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Free Them, Please  作者: alIsa
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第四話

 何かが聞こえた。耳を澄ます間もなく、僕のジャージの足首あたりが引っ張られて現実へと、京都市の端にある老婆みたいなアパートへと、意識は連れ戻される。

「おい、何ボーッとしてんだ?俺のお便りが読まれてるって言ってんだろ」

 ナラヤは僕の方を見ながら小さいがはっきりした声でそう言った。やり場を失っていた僕の耳は、彼に言われるまでもなく、すでにラジオの音を拾っている。


 “「――マリイさん、おはようございます」おはようございます。「夜勤中か起きてすぐに、いつも楽しく聴かせていただいております」ありがとうございます。無理はしないでくださいね、お体に気をつけて。「マリイさんの声は、夜勤中だと元気をもらえますし、寝起きだと目がすっきり覚めますので、とても助かっています」あはは、こちらこそお役に立てているみたいでよかったです。「今回リクエストしたい曲は、パーキング・タートルズの『Free Them, Please』です。この曲は、野太くて力強いヴォーカルとボブ・ディランの『Knockin' On Heaven's Door』のような静かでシンプルな演奏で、この曲を初めて聴いた時、夜明け前の薄闇がヴォーカルを優しく包み、それがピアノの音に乗ってきて、耳の前で静かに弾ける錯覚に陥りました。英語はさっぱりなので歌詞の意味は分かりませんでしたが、今では毎日聴きたくなるほど大好きな曲です。是非聴いてみてください」・・・ということで、リクエストありがとうございます。パーキング・タートルズ、私は知りませんでした。今日初めて聴くのでとても楽しみです。それでは、パーキング・タートルズで「Free Them, Please」です”


 ラジオから聞き覚えはあるが、どことなく自分が知っている曲とは決定的に異なるメロディーが聞こえてきた。ナラヤは「Knockin' On Heaven's Door」みたいだと表現していたが、ピアノで伴奏をしているためか、僕にはビートルズの「Let It Be」のように聞こえる。


 みんな崇めるナイスガイ 噂のあいつはどこにいる?

 いつもみたいにお眠りか?

 ひび一つないクロワッサン あんたの立派な五本指

 ケツをかくためにあるのかい?

 助けてやれよ みんなあんたを信じてる


 誰もが惚れるクールガイ 噂のあいつはどこにいる?

 いつもみたいにお食事か?

 甘い匂いの赤ワイン あんたの優れた言葉たち

 物乞いのためにあるのかい?

 救ってやれよ みんなあんたを頼ってる


 俺から見ればフールガイ 噂のあいつはそこにいる

 いつもみたいに知らんぷり

 濁り知らずの琥珀糖 あんたのきれいな二つの目

 何に使うか知ってるぜ カワイ子ちゃんの尻追いさ

 助けてくれよ 救ってくれよ みんなあんたを待っていた


 みんなあんたを信じてた みんなあんたを頼ってた

 みんなあんたを待ってたんだ

 俺の家族も好きな子も みんなあんたに祈ってた

 助けてみろよ(できるものならね)

 救ってみせろよ(やれるものならね)

 あんたはイカした木偶の坊 あんたにゃ二度と祈らない

 一生鼻くそほじってな


 柔らかいピアノの調べはあけぐれに包まれた温かい声を生き生きと乗せて、タバコの煙のように空へ上っていく。しかし、ラジオから流れるメロディーは少しずつ小さくなり、とうとう聞こえなくなった。そしてすでに奏でられた音楽は、子供がうっかり手放した風船のごとく、徐々に遠ざかってついには雲の先へと見えなくなった。


 まだ現実感が欠如しているのか、僕は空を見ながら呆けていた。いつの間にかラジオから音楽も女性の声もしなくなっている。僕はビクリと体を震わせ、ナラヤの方を振り向いた。彼は電源を切ったラジオを左手に持ち、右肘を膝に乗せて頬杖をついている。

「良かったじゃないか、憧れのマリイアンナにお便りを読んでもらえてさ」

「・・・ん?ああ、そうだな」ナラヤは気のない返事をして立ち上がった。

「どうしたんだ?心配しなくても文章に変なとこはなかったし、何なら僕なんかよりずっとしっかりした文章だったぞ」

「馬鹿言うな。いざ書くってなった時には何も思い浮かばなくて、結局お前ならどう書くんだろうって考えながら書いたんだぜ?」

 そういえば、ナラヤは以前、僕の言葉で書いても意味がないみたいなことを言ってたな。ふと昔のことがよぎった。なるほど嬉しくないわけだ。

「ごめん」僕は短く彼の背に言った。

 ナラヤは廊下の途中で止まって振り返った。

「なんでお前が謝るんだ?」彼は本当に不思議そうな顔をしている。

「だって、君の言葉で書かなきゃ意味ないんだろ?」

「・・・あぁ、そういえば前にそんなこと言ったな、アホくさ」彼はこちらに近づき、階段の手すりに寄りかかった。「確かにお前の猿まねだけど、やっぱり実際に読まれるのは嬉しいもんだよ。達成感ってやつ?」

「それならどうして、そんなに不満そうなんだよ」僕はまだ不安だった。

「んー、不満ねぇ・・・。まぁそうだな、不満というか、なんつーか。うぅん・・・」

 うなって考えているナラヤを横目で見ると、そこにはいつもと変わらない彼がいた。彼という人間は初めて会った時から何も変わっていないような気がする。それを成長がないと言う人もいるだろうが、芯がブレないとも、少なくとも僕は、言えると思う。

「物足りない?」と僕は彼の捜し物を手伝った。

「おっ、それ近いな!そう、物足りないんだよ。なんかあっさりというか、あっけないというか・・・」彼は目をつむったまま眉間にしわを寄せて言葉をたぐり寄せた。「こう・・・、俺はすげえ時間かけて、めっちゃ頭使って、やっと書き上げたっていうのに、それをあんな風に、コンビニの接客みたいに捌かれるなんてな」

「まぁ、ラジオ番組だしね。一つのお便りにたくさん時間を使うわけにはいかないよ」

「分かってるさ。でも一分足らずで読み終わってたぜ、俺のお便り。スナック菓子じゃねえんだから、あんなにサクサクいかなくてもいいだろ?」

 ナラヤがため息をついてラジオの電源を入れると、堰を切ったようにマリイアンナの声がラジオから押し寄せてくる。最近ところてんにはまっていて毎日食べている、とかどうでもいいことを一人で話していた。もしあんたの話なんて誰も聞いていないと言われたら、彼女はどう思うのだろう。その背後ではJポップやクラシックや芸能人の笑い声などが雑音混じりに流れている。混信だろうか?マリイアンナは自身の背後で繰り広げられている、沈没寸前の船内のような大騒ぎを気にもとめず、またお便りを読み出した。ナラヤにアンテナを伸ばして使うようアドバイスするか迷ったが、きっと彼なりのこだわりがあるのだろうと考え直して止めておいた。


 朝五時の時報がラジオから聞こえてきた。ナラヤは相変わらず納得いかなそうな顔をして物思いに耽っていたようだが、その時報を聞き届けるとラジオの電源を切った。僕らはまた静寂に包まれている。堪らず僕は口を開いた。

「なぁ、飲みに行かないか?」

「あ?今からか?」

「うん」

「まだ朝の五時だぜ?どこも開いてねえよ」

「それならコンビニでありったけの酒を買おう」

「いいけどよ、お前、酒あんま好きじゃねえだろ?」

「まあね。でも今日ぐらい良いじゃないか。君のお便りもようやく読まれたわけだしさ」

「・・・まあ、いいか。俺も今日は休みだしな」

 彼の答えを聞くや否や、僕は急いで部屋に戻って財布を持ち出した。ナラヤは驚いた顔をして僕を見ている。

「ほら、さっさと行こう」

 僕は彼の背中を押しながらそうたたみかけた。カカンカカン、と薄い通路で二人分の足音が輪唱のように重なる。ナラヤは戸惑っていたが、階段の前まで来ると一人で降りていった。


 僕が階段を降りた時には、ナラヤはもう路地にさしかかっていた。彼の下半身は路地を挟む一軒家が伸ばした影に飲まれて見えないが、青みがかったTシャツはとても目立つ。僕はその場で立ち止まって振り返り、アパートの屋根の向こうを見上げた。黒々とした比叡山の山際が微かに屋根からはみ出ている。太陽はまだ現れない。それでも十分にあたりは明るかったが、ふと視線を落とすと、僕の足下だけは不思議とあの一年半前の冬に部屋で僕を押し潰さんとした濃密な闇のように真っ黒に見えた。目眩がするほど暗くて何も見えず、影にしては黒すぎる。蒸し暑い息がそこから吹いてきた気がした。

 僕は目をつむって大きく深呼吸をした。毎日吸っては吐いてきた京都の空気の味だ、昨日と変わりない。目を開いて足下を見ると先ほどまでの常闇は既に消え失せていた。スズメやカラスの鳴き声も、木々のざわめきも、セミの空騒ぎも、いつしか止んでいる。振り返ると、ナラヤの姿はもう見えず足音も聞こえない。痛みも熱も確かにまだ僕の中に存在していた。僕は弾かれたように走り出し、彼を追いかけていった。


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