表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/23

7.フィラリア罹患を見捨てるとき

 物臭大王の千尋が髪を括っているゴムを外し、軽く櫛を通して括り直した。然して改善があるわけではないが、やらないよりはまし。玄関先を軽く掃いて水を打つ。千尋の浮かれ方ってなんというか、微妙だ。午前中に松を預けた爺さんも引き取りにきたから夕方の灌水の必要もない。徐にオレのブラッシングまでして、頭を括り直されてしまった。ちょっとぉ、目が攣てるよぉ。目、閉じらんないじゃん。千尋がブラッシングに飽きる頃、玄関先にこんにちは、と涼やかな声が響く。由利主殿嬢のお出ましである。オレは千尋の膝をひょいっと飛び出し、真と合流して玄関までお出迎え。千尋は態とのっそりと玄関に出てくる。

「よぅ、主殿」

 相変わらず由利嬢は微風を正面から爽やかに受けている風情だ。そっと手を伸ばしてオレと真に順に頭を撫でてくれる。ようこそ、いらっしゃいまし♡

 妙に芳ばしい匂いのする買物袋を受け取ってもらって彼女は靴を脱ぎながら言った。

「お夕飯、少し手抜きでもいい?」

「主殿が作ってくれるなら文句は言わない」

 千尋の科白はどうにもどこか捻けた印象だよねぇ。由利嬢が好きで好きで堪らないんだから、もうちょっとこう、尻尾ぷりぷりぷりーっくらいの気持ちを言葉にのせてもバチは当たらないぞ?

 由利嬢はそういう千尋の不作法なところには頓着しないらしく微笑んでご飯炊いておいてくれた?と尋ねている。彼女にメールもらって直ぐ米を研いだから、もう少しで炊き上がるだろう。

「この袋温かいな」

「駅前に焼鳥屋さんがいたの…焼鳥丼でいい?」

 成る程、串から外してタレをかけるだけ。手抜きっちゃ手抜きだ。

「それと韮玉…もやしのナムルと、獅子唐のお味噌汁」

「味噌汁に獅子唐?それはなんというかチャレンジャブルな気がするんだが、主殿?」

「そんなことないよう。江奈先生に作ってもらったことあるもん」

 江奈先生っていうのは多分堀切江奈医師のことかな。堀切粒嬢のご母堂だ。由利嬢のお母上の嘗ての部下であるそうな。因みに由利嬢のお父上は堀切嬢のご父君の部下。ややこしい。

 きぃーっと不快な軋みがして晶が往診から帰ってきた。自転車のブレーキはメンテナンスした方がいいと思うぜ。いつか事故になる。

「たっだいま~あ♥主殿さん来てるの?うわぁいらっしゃい♪」

 だからね晶、お前もいい加減彼女作んなさいって。いやいや、それ以前に友達いるの?

「ねー、兄貴ぃ、うちの前に焼鳥屋がいるよ?」

「そんなん、さっきはいなかったぞ?」

 千尋はカーテンを少しずらして表の通りを見た。表の通りったって半分私道みたいな狭い道である。そこに焼鳥屋の軽トラスクラムが停まって営業さえしていないことに小さく眉根を寄せ、由利嬢に尋ねる。

「主殿、焼鳥買ったの、あの軽トラ?」

「あ、うん」

「主殿さん追ってきちゃったかな?」

 むすっと千尋が呟く。

「ストーカーだ」

 主殿はそんなこと、と控え目に否定してみるが、彼女にとって強ち無いことではないのだろう、否定しきれないようだった。

「この家の中にいる限りは手出しはできまいし、帰りは車で送っていく。様子を見るとするか」


 夕食の食器を片づけながら由利嬢はあの焼鳥屋さんね、と思い出したように言う。

「焼鳥屋さんってどうしても売れ残りが出てしまうでしょう…お客さんの注文とは別に、見込みで焼いておかなくちゃならないでしょ?その焼きすぎの売れ残りをワンちゃんにあげてた」

「…やっていいもんじゃないんだけどな」

「獣医さんとしてはそうだよね。あ、串から外してあげてたよ」

「いや、塩分…」

「あ、そうだよね、焼鳥って塩っぱいよね…」

 犬が人間ヒトのように体表面全体に汗腺を持たないから塩分濃度のが高いものは御法度と言うのは犬を飼ったことのある者なら常識な事実である。焼鳥店の店主は飼ったことがないか無頓着なのであろう。それに犬だって味覚はある。塩分の強いものはどうしてもからだに必要なものが沢山やって来たと歓迎してしまって、舌が慣れてしまう。孰れにしてもイカンってことだ。

「あ、その犬俺見たことある」

 皿を運んできた晶が嘴を突っ込んできた。

「駅前の野良でしょ?このご時世に野良犬って珍しいなって思ってたんだ。でも可哀想だけどもういいんじゃない?」

 晶は千尋より外出が多い方だ。目にする機会は多いといってもいい。

「もういい?」

 千尋は晶がそう言った意味をなんとなく察して目を伏せた。由利嬢はわからなかったようだ。

「あのコ…一歳になるかならないかくらいの雑種だよね。凄く痩せ細ってて。多分なにかの病気。可哀想だけど、あまり長くないと思う」

「止せ」

 千尋は由利嬢を小さく見遣って晶を制止した。

「…助けないの?」

「主殿、晶が手出ししなかったのには理由がある」

 獣医だってボランティアじゃないから、弱っていればなんでも処置をするというものではない。それに野良犬と言い切った。飼い主がいない犬に手出しはしないのが千尋の中の最終ラインなのかな?そういう杓子定規な奴だったっけ?

「晶くん?」

「主殿さん…助かるなら俺だって助けてやりたいよ。でも、多分、無理」

 外で軽トラスクラムのものらしいエンジンをかける音がした。なかなか由利嬢が出てこないので諦めたのだろうか。

「動物に安楽死を齎していいのかよくわかんないし…処置した方が苦痛になると思うんだ…」

 由利嬢は目を伏せる兄弟を、見比べた。

「そっか…優しいね、二人共」

「優しくなんかないよ」

 二人は結局押し黙ってしまった。


 由利嬢を送ってゆく、と千尋はシルビアのエンジンをかけた。勿論俺もご同伴させてもらう。

「ごめんな主殿。俺達あんまり熱い獣医じゃなくて」

「うーん」

 由利嬢は困ったように苦笑いした。

「弱っていればなんでも手出しする、っていうのが熱い獣医さんじゃないと思うわ。それは子供の思想でしょう」

 成る程、上村兄弟は助けられるものイコール楽にさせてやれるもの、という図式があることを彼女は見抜いたって訳だ。むっつり千尋の彼女なだけあるなぁ。

 それでも千尋はその犬のことが気になるらしく一度国立駅前に車を回した。駅前にはさっきの軽トラスクラムが営業を再開していた。軽トラの後ろの方に小さな犬が確かにいた。痩せ細って、オレより骨格が大きい筈なのに、オレより軽そうだ。

 千尋はロータリーをぐるっと回ってその犬に目を遣って、ロータリーを出る頃にはきつく眉を寄せていた。

「千尋?」

「悪り。…晶は無理だから放置と言ったが、俺は本当は直ぐに死なせたい」

「ち、ち、千尋?」

 オレもこれには驚いた。流石に殺してしまいたいという結論を出すというのは穏やかでない。

 千尋は信号で止まると大きく息を吐き出し、ステアリングホイールの上に額をつけた。

「…主殿、絶対にあの犬には近寄るなよ」

「う、うん…」

「ごめん、酷いことを言って。でもあの犬は本当にもう駄目だ。末期の犬フィラリア症なんだ」

 オレははっとした。この前ブリが網戸をぶち破ったとき、小松氏がもう蚊に刺されていたじゃないか。今年は蚊が出るのが早いなと思ったのはオレだけじゃなかったんだ。

「俺今酷い顔してると思う…」

 千尋、もうすぐ信号が青になるよ。

「この付近一帯の犬という犬がフィラリアの予防薬を飲んでいることを祈るばかりだっ。押し掛けていってでも飲ませたいぐらいだっ」

 信号が青になった。千尋はもう一度大きく息を吐いて顔を上げた。シルビアはなにごともなかったように滑り出す。由利嬢はそんな千尋の心中も精一杯汲み取ろうと一生懸命なようだ。この人本当に心根まで美しいなぁ。

「こっち見るな主殿」

 千尋が奥歯を噛み締めている。手の施しようのないこと、それは小さな犬を助けるかどうかだけじゃない、もっと大きな事態だったなんて知った千尋の心の中は大嵐だろう。運転が荒っぽくならないだけでも上出来だよ、千尋。由利嬢は暫く目を伏せていたがぽつりと言った。

「ごめんね」

「主殿がなんで謝るんだ」

「だってあの犬のこと言ったの私」

「主殿が言おうが言うまいが、あの犬はあの状態で存在していた。主殿の所為じゃない」

「でも千尋が苦しそう」

 千尋はやっと渋面を緩めた。

「俺は無力だから。そしてどこまで手を突っ込んでいいかまだ決め兼ねている優柔不断なんだ。現実って残酷だよな」

「そんなこと、線引きできる人なんて多分いやしないわ。助けてあげられるなら助けてあげたい、当り前のことだと思うの。助けた方が苦しいなら処置しないっていうのはお医者さんとしてとても大切な心構えだと思う…社会的に助けが出せないっていうのは、人間として当り前なあり方だと思う。千尋、獣医さんが神様じゃないって、私よりよくわかってる筈。苦しいのは仕方ないけど、千尋の所為じゃないよ」

 由利嬢は俯いたまま千尋の左袖を小さく摘んでいた。指先に相当力が籠っている。ここで自分が泣いたら駄目、泣きたいのは千尋の方の筈…そう思っているのだろうな。あぁ本当にこの人素敵な人だなぁ、千尋は幸せな奴だ。最ももらいたい免罪符を一番出してほしい人にもらえた。千尋は由利嬢の指先に掌をあてるとありがとうと呟いて、それからはっきりと言った。

「もう大丈夫」


 幾ら千尋の勘がいいからって触りもしないで診断を下したのはちょっと軽率だなとは思うけれども、千尋は偶に見抜いているときがある。千尋自身は自分のそういうところをあまりあてにしていないらしく、普段業務なら手順マニュアルに沿って畜主の問診、触診と観察、臨床検査を経て診断を出す。逆を返せばあのフィラリアの犬には責任を負う必要も無し、そして明確に犬フィラリア症だと見抜ける徴候があったのだろう。

 犬フィラリア症は犬の心臓の右心房と肺動脈に寄生する犬糸状虫、Dirofilaria immitisが蚊などに媒介されて伝染る寄生虫病だ。フィラリアって聞くと日本じゃ即ち犬の病気って思われがちだけど、猫にも伝染るし、人間ヒトにも伝染る。心臓にうじょたら犬糸状虫が寄生している解剖写真を見たことがあるが、あれはなんていうか、目を背けたくなるくらい気持ち悪いものだ。唯一救いなのは防除や予防ができること。といっても完璧にするのは容易いことではない。だがこの予防法は人間にも利となるからやってほしい。それは蚊の駆除。ね?人間だって蚊に刺されたくないでしょ?方法は簡単。水溜まりを減らすこと。植木鉢の受け皿に水を溜めない、バケツとか庭に転がしておかない…流石に田圃や池の水を抜くのは無理だけど…そして蚊取り線香かなぁ。孑孒ぼうふらの育つ環境を徹底的に排除して、その上で犬には予防薬の投与。これね~コリーとかシェットランド(シェル)シープドッグ(ティ)とかがイベルメクチンに過剰に反応して体調を崩すこともあるんだよ…。言っとくけど、ちょっと怠い程度では済まないこともあるんだ。倦怠、涎、嘔吐、食欲不振、起立不能、昏睡なんてことも。ううう。考えるだけでうんざりする。…駆虫薬もあるんだけど、死んだ虫が肺動脈に詰まるなんてリスクもある。あとは手術…太い血管が絡む外科手術。開腹するわけじゃないんだけど、犬は手術を人間のように納得して受けるわけじゃないから、術後のことも考えて極力やりたくないと千尋は言っている。兎に角フィラリアに纏わるあれこれはどこをとっても不愉快なことばかり。千尋が酷い顔だから見ないでくれと嘆願した気持ちはわからないでもない。オレ?人間から見れば無表情かもしれないけど、嫌なものは嫌なもの。よく見てよ。パピヨンのように飾られた耳がいつもより少し横を向いて伏せ気味になってるでしょ。短いけど尻尾だって丸め込み。この嫌気いやげな気持ち、わかってよ。

 由利嬢とたっぷりキスをして分かれた後、千尋はいつかきた土手の上にシルビアを停めた。車から出てピラーに寄りかかり、煙草に火を点ける。もわあっと大きく吐き出した煙は彼の言葉にならない溜息にしか見えない。由利嬢には赦しをもらえたけれど、やっぱり千尋は自分を赦していない。医者だもんね、助けてあげたかったんだね。でも駆除薬投与するとフィラリア虫の死骸であの犬きっと血管を詰まらせてショック症状を起こすね。手術に耐えられる体力ももう無いね。フィラリア、嫌なやつだね。でもフィラリアにだってなんらかの存在意味があるんだよね。でも本当に迷惑だよね。ああもう、ぐっちゃぐちゃ。思わずきゅうーん、なんて鼻が鳴っちゃう。

「ポルカ…」

 千尋は目を細め、煙草を吸いきって消すとオレを抱き上げた。

「お前、独善的な筈のヨーキーの癖に、感応力高いのな」

 おいおい、褒めてんのかい、貶してんのかい。

 顔に煙草のにおいがついている。思わずふすふすと嗅いだら胸を合わすように抱いていた千尋がぷっと吹き出した。

「煙草くさい?そのくらい格好つけさせろよ。じゃないとお前、俺の落ち込んでるにおいを嗅ぎ取るだろ」

 そうだね、千尋の気持ちはオレにはわかるよ。でもにおいだけじゃないんだぞ。跫、声の調子、体温。犬だけじゃないかもしんないけど、犬は全身センサーみたいなもんさ。手が温かい。湿ってる。声がちょっと鼻にかかってる。選んだ靴、少しいいやつ。もし彼女の家の前で由利准将がありとあらゆる武器を取り揃えて千尋を出迎えても怖じ気づかないでいられるように。今日は出番がなかったね。ちゃんと白衣からジャケットに換えてきたのにね。でもほっとしたね。こんなぐちゃぐちゃな気持ちのときに准将と対峙したくなかったもんね。

「勘繰りすぎだ。俺がまだ未熟だから挨拶なんて畏れ多い。准将はそんなにおっかない人じゃないよ。潤一さんは神業の持ち主って言うけどね」

 あ、それ知ってるよ。潤一さんの結婚式の話でしょ。犬がわからないと思って、みんな迂闊だよね。あ、でもオレからは誰にも伝わらないか。なーっ、千尋?

「ポルカ、お前時々人間ナメてねぇか?」

 やだね、人聞き悪いねっ。ナメちゃないけど、舐めてあげるよ。ぺろり、と鼻がしらを舐めるとこんにゃろ、と千尋は笑った。

他人ひとの気持ちをざぶざふ酌みやがって。やらしい犬だな」

 やだな、千尋こそ犬の気持ちを人間ヒトの言葉にしたりして。ほらぁ、寒くなってきちゃったじゃん。

「帰るか。明日は玄関前の草毟りでもすっか」

 そりゃ精力的だな。軍手と帽子を忘れんなよっ。助手席に戻されたオレは転がらないように伏せの姿勢。オレは千尋の飼い犬として役に立った…のかな。ただ飯食らいって言われない程度には傍にいる存在としての働きをしたいもんだ。え?それが飼い犬の願いってもんでしょ。


 なんかおかしい、と思うのはやめてくれ。オレと千尋の間で会話が成立していた訳じゃないんだ。オレは千尋の言葉は理解できるけど、千尋は犬の言語なんて全く理解してない。つか抑オレ鼻鳴らした以外わんともきゃんとも吠えてないかんね。オレが考えていることを千尋は驚くほど言い当てていただけ。言い当てていたっていうのも齟齬があるな。多分、千尋は犬が飼い主の気持ちに寄り添うことをよく知ってるし、オレの性格も知ってるから、こんなこと考えていそうだよな~って読めちゃう、きっとその程度なんだ。そこに会話のように軽口で応酬していただけ。そうすれば気持ちが軽くなるから。幾ら犬が日本語を喋らないからって、互いに無口でいる必要はないさ。独り言?ちゃんと聞いてるよ、オレも真も、ブリも。…金魚達はちょっと保証しかねるけどな。

 午前中、千尋は金魚の水をバケツに一杯分だけ取り換え、ケージをせっせと掃除し、すっかり水洗いを終えて五月晴れの縁側に積み上げ干した。庭のホースの先に蓮口をつけて水撒きをすれば植木の間に青空のもと虹がかかる。昨日の泥沼のような気持ちは取り敢えずあっちの方に押し遣っておくことに成功しているようだ。灌水に満足した千尋は蓮口を片して黒いリボンの麦藁帽子に軍手という出で立ちで草毟りに勤しむことにしたらしい。今日は長い白衣でなく、襟の詰まったケーシーを着たのはその為かぁ。いいじゃんいいじゃん、有言実行。半袖の腕に黒い袖カバーを嵌めて首に農協のぺらっぺらになったタオルを押し込む。なんだこのやる気。いざ黒ゴム長で出陣!ってところで携帯が鳴った。

「…どうした、こんな時間に」

 ん、このぞんざいな感じ、由利嬢だな?

「昨日の今日だろう」

 ほうほう、今日も晩飯を作りに来てくれるのか。

「あの焼鳥屋?いやそんな。…うん、それは構わない…知ってる人だ、もう何年経つだろう…偶にここへ来るから顔は判る」

 彼女は誰かを伴ってくるのか。そしてその人もここで晩飯を食うのね。

「わかった、待ってるよ」

 携帯を胸のポケットに仕舞うとふむ、と腕組みをして唸り、左手に残していた軍手を外して自室のパソコンの電源を入れた。


 午後中千尋は無心に雑草を毟っていた。しゃがみこんで苦菜のげしの直根に移植鏝をあて、雀の帷子の広がった根の土を振るう。姫踊子草を抜いた上に阿蘭陀耳菜草を重ねるように放る。蚤の綴りも根っこから引き抜いて、いつしか千尋の額には玉の汗が浮かんでいた。三時を回る頃心配げに晶が出てきた。

「なにむきになってるの」

「むきになってなんか…ないつもりなんだが、一本引っこ抜くともう一本目についてな。子供の頃ここでよく遊んだなぁ」

「あはっ、お客さんが来るっていうのにその玄関を陣取ったね〜。ここ涼しいんだもんなぁ」

 晶は思い出を懐かしむように言ったが、途中であれ?と首を捻る。

「…涼しくない」

「ははは、ここにあった山桃の樹を伐ったから。あれはにょきにょき育ってここを暗くしてしまったんでね」

「あぁ…山桃…。あったねぇあったねぇ。味蕾の拡大したのみたいな実がなるんだよねぇ、熟れて本当にいい頃合いだとそれなりに旨いんだけど、熟れ過ぎちゃうと虫が入ってるし、早いと物凄く渋いし…そっか、伐っちゃったんだっけ…」

 晶は少し残念そうだ。喪失感から来る感傷を引き摺るのはいまいちだと思うけど、と思っていたら千尋は泥で真っ黒けになった軍手の手を丸めて口許に寄せ、くすくす笑い出した。

「山桃なら親爺が伐る前に挿木してとっといたよ。食いたきゃあそこに毎年なってるのに」

「え?あ?…そうだったの?」

「晶は明き盲だなぁ」

 差別用語ぎりぎりの言葉で千尋は言った。

「それが人間ってもんか。見たいもんしか見えねぇし、見たくないもんはなかったことにさえできるってもんだな」

 人間の視野だって、そう捨てたもんじゃないんだそうだ。片目では鼻側及び上側で約六十度、下側に約七十度、耳側に約九十~百度と言われている。両眼が略平面の顔面上にあるため、両目で同時に見える範囲が左右百二十度と広い代りに、両目が顔の左右に付いている他の動物と比べて総合した視野は広くない。そうだな、左右百八十~二百度くらい。犬?肉食動物なんで両眼視を求めた構造になっているから、どっちかっていうと狭いよ。大して草食動物は顔の両側に目が振り分けられるようについているから、かなり後ろの方まで見えているんだそうだ。逃げる草食動物故の構造だよね。

 ん?物理的な視野の問題じゃないって?あぁ、脳の取捨選択?そんなの悩むことじゃないよ、晶。晶にとって見えないものってのは脳が必要ないって判断したんだって、納得してやれよ。

「やめやめやめい。晶、喉が渇いた。なんか冷たいもんでも淹れろ。茶がいい、茶」

 千尋は軍手をとり、袖をカバーしていない袖カバーをとった。汗を何度か拭ったからか、額に泥がついている。全部洗濯機に纏めて放り込んだら駄目なんだぞ。みんな薄汚れになっちゃうぞ?流石にこれは伝えたくて三度吠えついてやったら千尋は洗濯機の上で放り込む寸前のケーシーを引っ込めて脱衣籠に放り込み、軍手と袖カバーだけで洗濯機を回し始めた。そうそう、下洗いするなり別に洗うなりしないと獣医の緊迫した清潔感が損なわれてしまうよ。千尋が浴室で浴び始めたシャワーの音にオレはふんと鼻息を吐いて餌皿に行く。千尋と晶を見守ってたら喉渇いちゃった。全く世話の焼ける兄弟だよねっ。


 我が家の前にタンデム仕様にした青のGSX1300R隼という大きなバイクが停まっている。これは鳩村瑛路氏のバイクで、もうかれこれ三十年近く乗り回しているそうだ。鳩村氏は今犬用のおやつの袋を片手に真とオレにおすわりだのお手だのさせてとても楽しそうだ。え?オレがこの遊びが嫌かって?そんなわけないっしょ。お手って言われて、しちゃっと前脚を載せる。おかわり!で、すちゃっと左右を入れ替える。伏せって言われたら、つちゃっと伏せ。さあおくれ、ぴるぴるっと尻尾を振ると、犬も人も楽しい。

「おお、ポルカかしこいなぁ。この真ん丸な目が堪んないね〜」

 でしょでしょ〜♥オレ可愛いもん。おやつには絶対服従だもん。

 鳩村氏はチャコールの三つ揃いに目が痛い程白いワイシャツ、利休茶にボルドーのレジメンタルのネクタイ。背広は椅子の背に掛けられてて、精悍なウェストコート姿だ。なんていうかこう、もう、凄く恰好いいの。並川さんこと水間透織氏の睫大増量のバタ臭いイケメンっぷりとは違う、とても日本人的な男前。意外と確りした体つきで、そこら辺のへなちょこ二枚目俳優なんか目じゃない。四十路半ばの渋さが加わって、なんともいえない色気すらある。秋津運輸特殊品運送事業部課長、つまり由利嬢の上司に当たる。

 真が自分にもおやつを、というように早くコマンドを出してくれと前脚をたんっ、と床に叩き付けた。これこれ、待て、も大事なコマンドだぞよ、真。

 真にも同じように幾つかのコマンドを繰り返したところで千尋は茶を淹れて戻ってきた。お終いな、と鳩村氏は言っておやつの袋を千尋に返しテーブルに着く。

「どこから話そうかな、上村医師せんせい?」

 千尋はよしてください、と肩を竦める。台所では由利嬢が夕飯の仕度をしている。鳩村氏はちらりとそちらを見遣って事の発端は由利嬢がレシートを落としたことだ、と話し始めた。

「昨日彼女が国立の駅前で焼鳥を買ったレシートにね、販売員の名字が入っていたんだ。ユカシマ、ってね。どこでもありそうだけど、ちょっと珍しい名字でしょ」

 鳩村氏は椅子の脚に寄ったオレを抱き上げ、膝に乗せた。背中を擽るように指で撫でてもらうと気持ちいい。

「拾ったのは星合さん。憶えてる?」

「鳩村さんに原形不定詞でsink or swim、と言った人ですよね、憶えています」

「記憶力いいなぁ。あの人も恐ろしく記憶力よくてね。ユカシマ、である事件を思い出したんだ」

 鳩村氏は一瞬指を止めたがまたなにごともなかったようにオレの背中を撫で続けた。

「丁度sink or swimを言われた十日くらい前のことかな。桜庭部長が未解決になっていた殺人事件を解いてしまったんだよ」

 千尋は唖然としたように口を開けた。晶ならはぁ?とか言いそうなところを無言に留めたのは千尋の自制心の賜物といえるだろう。

「…潤一さんは蜜貛ラーテルと九州新幹線陸送で手一杯だったでしょう、あの頃」

 鳩村氏はにやりと笑うと煙草いい?と背広から煙草を取り出し火を点けた。千尋は黙って灰皿を差し出す。

「うちの整備士が建設コンサルの談合資料を手に入れちゃってね、それ絡みで」

 鳩村氏の語った内容はざっと以下の通りである。

 談合の資料を手に入れた整備士嬢はそれがそういうものであることを全く知らぬまま数年を過ごしていたそうだ。実は同棲相手に巧みに誘導されてそれを手に入れさせられ、その代金まで彼女が持ってしまったらしい。だがその同棲相手というのはその談合資料を手に入れる為に彼女との暮らしをしており、当然不仲になり、その関係を断ち切ろうと彼女は荷物を纏めて出奔した。当然男は彼女を、というか談合資料を手放したくないから追ってくる。彼女は行方を眩まし…この辺りも潤一さんの肝煎だったそうだけど、兎も角その行方を求めて矛先を潤一さん配下秋津運輸特殊品輸送事業部に向けた。当初潤一さんは談合のことなんて放っておこうかともしていたらしかったのだけれども、よくよく資料を暴いてみると、警察が自殺かもとすら断定しかけていた資料を持ち出した三橋という男を集団で殺害した記録で、それを指示した天下りから口止め料を貰って談合のことも殺害のことも噤まされたらしい。

 噤まされたというのはちょっと語弊があるな、と二本目の煙草を潰しながら鳩村氏は言う。

「連中は自首する気なんてこれっぽっちもなかったし、殺害したなんていう罪の意識も薄かった。毎月そんなに大きな額ではないけれど懐に入ってくる金に溺れていた」

 お金って怖いよね。無きゃ困るし、あると人を惑わす。今年も千尋は月末最新の診察機器とかのカタログ見て溜息吐くんだろうな。連休で一時的にお客が増えて儲かったけど、それに乗じてほいほい買えないこの辛さ。千尋も金に翻弄されるひとりだ。

「それがどうして解決に到ったのかって顔だな。ふふっ、知ってる人は『イチさんの魔法』って呼ぶよ。実際のところは周到な下準備の積み重ねでしかないのだけども。それと、運」

 資料を開くと、口止め料を受け取っていた者の写真と名前が記載されていた。そのうちの一人が秋津運輸に派遣会社のコーディネイターとして出入りしていたらしい。

「…よくわからないんですが。整備士の方と同棲していた人とは別の人?」

「整備士と同棲していたのは安藤けいという。こいつは厚かましい男でね。イチさんにきゃんきゃん吠えつく癖にいつかばれたらと内心びくびくしてる。だのにやっぱり厚顔で、どうにかイチさんの目論見を阻止したい、なぁんてしょーもない男。秋津運輸に網にかかりに来たのは自分は何の罪も無いと楽観的な勘違いをしてた床島ゆかしま大。国立の駅前で焼鳥を売っていたあいつだよ」

 そしてその名に星合氏が反応した。でもどうして鳩村氏が由利嬢の護衛につく、という形になるのだろう。

「当時派遣会社のコーディネイターしてた床島は特輸に出入りしていたのでは無かったのだけど、受付で網にかかって特輸に連れてこられたんだ。イチさんはひとりで対峙するつもりだったのだけど、逆ギレされると困るから、俺が護衛についたの。床島ががっちり顔を見たのは俺とイチさんなわけ。だから家に帰ってあの日にしてたネクタイ、これね♪急遽締めてきたの。捨てないでよかったよ」

 鳩村氏はネクタイの結び目ノットに少しだけ目を落として指輪の光る左手の指先で玩んだ。うっわ、なんだこれ。滅茶苦茶格好いい。オレ人間だったらヤバいかも。え?なににヤバいかって?憧憬を抱いて従属するかの如く懐いてしまいそうってこと。だってオレ人間だったらこういう男になりたいもの。見本の傍にいたいと思うの、なんか間違ってる?それともこれは群れ行動が本能の犬としての感覚?

「その差配は潤一さんが?」

「差配か、上手いことを言うね。ネクタイは星合さんの指金。俺も少し歳を取ったから、床島が気づいてくんなきゃ意味ないでしょ?…まさか床島が焼鳥屋にねぇ。よりによって由利とのちゃんに一目惚れからの即ストーキングって、阿呆だなぁ」

「主殿は美人で綺麗にしているから、仕方無いと思います…せめて常に秋津運輸の人間だとわかるようにしておいてやればよかったんですかねぇ?」

 己の彼女を素直に美人だ綺麗だと言い切った千尋に鳩村氏は微笑んだ。

「一目惚れは阻止しようのない仕方の無いことだ。そこまで踏み込むことはない。その後のストーキングはどうかと思うね。況して床島は焼鳥屋を営業中だったわけで、それを放っぽり出してついてきちゃうことが問題なのさ。由利とのちゃんは君という彼氏がいるし、秋津の社員で、四十絡みの床島なんかにゃ勿体無い程若くて聡明、そして准将のお嬢さんっつー立場だ。イチさんも放っておけなかったんだよ」

 俺もね、と鳩村氏は笑った。

 医院の方を閉めてきた晶が終わった?と顔を出した。鳩村氏は噂の人間の見分けのつかない弟くん?と千尋に尋ねた。

「潤一さんですか?全く…」

「違うよ~硼ちゃんだよ。あの子はここへ結構頻繁に来てるんだね」

 千尋は煙草に火を点け、煙を大きく吐いた。

「四月から来てませんよ。大学が忙しいんでしょう」

「まだ一年生じゃないの。そんなに最初っから忙しいの、大学って」

「どうでしょうね…俺は知りたいことが多かったから、詰め込めるだけ授業科目を選択してぎちぎちにしていたから。…ボラックスがそういう要領の悪いことはしないでしょうけどね」

「…彼女は」

 鳩村氏はなにかを思い出したように小さく笑うと続けた。

「とても頭の回転のいい子だけど、彼女なりに悩みがあるようだよ?」

「悩み?まさか。直ぐに解決してしまうでしょう」

「そうでもないみたいだよ。ねぇ、由利とのちゃん?」

 サラダを運んできた由利嬢に鳩村氏は笑いかけた。由利嬢はサラダボウルを置くとその形よい唇に指をかけるようにして首を傾げた。

「ちょっと今回は長い感じかな…鳩村ハトさん、なにかご存知ですか?」

「残念ながら」

「ボラックスも水臭いな。話くらい聞いてやるのに」

 鳩村氏は伝えておくよ、と言った。うーん、直接早川硼砂嬢に言わなさそうなんだよなぁ、この人の場合…。あ、彼が無責任っていうんじゃなくて、彼が直接伝える前に鳩村氏が伝える、と公言したことが早川家に伝わってしまう、ということだよ。だってもう彼より早川家にちかしい由利嬢が彼の公言を耳にした。彼女から早川家に伝わる可能性は極めて高い。


 鳩村氏は鱈腹食ってじゃぁねっと隼に跨がり颯爽と帰っていった。うひょ、スーツでバイク乗っちゃうんだ。はぁーっ、どこまでも恰好いい。そんな彼が見えなくなった頃、由利嬢はぽつりと呟いた。

「…あのワンちゃん、目の前で死んだの」

 びくりと千尋が身を固くした。玄関に戻りかけていた晶がぎょっとしたように振り返る。

「桜庭課長の言いつけ通り、秋津運輸の防水バッグ提げて、ロータリーで鳩村ハトさんを待ったわ…焼鳥屋さんの正面で。軽トラスクラムから目線がくるの。昨日ここまで軽トラスクラムが来てたのは決して配達とかじゃなくて、確かに追尾ストークされてたんだって…じろじろ見られるのって本当に嫌。跋が悪いのか目を逸らして、でもまたこっち見て。ワンちゃんはまた売れ残りをもらってたわ。時々咳をして、脚が震えてた。いつももらう定位置なのか、土瀝青アスファルトに油の染みができてた…鳩村ハトさんはロータリーの軽トラスクラムの真横にバイクを停めて…私、駆け寄るように言われてたから、そうした。床島っていう人が鳩村ハトさんに気づいて、さっと青ざめたの、鳩村ハトさん全然気づかないふりして。書類渡すふりで防水バッグ渡して、鳩村課長、だなんて呼ばされて…床島が右手首を庇った。じりじり焼鳥の焼ける音がやけに大きく聞こえて。鳩村ハトさんが言うの。桜庭事業部長が心配していたよ、って。そのときはそんなに?って思ったけど、あれ、床島に事業部長イチさんの名前を聞かせる為だったのね…」

 由利嬢はオレを抱っこしたまま千尋の肩に額をつけた。あっ仕挫しくった。オレただのお邪魔虫じゃん!

「床島は目を逸らして串を何本か態とらしく返した。ワンちゃんが立て続けに咳をして、あっと思ったら血を吐いたの。床島が気になったみたいに伸び上がってワンちゃんを見た。でも駆け寄るとか、しないの。ワンちゃん、肢に力が入らなくなったように地面に倒れて。肢が痙攣するように大きく掻いたり細かく震えたりして。軈てそれも止んで動かなくなってしまった。私もそうだけど、床島も、ずっとその様子じぃっと見てたのに顔色も変えない」

「主殿…」

「幾ら千尋に近寄るなって言われてたからって、私なんにもしなかった!撫でてあげるくらいできたんじゃないのかなぁ!」

「主殿」

「床島が三橋、って呟いたのが聞こえた。三橋って床島の仲間に殺された人だわ!床島は殺されるところ黙って見てたって!見殺しにしたって!私、おんなじことした!」

 あああ~…由利嬢、千尋、ごめんよ…オレここにいると本っ当にお邪魔虫だよなぁ。由利嬢だってこの場面、千尋に抱き締められたいだろうに。晶が気を利かせてオレを連れて家の中へ…なんて芸当は無理だろうな。端っから期待はしてないよ、うん。

「主殿、そういうことも引っ括めて近寄るなと言ったんだ。フィラリア虫が入っている犬が撫でられて心地いいとは限らない。浮腫んでいたり、骨が浮いていたりして触られたら辛いってことも。な。すまない、言っておくんだった」

 千尋は彼女の肩に掌を置いて嘆息混じりに言った。

「看取られることが当り前の人間と野良犬の最期は違う。主殿が見殺しになんかしてないだろ。したのは俺達だ」

 由利嬢は額を擦りつけるように首を振った。

「…お願いだ主殿。あの犬のことは忘れてくれ。手の施しようが無いと逃げた俺を責めないでほしい」

 由利嬢ははっとしたように顔をあげた。

「…ごめん…ごめんね千尋っ…」

 千尋は苦笑いした。

「そこで謝られると立場ねぇなぁ。潤一さんも酷なことをするよな。床島にうちのかわいい部下に近寄るないつでも見てるぞみたいな怖気おぞけを感じさせるだなんて。いつも身近に包囲網があるなんて、ぞっとする。俺もそんな風に思われてんのかな」

 鳩村氏がちょくちょくここに顔出すのは偵察だったりしてね、なぁんちゃって♡あの人はオレや真で遊ぶのが好きなだけ。偶の平日休みに奥さんとの休みが重なることは少なくて、娘を連れてここへ来る…動物園じゃないんですよ鳩村課長。

「主殿?今回のことは、誰にもどうにもできないことだったんだよ。潤一さんの解決は穏やかだね。鳩村さんを見て気が引けたのは、床島が潤一さんに暴力を振るおうとしたことがあるからなんじゃないの。鳩村さんはきっと護衛として最大限平和的にそれを止めたんだ。秋津の本社の中での出来事だったんだから」

 2112年の、三橋尚道殺害に絡む大人数の逮捕、というのについて千尋は少し調べてみていた。逮捕者は大まかに二通り。床島や安藤のように三橋の殺害に関与して現金を手にしていた者と、暴力団主導の談合事件そのものに関わった者。三橋の殺害に関しては実際床島のように手を下さなかったが金を受け取っていた者も多かった。

 床島も実刑を食らって職を失い、やっとありついた焼鳥販売という仕事なのだろう。潤一さんは彼からなにもかも取り上げてしまおうという滅茶苦茶なことは図らなかった。床島に近寄ってはいけない、と教えてやっただけ。

「フィラリアに罹った犬がいたことは結末を暗くしてしまった。死に直面だなんて、辛かったろう」

 由利嬢はこく、と小さく顎を引いた。母親が医師でも、流石に生死の現場に立ち合うことは先ず無かろう。父親がGSDFで紛争地域に派遣されたことがあるからといって、彼女がそこで小銃を撃つ訳じゃない。寧ろ人間の身勝手に付き合う小動物と日常的に接している千尋の方が生きるだの死ぬだのに近しい。少しばかりどこか麻痺する程度に。そして、あの犬は死んだ。千尋のなかには安堵がある。半分以上占めてるかも知れない。そのことにも罪悪感が伴ってるんだろうなぁ。面倒臭いね、獣医って。千尋の最終ラインってかなりぎりぎりまで踏み込んでるんだとオレは思い知ったよ。飼い主がいようかいなかろうが、千尋が楽にしてやれるものは総てそうしてやりたい、そう思ってるんだってこと。裏側には、できないものには決して手出ししないという固い決意と苦渋の決断があるということ。そして職業とした以上、都度いちいちいじいじ悩んでいる素振りは見せない…という努力をしてるってこと。

 千尋は今それを最大限に発揮することに決めたらしく、態と能天気な声を上げた。

「よし、主殿、今晩は泊まってけ」

 由利嬢はがば、と顔を上げ、かぁっと赤くなった顔で柳眉を吊り上げた。

「お、結構本気?いいよ、明日は家か汐留に送っていこうか?」

「もーっ、千尋の助平っ!」

 ぽかすかと由利嬢が千尋の胸を叩く。彼女は兎も角、晶まで真っ赤ってちょっとどうなの。底が知れるぞ、晶。

 千尋は彼女の照れ隠しを宥めながらそっと背中に腕を回して家の中へと三人で戻ったのだった。


  結局由利嬢は泊まっていったよ。千尋の部屋じゃなくて、客間の和室ね。前に使ったのがコマッチだがちゃんとシーツとかは洗ってあるから、と言った。変な独占欲。

 彼女が風呂を使っている間に片づけは千尋と晶であっという間に終えた。千尋の泊まってけ、は冗談や邪念をすっ飛ばして彼女の疲弊を見抜いていたからこそ出たものだったようだ。そういう毒気の抜き方、オレは好きだな。寝巻き代わりのシャツや短パンを貸してやり、布団を延べてやる。

「ポルカ、主殿についててやって」

 お?その役目、オレに持ってくるのか!よっしゃ、引き受けたるよ!

 由利嬢はなんでそうなるのかよくわからないという顔をしている。ふっふっふっ、このポルカ様の癒し効果をとくと堪能なされませい!千尋はゆっくり休めよ、と言って和室を出て閉めていった。部屋は廊下を挟んで向かいだが来るなよ、と背中が言っていた。だからオレが残されたんだから。由利嬢はやや落胆気味に布団に潜り込み、目を閉じようとした。けれど瞼の裏に今日の出来事が次々と思い出されるのか、常夜灯の薄明かりのなか彼女は何度も目を開き、とうとう身を起こして額に手を当てた。ん、そろそろ出番かな?

 布団の足の方に蹲ってたオレはふかふかした掛布団の上を新雪でも踏むように慎重に歩いて、捲れ上がっている布団の肩口に辿り着くと、狐穴にでも潜り込むかのように入り込む。中で一度回れ右して鼻先とぎりぎり目が出るかでないかくらいで一旦伏せ。由利嬢が驚いてる目と目が合うと、体の緊張を解いてごろんと背を彼女につける。オレは半分腹を天に向けてだらしなく寝そべってる。

「ポルちゃん?」

 腹、撫でてみる?今なら鼻にさわってもいいよ。カモーン、ってな感じで前肢を片方掛布団の上に出してみる。ほらどうよ!すっかり人間気取りで布団を使うポルカ様の出来上がりだぜ!

「ポルちゃんたら、お布団で寝るの得意なのね」

 ま、ねー。由利嬢はリボンから少し零れ始めたオレの前髪を小さく撫で戻してくれた。千尋が不在の昼間の布団を堂々占拠して昼寝に勤しむのは愛玩犬の務めだもんよ。由利嬢はオレに添い寝するように横になった。オレの背後に付くような形の由利嬢に目だけ動かして見遣るととろんと眠たげな目にかち合った。首を伸ばして仰ぐように由利嬢の顎の辺りでふんふん鼻息を立ててやると、由利嬢は緩く笑った。

「へへっ。千尋には敵わないなぁ…げてるの、お見通し…ポルちゃんは千尋の分身みたい」

 それは複雑な心境だなぁ…オレあんな大雑把?

 オレは首を戻して知らん顔で寝るモードのふり。目はぱっちりだけどね。

「ポルちゃん優しい♪そうね、寝ちゃお」

 そうそう。寝ちゃえ寝ちゃえ。どんなもんだい、ポルカ様の癒し♥由利嬢の頬に伝った一条ひとすじの涙をぺろんと舐めて、朝まで深い眠りが続くことを祈った。


 翌日、秋津運輸は稍騒がしかった、と潤一さんからメールがきたのは夕方晩飯作るの面倒臭ぇなぁ、と冷蔵庫に首を突っ込んだ頃だった。千尋は由利嬢に朝食を食べさせたあと、シルビアに乗せて彼女の家に連れて行き、着替えさせたらまた車に乗せて汐留に連れていったからだ。幾ら本社の正面玄関前じゃないとはいえ、そんな傍でいつものような別離のキスをしたら噂になるわい。況してや由利嬢だぜ?間違いなく彼女は特殊品輸送事業部の花で、会社全体の羨望の的マドンナに違いない。その彼女が、朝男の運転する車に乗って出勤してきて、キスで分かれて、その男の後頭部に尻尾が生えていて、医者っぽい白衣で、何故か犬連れ。なのに車は型落ちの国産車。

 小松氏からも然も可笑しそうなメールが届いて、千尋は憮然とした。

「…どうせ俺じゃ主殿に釣り合わねぇよ」

 晶は冷蔵庫から麦茶を取り出してコップにどぶどぶと注いだ。ジャグを戻しながら晶はグラスを口に当てる。

「主殿さんってさぁ、そんなに完璧じゃないよね?」

「お前がそれ言うか」

 晶は頓着せずに続けた。

「美香乃さんもそうだけどさ。ちょっとどこか脆くて、案外できないこといっぱいでさ。凄く当たり前な人だよね」

「そんな完璧なら単為生殖しとるわ」

 晶はぶっと吹き出した。

「じゃ、兄貴でもいいんじゃん?」

「ああ?」

『あ』に濁点でもついていそうな声で千尋は怪訝そうに晶を見る。

「…くっそ。こんなポニーテイル野郎に〆られるとは俺も焼きが回ったな」

 ひっでぇ、と頬を膨らましかけた晶に千尋はとんと肩を小突いた。

「今日は鯖。ちゃんと湯引きしてから味噌で煮ろよ」

「そこまでわかってるなら兄貴が作れよぅ」

 千尋は知らん顔で餌皿を三つ取り出した。先ずオレの。次いで真の。最後はブリのキャットフード。新しい水を汲んで千尋はブリーっと声を張り上げた。真はヨシと言われるのを今か今かと皿の前で待っている。ブリが鈴を鳴らしてするりと餌皿のところへやって来て、千尋を見上げにゃぁん、と小さく声を上げる。ブリは最近このくらいの主張をやっとするようになってきた。

「おっし、来たな。真、ヨシ!ブリも食え。ポルカ、食ってヨシ。あ、これ、ご褒美な。主殿をありがとよ」

 オレの餌皿の横に牛乳の入った皿が置かれた。やったぁ!いっつも腹下すって渋る牛乳だぁ♪牛乳♡牛乳♡程好く温んでてきっと下さないよ!

 ぺちゃぺちゃ音を立てて牛乳を胃に送り込んでいるオレの横に千尋はしゃがみ込み、覗き込むようにオレを見る。なんだなんだ?

「ポルカはどう思う」

 牛乳の皿、空っぽになっちゃった。オレは意地汚く皿を舐めてミクロの単位まで残すまいとしたが、何度か舐めると皿の表面からはもう牛乳の蠱惑的な味はしなくなってしまった。諦めてドライフードにぱくつくと、まだ千尋はしゃがみ込んでいた。ぼりぼりとフードを噛み砕きながら首を傾げてしまう。

 なにがさ。由利嬢が社内でがっかりされてなにがいけないんだよ?寧ろ今までフリーだと勘違いされて、もしかしたら触れなば落ちんと思われてたことを反省すべきでないの?あっごめぇん、辛辣すぎた?

 千尋はなにが面白いのかくすくす笑い出した。そして黙ってオレの頭を指先で撫でて、ゆっくり食えよ、とだけ言い残して立ち去った。そうだね、ゆっくり食べなきゃ勿体無い。胃の中の牛乳でドライフードがむくむく膨らんで膨満感で苦しむの、オレやーだもん♪


 だよねっ、千尋?

三橋殺害に纏わる話はもう一本お届けする予定です。先に千尋の先輩が出てくるかも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ