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9.鶏はいつも裸足

早川三姉弟のお話の始まり始まり。

 居た堪れない、とはこういう状況を指すのにぴったりだよ、とオレは自転車の前籠から少し身を乗り出して思った。往診用の鞄を荷台に括りつけ、千尋は渋面で自転車を押している。往診は殆ど晶任せにしている千尋が何故こうやって外へ出てきたのか、何故自転車に乗らず押しているのか、何故オレを連れてきたのか、何故青柿でも噛み潰したかのような苦り切った顔をさげているのか。その理由は自転車の左右にある。右側に、清水明美嬢。左側に清水照美嬢。双子のジャンガリアンハムスターをそれぞれ飼っている双子の姉妹だ。物怖じしない妹と、引っ込み思案な姉。顔の造りが一緒の癖に、どうしてかなと思うくらい性格が違う。まぁ、得てして長子というのは親にとっても試みの多い存在で、次子というのは長子を踏襲するなり轍を踏むなりすればいいという立ち位置だから、こういう風に性格が別れることは往々にして考え易いが、彼女達はクローンで双子、つまり親にとって養育期間に差がない筈なんだけどなぁ……。

 話が逸れた。その双子が千尋を挟んで歩いている。目的地は彼女達の通う中学校。学校で飼っている鶏を診てほしいと連れ出された。連れ出した双子は千尋を挟んで時折目を合わせては火花を散らしている……ように思えてならない。居たたまれないのはその所為。千尋を挟んで、同等の眼力で睨み合うから、火花の散る位置は千尋のいる辺りということになる。本当に光線ビームでも出てたら千尋の白衣は丸焦げだ。鶏の発育がおかしいとかなんちゃらと理由をつけてそれぞれが千尋を往診に誘い出した。つまりご指名だったのである。都合をどうつけようか迷っているところに同じ注文が入り、千尋は大まかなところを察した。頼りになる街の獣医さん、以上の感情を彼女達は千尋にぶつけてきたようだ、ということに。他者から好かれることは、そりゃぁね、生物として無駄な争いを避けて自己を保護するという観点からも、千尋が性別男で、この中学生達が女の子だから自己の成功率がぐんと上がる兆しという意味でも、歓迎すべきところであるとは思うよ。けれど、千尋はもう三十に手が届こうっていう歳で相手らは女子中学生で、千尋には最愛の由利主殿嬢がいる訳で、なんだかんだいって見境無いのは人間性や品性や倫理を一気に疑われる社会で生きてる訳で、さ。でもね、大事なお客さまなのよ。だから千尋は緩衝材としてうるさく吠えるヨーキーのオレをツッコミ役に連れてきて、自転車を押す羽目に陥っているという訳。

「で?鶏が何羽かいて、なんだかめきめき大きくなってるやつがいる、ってことでいいんだね?」

 明美嬢が機を制して言葉を継ぐ。

「或いは、餌を取られちゃって育てないコ」

 同じことを言いたかったとみえて、照美嬢が口を尖らせている。名前も顔を似ているから整理しておくけど、マシンガントーカーな妹の明美嬢と、口下手な姉の照美嬢。うーん、姉の方は口下手もあるかもだけど、それ以上に単純に鈍臭いのではないだろうか。そんな気がしてきた。

 校門は不審者対策に閉じられていて、通用口宜しく脇に人がひとり通れるだけのところがあった。千尋は自転車ごと持ち上げて態と敷居のような造りになっているところを通して、校庭に踏み入った。前庭のようになっているそこには人工の池があって、そこを取り囲むようにロータリーになっている。その先に生徒達の昇降口。校舎の裏には駐車場があって何台か駐まっている。職員用だろう。ロータリーと校庭の間に目的の鶏舎が建っていた。粗末という程ではないが、歓迎を受けて建てられたものではない印象である。大方、理科の授業で卵でも孵してしまって、捨てるにも野に放つ訳にもいかず、またこの国立という立地から飼い主を捜すのも困難を極め、結局学校で飼育することにしたという体裁かな。千尋は学校の様子に少しだけ目を細め、奥歯を噛み、諦めたような嘆息をして自転車を鶏舎の前に停めた。スタンドを出して倒れないようにする。自転車の前籠ってぐらぐらして不安定で、やだな。

「ふむ、どれどれ……へぇ?」

 千尋はにやっと笑うと鶏舎に再び目を落とした。

「……問題は、無いよ。診察なんてするまでもない。皆元気で、餌の食いもいいようだ。羽根も艶々。育ちの悪いとりは一羽もいないね」

 こっこっこっこっ、と喉の奥でぶつぶつ呟くような鳴き声が断続的にある。一応雄鶏と雌鳥は分けてあるみたい。これ以上鶏増えても困るんだね。鶏って飼うの、ただじゃないもん。餌はよく食うし、当然ながらよく排泄する。世話は生徒がすればいいにしても、餌は学校が賄わなくてはならない。養鶏業者なら兎も角、ちょっとだけ飼ってる鶏の飼料というのは割高だ。

「どうしてそう言いきれるの?あの子とあの子、生まれたの一緒なんだよ!なのになんであんなに大きさが違うの?色だって白い!白色レグホンでしょ?」

「あの小さい方はね」

 両側から詰め寄る双子に手を取られないよう千尋は白衣のポケットに手を突っ込んだ。

「大きい方は、白色コーニッシュか、白色プリマスロック。どっちも肉用としてブロイラー生産される育ちが早くて大きくなる種類だ。白色レグホンは採卵用で体は大きくならない。黒色ミノルカと横斑プリマスロックとロードアイランドレッドなんかもいるねぇ。面白い」

「ちゃ、ちゃぼじゃないの?」

「赤い羽根をもってる鶏を矮鶏ちゃぼだと誤解している人多いよな。確かに矮鶏ちゃぼも赤茶色の羽根もってるのもいるけどさ。矮鶏ちゃぼは元々愛玩用で体も小さい。七百五十グラムくらいだもんな。一キロを超えるロードアイランドレッドみたいに全身赤茶でないよ。尾が黒いことが多いね。抑矮鶏ちゃぼは天然記念物だぜ、こんなところにいる訳が無い」

 役目は終わった、と千尋は自転車のハンドルをとるとスタンドを払った。わぁ!がくん、と揺れてオレはじたばたっと籠に掴まり直した。おいおいもっと丁寧にやれよう、爪が割れちゃうじゃんか。

「かっ、上村先生っ」

「まだなにか?」

 引き留めたはいいけど、用件は済んじゃってる訳で千尋は帰る気満々だ。自転車を押しながら校門へ向かう。

「そうそう、白色レグホンね〜普及しているからあんまりそう見てもらえないけど、あれはかなり神経質で気性が激しいから。ロードアイランドレッドは穏やかだから上手に組み合わせて飼うといい」

 入ってきたのと逆の手順で千尋は公道へ出ると乗ってしまおうかどうか少し迷って時計を見た。と、そのとき比較的静かなエンジン音でフルカウルの単車バイクが家と反対方向から走ってきた。千尋が目を上げるとそのバイクの乗り手ライダーはさらっと手を振って走り去っていった。うっわ、400ccの単車バイクでフレアスカートだよ。流石に煽られないように巻き込んではあるけど、事故とか起こさないのかな。いつもながらよくやるよ、彼女。フルフェイスのヘルメットからくるんくるんの長い巻き毛を靡かせて走り去っていった後ろ姿を見て千尋はそっと口の端を上げた。

「ポル、帰るか」

 わん。いいね!

 こんなに冷たくされても思春期の少女達の直情さは健気な程で、千尋の帰路にもお伴をするつもりらしい。わん!どうするんだい、千尋?

「いいタイミングでボラックスが来た。あのなら状況をよくわかってくれるだろう」

 ボラックス。Na2B4O5(OH)4・8H2O……四硼酸ナトリウムNa2B4O7の十水和物の英名である。白い鉱物だが、あっという間に結晶水を失って脆く崩れてしまう儚くも有益な物質だ。その性質と身近さからシルクロードの時代から取引され、人類の科学技術の発展に貢献してきた。ん?へへっ、千尋からの受け売りだよ。因みに在庫してるかどうかは兎も角、普通に市中の薬屋さんで手に入るんだそうな。

 双子は真顔でオレに話しかける千尋にちょっと退いたようだったが、獣医さんなんだから当然、ということで納得してしまったらしい。いやそこはさぁ、動物とマジ顔で会話を試みる変人としてもう少しどん退こうよ。中学生って、負げないなぁ。

 自宅兼動物病院まで結局千尋は自転車を押して歩く羽目となり、初夏の日射しに帽子を被ってこなかったことを後悔し始める頃到着した。家の前には赤白紺のトリコロールの単車バイク、RVF400が停められていて、その上にヘルメットを抱えた女の子が足をぷらぷらさせながら座っていた。千尋の姿を認めると、ヘルメットをハンドルに引っかけてぴょいと飛び降り、そのくるくるふわふわのハーフツインテールにした髪を揺らして千尋に嬉しそうに抱きついた。

「こんにちはっ、ちーさん♡ど~こ行ってたのっ♡」

「よく来たね。いらっしゃい。ちょっとそこの中学校まで、鶏を見に。ふふ、母校も十年経って行ってみると別世界だな」

「あら、懐かしいとかじゃないの?」

 彼女は千尋に正面から抱きついて上目で見詰めてくる。あどけない風にしか見えないが実際は千尋と身長差は七センチあるかどうか。千尋は玄関の段差に足を乗せていて、無理矢理身長差を作り出しているのだが、まあ普通の人は気づくまい。千尋は微笑みを浮かべて彼女の額から髪を撫でた。とても愛しげな仕種に双子がみるみる落胆するのがわかる。だよなーっ、あの掌を我こそが受けたかったのだからな。

「懐かしくもあるが、……そうだね、懐かしかったよ。中学の頃は色々面白いことが次々起こって……ははっ、ボラックス、君と出会ったのもその頃だね」

「うふふっ、ちーさんの中学校の制服姿、憶えてるわ♪あの頃から獣医目指していたっけね……あ。ちーさん、ごめんなさい!お客さまとご一緒だったなんて!」

 それでも彼女は離れない。これが計算尽くって誰が思う?どう見たって、天然小悪魔だろ。

「あー、いい、いいって。清水さん、お二人共、学校の鶏は品種特性による個体差ですからなんの病気でもありません。僕も懐かしい母校へ足を向ける機会をもらったということで、往診料は今回は要りません。またなにか不調があったらお報せください?ご苦労さまでした」

 ボラックスこと早川硼砂をぶら下げたまま千尋は二人に会釈して自転車を仕舞いにかかる。片手で自転車を押し、もう片手はボラックスに回っている。オレは前籠から後ろ向きに乗り出して二人の様子を見ていたが、清水姉妹は珍しく顔を合わせ、それぞれの企みを二人で潰し合った挙げ句に横合いから鳶が翔んできて獲物をかっ拐われていったという顛末に合意したように肩を落としてとぼとぼ帰っていった。大通りへ出るそこの角を曲がったところで千尋と硼砂嬢が門柱から彼女達が諦めてちゃんと帰ったことを目視して詰めていた息を吐き出した。

「ナイスタイミング、ボラックス。助かったよ」

「どう致しまして~♪あははっ、昔と逆だねっ」

「だな。あのときは主殿、俺、タケにコマッチ四人がかりだったが、ボラックスはひとりで四人分の威力があるな」

「やだな、あのときはあのとき。私がどうにも頼りなかったから、四人もの手を借りなきゃどうにもならなかっただけだって。ふふっ、とのちゃんとうまくいってるんだって?よかったねぇ♡」

「相変わらずそういうとこ、筒抜けだよなぁ。もう少しこう、個人情報プライバシーとかに配慮してくんないかね」

「ごっめぇん、とのちゃんがあんまり嬉しそうだったから……大丈夫よ、由利准将もちーさんなら文句無いみたいだから♡はやちんも楽しみだって」

 うへぇ、准将にも話いっちゃってるのかよ、と千尋は謐く。

「隼人さんは大人だから……帯刀さんは?」

「あー、たっつんは相変わらず阿呆全開だからね~。ん、でもちーさんならいいやって言ってた。自分よりお馬鹿じゃない人なら反対する理由、無いもん」

 ほら、同じ高さに並ぶと大して目の高さが変わらない。女性はそれでなくとも踵のある靴を履く。硼砂嬢が靴底がぺったんこで踵も申し訳程度なサンダルとはいえ、黒ゴム長の千尋の身長に迫る高さだ。まあそれもそう、彼女の祖母殿もご母堂もお父上も伯父御も皆にょきにょきっと上背があり、その形質が遺伝によるものである以上彼女も間違いなく身長が出てしまう。それでもロングヘアの天然パーマの髪をサイド耳上に振り分け、後ろは垂らしたままという男子必殺の髪型が似合うのはその雰囲気によるものだろう。名の通りふわふわと真っ白で儚い印象の、早川硼砂ほうしゃ嬢。でも父上の愛車に乗ってきちゃうんだから、なぁ。

「そのひらひらのスカートで単車バイクに乗るなよ。危ないだろ」

「小夜ちゃんに危なくならないようよく教えてもらったよ」

「小夜子さんめ……そういうこと教えちゃ駄目だろう……」

 小夜子さんとはカメラマンの落合小夜子女史。うん、伊勢原さんって呼んでる落合誠氏の奥さまだよ。あの人まだナナハン乗ってるのかぁ。もうお転婆とかいう歳じゃ無かろうに。


 改めて、早川硼砂嬢、十九歳。今年医学部生になったばかりのほやほやである。ご両親共に医師であり、その凄まじい回転率を誇る頭脳を放ったらかしにするのもなんだし、とこの道を選んだお嬢さんである。父上の軍医殿は娘が可愛くてならない上に永久に可愛くあれと願っているようで、その望みを反映して今の姿がある。すらりと伸びた手足、抜群の運動神経、非の打ち所の無い整った顔立ち、そこへ軍医殿の可愛い好みが加わり、彼女は年齢より僅かに歳若く見えなくもない。

 その彼女が遊びにいってもいい?などと殊勝な電話をかけてきたのは二日前の話である。鳩村氏は手段はどうあれ硼砂嬢に千尋が悩み相談くらい受け付けるということを伝え、彼女もそれにのったということである。容姿に優れ、頭脳に優れ、家庭環境も満たされていて、なにを悩もうというのだね、この美少女が。

「ほい、どうぞ」

「ありがとう……」

 出された湯呑みに礼を言って硼砂嬢は一口啜った。座ったからとて直ぐに話を切り出せるようなら悩みでもなんでもないっか。

「……ちーさん、大モテだったね」

「ありゃモテてんじゃねぇって。大事な可愛いハムちゃんがちょちょいのぱで治って、そこまでの不安と一気に打ち消された嬉しさをなにかと勘違いしてるだけさ。あれだ、あれ。学校の理科の先生的なポジション。七面倒臭いことを魔法のように理論立てて説いてみせて、実験で炎や煙が出たり一気に色が変わったりする。この現象が謎な言葉ばかり繰り出す大人の理論に基づいている!世界はこの大人の言う法則でできてるんだ!こいつ神じゃなかろうか!いや先生だ、人間だ、自分と同じ、気に入った、これって恋?……とまあ、こんな感じ」

「あははっ。中学生の淡い恋ってそんな感じかもー。学校の授業とお家と習い事とお友達。そこで得られる刺激でどきどきしたらみんな恋になっちゃうのね……」

 中学生。そういえば彼女の弟のひとりは中学生だ。焔硝えんしょうくんという。六つ違いの、彼女の弟。左目に泣き黶のある、整った感じの少年だ。軍人一家の癖に早川家は美形揃い。二人の伯父御、京一郎氏ときたら寡黙で元戦闘機乗りで、なんでこの歳になっても独身なのか謎なくらい。愁いを帯びた眼が印象的で、彼こそモテない筈ないのにな。

「そうだ。夏蜜柑のママレードがあるんだ。どう」

 庭でなった夏蜜柑をあちこちにお裾分けしたら、ひとつはママレードになって返ってきた。くっそう、ママレード、オレ食べたことないんだよ。毎年ママレードになって返ってくるのに、これはとても甘いから駄目って食わせてもらえないんだ。味見をして千尋も晶もご満悦そうに甘過ぎなくて旨い旨いって言う癖にさぁ。甘過ぎないんだろ、くれよう。……と言ってもくれないのは目に見えてる。オレは無駄な努力はしない主義。テーブルの下で伏せの体勢で待機。粗忽なことが起こって稀にありつけることもある。果報は寝て待て。ころり転げた木の根っ子、ってとこだ。

 千尋は棚からクラッカーを出してきて皿にざらっと明けた。冷蔵庫からはノーラベルのママレードの壜。鮮やかな黄色。いーいなぁ。どんな味なんだろ。

 クラッカーにとろりと金色のママレードをつけて幾つか並べる。綺麗ね、と硼砂嬢は微笑んでひとつ手にとって口に運ぶ。さくり、とクラッカーが崩れて……あぁっ、旨そう!

「美味しい!じゅんちゃんが煮たのね♪」

 千尋は薄く笑って己のひとつ口に放り込む。

「あの人も謎だよなぁ。今や事業部長なのに家に帰ると主夫って。美香乃さん、そんなに忙しい?」

「じゅんちゃんはね、美香乃ちゃんだけに尽して、美香乃ちゃんを丸ごと作ることで独占してるの。冷ややかそうな顔して暑苦しい程束縛してるの。本当は隠しておきたい、誰にも見せたくない。でも美香乃ちゃんは外へ出なくちゃならない人だし、いつも完璧な桜庭美香乃博士でなくちゃならないでしょう?だからお家に帰ってきたらなにもしなくてもいい、ただ桜庭美香乃でいさせる為に家のことはなにもかも引き受けてるの……ううん、引き受けてるだなんて、そんな嫌々じゃなくて、もうさせてくれって感じ。そこに座ってて、世話を焼いてあげる……熱烈よね~」

 どうなんだろ。確かにあそこは熱々の仲だけど、結婚当初の基本姿勢が常態化してる面も否めないと思うね。もう美香乃さんになにかさせるより潤一さんがやっちゃった方が上手くいくし美香乃さんは喜ぶし失敗はないし潤一さんは満足だし美香乃さんは生活臭を纏わないでいられるし、なんていう諸々を総合して事業部長で主夫なんだと思うよ。それはそれで安定したかたち。お蔭で美香乃さんは世間的には天才プロジェクトで歳若くして博士号を取得して教授となり、結婚もして子供も産んで、亭主は昇進して、自分は論文を途切れさせることなく発表し続けている、美しい女性としてどこにも瑕疵の無い存在として認められてる。名プロデューサーだよ、潤一さん。

 硼砂嬢は目を伏せた。

「ちーさん、どうして早く本題に入れって言わないの?」

 湯呑みを手に千尋はふん、と鼻を鳴らした。

「ボラックス程頭のいい人間がなんか悩んでるってことは、相当深い悩みなんだろう?家には葵さんを筆頭に解決力の高い人がわんさといるのに、そっちにもっていかないってことも気にかかる。家族にも言えないようなことで悩んでるんだとしたら、焦って訊き出したところで間違えるだけ。ボラックスが客観的になれるまで、待つ。俺はそのくらいしかしてやれないし」

「ちーさん、優しいなぁ……とのちゃん、ちーさんのそういうとこが好きになる契機きっかけだったと思うよ」

「その主殿と俺とを引き合わせたのはボラックスだ。知り合わないまま同じ高校に通っていたらあっちは目立つ女の子、こっちはタケと一括りの変人でお仕舞いさ」

 千尋は醜男じゃないけど、目立ってイケメンでも無い。だから双子女子中学生が自分でもなんとかなる!と息巻いて変なアプローチをかけてくるんだよ。……ん?だからか?京一郎氏が独身なのは、高嶺の花過ぎて世の女性が近寄れない故なの?いやいやいや、いい男にはそれなりにガッツのある女性とか真のいい女とかが寄りついてくるもんでしょうよ。……変だなぁ。

「ねぇちーさん……今日中学生に好かれてたけど、迷惑だった?」

「俺も人の子なんでな、単純に好意を向けられりゃあ嬉しいさ。でも考えてもみろ。あの二人はこの動物病院の客で、ご近所さんだ。中学生でおまけに双子ときてる。主殿のいる俺にどうしろっていうんだ?」

「それはとのちゃんがいなかったら別だっていう意味?」

「んー……どうだろうなぁ。彼女達に対象を限った場合はそれでもどうにもなんねぇ話か。相手がボラックスなら年単位で我慢のし甲斐があるかもだけどなっ」

「……ちーさんって誑しなのね」

「誑しなのはタケ。あんなに調子のいいことを俺は言えねって。それだけボラックスはいい女に成長したと俺は認めてるよ。もう何年もしたら今度は声もかけられない」

 どうして?と首を捻った硼砂嬢に千尋はにっと笑いかけた。

「このままちゃんと勉強して女医になるんだろう?しがない街の獣医のおっさんとは到底釣り合わなくなるってことさ。ははっ、そんな顔すんなよ、ボラックスとはもう友達だよ。そういう綺羅綺羅したお嬢さんが出入りしてくれた方が動物病院も流行るってもんだしな?」

 ほっと安堵したような硼砂嬢だったが、また表情が直ぐに曇ってきた。

「今の話は……歳上のちーさんと、歳下の女の子って仮定よね。男性が歳上。……逆ならどうなのかしら」

「逆?それは多角的解釈ができるな。単純に俺が女だったらっつう男女逆転の構図。俺がまだ中学生のがきんちょでボラックスやあの双子らが成人女性という年齢逆転のケース。ボラックス達女性は今の年齢で更に年齢の低い少年とどうこうということを考えるパターン。……そう考えると面白いな」

「面白い?」

「男女が単純に入れ替わった世界を想像してみる……とても漫画チックだな。余剰頁におまけ漫画でありがちだ。仮にそうなったら、うちは女獣医二人の細腕で切り盛りする健気な動物病院ってことになるな。ははっ、これは繁盛しそうだ」

 だとしたらオレも雌かあ。ヨーキーの雌は肥りやすいんだよな~。あ、でももっと可愛さがついて、ママレードのお裾分けがオレにも回ってくるようになるかも?いやいやいや。そんな世界じゃ潤一さん改め潤一子さんは超キャリアウーマンで料理上手で家事をこなして歳下亭主を立てながら教授として研究者としてのモチベーションを維持させ続ける完璧な奥さまじゃねぇの。あれ?

「年齢が置き換わってるケースも面白いな。ボラックスが俺の歳で俺がボラックスの歳だとしたら、……こうやって悩みを持ってくるのは俺の方か?ボラックスは医者になっていて研修医でもしてる頃だろうから、忙しくてそれどころじゃねぇか……双子らが成人で俺が中学生なら……うわ、俺今嫌な想像した」

「嫌な想像?」

「半分妄想だって笑い飛ばしてくれよな?今彼女達はまだ恋に潔癖な思春期だ、だからあの人は私だけのものにする、なんて綺麗なことをそのまんま実行して姉妹で喧嘩したりしてる訳。でも、段々こう、三十路が近づいてくると……どろっどろしてきたりしないか?この際独り占めしなくても今だけでいいのみたいな刹那的な科白をどこからか憶えてきてさ……憐れな中学生男子はおばはんらの食い物にされちゃうのさ♪」

 硼砂嬢はぶっと吹き出した。

「あはっ、あははっ、それは確かに妄想入ってる……でもありったらありかも。そういう犯罪、あるもんね」

 千尋は茶を注ぎ足すと、誰得な話だ、と自嘲して続けた。

「ボラックスは十九だよな。歳下って趣味かい」

 彼女はここへ来てやっと狼狽えたような目をした。

「しゅ……趣味とか、よくわかんない」

 敢えて千尋は彼女の赤面を指摘せず、しれっと続けた。

「人間てさ、他の哺乳類から比べると断トツと言っていい程長寿命だよな。だから、十代二十代の年齢差と、もっと人生後半になってからの年齢差って、譬同じだけの開きでも持ってる意味が違ってくる。潤一さんが結婚したとき、あの人は三十六で美香乃さんは二十四だった。十二離れてるって当時は騒がれたみたいだけど、もう五十に手の届く今ならアラフォーの奥さんって別に違和感は無い。それは多分どちらも充分に成熟した大人だからなんだろう。どっこい俺の十二歳下っつったらまだ高校生。まだなにもできあがってもいない。だから犯罪として枠組みが取り決められている。ボラックスに至っては十二も下だと小学生になったばかりじゃん。雷汞フルミネートより年若な子供に男を感じるのかい」

 雷汞らいこうというのは彼女のもうひとりの弟くん。小学校高学年の筈。硼砂嬢は苦笑いした。

雷汞らいと比べられても……そうね、十二歳下の子供は私にとって、男じゃ、無い」

「……敢えて訊くけど、ボラックスにとって幾つぐらいからが男に見えるの?」

 千尋には硼砂嬢の悩みの輪郭が見えてきたらしい。なんでこういうとこ鋭いのかな。自分の悩みには疎くて、ついこの前まで自分の彼女に鬱屈した態度とってた癖にさ。彼女は複雑な表情で考え込んだ。

「誰彼構わず発情はしないよな。どのくらいの歳から身の危険を感じる?」

 硼砂嬢はくすりと笑った。

「極論ねちーさん……そうね、高校生くらいになってくると偶に怖いかなって思うこともある……でも、焔硝えんがいれば大丈夫よ」

 何故?と千尋は笑みを抑えて尋ねる。硼砂嬢は嬉しそうに頬を染めた。……ん?ん?ん?

焔硝えんがいると人が寄りつかなくなるのよ。パパやはやちんに鍛えられて見た目より強いし……凄っごく頼りになるの。頼っていいよっていう雰囲気も、安心する……」

「それなら軍医先生の方がもっと醸し出しているだろ」

「パパは……確かにそうなんだけど、家族全員に……ええ、私、でろっでろに愛されてる自覚あるよ?でも、家族に頼りにされる父親だわ。そんなパパ、大好き」

 父親を大好きだと公言する素直な硼砂嬢。なにを悩むってんだい。

焔硝ガンパウダーは違うんだ?」

「……ちーさん、もうこれ以上言わせないでくれないかな、わかっているんでしょう?私、おかしいよね?焔硝えんは弟だよ!」

 彼女の悲痛な声にオレは思わず膝に前肢をかけて鼻を鳴らす。きゅうぅん、大丈夫かい?硼砂嬢は思わず浮いていた腰を椅子に戻し、ふっと息を吐いた。

 ふわ、と抱き上げられて、そっと包み込まれた。くん、いい匂い。でも、今は不安でいっぱい。弟がこんなに慕わしいのって、変?っていうか、絶対無理な間柄。こんなのいけないよ。でも、やっぱり焔硝くんが誰よりも輝いて見える。他の人なんか、目に入らない。でもでも、なにかおかしいよ。だって焔硝くんはまだ中学生。弟、まだ子供。自分だってまだ子供……。止めて。肯定して。どうしたらいいの……こんなことはオレでもわかる。

 千尋は大きく脚を組むと、煙草を咥え、火を点けた。大きく煙を吐き出して、頭を掻き毟った。

「……今時点で結論は出せねぇな。でも、はっきりしていることもある。ボラックスは何故か焔硝ガンパウダーに惚れている自分に気づいた。禁断の関係だってことは解ってる。それを家族に言えなくて、俺のところにもってきた。俺はそこまでを理解した。いいな?」

 硼砂嬢は大きく頷く。

「そこで疑問がある。ボラックスのところの葵さんも瑞樹先生も軍医先生も京一郎さんも、誰ひとりとしてボラックスのこの気持ちに気づいていないのか?面妖おかしいだろ」

 硼砂嬢はぽかんと口をあけた。あ、瑞樹先生っていうのは彼女のご母堂ね。おっそろしく勘がいい人だ。

「そ、それは……」

「ボラックスが上手く隠しおおせている、とは思えないね。主殿でさえボラックスがなんだかぐるぐる悩んでいることに気づいてたんだから。葵さんは、特に口を挟まないって主義かもしれない。京一郎さんも、事態を静観する人だ。でもべた甘親父がなんでそわそわしねえのか、瑞樹先生が速攻手を打ってこないのか、謎でしかない」

 彼女が口許に手をやって俯くと、千尋は言った。

焔硝ガンパウダーはまだ中学生だ。ボラックスも平穏な日常を壊すような真似はしたくないんだろ。先ずは」

「暫く、なにもしない。……でしょ?ちーさん」

 千尋は口の端を緩めた。それで大丈夫なの、硼砂嬢?膝の上で立ち上がって顎をひと舐めすると彼女は大丈夫よポルちゃん、と笑みを浮かべた。


 RVF400が帰ってゆくと、晶がダイニングにひょこっと顔を出して帰った?と尋ねた。

「……聞こえてたなら、なにも口外するなよ」

「わかってるよ」

 晶は残っていたクラッカーを摘まみ上げてなにもつけないまま口に放り込んだ。

「ボラックスが悩むって一体なにかと思ったが、まさか禁忌に踏み込もうとしてたとはなぁ……」

 むぐむぐと口を動かしていた晶だったが、やっと飲み込むと、言った。

「乗ってきた単車バイク、あれ、お父さんのなんでしょ?すんなり貸してもらえるってことはこの話をここへもっていくことも見越してたんじゃないの?」

「そうだよなぁ、そんでもってその流れを俺達が気づくことも、計算のうちなんだろうなぁ」

 硼砂嬢の悩みは千尋に打ち明けられ、それを両親が熟知していることを暗黙のうちにRVF400が知らしめた……なんなの、これ、スパイごっこ?

「でもいいよね。このひとだ!ってボラックス、思っちゃったんだね」

「いいのか?」

「俺にはわかんない感覚だもん、羨ましいよ。誰か特別なひとができるって、どんな?兄貴ならわかるよね?」

 千尋はまた煙草に火を点けた。

「口頭じゃ、説明し難いな。相手が大切になる。相手も大切に思ってくれる。大切だから、他の人間に触らせたくなくなる。やっぱりドーキンスか?」

「遺伝子に振り回されるの?」

 千尋は灰皿に灰を落としながら笑った。

「どうなんだろう。人間は多元的過ぎる。悩みを聞くとは言ったが、マジ聞くことしかできなかった。不甲斐無い」

 笑みは苦くなって消えた。晶、千尋は見た目より落ち込んでるぞ、どうしよう。

 晶は少し考えるように天井を見上げた。顎を何回か擦ってにぱっと笑った。如何にも能天気そうなその笑み、ヤメロ。

「晩飯、カップラーメンにしちゃう?」

 千尋は煙草を捻じ消した。

「馬鹿が。それだけはやらん。飯だけはちゃんと食う。ん、今なら肉類に半額シールがつく頃だ。牛肉買って来い!間違っても鶏なんか買ってくるなよ!」

 はいはいよ〜と晶は千尋に病院の締めを任せて買い物へ出て行った。うん、そうだね、今日はどうあっても鶏肉って気分じゃないよ。卵も勘弁だ。


 ……結局赤札争奪戦に勝ったのか敗れたのか、晶の買ってきた牛肉は切り落し肉だった。ルーをぶち込んでハヤシライス。うん、まぁ贅沢贅沢。千尋、今日はなんも考えないで寝ろよ。わん!

火浦功氏の小説のもじりです…が、なんの関係もありません。

裸足で逃げ出したのは、さてだぁれ?

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