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◇
「リンドルムぼっちゃま。お帰りなさいませ」
「その呼び方はよせ。俺が当主になって何年経つと思ってる」
「申し訳ございません。つい癖でしてな。おや、お客様でございますか。珍しい。私は執事のジェイムズと申します。何なりとお申し付けください」
ジェイムズさんだー! 懐かしい顔に感激して言葉に詰まる。
「レディ?」
「あ、すまない。リッドウェル伯爵家のセリーナだ。リンドルムと友人なんだ。これからよろしくな」
令嬢らしくない挨拶だからか、リンドルムの友人という称号になのか目を丸くして、やがて穏やかな笑みを皺だらけの顔に浮かべた。
「これはこれは。なんとまあ。これほど嬉しいことはありませんなぁ。すぐに何かつまめるものとお口に合いそうなお酒をご用意いたします」
「ジェイムズさんのチョイスなら安心して任せられるな。よし、お前の部屋に行くぞ」
記憶の中にあるリンドルムの部屋を目指して階段を登ろうとすると腕を掴んで焦って引き止められる。
「待て待て! 俺の部屋に入るつもりか!」
「一緒に飲むならそうだろ?」
「応接室だ。ジェイムズ、わかったな?」
「はい、リンドルムぼっちゃま」
恭しく一礼して行ったジェイムズを苦々しい顔で見送るその横顔を見て、喉を鳴らして笑った。
「お前の部屋で飲みたいんだけどな」
「レディ。君は夜に男の部屋に入って酒を飲む意味がわかっているのか?」
「うん?」
「いや、俺にその気はない。全く。これっぽっちも。髪の毛先ほどもない。誓ってもいい。だが世間一般的に! その……襲われてもおかしくないという事だぞ!」
なぜか必死な表情で弁解するのを見て笑いを堪えきれなくなった。
「あっはははは! 心配するな。大丈夫だ。襲ったりしないって!」
「君が、じゃない! 俺が襲う心配をしろと言っている!」
思ってもみなかった発言に笑いも止まって、まじまじと見上げる。
「なんだ、襲うのか?」
「するわけないだろう! 俺は紳士だぞ! 何よりレディのようなお子様に手を出すわけがないだろう!」
「だろ? ならお前の部屋でいいじゃないか。ほら、行くぞー」
リンドルムを置いて階段を上がっていく。
迷う事なく足は進んでいき、リンドルムの部屋の扉を開ける。
懐かしい匂いがした。
胸いっぱいに吸い込んで、リンドルムを振り返る。
「この匂い好きだ!」
「嗅ぐな。いちいち口にしないでくれ……」
少し恥ずかしそうな顔をして顔を隠してしまう。
「ははっ、照ーれるなよ」
にやにやしながら顔を覗き込むと、ガシッと顔を掴まれて無理矢理横を向けさせられた。
「あはは! あーはいはい。もう見ないから離せって」
そう言ってカーディルの定位置の1人掛けのソファに腰掛ける。
「そこは……いや、なんでもない」
何かを言いかけてそのまま口篭ると、複雑そうな顔で口元を押さえた。
それ程時間も経たずにノックの音がしてジェイムズが部屋に入ってきた。
「ぼっちゃま方。お待たせしました」
「ジェイムズ……お前早くないか? 真っ直ぐこっちに来たのか?」
ジェイムズはにこにこしながら、ボトルとグラス。チーズにクラッカー。そして私の好物の公爵家特製フィナンシェをテーブルに並べていく。
「そうですなぁ。ぼっちゃまのことなのでセリーナ様に押し負けるだろうと思いまして。予想通りでようございました」
「何もよくない!」
「ほっほ。ごゆるりとお過ごしください」
「ありがとう、ジェイムズさん。私フィナンシェ大好きなんだ! すごく嬉しいよ!」
「ええ、ええ。セリーナ様はお好きかと思いました。今度いらした時はもっとたくさんご用意いたしますね」
そう言ってまた優しい笑みを浮かべた。
「あぁ、本当にこのフィナンシェは美味しいな。何個でも食べられる」
「君は酒を飲みに来たんじゃないのか」
呆れたようにウィスキーを煽るリンドルムに口を尖らせた。
「酒も飲む! でも今はフィナンシェだ!」
「……好きにしてくれ」
もくもくと食べ進めると、元々そんなに数がなかったのですぐに最後の一個になってしまった。
「リンドルム……」
「いいから食べろ。私は酒だけで構わない」
「せめて半分こにしよう!」
「だからいらな、むごっ」
半分に割って片方をリンドルムの口に放り込む。
「うまいな。リンドルム!」
にこにことご機嫌な私をひと睨みしてフィナンシェを飲み込んだ後、リンドルムは眉間を押さえて黙り込んでしまった。
「リンドルム? 眠いのか?」
「呆れてるんだ! 君はどうしてそう自由なんだ!」
「やめろよ。そんな褒めるなよ」
「褒めてない! 今のどこが褒め言葉に聞こえた!?」
「え、自由ってとこ」
「そうか、本当にレディの耳は自分に都合の良いようにしか聞こえないようだな」
リンドルムはぐいっと片手でグラスを煽って空にする。
「お前ペース早くないか? そんなに強くないだろ。ペース落とした方がいいんじゃないか?」
「初めて一緒に飲むのに君に俺のペースがわかるわけないだろう」
煩わしそうに鼻を鳴らしてそっぽ向くと、グラスにまた酒を注いでいく。
「君も早く飲め」
「おう」
急かされて口にしたのは昔から好きな少し辛口のフルーティーな香りがする酒だった。
嚥下した後の少し焼けるような熱さが堪らない。
「あー……この酒、好きなやつ」
カーディルが、好きな酒。
カーディルが、好きなフィナンシェ。
カーディルが、好きな親友。
ああ、なんだ、今日も私だけが幸せじゃないか。
横目で見る親友は顔を顰めていて、酒が口に合わないのか他に気に入らない事があるのかも何も読み取れない。
「…………リンドルムは、楽しいか?」
セリーナは酔いが回りやすいのだろう。
ほんの何口か飲んだだけで頭がふわふわとしてきている。
「さあな」
「私は幸せだよ。やっぱり私の幸せにはお前が必要みたいだ」
こうして親友とまた酒を酌み交わす事ができるだけでこんなにも幸せだと思える。
「……俺に君は必要ない」
「ああ、お前にセリーナは必要ないだろうな」
当たり前だ、と笑顔で頷き返すと少し気まずそうに視線をグラスに移された。
「お前は、それでいいんだよ。ただ少しでもこの時間を楽しんでくれてたら、嬉しい」
そう言って、酒を一気に流し込み席を立つ。
少しよろけた私を慌ててリンドルムが支えてくれた。
腰に回った手の熱さを布越しに感じて、らしくもなく顔に熱が籠る。
ああ、これも酒のせいだ。
「大丈夫だ」と声をかけて窓に近づくと、そっとガラスに手を触れた。
「リンドルムの幸せ探しって難しいな。私と一緒なら簡単なのに」
顔だけリンドルムに向けて微笑むが、寂しさを隠しきれなくて少しだけ眉が下がってしまった。