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第5話

 メルロー様が話しはじめる。


「真っ先に思い出すのは、母がまだ赤ん坊のカベルネを抱いていたときのことです」


 わたしはかまってほしくて「お母さん、お母さん」と服の裾を掴みました。しかし母は呼びかけに答えず、ハエでも叩くみたいにパシンとわたしの手を叩いたのです。

 わたしが「ぶたれた」と大泣きすると、父は「わざと叩くわけがないだろう」と言いました。その通りかもしれません。母の言う通り「カベルネを落としそうになって咄嗟に手が動いた」だけかもしれません。そして母は「もうしない」と言いました。


 たしかに、それからしばらく暴力的な扱いは受けませんでした。かわりに、わたしとカベルネはずっと差をつけて育てられました。母はカベルネにつきっきりで、わたしを無視するのです。

 もちろん完全に無視されたわけではないので、わたしがそう感じただけかもしれません。人間というのは「自分だけ冷遇されている」と思い込みやすいものです。ですが、それを差し引いても、やはりおかしいとしか思えないのです。

 たとえば、一緒に散歩をしていたはずが、少し目を離すと母がいない。母が消えてしまうんです。あまりの出来事に、下腹部が痛くなるような不安に襲われました。わたしがまだ3歳くらいのことです。

 泣きながら家に帰ると、母はそこにいました。なんと母は、わたしを置き去りにして帰ってしまったのです。


「カベルネが泣くので帰ってしまった。メルローのことは忘れていた」


 こんなことが何度もあるのです。食事を忘れられるのもしょっちゅうでした。

 わたしの考えでは、母は父がいないときを狙っていました。父にバレないように、父に助けを求められないタイミングを狙って、わたしを孤立させるのです。そんな扱いをうけるたびに、世界からつまはじきにされたような、惨めな気持ちになりました。

 抱っこされたり、なでられたり、そういうこともありません。わたしが甘えようとすると「我慢しなさい」と拒絶されます。もう姉なのだからと。


「おまえを嫌いになったわけじゃない」


 そう言われましたが「愛している」と言われた記憶もありません。母が愛をささやくのは弟だけなのです。

 父に不満を訴えましたが「我慢しなさい」と言われました。父の立場では、母親が赤ん坊を優先するのは当然のことです。両親を独占できなくなった上の子が不満を言うのも当然です。なので、わたしが「お母さんがわたしを嫌いになった」と訴えても、父からすれば「予定通り」のこと。母を異常だとは思いません。

 父は丁寧に説明してくれました。小さな命を守ることの大変さ。母の苦労。メルローは姉になるのだから、カベルネを守る側になるということ。母に甘えてばかりではいけないと。

 わたしはこう思いました。母を異常だと感じても、不満を訴えれば自分が悪者になる。父を失望させてしまう。なにがあっても耐えなければいけない。

 この思い込みさえなければ、こんなに傷が深くなることはなかったかもしれません。


 カベルネが大きくなると、母の言い訳は「男と女」に変わりました。カベルネは長男だから、与えられる物はすべて与える。女は嫁にいってから苦労しないように、贅沢を覚えさせてはいけない。そう言って、なにもかもに差をつけました。

 カベルネの衣服は特別に仕立てたものばかりでしたが、わたしの服は親戚からもらった骨董品のようなおさがりでした。アカデミーの友人たちから茶化されるような服でしたが、外出着はその一着しかありません。

 食事もカベルネの好物ばかり。カベルネにだけお菓子が与えられます。カベルネが欲しいといえば、わたしの私物も差し出さねばなりませんでした。

 父もおかしいと思っていたようですが、母から「女の教育はそうなのだ」と言われると反論できないようでした。父は男のことしか知らないというのは、その通りでした。

 それに母には不思議な力がありました。魔術のような力です。この力のせいで、バーガンディ家で母に逆らえる人はいませんでした。


「シラー様の魔術について、詳しく聞かせてください。オペラ様も『魔術の才があった』と言っていました」


 気になったので話に割り込んだ。

 メルロー様はうなずいて話をつづける。


「わたし自身が幼いころの話なので、ほとんど父や祖母から聞いたことになりますが」


 父が言うには、母が異能に目覚めたのはカベルネを身ごもったころ。最初は「声が聞こえる」というような感じで、妊娠したせいで精神が不安定になったのだろうと思ったそうです。

 ところが母の異能は本物でした。いよいよ出産が近いというタイミングで長い雨が降ったのです。収穫前の長雨はブドウを腐らせ、糖度を下げてしまいます。父が困っていると、母はこう言いました。


「幽霊たちはわたしのお腹が気になって集まっているだけ。この子が生まれれば雨はやむ」


 その言葉通り、カベルネが産まれた瞬間に雨はやみました。

 それから母は幽霊たちの姿をはっきりと見て、会話もするようになりました。天気や気温の変化をぴたりと言い当て、天候を操ることもありました。

 たとえば寒い冬の日、父が「霜がおりると困る」と言ったら母はそれを解決してしまいました。母はブドウ畑を見張ると言って、防寒具を着込んでひと晩あかしたのです。もちろん人間が見ていても霜はおります。普通なら無意味な行為です。しかし母が見張っている夜は、どんな寒波がきても霜がおりることはありませんでした。我が家のブドウ畑だけです。

 冷夏になるか酷暑になるか、どれくらい雨が降るのか、母の予想ははずれません。ブドウ畑の仕事は母を中心に計画されるようになりました。それまで雇っていた醸造家が高齢を理由に退くと、新しい醸造家は雇わずに母がそのポジションについたのです。

 母が関わるようになってからバーガンディワインの評価はどんどん上がっていきます。数年のうちにコンフェクシリアで最高の格付けとなりました。おそらく母はワインの醸造にも魔術のような力をつかっていたのだと思います。


 母の不思議な力については、まだいろいろとあるのですが、いったん話をもどします。

 カベルネが生まれて数年が経って、母の不思議な力を見た父は「幽霊の話は本当かもしれない」と思うようになります。この不思議な力はブドウの栽培に活かせるかもしれない。みんな半信半疑ですが、父は「母の言葉を信じてくれ」と母の後ろ盾になりました。

 逆に祖母は「幽霊なんてバカらしい」と反対していました。嫁と姑の対立があったようです。

 このころの父は、祖母から母を守るために「とにかく母の言う通りに」という態度でした。母が何を言っても祖母が反対するので、父は母の味方になる。わたしとカベルネに差をつける教育方針についても「あのときは賛成するしかなかった」と言っていました。

 あるいは、わたしが強く不満を訴えていれば、父は助けてくれたかもしれません。しかし、わたしは「耐えなければいけない」と思い込んでいたのです。

 振り返ってみれば、様々な思惑やタイミングが悪く作用したように思います。


 わたしは家族との関係改善をなかばあきらめ、部屋にこもって本ばかり読んで過ごすようになりました。

 すると母は、わたしのことを「変な子」と言うようになりました。変わり者なのだと、ことあるごとに言うのです。

 そしてしばらくすると、わたしが我慢しているつもりの境遇が、いつのまにか「メルローが変人だから孤立している」ということになったのです。

 家族と関わるのを嫌がる。普通の子供が喜ぶようなことを喜ばない。自分の意思を主張しない。

 母が繰り返しそう言うことで「メルローは変人」という評価が定着していったのです。


「メルローが変な子に育ってしまった。このままでは嫁いだ先で苦労する。バーガンディ家の恥になる。心を鬼にしてしつけをしなければ」


 そして母は、ついにラタンの鞭を持ち歩くようになりました。ラタンの棒にグリップをつけただけの、細くてまっすぐな鞭です。

 気に入らないことがあると「手を出しなさい」と言われます。両手を広げて差し出します。それから懺悔です。たとえそれが自分のせいでなかったとしても、悪かったと認めなければなりません。


「わたしは姉でありながら、カベルネに嫌味を言いました。バーガンディの娘として恥ずべきおこないです。反省しています。ごめんなさい」


 鞭を打たれた手は燃えるように熱く、わたしは泣き叫びました。痺れるような痛みはずっと続いて、夜も眠れないほどです。これは誇張ではありません。耐えきれず失禁してしまうこともありました。

 もし、あなたが同じような鞭を受けた経験があるとしたら、この話を大げさだと思ったかもしれません。そうではないのです。わたしの通っていたアカデミーにも同じような鞭をつかう教師がいました。それと比較しても、母がふるう鞭だけ特別に痛いのです。軽く打たれただけなのに、骨に響くような衝撃があるのです。

 おそらく母は魔術のような力で、威力を制御していたのでしょう。同じ鞭でも、他人がつかうと威力が下がります。

 わたしが打たれるたびに泣き叫ぶので、父は鞭の威力を確かめました。力の強い使用人を呼び寄せて、自分の手を何度も叩かせました。そして「このくらいなら問題ない」と判断したのです。

 そのときの父の表情、わたしは父からの信用を失ったのだと、はっきりわかりました。


 それからの日々は地獄のようでした。

 わたしは母の鞭を恐れるあまり、自分のすべてを捨て去りました。母の命令には逆らえない。母に言われた通りにするしかないのです。たとえその命令が嫌なことだとしても、母の鞭より嫌なことなどありません。思い出すだけで恐怖で身体がすくむのです。どんな惨めなことも受け入れるしかありませんでした。

 髪型も衣服も、母の気に入るようにしなければなりません。なるべく地味に、飾らず、女性らしく見えないようにしなければなりません。友人も母が選びます。新しく友達ができても、しばらくすると「ダメだ」と言われるので絶縁しなければなりませんでした。学校ではずっとひとりでした。

 父に助けを求めるどころか、むしろ「母は悪くない」「悪いのは自分だ」「母は素晴らしい人だ」と言わなければならないのです。

 しかし、そこまでやっても、母はわたしを鞭で打ちました。わたしを呼びつけて、ただ「懺悔なさい」と言うのです。母が何に怒っているのか、さっぱりわかりません。たぶん、ちょっと虫の居所が悪いとか、そのくらいのことなのです。わたしは泣きながら、あらゆることを懺悔しました。

 泣いても母を喜ばせるだけだと気がついてからは、なるべく無反応を貫くように心がけました。感情を表に出さず、口答えもせず、淡々と叩かれるようにしたのです。

 すると母は食前を狙って鞭を打つようになりました。鞭の痛みはしばらく引きません。スプーンを握って食事をするのが難しいほどです。母はそんなわたしを見るのが楽しいようでした。

 大事な試験の前に勉強をしていれば、その途中で呼び出され、ペンが握れなくなるまで叩かれました。

 母の体罰はどこまでもエスカレートしていったのです。


「トフィーさん?」


 メルロー様が話すのをやめそう言った。

 わたしの目から大粒の涙がこぼれた。感情を顔に出さないように、そう思っていたけれど、涙を止めることはできなかった。

 いったん溢れてしまうと、もう止められない。次から次へと涙が出てきて、自分ではどうにもできない。


「ごめんなさい」


 そう言って部屋を出た。しばらく一人で泣いた。

 部屋にもどる。


「大丈夫ですか?」

「はい、続きを聞かせてください」


 メルロー様はブラン様としばらく見つめ合うと、話しの続きをはじめた。

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