表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
命令違反  作者: 中川 篤
1/2


      一


 伊勢佐木町にある中華飯店が待ち合わせの場所だった。相手は俺が席に着いて、二、三分経ってから現れた。背の高い、スーツを着た、髪を撫でつけている男で、一目見て俺は相手がうさん臭く、いい印象を持たないことに気づいた。なぜこんな仕事を俺はつづけているのだろう。答えは抜けることがもうできなくなっているからだが、俺は何もかも一度白紙にして、あの暗い公安時代でさえいいから、過去に帰りたいと思う。席に臨むと、背の高い男は言った。貴方の仕事はよく伺っております。腕前が良いことも。男は胸のポケットから写真を取り出すと、それに二枚、テーブルの上にひろげた。

 歌手の森本晋作。国会議員の森本氏の息子だ。中々の大物だが俺は動じない。どうして森本晋作が命を狙われることになるのか、それは問わない。訊いても俺の心が暗くなるだけだ。依頼を引き受けるに当たってはターゲットの背後の情報を調べておく必要はあるが、それはおそらく、今、依頼者に聞くことではない。

 それから自然、話は報酬額の方に移る。店を出ると、俺は二軒隣の韓国料理店でチマチョゴリを着た女性店員に酒とトッポギを頼み、それで昼にした。酒はいろんなものを忘れさせてくれる。店内には甕に付け込んであるキムチが置いてあり、それも一皿たのんで追加した。俺は森本晋作に近づく方法を考えながら店の奥まったところに据え付けられてあるラジオを聴いた。上野で集会があり、先ほど得た情報(分かりづらいところはあったが)で推測するなら、どうやら森本晋作もそのなかにいる可能性が高そうだ。俺は少し思案し、目の前の皿を一気に平らげると、料金を払い、最寄りのJR線に向かった。昼の伊勢崎モール通りは曇りだった。


 その日の俺の〝仕事〟はそれまでだった。明朝、俺は支度を済ませると、車で久里浜にある自衛隊の駐屯地に向かい、その中にある食堂で皿洗いの仕事に付いた。表向き、俺はここで働いていることになっている。この駐屯地は厨房の仕事を外部に委託しており、その業務を請け負っているのが、俺の所属している会社だった。おおむね厨房は平和だ。この食堂の名物ばあさんがいなければ。しかしこれは俺がまだ、社会と繋がっているという実感を得る、その為だけでも必要な仕事だった。

 それから昼食のラッシュ時が終わり、俺は皿を拭いていた。梢ばあさんも声を荒げなくなり、厨房内には静かさが戻った。ここで使用されるテーブルと皿は、上官専用の机と、只の兵卒用とでわかれているが、今、その上官用のテーブルに一人残っている士官が居た。おそらく並の自衛官より階級はほんの少し上といったところ。近づくと、こちらが来るのを待っていたかのように、士官は口を開いた、小声で「きみの噂は聞いてる。命令だ」

 「誰の命令です」

 「言えない」士官は武骨な指を組みあわせ、ゆっくりと、含むように言った。「だが、今回彼らがきみに依頼した相手は、高名な人間でもなければ、何の権威も、力も持ち合わせてはいない、そういう人物だ。つまり」

 「存じています」俺は言った。「今回の殺しにはそれほど意味がないと?」

 「そういうことだ。きみが望むなら、降りてもかまわない」

 「降りたらどうなる? 誰かが俺に代わって仕事をするのか?」

 「おそらくそういうことにはならないだろう」士官は写真を取り出すと、それをこちらの手に滑り込ませて、言った。「よく考えてみてくれ」

 殺し屋という稼業をしている人間の中でも俺は割かし真面な方だ。もとが警視庁の公安局にいたこともある。昼休み中にラインを引きまくったソクラテスを読むことも関係するだろう。もちろんこの言い方には語弊があり、この稼業についている時点で、すでに相当に頭のねじがぶっ飛んでいることになる。俺が言いたいのは話が通じるか通じないかという問題だ。

 問題は俺がこの上官と交渉するかだ。交渉をすれば、俺も無駄な殺生はしなくて済み、森本晋作も少し長く生きることができる。そして交渉しなければ、これは確実なことだが、逆に俺が殺される。そのことが分かった。むろん、反論の余地はない。俺は言った。「条件はなしでいい」

 「当然、無条件でいうことを聞いてもらう。それでも有難いと思うんだな」


 翌日、俺は会社に休みを出し、森本晋作の調査に向かった。俺が彼を殺すことはなくなった、しかしこの依頼の背後には、それを取り下げさせようとする依頼と同じくらい大きな力が働いている。こちらとしても慎重にならざるを得ない。最終的にどう転ぶかはわからない。ただ俺はなるべく〝殺し〟をしたくないと思っていた。要するに、最終的な結論を、俺はできるだけ先延ばしにしようとしたのだ。まずは森本晋作を知ることから始めようと俺は思った。ネットをあさると彼の情報はすぐに出てきた。歌手。それは知っている。y大学の構内で行われている学生の政治デモ。それに加わっている写真が、バカのそれを面白半分に拡散させようとするコメントと、その発言を非難するコメント欄の真上に載っていた。俺は学生デモなんて長続きしない、五、六年もすれば何食わぬ顔してどこかの企業で働いているんだと思いながら、その写りのいい画像を眺めていた。俺はいつしか森本晋作に好感を持っていた。


 「義手の調子はどうだね?」y大学に博士を尋ねると、彼は開口一番、そう言った。

 「今日はそのことではないんです」

 「別件の用かね?」

 「博士のゼミに、森本晋作という学生がいると伺っているのですが、きょうは彼のことについて聞きたいのです」

 「ウム。それは御両親の関係する依頼かな。いちおう伺っておくが、きみの職業はたしかあれでいいのかな? 残念ながら、学生のプライバシーに関することは多言できないじゃよ。わたしに言えることしか言えないが、それでいいのなら」

 「それで結構です、博士」

 「では話すが。森本君は非常に真面目な学生だ。校外での活動は、なかなか有名なようだから、わたしがここで隠すまでもないだろう。学生であると同時に政治運動もしておる。私個人としては、これは眉唾物だと持っているし、反対の立場だが。ひょっとしたらこうした種が実ることもあるかもしれないと思っている。つまり応援しているということじゃ」俺は博士に尋ねた。「森本さんの御家庭に問題は?」、「特にないよ。ただ彼には兄がいてな。これは言いにくいことだが、それが少々問題のある男らしくてな、今は弟――つまり晋作君と一緒に住んでいるのじゃが、まあ」ここで博士は言葉を濁した。「こればっかりは言いにくいのう」

 俺の知る情報もあった。というより、テレビを見ていれば、必ず目に入った情報だ。森本晋作の父、森本一郎は、先日、都内の某所で同じ党の女性議員といざこざを起こした。女性議員――室大臣はそれをレイプと主張している。党内は火消しで躍起だ。伝えられる情報によると、部屋で話し込んでいた森本一郎と室大臣は、何らかのあと、このような事態に相成ったようだ。この二人の大臣は同じ党内だが、対立する派閥にいて、そのことも事態に複雑さをみせている。俺は博士にその情報を与え、反応を見た。「どうでしょうか?」

 「そんなことがあったのか」だがしかし、博士は純粋に驚いているようだった。それだけだ。「彼は父親のことをあまり話したがらないんじゃ。おそらくこの事件についても、深い情報は持っておらぬと思う」

 「ですが、何か事情を知っている場合も考えられます」

 「探偵の真似事かね?」

 「ええ、そうです」

 俺はにっと笑って、こたえた。

 「わしには疑問なのじゃが、もし依頼がそのまま進んでいたら、森本晋作を本当に始末する気だったのかな? わしの記憶が正しければ、きみは自分の納得のいかない仕事は、たとえ天がひっくり返っても、受けない筈だったが」

 「買い被りですよ。きっと博士は私のことをよく知らないから、そんなことが言えるんでしょうね」

 博士は俺を買い被っているが、俺の森本晋作を殺す気が薄れていることは動かしがたい事実だった。ふと思った。そしてひょいと口から出た言葉に驚いた。「いま森本君はどこにいるんです? たしかに、彼の命は危ない」


 「それではきみはこれから彼のところに行くつもりなのか?」俺が答えずにいると、博士は急いでまくし立てるように言った、「ではその前に、きみの義手に仕込んだ機能について説明させてもらおう」と。博士にいきなり言われたその言葉が、俺には何のことだかわからなかったが、それからすぐにわかった。博士が俺に人差し指の第一関節から上を取りはずせと言い、その通りにすると、中から拳銃が出てきたからだ。「それは銃じゃ! 人差し指には弾は一発しか装填できんが、親指の第一と第二の関節に二発格納できるようになっておる。つまり、三発の弾を持ち歩けるというわけじゃな。中指にはピッキング用に針金が収納されておる。爪の間から引き出して使うのじゃ。薬指の爪は飛び出し式のナイフ。小指の先は赤いワイヤーで最大十m延びるようになっておる。さてどうじゃの、サイボーグになってみた気分は?」

 こいつは本当にいかれたマッドサイエンティストだ。俺は思った。人の右手を十徳ナイフに改造して嬉々とはしゃぎまわるこのじいさんに、俺は一発雷を落としてやろうかと思ったが、すんでのところで思い止めた。博士は一貫性のない人間だから、俺にどやされてもそのことをすぐ忘れてしまうに相違ない。「最高ですね、博士」俺はそれしか言えなかった。

 さて、義手の取り扱い方に関するレクチャーも受けたことだし、もうそろそろここから辞去しようかという段になって、ラボの奥の方から何か動物が吠えるような物音が聞こえてきた。「駄犬だが、アイツでも少しは役に立つかもしれん。連れていくといい」

 「丁重にお断りしますよ」

そう言って、ドアの方へ向かうと、犬が足にしがみついてきた。大きなセントバーナード犬だった。本から飛び出てきたのかと思うような、立派な犬種だった。間違っても殺し屋がつれて歩く犬じゃない。犬橇を引くために誂えられたような犬だ。「ロンドンも君を気に入ってることだしのう」


 ラボのある廊下を抜け、大学の校舎の中にでようと思った矢先、今度は博士が後ろから駆けてきた。待ちたまえ、きみはどうやって森本君を探す気なのかね? まさか手探りで校内をうろつきまわる気でいたのかね。少しは頭を使いなさい。ロンドンの嗅覚は人より優れておる。それに、森本君がゼミの際に忘れていった帽子がここにはある。そういって、博士はロンドンに森本晋作の帽子の匂いを嗅がせると、犬の首に着けてある縄を解き放った。自由になったロンドンはかけて行く。おそらく訓練されているのだろう。と思ったが、

「まあ、これといった訓練はしとらんから、成り行き任せじゃな」

 脱兎の勢いでその場を離れていくロンドンは、追うのにも一苦労だった。ロンドンは俺の予想通りに動いた。四足の駆け足で学生たちが政治集会を開いている広場までたどり着くと、そこでかれは一度動きを止めた。匂いを阻害するものがこの広場には多すぎるのだ。しかしもう十分すぎるほどロンドンは働いた。あとは人間が目と頭を働かせる番だ。

 そこには200人ぐらいの人数が集まっていた。ほとんどは学生だったが、なかには学生が呼んだ――あるいは向こうからやってきた――文学者やタレントの姿もあった。騒音と聞き違えるような音楽が至る所から聞こえた。森本氏の一件は彼らに力をあたえたようだった。昔ながらの上下の問題、格差や金銭にまつわる不満を学生たちはことごとく口にしていた。持つ者と持たざる者の構造は今も昔も変わらない。ただ一つ以前と変わった点があるなら、彼らの親の世代にはそれは幾分温厚な形をとっていたのに対し、今の彼らは祖父母の代のごとく怒り狂っているということだ。

 そしてこれはつまらないことだが、この場に招聘された作家は相も変わらず、ソーシャルディスタンスを守っていた。未だにコロナ問題を書いている作家もいる。


 ロンドンはそこで複数の学生に絡まれ、体をべたべた触られていた。女子学生が黄色い声を上げる。人慣れしてる! 賢ーい!

 「ちょっと、スミマセン」俺は、そこに割り込むようにして、言った。「森本晋作君をご存じじゃありませんか?」

 「しらないけど、人に訊けばわかると思う。彼、どうかしたんですか」

 「別にどうということもないんですけど、彼の大事にかかわることなんですよ」

 「竜崎さんに訊けば早いわ」

 「竜崎さんね、っと。ご協力どうもありがとう。きみ勉強しなくて平気なの?」

 「一応。休学届出してるから」

 「そうですか」そう言いながら、ヘンなものを感じた。しいて言うなら、演技臭さだ。「おそらくだが、君は森本君がどこにいるか知ってるんじゃないか?」

 「ごめんなさい」振り向くと、シャーマン博士の姿がなかった。頭に何か硬いものが当たるカチンという音。意識がもうろうと飛び、頭上に星が見えた。雑踏、話し声、そんなものが耳に入ってきた。誰かが自分の体を持ち上げようとした。声が出ない。その大きな手の感触。


 目が覚めると、大学内のどこかにある倉庫に手足を縛られ放置されていた。見張りは壁の向こうで話し中。二、三人いる。傍には負傷したロンドンがぐったりと、力なく横たわっている。「大丈夫か?」俺はロンドンに言った。腰を曲げてロンドンの具合をみてやると、それ程の大事ではないことが分かりホッとした。それでも、無関係の動物を巻き込んだという事実が俺の心を重くした。

 「とにかくここから出よう」俺は静かな声で言った。「あいつらには気づかれるなよ」

 ロンドンは目で答えた。

 賢い犬だ。

 俺は〝ナイフ〟を何とか引き出すと、それで手を縛っている縄を切った。ロンドンは残酷にも南京錠で、近くの排水管と首輪で固定されていた。が、それも中指の〝ピッキング〟を引き出して、外してやった。自由になったロンドンが俺に飛びかかってきたが、それは嬉しさからだった。

 しかし、便利だ。まさかこんなに役立つとは。その上、この右手で三発も銃弾を撃つことができる。

 心の奥底では、諦念に似た感情が波うっていた。その声は俺に向かって叫んだ。お前はここで終わりだ。とっとと裁きを受けるべきだ! ひょっとして。と俺は思う。森本晋作を救うことで、俺にも少しは再生の糸口が残されているんじゃないだろうか。五人だ。五人の人間をすでに俺は殺している。彼らとつながりのある人間がいつ、ひょいと現れて、俺に復習しに来るかわからないが、そうなったら俺は進んで彼らに殺されるだろう。だが、その前に彼を救いたいと今では思っている。ひどい自己撞着だ。俺が殺すはずだった相手を、今は助けようとしている。弁護の使用もない。

 俺の疑念を感じ取ったのだろう。ロンドンが大きく吠えた。学生が扉の向こうでこちらに気を向けるが、歩いて来る者はいない。俺はドアを開けると、彼らに向かって言った。「君たちは学生か? それとも俺に個人的に恨みのある人間か?」

 「は?」

 学生たちはどうやら、俺の言った言葉の意味をよく呑み込めなかったらしい。俺は同じことをもう一度言った。一字一句、語順を違えず、前と同じトーンで。この頭の悪そうなガキ共がどのような教育を受けているのかおれは気になった。こいつらは何を考えているのだろう? いかつい、若者らしい服装に身を包んではいるが、よく見れば古着だった。靴は履き古された五年物のスニーカー。学生たちが金銭的に苦しい事情にあることは嘘ではないようだ。三人のなかに、眼鏡をかけた苦学生タイプが混じっていた。俺は彼に話した。「君たちは学生か?」

 「動かないでくださいよ。あなたの身柄は我々〈無学同盟〉が、今は預かっているんですからね。示威行動が終わるまで、あなたにはここに居て貰います」

 「俺には君の言ってることの意味が分からないな。俺の頭が悪いのか、それとも、君がピントの外れた受け答えをしてるかのどっちかだ。君は頭が良さそうだし、おそらく前者なんだろう。先の質問に答えてくれないか?」

 眼鏡をかけた学生は戸惑っているようだった。じっさい頭はいいのだろうと思ったが、続いての返答で、彼は自分がそれほどの者ではなく、見掛け倒しであることを証した。「〈無学同盟〉というのは」

 「知ってるよ。俺だって新聞くらい読む。政治活動を行っている学生の連盟だろ」

 その時、さっきまでいた部屋の奥で、ロンドンが何かを見つけて吠えだした。直感が最悪のものを告げていた。同時に、俺は少し前に生まれた自分が再生する希望に、まだしがみ付きたい気持ちだった。それはろうそくの炎のようにか細く、最後の突風がそれを吹き消した。そこには首を絞められた男の遺体があった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ