解決
車はまだあたりが明るいうちに三度目となる横長いホテルにたどり着いた。駐車場は自分達を除いて数台しか見当たらなかった。従業員の車もあるだろうから、今晩はほとんど貸し切りかもしれない、と澤村は期待を膨らませた。今日ここにくるにあたって、須田も吉永も無理強いして連れてきているので、彼らの宿泊料金は一部澤村が立て替えることになっていた。その分生活に響くが、それでも、盛大に楽しんで気持ちを切り替えたかった。
「ようこそおいでくださいました」
初老の男が出迎える。よこに若い男性スタッフが控えていて、姿勢正しく頭を下げた。
「佐藤さん、またきてしまいました」
須田は勝手知ったる様子で初老の男に挨拶する。須田のこういうところはたまに、友人として驚かされる。今回も宿泊は三階だが、前回の宿泊と違って一泊してそのまま帰るため、荷物が極端に少なかった。佐藤という男の脇に控えた若いスタッフに荷物を運ぶ役目を断り、自分で荷物を持った。佐藤に連れられ今回の部屋に通された。部屋は前回とほとんど同じ配置だった。部屋に三人だけになると吉永が早速騒ぎだした。
「今晩変に悪酔いするなよ。もしかしたら朝起きたら、この電飾で首が…」
「おい、それ不謹慎」
澤村はテンションのあがっている吉永を抑える。
「え、電飾で首がどうなるのさ」
須田は本当に何も知らないようだ。
「ああ、もう須田はいいの。あなたは何も知らずに幸せ心地で泊まりなさい」
須田は不思議な顔のまま、興味を失い自分の荷物をベッド脇に移動させた。
大浴場が男三人と荷物に圧迫された車移動を洗い流してくれる。天然温泉で、しかも広大な思い出深い崖を見下ろせる露天風呂。吉永の塞いでいた気持ちに新鮮な空気が入ってきた気がした。
「吉永、あんまり明るくないから滑って転ぶなよ」
澤村も声から元気が感じられた。やはり三人の時間というのはそれぞれにとって大切なものなのだと実感させられる。
「須田、澤村が転ぶなよって」
完全貸切を思わせる浴場は一段と気分を明るくさせた。
「うーん」
「どうした須田、冴えない声だして、振られたか?」
「おい、澤村、何か言ったか」
吉永は湯に浸かっている澤村の顔に両手でお湯を水鉄砲のようにしてかけた。
「やめろ、吉永はしたない」
「いやあ、さっきの電飾、なんか見覚えが」
須田は一人首をかしげている。
「難しい顔してるなよ」
澤村と一緒に吉永は須田の顔にお湯を飛ばした。
お湯あがりに牛乳を飲むというのはどこでも共通のようで、立派なホテルに似つかわしくない、よく見かける牛乳瓶の自販機が脱衣場に備え付けられていた。浴室のサウナで惨敗した須田は二人に牛乳をおごった。
「これから高級ディナーというのにそんなでいいのかね」
吉永はいち早く牛乳を飲みほして自慢気に言う。なんだか吹っ切れた様子で須田はなんとなく安心する。
「いやあ楽しみだね、前回は緊張して全然食べた気がしなかった」
澤村は懐かしそうに語る。
「俺は止めたのに」
須田は澤村に目配せする。
「別にいいんだよ。今日めいっぱい堪能するから」
三人は浴衣に着替えて大浴場を後にする。
「ここから洗濯物置きに三階まで登るのめんどくさいな」
「あ、そういえばここ貨物用エレベーターあるんだっけ」
須田は唐突に思い出した。
「なんでそんなこと知ってるんだよ」
澤村が突っ込みをいれてくる。
「ほら、二回目ここに来たとき、俺ここで聞き込みしてたじゃん」
須田は二人に言う。
「あれ、お前そんなことしてたんだ」
吉永は少し驚いていた。
「ああ、もういいよ。それなりに聞き回ってたのに」
須田は階段を登り始めた。
「おおお」
澤村は目の前に並ぶ豪華な食事に感嘆する。
「お前喜び過ぎだろ」
吉永はそういうものの頬を緩ませていた。
「三人で食べるのは始めてだな」
須田の皮肉を軽く聞き流す。
「お前らテーブルマナーはいかがかな。これから先そういう所も社会人としての品格に差をつけていくんだぜ」
「吉永、なにそれ自虐?」
「まったく、俺がそんな無作法な奴に見えるかね」
「お前からは品性を感じない」
「須田はもう少しオブラートにものがいえないのか」
食事はとても美味しく、酒も進んだ。気前よく飲み進めてしまっている気もしたが。澤村は今回限りと割りきって、思い切り贅沢していた。
「よし、端のバーで飲み直そう」
食事を終えた三人はラウンジ脇のバーになだれ込んだ。決して酔いすぎているというわけではなかったが気分が高揚していたのは否めない。
「場をわきまえよう」
須田の一言で我に帰り、なんとか節度を保ってバーも大人らしく楽しめたと思う。
「部屋でも飲めるけどどうする?」
須田は物知顔でいう。須田は酒豪だが、少し酔っている気配がした。
「お、もちろん付き合おう」
澤村は二つ返事で応えた。そして、応えない吉永を横目に見る。すると吉永はラウンジの外を見て固まっていた。
「ちょっとごめん、行ってくる」
いうやいなや吉永は一人ラウンジの外に出ていってしまう。
「あいつ支払い俺らに投げやがったな」
澤村はしぶしぶ財布を広げた。
「お久しぶりです」
吉永の言葉に大場は顔をしかめる。
「お久しぶり、君はなんでここにいるの」
吉永は大場の言葉を身体に染み込ませる。
「もう会えないだろうって思ってました」
「うーん、よくわからないけど、今仕事中なんだ」
大場の言葉に吉永は困惑する。
「うん、だからちょっと、…また今度」
吉永は気持ちを押さえられなかった。
「どうしてですか?俺はそんな嘘をついてまで」
「あ、ストップ」
大場は吉永の手をつかんで引き寄せる。吉永はなんの反応もできない。自分の影になるように大場は吉永を移動させた。大場は壁越しに何者かのあとを追っているようだ。
「あの大場さんのお仕事って?」
「しっ、だまって」
大場は人差し指を吉永の口許に持ってくる。吉永はもう何がなんだかわからなくなっていた。
「騒ぎ立てるようなら付いてきてもいいけど、絶対に邪魔しないでね」
吉永はもうこの先どうなってもいい気がした。
須田は澤村と日本酒を酌み交わしていた。
「吉永は何してるんだろうな」
須田は素朴に呟く。
「大方新しい女神様でも見つけたんだろう」
澤村はおちょこを一息に飲みほした。
「ん、んー、そうか、見てこようかな」
「やめとけ、やめとけ、人の色恋を見るのは悪趣味なんだそうだ」
澤村はおちょこに自分で日本酒を注いだ。
「そうか、わかったよ」
須田はベッドに腰掛け直した。先ほどまであまりにも大盤振る舞いしてしまっていたのて、食べ物はアタリメだけだった。須田はアタリメを噛みしめながら、部屋を見渡す。部屋には自分達の荷物がある他はベッド、小型冷蔵庫、テレビやエアコンが視界に入った。そして電飾が目にとまった。ランプ型の作りのそれは、支柱の部分が細長く、精細な掘りこみがされていた。須田の記憶が刺激される。
リズミカルな電子音が鳴り響いた。澤村が携帯を取り上げた。
「あ、ごめん、ちょっと電話してくる」
澤村は携帯を片手に部屋を出ていってしまう。須田は思考を遮られ、日本酒に口を付けた。部屋の扉がノックされた。吉永だろうか。須田は扉を開いた。
「もしもし、城里か」
澤村は酔っている気配を感じさせないように少し声色に気を配った。
「もしもし、あれから連絡なかったけど大丈夫?」
澤村は城里の声を聞いて会いたい気持ちにかられた。
「ああ、吉永たちとリフレッシュ中だ」
澤村は通話しながら酔いも手伝い通路をどんどん進んでいく。
「いたっ」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。なんか扉をくぐっただけだ」
澤村は額を抑える。
「なんだ皆で楽しく呑んでいるわけだ」
「え、と。ああ、そうだね。楽しいよ」
「お楽しみの最中失礼しました。それじゃね」
「え、あ」
澤村は唐突に切られた電話を見てため息をつく。あたりはうすぐらい。部屋の明かりを付けようと手を伸ばすとちょうど手元にボタンがあった。澤村は携帯の履歴を見ながら壁に寄りかかった。ついうとうとしてしまう。城里の声を思い出す。
「あ、うお」
澤村の頼っていた背もたれが突如失われた。
大場は階段を登っていく。吉永は大場に見とれる。彼女は今晩フォーマルなドレス姿だった。髪もドレスに合わせて普段と、いや、吉永の知る姿と別のゆい方をしていた。吉永には大場の今の姿が仕事、という言葉を信じるならば、何者なのか想像できなくなっていた。しかし、大場に口出しをあんな、あんな形で防がれてしまったら、もう吉永には何も出きることはなかった。吉永はただただ、大場に見とれながら、その姿を追うことしかできなかった。
「あれ」
大場は三階のフロアを目標人物から距離をおいてどんどん進んでいく。
「え、どうしたの?」
「あ、いえ」
大場の進む方向は自分達の部屋に向かっているように見えた。時間は日付が変わる数分前に差し掛かっていた。
「あ、止まった」
大場による手の制止で吉永は動きを止めた。吉永は動揺していた。二人は通路上の柱の影にいた。吉永は大場の背後にいるため、大場が追う人物が見えない。しかし、位置関係は、入室の際に把握していた。
「あの人…。あれ、え、どうして」
大場は驚きの表情を一度吉永へ向けた。
「こんばんは、夜分に失礼いたします」
須田は扉越しに現れた人物に驚いた。
「こんばんは、佐藤さん」
すると佐藤は、素早い手付きで須田の手首を掴みひねりあげた。須田はそのまま部屋から通路へ押し出されてしまう。
「つっ」
須田は驚きで反応が遅れた。そして次に須田が感じたのは、腰に当てられた硬く、冷たい感触だった。
「須田さん、あなた何度も何度も、何が目的なんですか?」
「一体なんのことですか?」
佐藤は素早く片足を二度床にこすった。
「あの晩、あの時間帯、あんなところで客に会うことはまずない」
「あの晩?」
そこで須田は記憶の中にある出来事が思い出された。
「電飾、そうか」
須田が言葉を続ける前に腰に当たる刃が、浴衣越しに皮膚をついた。
「お客様、共有スペースの消灯時間は過ぎております。どうぞ、お静かに」
須田は佐藤に押されるままに誘導されていく。二人は階段を下る。須田は片腕をみっしりと捻られており、そちらの腕の自由はきかない。腰に当てられた刃物はそのまま捻られた腕に強く当てられていて、派手に動くと腕に食い込みそうだった。
「う、ああ」
澤村は身体を起こした。暗い。身体を伸ばす。四方で壁に身体がぶつかった。スペースは狭い。携帯を見る。深夜だ。電波が入らない。視野をずらすと、赤い点滅が見えた。立ち上がる。頭が重い。点滅はアラートだろうか。
「エレベーター?」
携帯の通話履歴を見る。一時間程度寝ていた、のだろうか。ひどく蒸し暑かった。扉の階層ボタンを押すが反応なし。アラートを止める必要があるようだ。
「アラートの原因はなんだろう」
澤村は整備工場でのバイト経験があり、工場の責任者から、アラートランプ、アラート音に動揺するのではなく、すぐに原因と、起こりうるリスクを確認しろと教え込まれていた。澤村は尻餅をつく。頭がいたい。気分がすぐれなかった。ひどく酔っている自覚があった。何が起きたのだろうか。酔って、どこかに迷い込んだのか。まずくはなかろうか。学生が酔っぱらって、ホテルで設備にアラートを灯す。就活どころか、卒業すらあやぶまれかねない。いや、卒業できないだろう。澤村の背中に冷たい汗が流れた。城里に捨てられるだろうか。澤村はその場を立ち上がった。
大場は距離を保って階段を降りる。前方の人影は見えない。
「須田くんって彼女いる?」
吉永は大場の質問に戸惑う。
「え、あいつはそういうタイプじゃないと思いますけど。なんで須田の彼女のことなんか」
そこで吉永は須田の名前を大場に話したことがあったかを考えた。
「なるほどね、私は話を読み違えていたらしい」
吉永は何のことかわからない。
「相馬の痴情のもつれじゃないのか」
「あ、それなら」
吉永は大場のためにここまでの道中で聞いた話をした。
「相馬と篠田の男女関係ってのは嘘みたいですよ」
「え、どうして」
大場が吉永を振り替える。距離が近い。
「ま、まあ確証がある話と言われればなんともですが、このホテル、よくエイチエムの人に使われているらしいんです。相馬は家族ともここを利用していて、案内していたスタッフの話では篠田や他の会社関係者と利用しているときの相馬とは別人みたいに家族と接していて、週刊紙の噂に腹をたてているスタッフもいたそうです」
「それどこ情報?」
大場が更に吉永へ距離をつめる。階段を降りていたので、吉永は大場にぶつかりそうになる。ぶつかっておけばよかったと少し吉永は後悔した。
「あ、ええ、それは俺たち事件のあと今回と別にここに調査に来まして、それこそ須田にここの聞き込みをしてもらったんですよ」
「ああ、なるほど」
大場は突然歩みを早め、先ほどまで追っていた人物にどんどん近づいていった。吉永は状況の変化についていけない。
「ちょっといいかしら」
大場は追っていた人物に声をかけた。
「このホテルの素晴らしさは分かるだろう?」
佐藤は突然話し出した。進む足は止まらない。
「だが、宿泊者は伸び悩んだ。なぜか分かるか?」
「ここはあまり宣伝していませんね」
須田は思ったことをそのまま話す。
「このホテルは今エイチエムの傘下に、いや、足元に押さえつけられているといっていい」
佐藤は話を続ける。
「このホテルは一時経営難になったところを相馬さんのご配慮で持ち直すことができた。しかし、そのあとが問題だった」
「問題?」
「あの篠田という女が会社の実権をにぎった。どんな手を使ったのかしらないが入社後あっという間に会社の上役になったらしい」
二人は一階の大浴場前に来た。須田は促されるまま大浴場の中へ歩みを進める。
「あの女は、このホテルを厳かなものとするために、あらゆる広告宣伝を断ち切った。このホテルを完全にエイチエムの専属ホテルにしようと画策していた。このホテルは断じて一個人に独占されるべき代物ではない」
二人は浴室を通りすぎ、露天風呂に歩みを進めた。
「俺は崖から転落死ですか?」
「死ぬと分かっていて大した落ち着き様だな。全くお前のせいでこんなことまでしなければならなくなって…。あの晩、職員通路でお前が凶器を持った私を見た。背筋が凍ったよ」
「俺はさっきまで忘れてましたけど」
「ふん、命乞いか。あのあとしばらくしてまたお前はここに来た。しかもあろうことかスタッフにあの晩のことを聞いてまわっただろう?」
佐藤は刃物を持ち直す。佐藤の力み具合で少し腰に切っ先が刺さった。
「正義感のつもりか?私のことをこんな、じりじりと追い込む真似しやがって。だがもう一度ここに来たのは間違いだったな。まあ、来なくとも台帳から住所は分かっていた。念のため偽装じゃないか学校で確認もしていた。どのみちお前は死ぬことになっていた」
須田は学校の事務室で言われたことを思い出した。
「今日はここにほとんど人は残していない。今さら声をあげても手遅れだぞ」
「宿泊客がいるでしょう」
「そう思うなら叫んだって構わない。部屋の割り当ては考えてある」
「俺一人にずいぶん手をかけましたね」
「前回の計画の甘さがお前みたいな存在をつくりあげたからな。だが、今日実行にうつせたのは運だったよ。別々に遊び回るお友だちに助けられたよ」
「ずっと監視してたんですね」
須田は頭のなかで出来事を整理した。
「佐藤さんなら俺を部屋のなかできり付けて部屋のバスタブで自殺に偽装したりもできたんじゃないですか?」
「ふん、お前の血で部屋の設備を汚すつもりはない」
「だけど、交換のできる寝具は構わなかった」
「ああ、そのことか。そうだ」
「そして、万が一にもこじ開けられたりしないように、篠田さんの部屋の鍵を一目で開いているとわかるようにした」
「もちろんマスターキーはあるが、非常時に何をされるかわからなかったからな」
佐藤は須田を崖へ一歩押し出した。
「勤勉な須田様にもひとつお間違いがありますよ」
須田は崖を見下ろし、高さに疑問を抱いた。
「お前の死因は失血死だ」
澤村はエレベーターの内側をくまなく確認した。どこかに状況を打開する方法はないだろうか。停止したエレベーターで扉に手をかけるのは突然作動した場合のリスクが高い。澤村は扉以外の解決策を探す。非常用ボタンが見当たらない。人が乗るためのものではないのかもしれない、と思い当たった。壁際の衝撃緩衝に使われていると思われるバーに足をかけて高い位置を探る。天井まで探りの手を入れると、一ヶ所動くところがあった。点検口の施錠がされてない。澤村は何ができるかわからないがとりあえずそちらに頭を出した。辺りを見回す。作りは全くわからない。しかし、澤村は異常に気づいた。何かがエレベーターの外側で引っ掛かっている。澤村はこのままでは手が届かないので、足場を放棄して腕の力で点検口から上半身を乗り出した。腕を伸ばす。指先が何かに触れる。辺りは暗くエレベーター内の赤い点滅だけが光源だった。指の第一関節までが異物にかかった。澤村は力の限りそれを引く。びくともしない。澤村は体勢を整えて何度も力を込める。その何度目か、異物が外れる感触がした。体勢が崩れる。澤村は支えを失いエレベーター内に落ちる。エレベーターの稼働音。澤村はなにもできずに床に身体を打ち付ける。
「あなたたちは…」
女性はこちらに驚きを見せる。吉永は大場の声をかけた女性を見た。どこかで見たような気がした。
「うん、私は大場といいます。あなたが置かれている状況は大体把握しています。前田さん」
大場が前田と呼ぶ女性は困惑しながら大場を見ていたが、吉永を見て一瞬びくついた。吉永には前田という名前に聞き覚えが全くなかった。
「佐藤さんたち、大浴場へ入っていったのかしら」
大場は前田の肩越しに大浴場を見た。
「あの、そうです。なんだか様子がおかしくて」
「佐藤さんって、え、とこのホテルの人でしたよね?」
「そう、そして篠田さん殺しの犯人」
大場の確信を持った物言いは、吉永と前田を驚かせた。
「えっと、テレビだと篠田さんは相馬さんにって」
前田が声をあげる。
「あ、もしかして俺が言ったことでそう思っているなら、さっきの話は又聞きでしかなくて、その…」
「吉永くんの話はきっかけでしかないわ。大丈夫、そこまでバカじゃない」
吉永は先ほどの自分のかくし球があまり重要視されていないことに愕然とした。
「私は君たちと違ってここに来るのは二度目だけど、ここ以外の関係者から話を聞いていたの」
「大場さん、仕事って」
吉永の話は大場に遮られる。
「彼らなかに入ってから少し長いね」
「あの、私心配で」
前田が大場を見つめる。
「この先は露天風呂までで突き当たりです」
吉永は自分でもずれているように感じる、当たり前の話を伝えた。男湯のことはわからないだろう、ということと、自分だけおいてけぼりになりそうな状況が我慢できなかったことがそれを言わせた。
「まさか佐藤さん、須田くんを突き落とすつもりなんじゃ」
吉永は佐藤の連れに驚く。前田も驚いていた。
「突き落とすって、そんな」
大場は男湯へ歩みを進めた。吉永と前田も後を続いていく。
「いっつ」
須田は痛みに表情を歪めた。
「くそっ」
佐藤は身じろぎしている。須田は腰に当てられた刃物が佐藤の殺意によって動かされる直前に空いていた片手で刃を握りしめた。見えない片手に血が流れていることがわかる。年齢差による力の差は歴然としていた。須田が力の限り刃を握っているため、佐藤は刃物を全く動かせずにいた。しかし、須田にはこの先に打てる手立てがなかった。浴衣だけをまとった須田は靴を履いているわけでもなく、素足だ、勢いを付けて蹴れる体勢でもなかった。佐藤は革靴を履いており、上から力いっぱい踏みつけてもさして意味はないだろう。捻りあげられた片腕の力が弱まることはない。佐藤にとっても片腕と姿勢の自由を奪っていること状態が生命線といえた。膠着状態といえた。温泉の注ぎ口に流れるお湯の音だけが聞こえた。
「佐藤さん観念しなさい」
二人は声を目で追った。須田は見覚えのあるような名前のわからない女性が見えた。女性は力強い足取りでこちらに近づいてくる。佐藤が体の位置を女性に対して須田が楯になるように移動した。露天風呂の引き戸は佐藤が開けたままになっている。女性の背後から人影が見えた。吉永と前田だった。小柄な前田は最後に須田、佐藤の視界に入った。この影響は二人に異なる影響を及ぼした。佐藤に対してはこの事件の真実を知らせてはならない従業員の一人、そして、須田にとっては…。須田の捻られている腕の高速が少し緩んだ。須田は拘束を振りほどき、そのまま拳を固め、足を軸に回転しながら勢いを付けて佐藤の横顔を殴りつけた。佐藤は怯むが刃物、包丁を話さない。須田は殴った拍子に刃物を離していた。佐藤は体勢を建て直し包丁を構えようとする。しかし、須田の視界に入ったのは佐藤ではなく吉永だった。吉永は数あるサークルに所属していたが入会後一月と経たずにやめてしまったサークルがあった。そう、これはまさしくアメフトのタックルだった。
「なんてバカなことを」
先頭にいた女性が言う言葉が聞こえた。横目に前田が口元を手でおおって驚いているのが見えた。
「…う」
澤村は頭をおさえる。この頭痛は酔いによるものだけなのか少し心配になった。冷風を感じた。エレベーターから出ることができた。体にじっとり汗をかいていた。のどがからからだ。片手には自室でも見かけた装飾の施された電飾が握られていた。
「これは」
間違いないかもしれない。吉永と崖を散々探しまわったというのに。澤村は興奮を抑えられない。携帯を見る。電波が入っていることを確認できた。担当刑事の名前が思い出せない。着信履歴を確認する。インターン最終日の日付までさかのぼる。吉永に次に会うときどんな顔をしてやろうか考えながら、番号にリダイヤルした。
「もしもし、先日のホテルの殺人事件の重要な手がかりを見つけたかもしれません」
吉永は痛む頭を振り、冷静に話した。
刑事は自分がまた例のホテルに居ることに驚きながら、釈然としない凶器発見のいきさつを訝りながらも、現場に駆けつけてくれる話がついた。現場についたとき分かりやすいようにホテルの入り口に向かうことにする。凶器にべたべた触ることは気が引けたので、近くにあった新しいごみ袋にしまった。のどが乾いていたので自室に寄ってみたが返事がない。オートロックのため入ることができない。須田はまさか寝ているのか。澤村は須田に対して、お前が部屋で酒飲んでる間に俺がどれだけのことを、と非難がましく、そして自慢げに考えた。須田の携帯に電話をかける。部屋でなっている音がするが、反応はない。澤村は水分補給を諦めて階段を降りることにした。
吉永が飛び出したのは、無我夢中でのことだった。吉永が入会しているサークルのなかで武道の類いのものは一つもない。人に飛びかかる。全く覚えのないシチュエーションだと思った。けれど踏み出したとき、何か記憶を掠めるものがあった。脇のしめかたをからだが覚えている。衝撃。佐藤は何が起こったのか分かっていないだろう。大場が何か言った気がした。佐藤は包丁を掴んでいられず手放した。包丁は露天風呂の床を跳ねた。佐藤はそのまま崖に進んでいく。勢いを止められない。スリッパが床を滑る。吉永はここで自分も体勢を戻せないことに気づいた。崖が迫る。瞬間。腕が掴まれた。大場だ。全身に電流が走った。吊り橋効果か。冷静な考えを他所に大場も勢いを止めきれない。須田と視線があった。自然と笑顔になった。内心、大場と死ねる、最後をともにできることにうち震えた。ああ、でも大場も死んでしまう。それは嫌だ。崖から三人とも空に飛び出していた。吉永は大場に頭を覆われた。衝撃。そんな、大場が自分をかばっている。大場だけが失われるのか。そんな、そんな、それは堪えられない。二度目の衝撃。大場が吉永を抱えきれずに二人は空中分解する。大場を視界に納めようと努力する。
「下をみて」
そう言っているように見えた。
「うがっ」
足に嫌な感触と、凄絶な痛みが走った。
「よ、吉永」
須田は崖下を見て叫ぶ。崖は岩肌こそごつごつとしていて当たると痛そうだが、勾配も高さもそれほどの作りではない。
「大丈夫よ」
声が返ってきた。吉永と落ちた女の人だ。
「あの子受け身とか知らないであんなことしたの。信じられない」
女性の声には苛立ちが込められていた。
「あーもう、こっちまで」
「うう」
須田は吉永の小さなうめき声に気づいた。
「吉永大丈夫か?」
横から前田が顔を出した。彼女も心配してくれている。
「足が折れたっぽい」
須田は吉永の大きな声に安堵する。佐藤はどうなったんだろう。
「よかったね、吉永くん佐藤の方は完全にのびてるわよ。あなたの方が若いだけあるみたい」
「大場さん、大丈夫ですか?」
「もう、君のせいで全身傷だらけだよ、大人は怪我が治りづらいんだから」
「すいませんでした」
二人は問題なさそうだ。
「警察、読んできます」
須田はそう声をかけて前田と一緒にその場を離れた。
澤村は露天風呂から聞こえる声を疑った。
「須田?」
澤村は思わず大浴場に入ろうとした。引き戸を開けると同時に須田とラウンジで見かけたことのあるホテルスタッフに気づいた。
「須田、お前何して」
「澤村か」
須田はホテルスタッフと寄り添っていた。
「お前携帯ある?前田さんも今手元にないんだ」
「ん、あるけど」
「ちょっと警察と救急呼んで欲しい」
「警察って、あ、俺事件の凶器見つけた、んだけど」
澤村は盛大に自慢するはずの話を状況が分からずにしりすぼみで話してしまう。
「え、と。だから警察は呼んでて、救急車?」
「あ、吉永が足折ったらしい」
「へ、あいつ何してるの」
「須田くんもでしょう」
前田という女性が割ってはいる。須田の片手が血塗れだった。澤村は驚き言葉が返せない。
「ごめん、こみ入ってて、携帯貸して、俺が説明しながら呼ぶわ」
澤村はなにも分からず携帯を差し出した。すると前田の手が延びた。
「須田くんの友達だよね?私がかけます」
「ありがとう」
前田に対する須田の態度や声色は澤村の知らないものだった。澤村は急に手に持ったゴミ袋の中身がさほど重要ではないのではないかと思い直した。
吉永は岩場をはって大場の元に近づいた。
「ちょっと、足折れてる人が動かないでよ」
大場は意識を失った佐藤を後ろ手に縛っていた。
「そんな小道具持ってたんですね」
「別にいつも持ってるわけじゃないけど」
大場は吉永の方へ近づいて岩場に腰かけた。
「今回はギリギリまで判断を間違っていたことがショックだったわ」
大場は呟く。動きから彼女も足をくじいていることがわかった。
「あの前田って人が犯人だと思ってたんですか
?」
大場が吉永を横目に見た。
「そうね、二人の二択だったんだけど読み違えたわ。相馬の噂を真に受け過ぎた」
「ああ、前田さんも含めて三角関係?」
「まあ、そういうこと」
「でも、なんであの二人を疑うことに」
「篠田さんが殺された夜、二人の動きかただけが不自然だったの。まあ、もちろん君たちもイレギュラーだとは思ったけど」
「どうしてそこまでわかったんですか?」
「私はこのホテルで君とだけ話していたわけじゃないの」
大場は足を組み替えるが、足は痛そうだ。
「部屋にいろって言われた時間帯あったじゃない?君から起こった出来事は聞いたから、それを元に聞き込みしてたの」
「え、じゃあその時点で二人に絞り込んでたんですか?」
「そうね、そういうわけじゃないけど、調べるほど明らかにって感じかな。メディアが騒ぐほど、相馬に疑いどころがなかったし」
「あの日ここに泊まったのは偶然?」
「偶然ではないけど、殺人は全くの予定外。あー、まあ私の仕事調査会社みたいな側面もあるから、エイチエムのことを少し調べてた」
吉永は大場がやっと自分のことを話してくれていると、感慨深かった。
「もう尋問はいいかしら?」
大場はきっと自分一人でならホテルに戻れるだろう。ここにいるのは…。
「こんどは俺が大場さんの知らないこと話すよ」
空は満点の星空だ。吉永はサークルを複数掛け持ちしているが、活動にはそれぞれ精力的に臨んでいる。
「夏の星座の話をしましょう」
「話は大体わかった。吉永の方も俺が後で見てくるから、お前は前田さんに手を看てもらえ」
澤村はそういうと前田から返された携帯とゴミ袋を持って大浴場へ入っていった。
「須田くん、結構血がでてるけど大丈夫?気持ち悪くない?」
前田の心からの心配は、今晩のあらゆる疲れを癒してくれた。
「あー、ダメかも」
須田は前田に寄りかかる。二人はそのまま三階へ向かう。
「三階じゃなくても救急セットは各階にあるよ」
「いや、三階がいい」
前田は須田の思考を読む。
「お酒はダメじゃない?」
「献血したわけじゃない」
須田は前田と出会った夜を思い出す。初めてこのホテルに来た日の夜。一人部屋での見直そうと部屋に戻ってから、鍵を澤村が持っていたことに気づいてやむなくラウンジに戻ろうとしていたとき、三階の通路で従業員用通路からでてきた前田と遭遇した。前田は私服で、ラウンジのシフトが終わったところだった。須田は事情を伝えはしたが、仕事終わりの前田に何か頼むのも悪い気がしたので、そのまま分かれようとした。
「また飲み直したいんですよね?」
前田はそういうと、自分もお酒飲みたかったといい、従業員通路にある三階のお客様用の厨房で、前田が夕飯用にもらった賄い料理と、前田が以前宿泊客からもらった秘蔵のワインを二人で食べた。前田はホテル脇の宿舎で寝泊まりしている。日割りに加えて上がり時間もばらけるシフト業務は同僚と仕事あけにお酒を飲む機会もないらしい。
「久しぶりに人とおしゃべりしながらお酒を飲めて嬉しい」
そういう彼女に熱をあげたのは自分の方だと思っている。前田は自分から声をかけたと言うけれど、須田はもしかしたら、ラウンジで話したときにもう気になっていたのではと思っていた。実はラウンジで一人酒を飲んでいるとき、前田がそろそろ勤務時間を終える話が聞こえて、前田と話せないなら、とラウンジを離れた気もする須田だった。厨房は前回来たときと何も変わらない。誰か人が来るかもしれない、という緊張感、目の前にいる理想の女性。何もかもがきらめいていた。それは今日も変わらない。ただ、人が来る緊張感とは違う胸の高鳴りだということが須田には分かっていた。ここだけが違う。前田もそうだろうか。
「ああ、もう秘蔵お酒はないな」
前田は簡単に、だけど優しく応急処置してくれた手を離して考え事をしている。
「今日くらいちょろまかしちゃおうか、お客様へのお詫び」
はにかむ前田に須田はもう他に何も必要ないとさえ思うのであった。
澤村は露天風呂の端から吉永を遠目に見た。吉永は大場だろう、女性と空を見て話をしていた。おそらく、事件の犯人は問題ない状態だと須田が言っていた。澤村はあまり野暮なことはできない、と露天風呂を後にした。なんだ二人とも。ホテルの入り口に来客用のベンチがあり、そこに腰かけた。ゴミ袋を隣に座らせる。
澤村はそれがゴミ袋でなく、彼女であればどんな話をしただろう、と考えた。自分がエレベーターに閉じ込められ、機転を利かせて脱出した話だろうか。散々世間を騒がせた事件の凶器を見つけ出した話だろうか。傾いてしまった就職希望先に対する泣き言か。それを吹っ切って元気を取り戻してくれた友人の話だろうか。殺人犯と格闘した友人の話もできる。
携帯にメッセージを受信した通知があった。
「楽しく呑んでますかあ?」
澤村は我慢できなくなった。素早く画面を通話に切り替えた。
「もしもし、俺は城里が大好きだ、愛してる」
パトカーのサイレンが遠くに聞こえた。