1話
夢見心地を破るセミの声と目覚まし時計のアラーム。
「おはやいことで」
午前4時。既に夏の太陽はあたりを照らし始めている。
新潟県糸魚川市。フェーン現象のせいで新潟県で最も暑く、35度を超えることもざら、さらに変わりやすい天気と昼夜の温度の変化も激しい。
汗ばんだ顔を洗ってタオルで拭い、テレビの横の空き缶から財布と車のキーを拾って浴室に向かう。
「ノックか」
浴室の扉を三度叩き、すりガラスの向こうからふやけたような声が聞こえた。
「メシ取ってくる。裏口から出るからカギかけといてくれ」
「表から出ればいいじゃん。嫌だよ裏まで行くの」
「車があるのは裏なんだよ」
「表から回ればいいじゃん」
俺の家は長い。玄関とすぐ横の浴室とほんの少しの植木程度の幅しかないが縦には車15台分ほどの長さがある。外側から鍵をかけらるのは表だけだ。
「それだけごねれるんならもう起きてるな。裏から行くぞ」
ずずっと体を引きずり、Tシャツと下着替わりの水着を着た人魚が浴室の扉を開けた。
「椅子は?」
「ほら」
キャスター付きオフィスチェアーを車いす代わりにして人魚を乗せ、日の差し込む脱衣所、台所、居間、座敷、廊下、奥部屋と人魚を運ぶ。70kgはあろうかという人魚が座ったイスをバリアフリーなど無視した古い家で運ぶのだから額に汗が浮かぶ。
「タバコとクスリ」
「ほらよ」
メビウスの箱を差し出し、人魚に咥えさせ、火をつけようとしてやめる。
「何?」
「タバコの火をつけるのは目上の者が先だ」
と、自分もタバコを咥え先に火をつけ、そのついで程度に人魚のタバコに火をつける。どうやら人魚にも肺があるようだ。ふかしているだけの可能性もあるが。
束の間の喫煙を終え、水を入れたバケツに吸い終えた二本のタバコを投げる。人魚はタバコを吸い終えたばかりの口に頭痛薬の錠剤を吸い込み、桃色で形のいい唇をぎゅっと締める。
「指さし確認」
「消火」
人魚がもごもごとバケツを指差し、タバコの消火を確認する。そして水もなく喉を鳴らして錠剤を呑みこんだ。
「じゃあカギ。指さし確認な」
ガラス戸を締め、向こう側にいる人魚に声をかける。
「カギ、指さし確認」
ガチャリとカギがかかる音と、向こう側で人魚がカギを指差し「確認」の合図に二度ガラス戸をノックするのを確認。
「じゃあ光、行ってくる」
コンコン、と二度ノック。俺のいくつかの言いつけの一つで、俺が家の中にいないとき人魚は声を出してはならないことになっている。そして俺は人魚のことを光と呼んでいる。
既に車内は灼熱地獄になりつつある。
「――は、中越高校を応援しています!」
カーナビをテレビに切り替え、ショッピングセンターの向かいにある釣具店に行き、撒き餌を買う。後部座席の発泡スチロールの大きな箱に詰め込み、港へ向かう。
「暑いな」
太陽が背筋を焦がすのでタオルを首に巻き、特に贔屓でもないアメリカの野球チームの帽子をかぶって発泡スチロールと漁具一式を岸へ運ぶ。
岸にはほんのわずかなスペースしかない。夏季休暇で帰省したヤツらが子供を連れて早朝の釣りにやってくるのだ。止まっている車は練馬、品川、足立、習志野の首都圏方面、松本や長野の海のない方面が多く、地元の車は少ない。
不快なことが伝わるようにサンダルを必要以上に大きな音を立てて歩き、タバコに火をつける。
「……お前、浅村か?」
「あ?」
「ほら、高校で一緒だった佐藤だ」
「ああ、佐藤か。どうした。帰省か?」
「帰省だよ。ほら耕作、お父さんの同級生だ」
子供用の釣竿を握った5歳くらいの子供がいぶかしげな目で俺を見ている。
「挨拶は?」
「おはようございます」
「よしよくできた」
と、佐藤は息子の頭をなでる。
「スペース空けてくれねぇか」
「ああ。いいぞ。積もる話もあるしな」
佐藤と息子が少し間隔を狭めて、俺の入るスペースを作る。俺と佐藤で息子を挟む形だ。話をしていても息子が目に届くからだろう。頭越しに父親の昔話を聞かされる子供の気持ちはわからない。それも高校の同級生だっただけで結婚のことも息子がいたことも知らない程度の仲の話だ。餌袋を錘にした竿を水面に垂らすと赤い餌と青と銀の魚が海中で踊る。
「おい浅村、引いてるぞ」
「めんどくさいからダブルまでは放置」
タバコを空き缶に捨て、胸ポケットからタバコの箱を取り出すが、隣に座っている子供を見て出すだけにしておく。吸おうと思った時一度だけ我慢しよう。そうすれば吸う回数はきっと半分になるだろう。
釣竿を引くと、小アジが2匹糸からぶら下がっている。この釣りはサビキと呼ばれ、冷凍オキアミの餌を袋か籠に入れて錘にし、糸から派生する複数の疑似餌のついた針を海面に落とすだけで釣れる。技術も経験もなく、調子がいい日には50匹以上の小アジ、たまにサバやフグが釣れるので子供や初心者には楽しい魚釣りの体験になるだろう。それに俺のように朝食べさせるものが決まってないのに早起きな人間の暇つぶしにもなる。小アジを針から外して発泡スチロールの箱に放り込む。
「お父さんより若い」
「はは、そうか。若いか。確かに浅村はまだおじさんって言うよりお兄さんだもんな。な?」
と、言われても「ああ」と言うほかない。結婚もしていなければ子供もいない。身なりをうるさく言う者もいないから無精ひげにTシャツ、テキトーなズボン、ネット通販で買った帽子、痩せた体。若いと言うよりもだらしがないだけだと言われているような気がする。
「お前はいつ結婚したんだ?」
「20の時にこいつがな」
「ああ、そう言うことね」
「まぁ働いてたし養えてるから。そういうお前はいつまでこっちいるんだ? 東京の大学行ったってのは知ってたが。おまんた祭りまでか?」
「いや、今はこっち住んでる」
「Uターンしてきたのか」
まぁ、そう言えば聞こえはいい。
「聞かないのか?」
「聞いてほしいか?」
「いや、ガキに聞かせるような話じゃねぇな」
「ガキって言うな。耕作だ」
「耕作くんに聞かせるような話じゃないな」
釣竿を上げるとまた小アジが二匹。
「俺は高校出てからずっと長野だからさ。随分と駅前とかが変わったな」
無難な話題。
「新幹線通ったからな。見栄の一つも張りたくなるんだろう」
「トゲのある言い方だなぁ」
「いらねぇっての。降りる客も乗る客もいりゃしねぇってのに。どっから取った金だよ全く」
「クールなお兄さんだろ?」
と佐藤が笑って息子にこうなるなと促す。せっかくの帰省で佐藤が出会ってしまった同級生が俺だったのが申し訳なくなるくらいだ。竿を上げると今度は3匹。
一度我慢したから、今度は吸おう。タバコを咥えて火をつける。佐藤が眉をひそめる。
「よしっと」
俺は発泡スチロールの箱からまだ9割は残っている餌のブロックを佐藤親子に渡す。
「今日は混んでるし、ウチで食う分は釣れたからもういい。使え」
「いいのか?」
「ああ」
「よかったな耕作。浅村さんにありがとうは?」
子供が頭を下げてもごもごと「ありがとうございます」と言った。
「お前の家って確か通りの……」
「来なくていい。土産もいらない」
「……そうか」
餌の9割を残してまで帰りたい相手の気持ちを汲めない人間が親になっている。生臭くなった手を公園の水道で洗い、金網の下にタバコを捨てた。
「帰りたくもねぇな」
最近独り言が増えた気がする。誰か聞いてくれるからだろうか。釣果の小アジ十匹だけ発泡スチロールの箱に入れて家に帰る。裏から入れないので表に回ってカギを開け「ただいま」と告げてサンダルを脱ぐ。返事はない。
居間の方でチカチカとテレビが光っている。
「帰ったぞ」
ヘッドホンをした光が面倒くさそうに寝転がり、それを見下ろす俺と視線を合わせて口をだらしなく開く。俺がいない間にテレビやパソコンを使う時はヘッドホンを使うことも俺の言いつけの一つだ。ヘッドホンのプラグをテレビから抜くと朝の報道なんだかバラエティなんだかわからない番組の音が耳に障る。
「おかえり。アジ?」
「アジだ」
「素揚げ?」
「そうだ」
「また? お刺身とかにしようよ」
「寄生虫がいるし海が汚いからダメだ」
そういえばこいつは俺に拾われる前は何を食っていたんだ? その辺を泳いでいる魚か? それで無事だったのならこいつだけは別に生で食べさせてもいいのかもしれない。
「素揚げにするぞ」
以前は昼でも明かりをつけなければいけないほど日当たりが悪かった我が家の台所だが、数年前に父親が父親の同級生が住んでいた隣家ごと土地を買い取ってぶち壊し、駐車場にしてしまった。父の同級生、しかも隣に住んでいた友人に家を奪われそして壊された父の同級生の気持ちは考えたくもない。だがそれは父が背負うべき責任であって俺がどうこう考えることもないし、双方同意の上だったかもしれない。少なくとも息子の俺は日当たりのいい台所を得ている。
「――は中越高校を応援しています! お天気です。東京は今日も猛暑……」
「ねぇ、浅村」
「なんだ」
「東京行ったこと、ある?」
「……あるぞ」
「何しに行ったの?」
言葉に詰まった。光は俺がずっと新潟に住んでいて、観光か何かで東京に行ったことがあると思っているのか、それとも深い意味があるのか。きっとないだろう。連日のアジにいら立って嫌味を言うような高い知能ははい。
「大学に通ってた」
「学校?」
「そうだ。それで東京の会社に入ってやめて、ちょうど親父もお袋も死んだから新潟に戻ってきた。幸いにも金には困らなかったからな」
「なんでやめちゃったの?」
「悪いヤツがいっぱいいたからだよ」
「そんな子供だましみたいな誤魔化し方は嫌」
「なんだと?」
「別に話したくないならいいよ。話したくない、で納得するし、察するから。でも悪いヤツがいたから、とか、子ども扱いはしないで」
「ははっ」
意外な反抗に腹が立ったが、何故だか少し嬉しい気持ちがした。
「かまぼこ食うか?」
「食べる。カニカマ」
「カニカマは高いからレタスがつく」
「えぇ、じゃあ普通のでいいよ」
「ははっ」
ガキ。
『不機嫌な万華鏡』のリメイク版。「こういうのもできますから!」と訴えたく、蔵の隅から化けの皮と一緒に引っ張り出してきた次第です。