第二話
しばらくすると、ラジオから知らない音楽が流れてきた。それと同時にナラヤが大きくため息をつき、階段が軋む音がする。僕はタバコを指で弾いて体ごと彼に振り向いた。背を預けられた手すりがグラグラと少し傾く。
「曲ぐらい我慢しなよ。せいぜい三、四分くらいだろ?」僕は努めて何気なく言った。
「ん?そうじゃねえよ。いや、それもあるけどさ」ナラヤは落ち着きなく足を何度も組み直しながら目だけ動かして僕を見た。
「それなら他になにがあるんだ?」僕は笑いながら言った。いつになくモジモジとしている彼がおかしかったのだ。「ラブレターでも送ったのかい?」
半ば、というか完全に冗談たったのだが、彼は恥ずかしそうに目をそらしている。
「まあ・・・、そんなとこか?」ナラヤはまるで彼自身に問いかけているようだった。
「・・・マジで?何だってそんな気でも違ったようなことをしたんだ?」僕も問いかけた。
「いや、でもラブレターつってもあれだぞ。お便り?ってやつを送っただけだからな。愛の告白とかしてねえよ」
なるほど、と僕は合点がいった。
「通りで最近あの番組にお熱だったわけだ。君のお便りが読まれるかもしれないから」
「ああ。だからって叩き起こしちまって悪かったとは思ってる」と彼は改めて僕の方を見ながら言った。
「構わないさ。それで?今のところ君の恋文は?」
「まだ読まれてないな」
「いつ出したんだ?」
「一週間前にポストに出した」
そういえば一日に何度もはがきの買い方を聞いてきたことがあったな、と思い出した。
「一週間前か、さすがに局に届いてるだろうな。となると、不採用ってことじゃないか?」
「マジ?」ナラヤの声は落胆というよりも驚愕に近かった。おそらく、送ったものを読んでもらえないとは思ってもみなかったのだろう。
「多分ね。そうじゃないなら宛先とか郵便番号を間違えたとか?」
「それはないな。何度も確認した」
「それじゃあ、あのパーソナリティの名前を書き損じたのかな?イメージは悪くなるだろうし」
「それもないな。ちゃんと“マリアンナさんへ”って書いたぞ」
「マリアンナ?」僕は思わず聞き返した。
「ああ。番組内でそう言ってたぜ」
僕の脳内ではどうしても、あの夜な夜な皿でも数えていそうな声とマリアンナとかいうハイカラな名前が全く一致しなかった。“勤勉・誠実・懇篤・純真”と“大学生”くらいかけ離れた、空集合めいた概念同士に感ぜられたのだ。
「・・・じゃあ、単に君の文章とか文字が下手くそだっただけだろ」
「何だよ急に。キレてんのか?」とナラヤは目を丸くしながら言った。
「いや、違うんだ。ごめん」何やってるんだ、僕は。「ところで、お便りってことは曲のリクエストはしたのかい?」うわずった変な声が出た。自分の声じゃないみたいだ。白々しすぎて顔が熱くなるのが自分でも分かった。
「ん?まあな」
「何をリクエストしたんだ?」
「そりゃあ――」
彼がそう言いかけていると、ラジオから聞こえる歌がフェードアウトし、あの女性の声が皿屋敷から帰ってきた。
「悪い。後でな」とナラヤは元の姿勢に戻り、再びあの―、真剣な顔つきでラジオを見つめ始めた。
それから僕はまた彼に背を向けて錆びた手すりにもたれながら、ひたすらタバコを吸って煙を吐き、雲を作り続けていた。ナラヤが「おっ、来たか!?」とか「あぁ・・・、クソ」とか、ラジオ相手に一人でいちいち大げさな反応をとるのが面白くて、度々ニヤついたり吹き出したりしてしまう。四本目のタバコを吸い終わる頃には空気も藍ばみ始め、空には灰色の雲がぼんやりと浮かび上がってきていた。
例のラジオ番組は遅滞なく朝五時に終わり、結局ナラヤのお便りが読まれることはなかった。最後のリクエスト曲はいかにもポピュラーソング然としていて、夢だとか希望だとか、そんなことを歌いあげていたので、さすがに僕はナラヤに同情した。それと同時に、彼のあまりのへこみようと流れる曲のお気楽さのミスマッチがコミカルに感じたのも事実だ。哀れむ気持ちと滑稽に思う気持ちが同居する奇妙な同情とでも言おうか。それとは別に、気分が沈んでいる友人に何かしら慰めの言葉をかけてやりたいという気持ちも確かにあった。
「ラジオのお便りなんてこんなもんだよ。それに、次があるさ。諦めずに送り続けていればね」
「・・・」
「そうだ、文章は代わりに書いてやろうか?そうすればいくらか確率は上がると思うけど」
「・・・それじゃ意味ねえだろ?俺の言葉と文字で書いたものじゃないと、本当の気持ちは伝わらねえよ。それに、お前の文章が読まれたところで俺はちっとも嬉しくないぜ」
本当の気持ちがどうとかはよく分からないが、僕の代筆したものが採用されたところでナラヤは嬉しくもなんともないということはその通りだろう。そういうことならば、僕に言えることもやれることもないので、黙って新しいタバコに火をつけた。
「俺にもタバコ、くれよ」
肺の空気を入れ替えるついでに、といった調子で独り言のように呟いたので、僕は少し迷ったが、小さく開いている彼の口にタバコを挟んで火をつけてやった。少し待っていると、口の隙間から煙が漏れ出てくるのが見える。早起きのスズメやカラスたちの鳴き声が遠くから聞こえる。そそっかしさを感じるが、どこか溌剌とした声だ。今日もいい一日になると信じて疑わないような、あるいはそんなことは当たり前過ぎて考えてもいないような、楽しげな声だった。
それから、ナラヤはタバコを二本、僕は一本、それぞれ吸って部屋に戻った。僕らは朝食をとった後七時に家を出て、大阪市内で電車を降りてからお互いの仕事現場へと別れた。ナラヤはいつもより静かすぎて不安になるくらいだったが、夕方に帰った時はいつもの彼に戻っていた。シャワーの出が悪いとか、タバコがまた値上がりするとか、金持ちになりたいとか言っていて、乱暴な口調で粗野に振る舞ういつも通りのナラヤだった。
彼が例のラジオ番組にどんな曲のリクエストをしたのか、尋ねる機会はついに訪れなかった。聞こうと思えばいつでも聞けたのだが、いつもの調子を取り戻した彼に、あの日話したことを掘り返して尋ねるのは少し気が引けたのだ。それとは別に、大して興味もなかったということもある。いずれにせよ、彼が何をリクエストしたのかという謎は、机の引き出しで放置された貰い物の栞のように、手つかずにされてほこりをかぶったままだった。