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Free Them, Please  作者: alIsa
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第三話

 それから一年と半年ほど経ってまた夏がやってくる。まだ八月には二ヶ月ほどあるというのに、あのむせ返るほど濃くて強烈なにおいが既にそこら中に漂っていた。夏の気配だ。茶菓子も用意してないのに何だって毎年こんなに早く来て長々と居座るんだ?とナラヤがこの前銭湯の帰りに愚痴っていた。僕もそうだと思う。まるで元旦でも盆でもない日にやってくる歓迎されていない親戚みたいだ。

 一年半も経ったのだから、それはもういろんなことがあったし、変化したこともあった。二人とも転職したこと、ナラヤが料理を覚えたこと、僕が軽度の肺炎を患ったこと、などなどだ。変わっていないことだってもちろんある。僕は今でも優柔不断だし、ナラヤの火嫌いは相変わらずだ(あるいは前よりもひどくなったかもしれない)。そして、僕とナラヤの同居は続いている。とはいってもせいぜいあと一年ぐらいだろうが、互いにそれを言及することはない。意識してその話題を避けているというわけではなく、話し合うほど特別なことではないというだけだ。たとえ別に住むことになったとしても、僕にとっては寝床が二つに増えた程度のことだし、きっとナラヤにとってもそのはずだろう。

 ちなみに、ナラヤはまだあのラジオ番組に熱を上げている。お便りを送ったのはあれっきりらしいが。


 七月になって梅雨も明けたある日、コソコソと部屋を歩き回る音で目が覚めた。眠気はあったが、蒸し暑さと汗臭さに耐えられずにのっそり体を起こした。

「悪い、起こしちまったか?」ナラヤが動きを止めて言った。

「いや、暑さで半分起きてたようなもんだし、気にしないでくれ」

 僕は瞼をこすりながら時計と窓を交互に見た。まだ四時なのに、ずいぶん明るいもんだな。

「昨日までは中でも電波を拾ってたんだがよ。今日はどうも機嫌が悪いみたいだな」

 彼は腕を回したり上下左右に振ったり、縦横無尽に動きながら電波を探っている。それがラジオを見たことのない原始人みたいな動作でおかしかった。

「これだけ暑けりゃラジオも不機嫌になるさ。外に出よう」僕は立ち上がりながら言った。

「おい、いいのか?せっかくの休みなのに」

「構わないよ。こんな暑い部屋で寝る方が健康に悪いだろうし」

 忙しない足音が短く響き、軽いドアが開いた。外の薄い光が僕らの間をかいくぐって誰もいない部屋へなだれ込んでいく。僕は思わず目を細め、ふと振り返った。部屋の中は外の光と同じくらい薄い光で満たされていて、どれが外から入ってきた光でどれが部屋に元から漂っていた光なのか、もはや分からない。僕は特に何も考えず、部屋の換気のためにドアを強く押して開けっぱなしにし、ナラヤの背に近づいていった。


 「今何分だ?」深い紺色に染まった白いTシャツの背中が問いかけてきた。

「さっき見た時は確か三分だったから、五分くらいじゃないかな」

「それじゃ、滑り込みセーフってとこだな」

 ナラヤがそう言うが早いか、太陽光を浴びた森林が緑色の光だけを吐き出すように、ラジオの雑音が止んでそこから透き通った声だけが聞こえてきた。ちょうど一通目のお便りを読み上げているところだ。こんな朝早くから、こんなしょうもない文章を、こんな風に読まなきゃならないなんて、ラジオも大した仕事だな、と思っていると、「違えなぁ・・・」とため息交じりの声が聞こえてきた。ナラヤからだ。僕から彼の表情は見えなかったが、その声に含まれる気落ちはありありと伝わってくる。まさかな、と僕は思いつつリクエスト曲が流れると同時に口を開いた。

「ねぇ、君もしかして、またラブレターを送ったのか?」

「ラブレターじゃなくてお便りな」

 ナラヤは僕の方に振り向いた。左足を階段の上から二段目に、右足を四段目に、尻を三段目に乗せている。

「マリアンナに?」僕の声は震えていた。

「マリイ・アンナな!何度も掘り返しやがって・・・」彼は怒鳴り、舌打ちをした。

「悪かったよ。漢字とか助詞とかに間違いがないか、ちゃんと見直した?」

「おう、もちろん。おかげさまで前よりもずっといい文章だぜ」

「そうかい」

 僕はそう生返事をした後、ゆっくりと彼に背を向けて手すりに肘をついた。


 それからしばらく、僕らの間に静寂が流れた。聞こえるのはのんきなJポップとボロな階段の軋む音だけだったが、いつの間にかセミの声も加わっている。遠くから、きっと比叡山からだろう。

 僕の頭には一つの質問が浮かんでいた。そしてそれが喉元まで迫っている。あの日からずっと手つかずにされていた質問、ナラヤは一体誰のどんな曲をリクエストしたのかということ。つまらない、無意味な、世間話並の質問だ。今でもそう思っている。彼の罪を咎めるとか共犯を頼み込むとかいったような悪いことをするわけではないのだから。しかし、何度も尋ねる機会を逸してその度に体の奥へと押し込んできたせいか、“平家物語”の冒頭のようにスラスラと言える、ということは今更ありえなかった。むしろ逆だ。単に「君は何をリクエストしたんだ?」と聞くだけにもかかわらず、吐き気を抑えるかのように、口から飛び出しそうになる言葉を反射的に飲み込んでしまっていた。

 曲が終わり、あのパーソナリティの声が聞こえると同時に、僕は「ねぇ」と言った。もう遅いということは分かっていた。本当に小さい人間だな、と自己嫌悪が体を熱くする。当然ながらナラヤは立てた人差し指を唇に当て、元の姿勢に戻った。背中は先ほどよりも薄い青色になっている。

 僕の中では熱い沈黙が捕獲された野生の猿さながら激しく暴れていた。ナラヤは以前と同じようにお便りが読まれるたびに「お!」とか「違うかぁ・・・」とか言って、振り子のように感情を行き来させている。それにしても暑い。内側では獰猛な沈黙が荒れ狂って自意識や良心を壊しにかかっているが、外側では頑愚な蒸し暑さが頭蓋骨とそれに覆われた脳と理性とを徐々に溶かしている。


 どれくらい時間が経ったか、もう僕には内も外も分からない。世界は沈黙に支配され、その中で僕だけが狂ったように暴れ続けているのか、あるいはその逆か、分からない。ただ一つだけ分かることは、全てが終わったとき、僕がこの痛みと熱を感じなくなったとき、僕の良心だの理性だのが破壊され尽くしたとき、そこにいるのはこれまでの僕とは違う何かだということ。見るもおぞましい何か。それが僕の名を騙って生存していくなんて考えるだけで今すぐにでも人目につかない、とりわけナラヤに見つかることのない、どこかへ逃げ出したくなってしまうような存在、生ける屍的実存。諦念に近い感情が次第に芽生えていく心か脳か、あるいはその両方で、そんなことを考えた。


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