2話
「宗さんの左耳のそれが黒子じゃないって知っている人ってどれくらいいるんですか?」
「この町にはいないよ」
「……東磁化学本社には?」
「東京には3人いたが、忘れてるだろうな」
「なら今はわたしだけですね」
スマホに経由して俺に繋がっているような充電ケーブルを跨ぎ、綿貫さんが下着を着た。俺は服のボタンをしめる綿貫さんを一瞥してスマホの画面に目を落とした。夜通し充電しながら観続けた画面はもう人肌より熱い。
「今日も眠れなかったんですか?」
「昨日は眠れてる」
「なら今日はお家に帰って安静にしていてくださいね」
「……無理だな」
「無理?」
「全部やりつつ安静なんてできない」
綿貫さんはなら自分が少しぐらいはお世話しますとは言わない。そういう関係だからだ。
ホテルから綿貫さんの乗る車を見送り海を臨む堤防沿いの国道を歩いて寝不足と気温で眩々する頭でタバコを吸い3本ほど吸ったところで公園を経由して雁木通りに入り自動販売機でお茶を買いペットボトルをぶら下げながら懐石料理屋の角を曲がって駐車場を抜け裏口のすりガラスを三度ノックし、返事がないことを確認して鍵を開けた。居間では光がテレビゲームをやっている。ヘッドホンからの音漏れでも大音量であることが伺い知れ、俺の帰宅にも気づいていない。
「控えろつってんだろ」
リモコンの音量のボタンを目いっぱい押し、ヘッドホンを引っこ抜いてやった。
「おかえり」
「声が大きい。イヤホンで大音量するな。あと俺が外出中はオンラインやめろって言ってるだろ」
「釣果は?」
「今日はない」
「釣れなかったの?」
「釣れなかった」
「朝食は?」
「あるもんで食う」
「さっきメッセージでコンビニ寄ってって言ったのに。読んだ?」
「非通知にしてた」
「えぇ、コンビニ受け取りの荷物届いてるのに。プリペイドカードも買ってきてほしかったのに」
「お前、コンビニ受け取り今月何度目だ?」
「えぇと」
「まぁいい。朝食はなくてもいいか」
「なんで」
「食欲がわかない。なんで俺が食わないのに俺がお前の食い物をどうにかしないといけないんだ。腹減ってんなら適当に冷蔵庫にあるもの勝手に食え」
光が口をとがらせながら椅子に座り、小瓶から頭痛薬を数錠取り出して噛み砕いた後タバコに火をつけて煙を尾びれで扇いで散らし、霧吹きで鱗を濡らす。青い鱗に光沢が戻る。そして冷蔵庫で冷やしていた濡れタオルを取りに行く俺のズボンのベルトを掴み、キャスター付きの椅子で光もついてくる。
「消火、確認」
濡れタオルで顔を覆い頭と目を冷やして、居間で大の字になっていると光がバケツにタバコを放り込む音と合図が聞こえる。そしてガラガラとキャスターの音。
「浅村、それ耳のピアスの穴?」
「もう塞がってるがな」
つんつんと光が耳をつつく。俺にはもうそれを鬱陶しがる体力も気力もない。
「もうつけないってこと?」
「ああ」
「なんで?」
「なんでって、それはお前、俺はサラリーマンだったからだよ」
「そうなんだ。わたしもさ、ピアス開けたい」
「なんだと? 許さんぞ。なんでだ。誰にも見せないだろ」
「わたしが見る。おしゃれは自分を誇るためにある。それに小汚いみっともない姿でいるのは嫌。はじらいを忘れたらいけない」
「家に籠るから身だしなみなんてどうでもいいような姿ははじらうてかい」
「きれいになりたい」
自分がピアスを開けたときのことを思い出した。俺のピアスの穴は3年前に塞がったが、この街に俺がピアスを開けていたことを知ってる人間は綿貫さんしかいない。
「どうやって空けるの? やっぱり何か専用の道具が必要なのかな」
耳から光の指の感触が消えた。代わりに椅子のキャスターが軋む音が聞こえた。パソコンに行こうとしているのだ。
「安全ピン、ライター、消しゴム、消毒液あればできるぞ」
「出来るの?」
「耳たぶ捨てる覚悟はあるか?」
「捨てる覚悟?」
「俺は人間だから普通のやり方でできるがお前は人魚だ。同じ方法でやってもお前はダメかもしれない。耳が壊死したりするかもしれない。特にお前は一日の大半は浴槽で過ごす。雑菌が湧きやすい。いいか、消毒の徹底、壊死の可能性があると思ったら即やめるという約束で開けてやる」
確か母の化粧台にピアスがあったはずだった。中古品だが煮沸消毒すればいいだろうと、俺は温くなった濡れタオルを顔から剥がし、光の顔を見つめる。耳に文字通り針の穴程度の傷をつけるだけだというのに、その完成された美しい顔を見てその気が少し失せたが、期待に顔を輝かせる光の表情を観ていたら今更やめるとは言えなくなった。
ファーストピアスを熱湯に浸し、光を仰向けに寝かせて耳たぶの後ろに消しゴムを置き、目にタオルをかけ、頭痛薬を数錠握らせる。目の前から耳に針が向かっていくのはきっと恐ろしいだろう。安全ピンの先をライターで炙り消毒し、光に声をかける。
「刺すぞ」
「うん」
ぶつりと針が光の耳の肉を貫く。光が一瞬身をよじらせ、喘いだ。
「あ、思ってたより痛くないかも」
鑑を覗き込み、耳に突き刺さる安全ピンを見た光はどこか嬉しそうで背徳的なスリルに浸っていた。光の親が光を産んだのか、それとも卵から生まれたのかは知らないが、親からもらった体に痛みを伴う傷をつけ、飾ることに、何かを感じたのか。
「風呂場に行くたびに消毒しろ」
「うん! いいピアスほしい」
「一個だけな」
自分が東京にいたときのことばかり思い出してしまう。ピアスを開け、セカンドピアスを選ぶ時の、そのピアスは似合うのだろうか、センスは正しいのかという不安定な高揚感とピアスを開けたことで大人になったという感覚。ほつれたマフラーにピアスが引っ掛かり、千切れそうな思いをしたようなこと。後にそのどれもがダサいということに気付き若いだけの好奇心が尽きた頃には傷だけが残る。だが幸いにも小さな傷でまずばれることもない。
「耳のピアスが上手く行ったらもう一か所開けたいところがあるの」
「舌か?」
「鰭」
「ははっ」
「何よ」
「安全ピンじゃ開かないな。ペンチかなんかがいるぞ。それに鰭は耳と違って乾かせないだろ。雑菌が湧く」
「耳が成功したらって言ってるじゃん。それに人魚は雑菌に強いかもしれないよ!」
「ゲームは俺不在時は無音決定だな」
「なんで?」
「穴が出来てないうちはヘッドホンもできない」
「あ!」
ガキめ。