ああ」とバーガンディ様が肯定する。
「シラーの机から偶然メモを見つけたのだ。メモに描かれた図形が、アンフォラに描かれた模様と同じだと気がついた。そのメモは開封する手順をしるしたものだったのだ」
アンフォラに近づいて観察する。壺の表面に描かれた模様、植物や人間を図案化したような、あるいは絵文字みたいなものが無数に描かれている。これは精霊を使役するための魔術的な模様だ。
焼成前に黒い上薬を塗り、模様の部分だけ削るように描いたものかと思ったが、そうではないようだ。まっさらなアンフォラを焼いた後で、塗料に膠を混ぜた物が塗ってある。
いや、そうじゃない。膠に経血を混ぜているんだ。絵の具の劣化を防ぐのと同じ方法で、血液を壺に定着させている。これがシルフと長期契約するトリックか。血文字を膠で保護するなんて、恐ろしい執念だ。
壺の口には封がしてある。皿のように中央がへこんだ形の蓋が、隙間なくピタリと嵌めてある。蓋にも模様が描かれていたようだが、窪みの真ん中あたりだけ塗料が剥げたような空白があった。
模様が消えると魔術の効果も消える。獣性の膠はお湯で溶けるから、蓋の上からお湯を注いで、膠を溶かして拭き取れば魔術の効果が消える。それで蓋のロックも解除できる仕組みか。
「どうだ? もうだいぶ劣化してしまったが、それでも若々しい香りがするだろう?」
バーガンディ様がアンフォラから蓋を外した。
「はい。母の香りです」
カップに注いで味を確かめる。
「信じられない。まるで時が止まっているみたい。でもアルコールのトゲトゲしい感じは消えている」
「トフィーさんもどうぞ」
せっかくなのでひと口もらってみたが、ワインの味には詳しくない。それでも市中に出回るようなワインと別物なのはわかる。
「お父様、これと同じようなアンフォラがもうひとつあったと思うのですが」
「ああ。地下のセラーにも同じようなアンフォラがあった。気になって探してみたが、どこにも見当たらないのだ」
「誰かが倉庫にでも移動させたのでしょう」
「不要品と間違えて捨ててしまったのかもしれん」
ふたりの反応に違和感をおぼえた。バーガンディ家の親子にとって、このワインの味の「普通じゃない」という感覚は、物がなくなることより珍しく思えるようだ。しかし物体は意味なく消えたりしない。わたしにはアンフォラが消えたことの方が不思議だと思える。
この視点は重要かもしれない。これは「ワインの専門家に解けない謎」なのだ。わたしにはワインの味がわからない。むしろワインから離れた方が、ふたりの見落としを発見できるかもしれない。
「シラー様の日記からわかったことはありますか?」
部屋の隅にライティングビューローが置いてあり、その上にはノートや紙束がたくさん積まれている。シラー様はかなり「書く人」だったようだ。
「人に読ませるつもりで書かれていない日記です。解読するのが困難でして……」
「まったく何も?」
「はい。ワインの製法についてまとめた別冊があるようなのですが、それが見つからないのです」
なるほど。
ワインの製法についてまとめた別冊があるはずだが行方が知れない。また消失事件だ。
アンフォラと別冊日記の消失がつながっているとしたら、たとえば別冊日記を盗んだ人物がいるとする。別冊日記にアンフォラのことが書かれていたら、その人物はバーガンディ様より先にアンフォラの価値に気づいたはずだ。応接室のアンフォラが無くなると目立つので、まず地下のセラーからアンフォラを盗んだ。この推理なら理論の筋道は通る。
バーガンディ様は「偶然メモを見つけた」と言ったけれど、シラー様の日記を誰かが盗んだ時に、アンフォラの開封方法を書いたページが脱落したのではないか。
「たぶん、わかりました」
わたしがそう言うと、バーガンディ様とメルロー様が目を丸くする。
「おふたりが期待している推理とは違うと思いますが、とりあえず見ていただきたいものがあります」
わたしは寝室を出ると、廊下の突き当りにある部屋の前に向かった。そう、ここはカベルネに来るように言われた、女物の衣服や装飾品が置かれた物置だ。
「そこは、わたしの部屋でした。今はつかわれていません」
メルロー様はそう言って首をかしげる。
何気ない発言だったが、わたしの心は締め付けられた。日当たりの悪い、窮屈な部屋だった。それで物置だろうと思ったのだ。幼いメルロー様は、この部屋で日々の苦痛と孤独に耐えていたのか。
いや、いまは感傷にひたっている場合じゃない。
「今日の昼のことです。わたしはカベルネ様にこの部屋に連れて行かれ、メルロー様の弱みを探れと命令されました。その褒美として、高価な宝石をくれると言われました。おそらくシラー様の物です。室内には他にもたくさん」
わたしの報告を聞いたバーガンディ様の顔が怒りで赤黒くなる。書斎から鍵を持ってくると部屋の扉を開けた。
「シラーの遺品がよく無くなると思っていたのです。あのバカが盗んでいたなんて」
思った通りだ。無造作に置かれた小物、そのほとんどがシラー様の持ち物のようだ。
「おそらく、カベルネ様はこの館の鍵をほとんど複製しています」
その鍵で寝室に忍び込み、金目のものをくすねていた。ワインの製法が書かれた別冊日記も盗んでいたので、アンフォラが貴重な物だと知っていた。そして地下のセラーからアンフォラを盗んだのだ。
「アンフォラと別冊の日記も、ここに保管されている可能性が高いです」
「日記を探しましょう」
メルロー様が部屋の中を探しはじめた。バーガンディ様もつづく。
廊下に残って待っていると、数分もたたずにバーガンディ様が出てきた。手には何も持っていない。
「カベルネはどこだ?」
「どうしました?」
「残っているのは安価な雑貨ばかり。どこかへ移動させたようです」
つづけてメルロー様も、今度は両手に空っぽの箱を抱えている。カベルネがわたしに見せた、宝石を入れていた箱だ。
「物を持ち出した形跡があります。おそらくアンフォラも、それらしいサイズの円形の痕跡がありました」
ひと足遅かったということか。
すると遠巻きに見ていたオペラ様が、フェンネルを率いてこちらへやってきた。
「なるべく話を聞かないようにと思っていましたが、だいたいの事情は察してしまいました。ひとつ気づいたことがあります。よろしいですか?」
「教えてください」
「カードの負けで差し押さえられる財産のことです」
みんな同時に「あっ」と声が出た。
「カード仲間は見るからに軍人崩れのならず者でした。バーガンディ家の財産を奪うために、カベルネ様に近づいたのだと思います」
「こうしてはいられない」
バーガンディ様がカベルネの部屋に向かって走る。扉を蹴り開け「もぬけの殻だ」と叫んだ。
わたしたちは階段を降り、使用人たちにカベルネの行き先をたずねてまわった。
「先ほど外出されました。カード仲間もご一緒でしたよ」
「様子が変ではありませんでしたか?」
メルロー様の質問に使用人が苦笑いする。
「あのバカはいつも変なのだ。なにか言ってなかったか?」
「こんな家からはオサラバする、たっしゃでな、と言われました。でも街道の方ではなく、山の方へ向かったので、冗談だと思います」
使用人はそう言ったけれど、わたしたちの分析は逆だった。ならず者たちは追手がかかるとわかっていたので、あえて山の方角へと向かったのだ。
「我が家の財産を狙った悪党どもの一味になるなんて、どこまで親不孝なヤツなんだ」
バーガンディ様が怒りに震えている。
「ならず者たちの狙いは、最初からカベルネ本人だったのかもしれません。高価な宝石ほど所有者の名は知れています。ならず者が名家の財産を持ち込んでも、まともな宝石商は買い取りません。盗品を扱う闇商人は高額の手間賃をとります。難しいのは財産を奪うことより換金することなのです。しかし、バーガンディの長男が亡き母の宝石を売るなら、怪しい売買にはなりません。用が済んだらカベルネは殺されるでしょう」
オペラ様の冷酷な推理には説得力があった。
「まだ間に合います。夜のうちに山越えをするとは思えません。山の中で夜明けを待つと思います。わたしとフェンネルはハルワで匂いを追うので、バーガンディ様は人を集めてください」
バーガンディ様が小さくうなずいた。ブラン様にも協力するように言って、ふたりで駆けてゆく。
「ハルワ!」
名前を呼ばれたのに気づいたハルワが寄ってきた。
「弟の靴です」
メルロー様が先回りして、匂いのある物を持ってきてくれた。
「ハルワ、追いかけられる?」
ハルワはクンクンと匂いを嗅ぐと、山へ向かう道の方へ向いてピタリと静止した。
よし。いけそうだ。
「わたしも行きます」
「ダメだ」
メルロー様が同行を申し出たが、フェンネルは強く断った。
「山の地理は頭に入っています。同行させてください」
今度は即答しなかった。地形を知らない夜の山は、歩くだけでもかなりの危険をともなうのだ。
「敵は何人だ?」
「三人。大きな武器は持ってないと思う」
フェンネルは数秒考えて、メルロー様の同行を承諾した。
「オレの予想では、たぶん追いかけっこになる」
こちらは女三人だが夜の闇の中だ。相手からは人数がわからない。敵が正常なら「数で負けている」という想定で動くはず。戦わずに逃走すると考えられる。
そうすると我々の作戦は、闇に紛れて接近して奇襲をかける。ドサクサに紛れて遺産の奪還を狙うことになる。
作戦に成功して遺産を奪い返したら、今度はこちらが逃げなければいけない。
つまり「追いかけっこ」になる可能性が高く、その場合には「早く動けること」が勝敗を分ける。地形の知識は価値が高いと判断したようだ。
三人ともマントをはおり、それぞれに小さな灯りを持った。フェンネルはベルトから長剣を外すと、代わりにナタと短剣をさす。
準備はできた。
山は巨大な漆黒となって、わたしたちの前に立ち塞がっている。
「いくぞ」
ハルワとフェンネルが軽やかに歩きだし、闇に溶けるように見えなくなった。
「必ず取りもどします」
メルロー様が後に続いた。