06 王都へ向かう黒船
「では、行ってきます。ベータ、ちゃんと父さんと母さんを支えるんだぞ」
「うん、兄さまも頑張ってね!」
「うう……ニコちゃん、ちゃんと連休には帰ってくるのよ?」
「まさか本当に剣術で負ける日が来ようとは……俺も修行しなおすことにする。ニコ、帰ってきたら今度こそ父さんが勝つんだからな!」
「はい、父さんも母さんもお元気で。月に一度は便りを送ります」
サラサラと地を撫でる風が、仄かな花の香りを運んでくる。十五歳になった俺は胸に残る名残惜しさから、その風を胸いっぱいに吸い込んだ。
今日は俺が王都の学園に向かう日。これから三年間、愛するビエフ領には気軽に帰ってこれなくなる。
この地から王都までは、馬車で二日は掛かるそうだ。
俺は男だから気にならないが、これが女性だとなかなか辛い旅になるだろう。王都への往来に慣れている父さんならまだしも、ベータや母さんだと気軽に俺に会いに王都へ、なんてことは難しい。だから、俺は母さんの言葉をしっかりと胸に刻み込む。
「ニコライ様。そろそろ出発したく思いますぞ」
「ああ、そろそろ時間か。待たせて悪かった。ありがとう」
今日は途中の町の宿で一泊する予定なので、スケジュールがかなりタイトだ。二日の行程で他領を三度通り過ぎるのもあり、先方の貴族に伝えた到着予定時刻を違える訳にはいかない。
これはその地の市民が貴族である俺に粗相を働かないよう、先方が根回しをしてくれている事への礼儀でもある。
「兄さま、最後にナデナデして!」
「おわっ!? ……はいはい」
馬車に乗り込む途中、ベータが腰の辺りに強烈なタックルを仕掛けてきた。危ない、父さんとの剣術の稽古で鍛えていなければ、そのままマウントポジションを取られそうな勢いだ。
可愛い妹の為に、今日ばかりは少々本気の――両手を使ったナデナデを頭にプレゼントする。もしこれを母さんや女中達が受けようものなら、半日は幸せな感覚から抜け出せない状態となるだろう。
「アヘヘヘヘ! 兄さま、王都に着いたらお手紙を書いてね?」
「いやいや、早いよ。なんで無事到着したってだけの手紙を書かなきゃいけないんだ……まあ、ベータがそう言うなら書くんだけどさ」
我ながら甘いと感じてしまうが、ベータには色々と任せている事があるので仕方がない。お兄ちゃんは王都に着いたら即行でお手紙を書くぞ。
ベータは生まれた時から神の技であやされ、言葉を話すと同時に神の知識を授けられた神童である。それに子供ながらの強い好奇心も加わり、今ではあらゆる作物への知識、特に果物への造詣では領内一番と言ってもいい。
実は、彼女こそがビエフ領ブドウ品種改良計画における最重要人物なのだ。
「ベータは本当に美味しいブドウが出来た時に送ってあげるね」
「あれ? この前に食べさせてくれたのが完成品種じゃないのか?」
「違うのっ、あれは前段階なの!」
「お前はどれだけの高みを目指しているんだ……。まあ、そういう事なら楽しみにしておくよ」
最後にポンポンと軽く頭を撫でて、今度こそ馬車に乗り込む。
「いやぁ、名残惜しいものですなぁ」
「爺、ベータが馬車から離れたら出してくれ。いま母上が引き剥がしてるから」
扉の窓の向こうでは、母さんとベータがワチャワチャしながら離れていく姿。
父さんが二人に苦笑いを浮かべながら、こちらを見て「行ってこい」と拳を突き出している。
その少し遠くに、俺達が心血を注いだブドウ畑がある。領民達が緑に覆われた畑から、こちらに手を振っている。
「ああ、本当に名残惜しい。ビエフ領はこんなに美しかったのだと、今になって気付いてしまった」
「そうでしょうそうでしょう。別れ際になって気付かされるものとは、往々にしてあるものです。特にニコライ様にとってはそうでしょうなぁ」
「俺がか?」
「ええ。ニコライ様のおかげで、この領は幸せになったのですから」
「馬鹿を言え。父上と母上、最近ではベータの活躍があったからだろうに。お前達や領民の協力も大きかった。俺は草案を出しただけだ」
「その御三方と私共は、そう思っていないということですよ。さて、揺れますのでご注意ください」
爺がそう言った少し後、馬の嘶きが響いた。
ビエフ領が遠ざかっていく。俺の愛する家族が、領民達の姿が、小さくなっていく。
気付けば、俺は大きく手を振っていた。すぐに見えなくなるというのに、開いた車窓から振り続けていた。
「ふふ、この役目を申し出たのは正解でした。そのようなお姿を女中が見ようものなら、コロリと行ってしまいそうですから」
「……よく分からないんだが」
「ニコライ様は想いが深く、それを一身に受けられる者は幸せだろうという意味ですよ。とはいえ、縁談を断り続けるのは如何なものかと」
「む……」
それにはちゃんとした理由があるからなのだが……。
とはいえ、それを爺に言ったところで分かってもらえないだろう。内なる神が見せる朧気な少女が気になって仕方がないなど、誰かが聞けば良い笑い話だ。
まあ、爺の小言は今に始まったことではない。こういう時は適当に流しておくのが正解である。
「そういう意味では、ニコライ様の学園行きは正解だったのかもしれませんな」
「ああ、そうだと俺も信じたい。なにせ三年間も拘束されるんだからな」
「王都には八歳から通える学園もあります。それに通ってきた子弟の方々を思えば、三年などあっという間ですよ」
「その辺は父上と我が家の家風を築いた先代達に感謝だな。おかげで好きな時に好きなだけ学べた」
「左様でございますか。ところで、話が早いとは思いますが……王都に着いてからは、少し時間が出来るかと思います。どこか行きたい場所などはありますかな?」
「床屋だ」
爺の質問に、一切の迷いなく答える。
そう、床屋だ。床屋に行かなくてはならない。
「と、床屋でございますか?」
「そうだ。王都の床屋は技術力に優れると聞いた」
「は、はぁ……」
内なる神は仰った。
この世界というキャンバスに人間を描いた創造神の一柱は、全ての人間にチャンスを与えたのだ、と。正確には違う言葉であったが、俺はそう捉えている。
父さんは野性味溢れる美男だ。爺も若い頃は相当に黄色い声を集めただろう。ビエフ領の農夫達とて、丸坊主や角刈りでなければモテたに違いない。
つまり――髪型である。
人間の顔には男女合わせても両手を少し超える程度のパターンしか存在せず、そのどれもが美形であり、差異は髪型と髪色が大部分を占めているのだ。この世界の真理と言えよう。
「爺も髪型を……いや、直す必要はなさそうだな。どうやら俺達くらいの年代だけの問題のようだ。創造神様に何らかの御意思があったのだろう」
「ニ、ニコライ様も思春期ですからな……。その割には話が壮大なような気もしますが……」
「とにかく、床屋だ。ずっと行きたかった床屋に行くぞ」
そうして、馬車は王都に向けてひた走る。
内なる神に世界の真理を教えられて以来、ずっとずっと気になっていた。
この視界を遮るレベルで伸びた前髪に何の意味があるのか、と。なぜ目の下で切り揃えるだけの適当カットなのか、と。
風に揺れる己の前髪を指で弄びながら、俺は故郷と無駄に伸びている髪との別れに思いを馳せていた。
本日はここまで。