第6話
「トフィーさんを心配させないように、先に言っておきます。両親とは和解しています。もちろん遺恨がないわけではありませんが」
わたしは勉強にのめり込みました。
最初は成績が悪いと鞭で打たれるので、それを避けるためだけに勉強していました。成績が上がると教師に褒められました。この「自分の努力が評価される」という感覚が嬉しくて、勉強するのが楽しくなっていたのです。
母はわたしが楽しそうにしているのを嫌いましたが、勉強している姿は楽しそうには見えませんし、勉強をやめろとも言えません。
「勉強なんかできても、女には関係ない」
そう言うようになっただけでした。
そしてアカデミーの卒業が近づいたある日のことです。先生から「帝都の大学へ推薦できる」と言われたのです。
青天の霹靂でした。自分が帝都に行く。家を出られるのです。
母から逃げられる。そう思った瞬間に、霧が晴れたような気持ちになりました。母に抗う勇気が湧いてきたのです。とにかく父から留学の許しを得なければ。それも母に知られずに。
わたしはこっそりと父に手紙を渡すことにしました。母にバレないように、指先ほどの小さな紙に「母に内緒で話したいことがある」と書きました。そして慎重にタイミングを待ちました。怪しまれないように、自分から動くのはやめました。偶然に父と接近できるのを待ったのです。
ある日の朝、わたしが学校へ出かけようとしていると、母から「父を探してきて」と命じられました。「遅刻してしまいます」と反論しましたが母の命令は絶対です。従うしかありません。しかし内心ではチャンスだと思いました。
家中を走り回り、ブドウ畑で父を見つけると、さりげなく手紙を渡しました。父はすぐに手紙を開いて読むと「なんだこれは?」と言いましたが、わたしが無言で両目を見つめると、何かを察してくれたようでした。
このころ父と母は、カベルネの教育方針で対立していました。父はカベルネにうんざりしていたようです。いまからでもスパルタ式で叩き直して、少しでもまともな人間にしたいと考えているようでした。
ですが、母はあくまでカベルネを甘やかします。母の不思議な力はワインの醸造には欠かせません。家の中での力関係は母の方が強いくらいでした。
父は母に不満を抱えていました。この異常な家庭をなんとかしたいと思ったようです。
わたしはアカデミーから帰ると、まっすぐ父の書斎に向かいました。父のデスクにあるインクの壺、その下に返事を置いて欲しいと手紙に書いておいたのです。わたしは勉強につかう文具を父の書斎から借りることが多く、インクの補充くらいなら母にも怪しまれません。わたしと父の数少ない接点で、母やカベルネ、使用人たちがあまり近寄らない場所でもあります。
インク壺を持ち上げると、そこには小さな手紙がありました。その手紙には「ここに手紙を置くことで文通しよう」と書かれていました。
父と秘密の手紙を交わすようになりましたが、手紙は物証が残ります。母は疑り深い性格で、使用人たちにスパイをさせることもあります。いつ露見しても不思議ではありません。自分の素直な気持ちや、大学のことを書く気にはなれませんでした。
わたしはこの家から離れた場所で、じっくり話したいと思っていました。どれだけ用心しても、この家は母の幽霊に見張られている気がするのです。それは父も同じ意見でした。
わたしと父は家の外で会うことにしました。別々の用事で別々に家を出て、合流して馬車に乗り遠くまで出かけました。わたしたちは使用人のことも警戒していたので、馬車の中でも当たり障りのない会話をしました。
バーガンディ領と王都の間にある湖まで行き、そこにある宿屋に部屋をとりました。父は「ここならシラーの目は届かない」と言い、いくつか料理を注文しました。母が嫌いな食材をつかった料理ばかりだったのを覚えています。
内緒話をするつもりで部屋をとりましたが、湖の風景は視界を遮るものがなく、開放的な気持ちにしてくれました。部屋を出て、湖の見えるテラスで父と話しました。
父と心を開いて話し合ったのは、これがはじめてだったと思います。これまで母にされたこと、母に対して思ってきたことをすべて話しました。
父は「信じられない」と言いましたが、わたしの話を疑っているわけではないようでした。父は母のことを信じたかったのです。それは父の人生そのものでした。シラーが嫁いで来たとき、生涯この人を信じると決めた。これは虐待ではないと思い込んできた。その間違いをすぐには受けとめられないと言いました。
必ず解決するが、どう解決するかはまだ決められない。時間が欲しい。
かわりに母にもう鞭をつかわせないこと、帝都の大学へ留学させることを約束してくれました。母がなにを言おうと必ず守ると。
事件は、その後に起こりました。
わたしと父が家に帰ると、そこには激怒した母が待ち構えていたのです。母はわたしたちを呼びつけると「どういうことか説明しなさい」と詰問しました。
「メルローから帝都の大学へ行きたいと相談されたので留学を許可した。それと、これからはメルローを自由にさせる。鞭はもう禁止だ」
父はきっぱりと宣言しました。母は何も言い返しませんでした。まさかこんな話をされるとは、思ってもいなかったようです。
それから父は母の説得にとりかかりました。
「これからはシラーとメルローを引き離し、メルローのことは自分が面倒を見る。シラーがそれに口出ししないと約束するなら、この話はこれで終わりにしたい。もう掘り返さない。真実を確かめたり、罰を与える必要はないと思っている。お互いに未来のことを考えよう。メルローはそれでいいか?」
わたしはうなずきました。
父は「時間をくれ」と言いましたが、ここで決着をつける気になったようでした。
「シラー、キミがウンといえば、この話は終わりだ」
そのときの母の表情は、これまでに見たことがないものでした。複数の感情が同時に押し寄せて、処理しきれず混乱しているように見えました。
「さあ、鞭をよこしなさい」
父は母の目をじっと見つめて、一歩も引かない態度をしめします。
母はこの提案を受け入れるほかないと思ったのでしょう。観念したように、ラタンの鞭を取り出しました。
鞭をテーブルの上に置き、ゆっくりと父の方に差し出します。父はその鞭を受け取ろうと手を伸ばしました。
十年以上の長い時間、わたしを悩ませてきた母との問題が解決しようとしている。こんなにあっさりと解決してしまうのか。そう思いました。
ところが、そう簡単にはいきませんでした。
伸ばした父の指が鞭に触れた、まさにそのとき、部屋の扉が開いてカベルネがあらわれたのです。
カベルネは母の隣に立つとこう言いました。
「やっぱり、ふたりはデキてるんだ」
意味のわからない言葉でした。父の顔を見ると、同じ気持ちだとわかりました。
母の顔からは感情が消えていました。無表情です。何を考えているのか、まったく読み取れません。
「全部知ってるんだからな。観念しろよ。たっぷりしつけてやる」
カベルネは喚き続けます。
それより母のことが気になりました。母は静かに立ち上がると、壁際に置かれたチェストに向かいました。日常生活でつかう雑貨がしまわれたチェストです。その引き出しを開けて、何かを取り出しました。わたしたちに背を向けているので、母の手元は見えません。
「これが動かぬ証拠だよ。ふたりで湖の宿屋へ行くと書いてある。何をしてたのかなあ?」
カベルネが小さな紙きれをテーブルの上にほうりました。それはわたしが受け取った父からの手紙でした。読んですぐ、焼却炉の奥に捨てたものです。
わたしと父は最低限の短文でやりとりしていました。その手紙には母にバレぬよう別々に家を出ること、行き先は湖の宿屋であることしか書かれていません。そのわずかな情報から、カベルネは「わたしと父が性的な関係である」という最悪の妄想をしたようです。
そしてその妄想を母に吹き込んだ。
「ヒィ」
あまりの恐ろしさに悲鳴をあげました。
振り返った母の手には、小刀が握られていたのです。
「シラー! ナイフを離しなさい!」
父が叫びます。
母は笑顔で小刀を捨てました。
ホッとしたのもつかの間、さらに恐ろしいことが起こったのです。
母は素早くテーブルに近づいて手を伸ばします。その手のひらからは、ポタポタと血が滴り落ちていました。さっきの小刀で自分の手を傷つけていたのです。
「幽霊たち! わたしの血を受けとりなさい!」
血に塗れた手が鞭を握ります。
キーンと耳鳴りがして、女たちの笑い声が聞こえた気がしました。
「この売女が! 殺してやる!」
母は本気で、わたしが父を誘惑したと思っているようでした。そんなこと、ありえないのに。
母が鞭を振りおろすと、扇であおいだみたいに風が起こりました。その風はグンと重く、わたしは体勢を崩してよろけました。転びそうになるのを、踏ん張ってこらえます。窓や壁がガタガタと揺れ、部屋にあったものがバタバタと散乱しました。
「シラー! やめないか!」
「うるさい!」
今度は父に向かって鞭を振りました。ゴウッと突風が吹いて、父の大きな身体が壁まで吹き飛びました。ぶつかった衝撃で家がグラグラと揺れています。それを見てカベルネがケラケラと笑いました。母は毛を逆立てて怒っています。この世の終わりみたいな光景です。
「どろぼう猫! そこを動くな!」
母は両手で鞭を握ると、その先端をまっすぐわたしの顔に向けました。
風向きが変わり、今度は後ろから前に向かってビュービューと風が吹きはじめました。母のところに風が集まっているようです。
母の両目は怒りに燃えていました。
「死ね」
母がそう言った瞬間、父から突き飛ばされました。ビュッ!と風の音がして、それまでわたしが立っていた場所を、物凄いスピードで何かが通過しました。
タンッと鋭い音がしました。ふりかえると壁に鞭が突き刺さっていました。弓から放たれた矢のように、母の手から鞭が射出され、壁に深々と突き刺さったのです。
軽いラタンで出来たスティックが、壁の木材にめり込むなんて、普通なら考えられない威力です。父が突き飛ばしてくれなければ、わたしは死んでいたかもしれません。
「バカモン!」
父が大声で怒鳴りました。
そして母の頬を平手で叩きました。
「落ちつきなさい。オレがメルローと、そんなことをするわけがないだろう。帝都の大学への留学したいという話をしていただけだ。キミに会話の邪魔をされたくなかったのだ」
父の言葉を聞いて、母が泣き崩れました。
「騙されるもんか! 穢らわしい! ケダモノ親子が!」
カベルネがそう言って騒ぐと、父は悪鬼のような表情になりました。カベルネに飛びかかると、平手で顔面を何度も殴りつけたのです。
「やめっ、痛い、助けて、母さん、やめろ、クソっ、やめろって、痛いよ、やめてください、パパァ、許して」
父が殴るのをやめると、カベルネは泣きながらどこかへ走り去りました。
「メルロー! おまえのせいだからな! 絶対に復讐してやる!」
遠くから、そう叫ぶ声が聞こえてきました。
「メルローに指一本触れてみろ! おまえを殺してやる!」
父が怒鳴りかえすと「ヒィ」と情けない声が聞こえてきました。
こうして、苦難の日々は終わりました。
わたしが母と会ったのは、この日が最後です。
父に抱きかかえられ、子供みたいに号泣する母の姿が、わたしの見た最後の母になりました。
父はわたしに「母を許せと言っても、それは無理だろう」と言いました。
しかし、自分にとっては最愛の妻なのだ。死ぬまで守ると約束した。その誓いを破ることはできないし、破りたくもない。
そして娘であるおまえも、同じくらい愛している。これまで苦労させたぶん、なんでもしてやりたいと思っている。
そう言ってくれました。
わたしの望みは「もう二度と母と会いたくない」ということでした。帝都の大学に留学して、卒業したあとも家へは帰らず、どこかで仕事を探したい。
父はその希望を全面的に受け入れ、さらにこの家をくれました。実家にいる間は、醸造家の住まいとして建てられたこの家をつかえばいい。そう言ってくれました。別々の家に住み、一度も顔を合わせることなく帝都に旅立ったのです。
父は約束を守り、母とは死ぬまで直接会うことはありませんでした。それでも母の影響が完全に消えたかといえば、そうでもありません。
帝都に出発するとき、父はワインの小樽を持たせてくれました。向こうで友達ができたら一緒に飲みなさいと、一番良いワインを持たせてくれたのです。
わたしが大学で自己紹介すると、何人かの生徒から「あのバーガンディか?」と聞かれました。帝都の食通たちの間では、バーガンディワインは有名なのだと言われました。
家から持ってきたワインの小樽があるというと「未開封ならそのまま買いたい」という人が現れました。その翌日には「十倍の値段で買う」という人が現れました。さらに翌日になると学長に呼ばれ、皇帝づきの事務官という人を紹介されました。
母のワインが幾らで売れたのかは言えませんが、そのお金を預けた利子だけで在学中の生活費をまかなえるほどの大金でした。
わたしはそれまで、バーガンディワインの価値を知りませんでした。ワインを飲めるようになったのも、つい最近のことでした。母とのいざこざに決着がついて、父が「これからは子供あつかいしない」とワインを飲ませてくれました。食事も両親と同じものになり、ワインが出されるようになったのです。
そして帝都に来るまでは、バーガンディ以外のワインを知りませんでした。自分の母がつくり、当たり前に飲んでいたワインが、世界一のワインだと知らなかったのです。
最初はとまどいました。母の仕事を認めてしまうと、母を許すことになる。せっかく手に入れた勝利を手放して、負けを認めることのような気がしました。
ですが、冷静に考えると仕事とプライベートは別の問題です。母を許すことはないけれど、母の仕事は尊敬する。それで良いのだと思うようになりました。
ですから、ブランに「素晴らしい母だ」と言ったのは、まるっきり嘘でもないのです。
大学の卒業が近づいたある日、母の訃報を受けとりました。正直にいえば、悲しいとは思いませんでした。良くも悪くも底しれない人だったので、こんなにあっけなく死ぬのかと、とても驚きました。学長に相談したところ「卒業を早めても問題ない」と言われ故郷へと帰りました。
母の死は不可解なものでした。急に錯乱し、階段から転落したと聞きました。死の間際に「メルローに殺される」と叫んだようなのです。
もちろん戸惑いましたが、今更過去を掘り起こしたくないと思い、あまり積極的に調べませんでした。母に対する恐怖心は、簡単には消えてくれません。それに、この噂を広めていたのはカベルネでした。わたしを傷つけるのが目的だと思ったのです。
そして父からはこう言われました。
「もしシラーがそんなことを言ったのだとしたら、メルローにしたことを後悔していたのだろう。本当は謝罪したかったのだと思う」
ずっと母のそばにいた父がそういうなら、そうなのだろうと思うことにしました。
それから父は「シラーは幽霊たちに殺されたのだと思う」と言いました。わたしも同じことを考えていました。
わたしたちは幽霊たちの力の凄まじさを体験しました。あれ程の力をあつかうには、それなりの危険や代償があるような気がしたのです。
どうでしょうか?
わたしは母の死をこのように認識しています。この感覚を理解してもらうには、母との関係を最初から話す必要があると思ったのです。
「ブランには、もっと早く話すべきでした」
メルロー様はそう言って話を締めくくった。
「大丈夫だよ。話してくれてありがとう。辛かっただろう? もう大丈夫。大丈夫だ」
ブラン様が答える。微笑んでいるけれど、その顔は感情を表に出さないように、必死で耐えているとわかる。
しかしメルロー様は首を横にふる。
「そうじゃない。ブラン、あなたに母の話をする必要があったのは、わたしは母によく似ている。自分の子供を愛せないかもしれない。そう考えると恐ろしいの。もしもわたしが母のようになったら、そのときは子供が苦しまないように、精一杯のことをすると約束してくれる?」
そう言われて、ブラン様の顔が恐怖に引きつった。その顔が苦悩するように歪んで、頭を抱えて「うう」と唸った。
歯を食いしばって顔を上げる。
「約束する。そしてもしも、わたしが子供を愛せなかったときは、キミに頼みたい」
「ええ、もちろん!」
うなずいて、ふたりが抱きあった。
ふたりとも涙を流していたように思う。あまりジロジロ見るのも気が引けて、邪魔しないように窓の方に顔を向けた。これまで言えなかった本心を伝えて、相手が受け入れてくれたのだ。愛と絆が深まったようで、なんとなく羨ましい。
そんなことを考えていると外から「トフィー」と呼ぶ声がした。フェンネルだ。
玄関へ行ってフェンネルを招き入れる。ふたりで部屋へと戻った。メルロー様にもフェンネルのことはすでに話してある。
「話は聞けた?」
「ああ。トフィーに言われた通り、向こうから喋ってくれた」
フェンネルの報告にメルロー様が驚く。
「本当ですか? えっと、我が家の使用人は古風というか、閉鎖的だと思っていました」
おそらくメルロー様は「ヤック人なのに?」と言いたかったのだろう。伝統的な家ほどヤック人を嫌がる傾向がある。しかしその発言はフェンネルに無礼な印象をあたえる。それで古風とか閉鎖的という言葉を選んだのだ。
タネ明かしとして、石鹸をプレゼントして仲良くなる作戦を説明すると「それは名案ですね」と関心してくれた。
さっそくフェンネルから話を聞いて、情報のすり合わせをする。
シラー様の死にぎわについては、ほとんど新しい情報はなかった。ひどく混乱してデタラメな言葉を叫んでいたようだ。
話を聞いたメイドたちの中には「メルロー様が犯人」だと疑う者はいなかった。むしろ「カベルネ真犯人説」があるようだ。こじつけのような噂を広めて、他人に罪をなすりつけようとしている。カベルネが犯人だからだろうと推理しているようだ。
そしてカベルネの評判がかなり悪い。シラー様が亡くなる前は遠慮していたけれど、もう限界という雰囲気だ。みんな「アレが当主になったら仕事を辞める」と、それくらい嫌われているようだ。
うん、それはそうだろう。
シラー様とメルロー様の関係については、虐待が表面化していないので「良好な母と娘」に見えていたようだ。むしろ使用人の目線では、教育に失敗しているのはカベルネだ。メルロー様は立派に育ったのだから両親のしつけに問題ない。親が素晴らしくても生まれつきバカな子供はどうしようもない。そういう評価になっているようだ。
「それで、トフィーの意見は?」
そうフェンネルから聞かれて、どう答えるべきか少し悩む。
メルロー様が丁寧に話してくれたおかげで、事件の真相はほとんどわかってしまった。しかし「ほとんど」であって「すべて」ではない。まだ証拠もない。
「今の時点で話せることは、あくまで推測になります。まだ確実な証拠を見つけたわけではないので」
「大学では化学と農学を学んでいました。仮説と検証については理解しているつもりです」
メルロー様の言葉にブラン様も同意する。ふたりとも学位をもっている。「確証はない」と前置きして話せば誤解をまねくことは無さそうだ。
なら、わたしの推理を聞いてもらおう。
「シラー様がいう『幽霊』は『シルフ』という精霊で間違いないと思います。強い力を持つ大気の精霊で、透明な少女の姿をしています。性格的にもシラー様はシルフに好かれるタイプです」
風や天候を操り、儀式に血をつかうのはシルフの特徴だ。
シルフを操るには「気難しい女の体液」が必要になる。一番良いのは経血とされている。そのせいで素人が偶然契約してしまうことがあるのだ。わざわざ身体を傷つけなくても、月のものは毎月くる。しかもいつもより気難しくなっている。そのタイミングでシルフと出会うと、儀式をするつもりがなくても契約が成立してしまう。
「母の死についてはどう考えます?」
シラー様が錯乱死したトリックについても、だいたいの見当はついている。
「おふたりは『高山病』をご存知ですか? 高い山の上で頭痛や吐き気に襲われる病気で、重症の患者が『錯乱』することがあります。高山病は山神の祟りと言う人もいますが、実際には『空気』が原因です。つまりシルフが大気を操って偶然に『山の上と同じ空気』を作ってしまったとしたら、シラー様の事故はそう説明できます」
なるべく簡単な言葉を選んで説明した。
「それはつまり、シルフは『風を出す』というより『大気圧を操っている』という意味ですか?」
鋭い質問だ。
高山病の原因は大気圧の低下による低酸素状態だとされている。一般には難しすぎると思ったけれど、メルロー様は化学を学んでいるんだった。
「その通りです。不思議に思えるシラー様の錯乱も大気圧で説明ができます。そしてシラー様がシルフと契約していたとすると、もうひとつ言えることがあります。シルフは大気の精霊です。生死や時間を超越する力はありません。魔術の力で蘇ったということはありえません」
シラー様は蘇ってはいない。蘇ったと勘違いしているだけだ。ひとまずメルロー様に安心してもらって、あとは勘違いの原因を探す。それで事件は解決するだろう。
シラー様が死んでから五年も経っている。もうシルフは関係ない。血液は短期間で劣化する。乾燥してポロポロになり、風に運ばれて消える。そのためシルフを使った魔術の効果は数週間が限度とされているのだ。
あれ?
だったらハルワは何に反応したのだろう?
この家には精霊がたくさんいると教えてくれた。過去にシラー様が契約したシルフたちが、まだここに残っているとは考えにくい。今も誰かがシルフたちと契約しているのだろうか?
まさか本当にシラー様が蘇ったのか?
誰かが嘘をついている?
メルロー様の話はフェンネルの調査で裏をとっている。おそらく真実だ。嘘を話す理由もない。
まだ知らない真実がある?
それとも、なにか見落としているのだろうか?
シラー様が蘇ったのだとしたら、わたしの推理は根本的に間違っていることになる……
「嘘と真実は紙一重です。北と南のように正反対のものではありません。好きと嫌いのように、とても近いものなのです。まったく同じということもあります」
オペラ様のアドバイスを思い出す。
一般論を話すわけがない。この事件のことを言っているはずだ。
嘘と真実は正反対ではない。同じことかもしれない。
シラー様が蘇ったのか、蘇っていないのか、それは正反対ではなく、ほとんど同じことだとしたら?
解釈によっては蘇ったとも言えるし、蘇っていないとも言える。そんな状況なのかもしれない。
「トフィーさん? どうされました?」
考え込んでいたらメルロー様に心配されてしまった。自分の迷いが顔に出てしまったようだ。
嘘と真実は紙一重。その言葉を信じてみよう。
「シラー様が蘇ったという話は、なにかの勘違いだと思います。詳しい状況を聞かせてください。シラー様はもういないと証明してみせます」
きっぱりと宣言する。メルロー様の表情が明るくなった。
わたしは「シラー様の不在を証明する」と言った。それは嘘ではないけれど、内心では正反対のことを考えていた。
バーガンディにかけられた呪いを解く。そのためには「シラー様を見つける」ことが必要だ。
「では、母が死んだ直後からお話しします」