第1話
王都から馬車で一日ほどの距離に、バーガンディ領というワインの産地がある。
その領主であるバーガンディ様のもとに、死んだはずの妻が帰ってきたという。ひとりワインを飲んでいると、いつの間にか妻のシラーが現れた。そんな噂が流れてきた。
幻覚でも見たか、勘違いか。動く死体、幽霊、そっくりさん。それとも死んだというのが嘘だったのか。勝手な妄想をめぐらせるには面白い話題だ。
ところが、わたし自身がこの騒動を調査することになり、亡妻の正体を推理することになってしまった。
酔っ払いの見たまぼろし、というほど簡単な話ではない。この幽霊騒ぎには驚くべき真相と、恐ろしい陰謀が隠れていたのだ。
ここはコンフェクシリア。剣と魔法のファンタジー王国をイメージしてほしい。
わたしはトフィー。お菓子の国の焼き糖蜜だ。察しのいい人はもう気づいていると思うが、固有名詞はすべて適当につけた仮の名だ。大っぴらに話すことではないので、特定されないようにフェイクも混ぜている。
まず簡単に自己紹介をさせてもらおう。
幼い頃に両親をなくしたわたしは、母の親友だったラミントン王妃に引き取られる。歳の近かった三男のファッジ王子と一緒に育ててもらった。
ファッジ様は初恋の人で、命の恩人でもある。ずっと片想いしていたが身分が違いすぎる。しかも成長したファッジ様は王国で最強の剣士と呼ばれるようになり、王国の軍事的な要職である剣士長にまで出世してしまった。憧れの異性ではあるが、片想いとも呼べない関係だ。
わたしは剣士長の館のメイドになった。拾ってもらった恩と、命を救って貰った恩を返したい。ファッジ様のそばに居られれば良い。そう思って日々を過ごしていた。
ところが、あるとき大きな事件に巻き込まれる。騎士団長の不倫事件だ。わたしは第二王妃のオペラ様と協力して、不倫事件を調査することになった。
オペラ様はコンフェクシリアの宮廷魔術師とでもいうような役職であった。おおやけにそんな職業は存在しないが、魔術を使って人知れず王国の事件を解決していたのだ。
第二王妃で魔術師というのも理由がある。コンフェクシリアの初代国王は、この土地の精霊に認められ、ここに王国をつくった。それからずっと王家は精霊の加護をうけている。つまり魔術師が王家に嫁いで、王家の一員になってしまえば、この地の精霊と自動的に契約できる。強力な魔術の力を得られるのだ。
騎士団長の事件が解決し、わたしはオペラ様に才能を認めてもらい、魔術師の弟子となった。そしてファッジ様が成人しても未婚だったのは、オペラ様の後を継ぐ魔術師と結婚するためだったと知らされる。
信じられないことだが、わたしがファッジ様の婚約者になってしまったのだ。
そして、わたしがオペラ様の後継者になったことを、ファッジ様はとても喜んでくれた。わたしはファッジ様からの愛情を感じている。
ここまでの話を詳しく知りたい人は、過去のエピソードを読んでみて欲しい。
もちろん過去作を読まなくても、これから話す物語は問題なく楽しむことができる。独立した物語だ。
本題に入ろう。
ある日のことだ。魔術師としての職場であるオペラ様のお屋敷に来客があった。
扉を開けると、そこにいたのはファッジ様だった。ここに来るのはかなり珍しい。
わたしは困ってしまった。
ファッジ様との婚約はまだ秘密。メイドの仕事もまだ続けていて、普段は主従という態度で接している。それは問題ない。長年染みついている。
困るのはむしろ逆の状況だ。急に婚約者と言われても、それらしい態度で会話するのが難しいのだ。
幼なじみで長く一緒にいる。気心は知れている。いまさら「休日は何をなさっているのですか?」という会話をする関係でもない。かといって過程をすっとばして、いきなり熱愛カップルというわけにもいかない。
そこで少しずつ慣らしていこうと、ふたりで相談して「館以外の場所で会うときは恋人らしい態度で接しよう」と、そう決めたばかりなのだ。もちろん「館以外」というのは「こっそりデートをしているとき」みたいな意味のつもりだ。
さて、オペラ様の家敷は「館以外」なのだろうか?
ファッジ様がここを訪れるパターンは考えていなかった。オペラ様は婚約を知っている。見られても問題ない。わたしは「こっそりデート」のつもりだったけれど、ファッジ様は言葉通り「館以外」のつもりで、恋人らしいことがしたくて来てくれたなら、応えないわけにはいかない。
「ようこそ、ファッジ様」
微笑んで手を握ろうとしたが、やんわりと拒絶されてしまった。
「すまないトフィー。オペラ様に゙客人を連れてきたのだ」
なんと。見れば背後にもうひとり、貴族の青年らしい人物がいるではないか。これは失態だ。
オホンと咳払い。
「ご案内します。こちらへどうぞ」
ふたりを応接室に通す。オペラ様はすでに部屋で待っており、テーブルには4人分のカップが用意されていた。わたしも座れという意味だ。
「わたくしがオペラです。こちらは助手のトフィー」
オペラ様は王妃とは思えない簡素なファッションで、いつも淡々とした口調で喋る。ほとんど感情を表に出さない。いつもすべてを見透かしているかのような、とても知的な方だ。
「こいつはブラン。アカデミー時代の友人です」
「フロマージュ家のブランです。実は悩んでいることがありまして、ファッジ様に相談したところオペラ様が適任だと言われました」
「お話しなさい」
オペラ様がうながすと、ブラン様はこう言った。
「バーガンディ様のもとに、死んだはずの妻が帰ってきたという話はご存知ですか?」
「噂は聞いています」
「フロマージュ家はバーガンディ家と取り引きがあります。王都に入るバーガンディ領のワインはうちを通ったものがほとんどでしょう。それに娘のメルローとは、個人的な付き合いもあります」
そう言うとブラン様は一通の手紙を取り出した。
「メルローからの手紙です。今朝届きました」
まずオペラ様が一読し、そのままわたしに手渡した。「失礼します」とことわってから目を通す。
手紙の内容は、わたしが想像していたものとはまったく違っていた。以下に本文をそのまま掲載する。
ブラン様へ。
すでにご存知かと思いますが、母が帰ってきてしまいした。
父から「シラーが帰ってきた」と聞かされたときは、心臓が止まるかと思いました。まさかと思いましたが、弟のカベルネまで「母上が帰ってきた」とはしゃいでいます。顔を合わせるたびに「しつけてやるからな」と脅すのです。
わたしは母屋に近づかぬようにし、父とも距離を置くようにして、しばらくは考えないようにしていました。母の気配はありません。やはり死者が蘇るはずはない、何かの間違いだと思うようになりました。
そして昨日のことです。この不安を完全に払拭してやろうと思い、両親の寝室へと向かいました。自分の目で「母は居ない」と確認したかったのです。
ところが部屋に一歩踏み込んだ瞬間、忘れかけていた母の匂いがしたのです。ここ数年は嗅いでいなかった、たしかに母の匂いでした。
もう二度と思い出すまいと、ずっと考えないようにしていた母の記憶が鮮明に蘇りました。わたしは小さな子供で、母はとても大きく、その目を見ただけでわたしを憎んでいるのがわかるのです。
わたしが何をしても、母が喜ぶことはありませんでした。いつもラタンの鞭を持ち歩き、わたしの言動や仕草のひとつひとつを観察して、それを振るう理由を探しているのです。
「手を出しなさい」と冷徹な声を聞いたような気がしました。耐えきれず部屋を飛び出し、何度も吐きました。
鞭の痛みが蘇ります。母の声を思い出すだけで、手のひらが焼けるように熱くなるのです。あの頃はボロボロだった手のひらも、今はすっかり綺麗になりました。それでも繰りかえし繰りかえし鞭で打たれた痛みは忘れられません。どれだけ強く握りしめても、痺れるような痛みが続くのです。
わたしは母が恐ろしい。あの人をなんとかしなければ、いつか殺されてしまうと感じていました。そして母を憎んでいます。殺してしまいたい、そう思うこともありました。
このことを黙っていたことは、もうしわけなく思います。母が死んだ今となっては、そんなことわざわざ言う必要もない。思い出したくもない。すべて終わったことだと考えていました。
ですが母は帰ってきてしまいました。母と決着をつけなければ、わたしは前に進めません。
ブラン様。これまでわたしに良くしていただき、とても感謝しています。あなたの幸福を祈っています。
さようなら。
ブラン様に手紙をかえす。
「すぐに駆けつけようと思ったのですが、わたしひとりで何ができるのかと思いまして、ファッジに同行を頼んだのです」
空気が重い。
それも当然だ。メルロー様にとっては、母の帰還は喜ぶべきことではなかった。母と娘の間に、こんなに深い負の感情があるなんて、にわかには信じられない。
それにバーガンディ様だけがシラー様を見たわけではない。少なくとも娘のメルロー様、息子のカベルネ様も「シラー様が帰ってきた」と言っているようだ。アルコールが見せた幻覚というような、簡単な話ではなさそうだ。
「どう思われますか?」
ブラン様からの問いに、オペラ様はこう答えた。
「この手紙だけでは何とも言えません。ですが確実に言えるのは『死者は蘇らない』ということです。色んな可能性が考えられますが、幻覚にしろ、そっくりさんにしろ、そのすべてに共通しているのは『蘇ったと勘違いしている』と言うことです。あるいは過去に『死んだと勘違いしていた』という可能性もあります。しかしこの『勘違い』というのが、やっかいなのです」
そしてオペラ様は、以前に解決したという幽霊事件の顛末を話してくれた。
結論から言ってしまうと、この事件は「小さな穴を通った光が上下左右反転して投影される」という自然現象のせいであった。偶然できた小さな穴のせいで、壁面に人影が投影された。それを幽霊と勘違いしたのだ。
オペラ様は依頼者に原理を説明して、ピンホールができないようにした。もう不思議な人影は現れない。これで完全に解決だ。
しかし依頼者が納得しない。「自分が見たのは絶対に幽霊だった」「もう出ないと言われても怖いものは怖い」と、まったく話を聞いてくれない。
しかたなく高位の聖職者を呼び、除霊の儀式をしてもらった。それでやっと納得したというのだ。
「この手の事件は、真相究明よりも人間の感情の扱いが難しいのです」
そう言ってオペラ様は話を締めくくった。
「なるほど。消極的事実の証明というやつですね。幽霊が存在しないと証明するのは難しい」
ブラン様がそう言うと、ファッジ様もうなずいた。
「ミズ・トフィー。あなたはどう思います?」
オペラ様から問われて、わたしはこう答えた。
「わたしもオペラ様と同じ意見です。シラー様の問題は解決が難しい。でも、それは解決しなくて良いのかもしれないと思います」
「どういうことです?」
「手紙を読んで、メルロー様には助けが必要だと感じました。ブラン様の相談も『メルロー様を救いたい』というのが本心なのではありませんか?」
ブラン様がうなずく。
「メルロー様を救うことだけが目的だとすれば、シラー様のことは無視できます。たとえばメルロー様を王都に連れてきてしまうとか」
「なるほど、合理的な考え方ですね。トフィーのアイデアを採用しましょう」
それからしばらく四人で話し合い、わたしとオペラ様とブラン様は明日の早朝バーガンディ領に出発することとなり、今日のところは解散となった。ちなみにファッジ様は別の仕事があるので同行はしない。
明日の準備のため今日の仕事はおしまい。カバンをもって外へ出ると、ファッジ様が待っていた。
「館へ帰るのなら一緒にいかないか?」
もちろんうなずく。
ファッジ様が片手を出して「荷物を」と言った。
恐れおおいと思ったが、これは「館以外」という話か。たしかに恋人なら、男性が荷物を預かるのは自然なことだ。カバンをファッジ様に渡した。
オペラ様の屋敷は城の裏手にある。剣士長の館は城をグルっと回って徒歩で十分くらい、あまり人通りのない静かな道だ。
「やはり、なにを喋っていいのか、困ってしまうな」
「だったら、手をつないでみませんか?」
なにげなく提案してみたが、大人になってからは初めてのことだった。
手と手を重ねる。
ただそれだけのことで、急に自分が子供になってしまったように思えた。見聞きするものすべてを新鮮に感じていたころ、毎日のように新しい感情に出会っていた。もう二度とないと思っていた感覚だ。つないだ手から初めての感情が湧き上がってくる。
それからは、余計になにも喋れなくなってしまった。
ゆっくり時間をかけて歩く。そろそろ館も近いというタイミングで、どちらともなく手を離した。
カバンを持つくらい不自然ではないだろうと、そちらはそのまま。もともとファッジ様は重たい荷物なら立場に関係なく運ぶのを手伝う人だ。
「明日からしばらく家をあけます」
そう言ってみたが、事情はファッジ様も知っている。
ようするに「会えないのが寂しい」という意味だ。こんなに遠回りな言葉づかいをするなんて自分でも意外だった。手をつないだだけで、気持ちが変になってしまったようだ。
「オレも街道警備の仕事がある。しばらく帰れない。メイドたちには暇をだそうと思う」
ファッジ様の街道警備の仕事は、前々から決まっていたことだ。
秋の足音が聞こえる季節。収穫された作物が街道を運ばれる。食料と交換するための金品も運ばれる。冬支度のため王都へ買い出しに来る人々もいる。街道を通る荷物が増加すると、荷物を狙う盗賊の動きも活発になるのだ。
街道の警備は騎士団の仕事なのだが、今年は大きなトラブルがあって戦力が低下している。そこでオペラ様に対策のアイデアが依頼された。
こちらは騎士団が弱体化している。全体的な警備力はどうしても落ちてしまう。だったら盗賊たちにも弱体化してもらえばいい。
収穫期が終わって危険な時期が来る前に、盗賊団の幹部を逮捕して、悪党には容赦しないと釘をさす。守るのではなく、攻める作戦だ。
狙いはブラックフォレストの盗賊だ。その幹部を潰せば裏社会のニュースになる。こちらのカードは王国最強の剣士、ファッジ様の出番というわけだ。
ファッジ様の戦力をあてにした作戦だ。最前線で危険なアウトローと戦うことになる。どんな卑怯な手をつかわれるかわからない。
わたしは不安だった。
剣士長の館についた。
カバンを返してもらうと、中からアミュレットを取り出した。
「熊の爪を加工したアミュレットです。戦場でファッジ様を守ってくれるよう、祈りをこめました。見習いですが魔術師です。効果はあると思います」
ファッジ様の首にアミュレットをかける。
「ありがとう。大切にする。命にかえても」
命にかえても、というのは戦士の常套句で本当に命をかけるわけではない。それは理解しているけれど。
「それでは意味がありません」
「そうだな」
ふたりで笑いあった。