第一話
部屋の中を忙しなく歩き回る音で目が覚めた。冬ということもあり、カーテンの向こうはまだ暗い。窓についた結露に攪乱された街灯の明かりが瞼の隙間に滑り込んでくる。僕は砂嵐に飲み込まれたかのように、目を固くつむった。そう、砂嵐だ。さっきからテレビの砂嵐みたいな音が聞こえてくるぞ。漠然とそう思ったが、眠気に耐えきれずに思考は遠ざかっていく。
「畜生、このオンボロめ・・・。おいサトウ、ラジオの調子が悪いぜ!」
僕はその声に取り合わず、顔を最小限に動かして枕元にあるデジタル時計を見た。朝の四時数分前。例の時間か、と思いながら毛布をかぶりなおした。一二月の京都はひどく床冷えし、敷き布団一枚で畳の上に寝るのは、よほどの物好きか愚か者ぐらいのものだろう。あるいは、我々のような貧乏人か。
一枚の毛布を頭までかぶったぐらいでこの冬から容易に逃れられるわけがなく、上からも下からも、寒さがじわじわと体の芯へと侵食する。僕は湯煎して溶かされるチョコレートの感覚が間接的になんとなく分かったような気がした。アナログテレビの砂嵐のような音は、なおも毛布の外から少し曇って聞こえてくるが、眠気とたとえ頭だけでもわざわざ布団から出すことの億劫さの前にはほんの細事だった。
「なあ、おい。起きてるんだろ?どうすりゃいいんだよ。もう四時になっちまう」
先の声がそう言いながら毛布越しに僕の体を揺さぶった。おそらく、足の裏で。
この幾分乱暴な口調で大分粗野な振る舞いをとるのは、ナラヤという21歳の、僕と同い年の若者だ。いろいろあって今年の夏頃に彼は僕の元に転がり込んできたのだが、これまたいろいろあってそのままルームシェアをしている。
「お前のラジオだろ?お前が何とかしろよ」
ナラヤは足の裏に力を込めて僕の体を思い切り押した。入眠のために脱力していた体はあっさりと転がり、アスファルトとさほど変わらないほど冷たくて硬い畳へ野良犬のように放り出される。畳の上で仰向けになった僕に、彼は携帯ラジオを突きつけた。ザーッ、という砂嵐はそれから発せられているようだ。
「ほら、お前のラジオ、どれだけいじってもトンチンカンなんだ。どうにかしてくれよ」
毫も罪悪感を抱いていなさそうな彼の表情に僕は腹が立ってきて、毛布をたぐり寄せながらようやく口を開いた。
「いろいろ言いたいことはあるけどさ・・・、まず第一に、そのラジオは確かに僕のだよ。でも最近は君がずっと使ってるんだから、故障してもそれは君の責任だ。次に、朝四時に寝ている人間を起こして、あまつさえ足蹴にするなんてあんまりだ、どうかしてるよ。そして、僕も君も今日は八時から仕事なんだからちょっとでも多く寝て体力を回復しておかないか?あんなチャラチャラした音楽を流すだけのくだらないラジオなんか聴いてないでさ」
僕は寝起きのせいで感情の制御が鈍って余計なことを言ってしまったということに言葉が口をついて出て行った後で気づいた。ナラヤの顔はみるみる険しくなり、暗闇の中でその瞳に街灯の光とは異なる不穏な光がよぎる。
「お前、今なんつった?くだらない?」
彼はとあるラジオ番組を気に入っていて、特にその番組のパーソナリティの女性に首ったけなのだ。そのため、その番組や彼女のことを少しでも馬鹿にすることは、すなわち彼の癇に障ることを意味する。声しか聞いたことないくせに、大したもんだ。以前だって、そのパーソナリティの声が亡霊みたいで気味が悪いから塩でも撒いておこう、と言ったら、彼はヘソを曲げて朝食をとらなかった。そして昼過ぎに倒れた。
僕はナラヤの怒りが暴力かあまのじゃくとして爆発する前に話題を逸らすことにした。
「あー・・・、それより、あれじゃない?屋内だと電波の入りが悪いんだよ。外ならきっとマシになると思う。ほら、急がないと番組が始まっちゃうけど、いいのか?」
「そうだった、もう五分じゃねぇか!本当に外に出るだけでいいんだな?よく分からんが分かった」
そう言うナラヤはもう普段の様子に戻っていた。不自然だったかもしれないと顔の筋肉が微かにこわばったが、杞憂だったようだ。忙しそうに玄関へ向かう彼の背を見送りながら僕はそんなことを考えた。
薄いドアが開き、外から淡い闇が忍び込んでくる。それは部屋にひしめいていた濃い闇を満員電車の乗客のように押しつぶし、ナラヤがドアノブを手放すと同時に最大になった。布団の足下まで暗い光に照らされている。僕の体は濃い闇を更に濃縮したものに包まれ、圧迫感に呼吸が浅くなった。支えを失ったドアは自重に任せて少しずつ閉まっていく。淡い闇を外へ押し込みながら。ガチャン、という乾いた音とともに再び部屋に濃い闇が、弾んで伸びて、元の通り部屋に漂った。心臓が激しく拍動し、一瞬気が遠くなる。鼓動が正常に戻ると、後には静寂だけが残っている。その静寂を意識すると同時に、それは耳鳴りへと変わった。僕が深呼吸をして布団に戻り、毛布をかぶろうとしたところ、不意に慌てたようにドアが開き、空気が玄関へ流れていくのを首の裏に感じた。
「サトウ、お前も来るんだよ!」ナラヤが顔だけ内に突っ込みながら言った。
外は想像していたよりも明るかった。アパートに備え付けの蛍光灯は使い物になっていないため、どこか近くの街灯の光が長夜の闇に薄く混ざっているのだろう。
ナラヤは錆びて赤茶けた階段の上から三段目に座っていた。僕が段板を踏むたびに階段はベキベキと頼りなくうめいたが、僕はそれを無視して彼の横に立った。ナラヤは僕にまるで注意を払わずに両手で子犬ほどの大きさのラジオを包んでいる。ラジオを手で温めているのか、ラジオで手を温めているのか、どうでもいいことが頭をよぎった。
「それで?四寸の妖精様から神託は授かれそうですか?ナラヤさん」僕は演技臭く言った。
ナラヤは黙ってラジオのボリュームを上げた。亡霊のような、もとい夜中の雪のように今にも消えてしまいそうな透き通った声が小さな箱から聞こえる。語るまでもない、ということだろう。それにしても雑音がひどい。ナラヤはしっかりとチューニングをしてないのだろうか?ノイズに女性の声なんて、まるで呪いのビデオじゃないか。
「はぁ、ていうかさ、どうして僕もいなきゃならないんだ?堪らなく寒いよ」僕は右手人差し指の霜焼けをさすりながら言った。指の第二関節あたりがこわばり、蜂に刺されたみたいに赤く膨らんでいる。動かすたびにジクジクと痛んだ。足指の霜焼けはどうしようもない。
「俺のポッケに入ってるタバコ吸っていいからよ、ちょっと黙ってろ」
ナラヤはそう言って体を僕の方へずらした。ギッ、ギッ、と階段が鳴り、ジャージのポケットからタバコの箱が顔を覗かせる。
「子供じゃあるまいし、そんな、アメちゃんやるから静かにしてろみたいな・・・」
彼が何も言わないので、僕はため息をつき、痛む指を動かして箱を抜き取った。タバコを一本取り出し、咥える。フィルターのつるつるとした感触が不愉快だった。ライターの安っぽい炎が僕の顔と手元を照らす。鼻頭の先に橙と群青の色が光っている。目がチカチカした。親指をライターから離すとすかさず夜闇が群がってくる。その中でも炎の残像が残っていて鬱陶しかった。
僕はタバコがあまり好きではない。残像も黒に塗りつぶされた頃、僕がタバコを口から離そうとすると、タバコは唇に張り付いて乾いた皮を剥ぎ取っていった。口の中は鉛筆の芯のような味で満たされていて血の味はしなかった。
空に向かって息を吐くと、勾玉の形をした煙が魂のようにもくもくと上っていく。暗い中に曇天のような灰色の煙は目立って見えている。元よりその行き先に興味のなかった僕は、ナラヤの方を振り返った。相変わらず真剣な顔でポケットラジオを凝視している。その表情が昔の知り合いの一人と重なって、僕は思わず鼻から嘲笑を漏らした。
僕がまだ大学にいた時分、冬になると毎日駅前のカフェに入り浸って通りがかる女子高生を凝視する男性がいた。同じ大学の学生で確か二つ上だったはず。彼はスマホを片手に風が吹くのを今かと待ちわびていた。盗撮をしていたのだ。くだらない。彼は次の冬を迎えることなくご用となった。そんな彼がチャンスを待っていた時の表情と、今のナラヤの表情が重なって見えた。
「今の君、好機を待つ盗撮犯みたいな顔してるぜ。鏡持ってきてやろうか?」僕は茶化すような調子で言った。
「・・・そうかい。ぶっ飛ばすぞ」
それだけだった。僕は彼の気のない返事に拍子抜けして再び彼に背を向け、階段の手すりに肘を乗せながら空へ向かってひたすら煙を吐いていた。
亡霊が囁く。
“私も大変だった時、友達にたくさん支えてもらいましたから。そういう人間関係は大事にしていきたいですよね。それでは、次のお便りです――”
余計なお世話だ。