5.大脱走のテーマ
千尋は白衣に麦藁帽子を被った姿で庭中青いホースを引っ張って歩いて満開の皐や預かった松の盆栽鉢に水を撒き終えると、然も大仕事をしたと言わんばかりにでんと診察室の肘掛けのついた椅子にふんぞり返り、徐にデスクの抽斗を開ける。そこから出てきたるは彼のおやつのポッキーだったりする。最近のお気に入りのサラ・パレツキーなんぞ取り出し、栞の頁を捲ってポッキーをくわえる。午前中彼女に約束した通り動物のケージ室を掃除し、臭い低減に励んだ。しかし動物のつけた臭いというのは自分の存在証明であるから、そう簡単に消えるものではない。掃除をしながら千尋はそれを痛感したらしい。それでも動物病院にきた畜主に臭いが軽減されたと言われれば報われた思いがあるらしく、千尋はちょっとだけ嬉しそうだ。至福の読書タイムの膝の上にはブリ。オレは床。夏はまだまだだが、高級被毛のオレにとって床にぺたっと腹をつける心地よさは気温の僅かな上昇と常に比例している。
ゴールデンウィークだから誰もが長期的に日本中の地方に散ってしまうわけではないらしく、おやつまであと少し、という頃合いにプラスチックの昆虫籠を大事そうに抱えた低学年の小学生の一団がこういうのも診察できる?と恐る恐る門を叩いた。千尋は上がり框に腰を下ろし、ケースの蓋を開けてみる。中には乾いた感じの爬虫類がかさっと音を立て、少しでも人の視線から隠れようと一緒に入れられた雑草の陰に隠れようとする。日本金蛇、所謂蜥蜴だ。千尋は小さく口笛を吹いた。
「東京都と千葉県では準絶滅危惧種だぜ♬」
子供達はえっと驚いたように千尋を取り巻いていた輪を揺らした。そんな御大層なものを捕まえてしまって処罰されるのではないかと恐れたのだろう。大丈夫、まだそこまで保護対象じゃない。
「こいつぁ多分雌だな……腹に卵をもってるかもね。できれば放してやって自由に卵を産ませてやってほしいところだが」
腹に小さな傷跡があるのを指す。雄に噛みつかれた痕だ、と説明する。
子供らとポッキーをかじりながら金蛇の蘊蓄を一頻り垂れる。
「鞋虫や蜘蛛を与え続けるのは至難の業だと思うがねぇ。放すか鞋虫を集め続けるか、よく考えるといい。日中は少し日の射すところに置いてやれな。診察代、五十円」
子供達が小難しい顔をして、それでも獣医に診察を受けた満足を得てプラケースを中心に去ってゆくのを興味深げに見送った人物がいた。彼は酒屋の紙袋を抱え、上がり框からよいこらしょだなんて二十七にあるまじき声を掛けながら立ち上がりかけた千尋に、くぐもったようなやわらかい発声で声をかけた。
「ちわ……」
「コマッチ」
久しぶりだなぁ、この人くるの。千尋は肩にブリによじ登られながら目を丸くした。この頃旧知の客の多いこの病院に彼まで訪ねてきたことだけに驚いているような驚き以上のものを含んでいるようにオレには思えた。
「久しぶりだな」
彼は四つの視線の集まるなか、目尻に笑い皺を作った。
「相変わらずいっぱい飼ってるんすねぇ」
「俺が飼ってるのはポルカとこの猫だけだ……仕事は?」
金魚もでしょ。水草は晶だけど。
「やだなぁ、ゴールデンウィークだよ。まだ診察中?」
元々目尻が下がっている所為か、この男は笑っているわけでもないのに通りの良い表情になるようだ。
「いや、もうじき終わる時間だ。上がれよ、晶もそのうち帰ってくる」
「じゃ遠慮なく」
健康サンダルを無造作に脱いで彼、小松計史氏はこの病院へやってきたのだった。
小松氏は千尋と同じ二十七歳。中学二年で近所に越してきて、彼の転入を機に千尋は桜庭氏とも友情を結び、三人で同じ高校に進んだらしい。桜庭氏に対しては千尋は微妙な劣等感を含んでいるらしいが、小松氏にはそういう鬱屈した含みは無く、イーブンな友情が続いていた筈である。
千尋は獣医科で大学は六年課程があり、桜庭氏は博士号を取るぐらいだからだらだらこの歳になっても大学にいる。小松氏は修士課程まで進み、そこで就職した。就職先は由利嬢と同じ秋津運輸である。彼は今や特殊品輸送事業部長にまでのぼっている潤一さんこと桜庭潤一氏の下で働きたくてこの会社を選んだとのことである。ところが人生はそう上手くはいかないもので、小松氏は特殊品輸送事業部には配属されず、通運部、小口貨物部、警送部、経理部、渉外部、海外事業部、大型貨物部を転々とさせられ、憧れの特殊品輸送事業部には全く近寄ることさえないまま係長になってしまったらしい。それでも与えられたポストに文句を言わず勤めあげる様子は評価されているようだ。その分の愚痴は大概ここでこうやって紙袋を抱えてきて吐き出して、汐留の職場には絶対に持っていかなかった成果といえるだろう。
学部こそ違えど同じ大学に進んだ三人は学部を越えて仲が良かったらしく、学内では少し目立つ存在だったそうだ。
彼の抱えてきた紙袋はダイニングテーブルに置かれるとがちゃがちゃっと硝子のぶつかる音がした。この辺りも恒例である。
「どれからいっちゃう?」
「コマッチ、相変わらず酒ならなんでもいいのな。赤ワインと日本酒っておかしいだろ」
食器棚からピルスナーグラスを二つ取り出し、千尋はテーブルの中央にどんと置いた。
「ギネス。」
焦茶色の液体の上に緻密なベージュの泡が載っている。冷蔵庫をかき回して出てきたサラミとチーズを俎の上で切り分けながら二人は酒盛りを始めてしまっていた。まだ診察終了まで時間があるのに、いいのかなぁ。
「ただいまぁ」
真とオレとが玄関へ駆け出す。晶だ。晶が帰ってきたんだ。真が嬉しそうに晶に飛びつく。晶は往診鞄とスーパーのビニル袋を置き真を抱き上げて、やっと脱いだままになっている黒い健康サンダルに気づいたらしい。
「誰か来てんの?」
誰に問うでもなく晶は呟いた。途端にダイニングから大きな笑い声が響いた。晶は少し眉を顰め、真を抱えてダイニングを覗く。
「よ!帰ってきたな晶!」
晶、があきりゃ、になっている。だが、ほんの数秒前まで酔った素振りもなかった彼らのそれは態とだ。
「コマッチさん……」
「お邪魔してるよ」
彼は人当たりのよい笑顔を浮かべながら言った。
「お……お久しぶりです」
千尋はもうひとつグラスを取り出してギネスを注ぐ。
「晶も座れよ、ほらほら」
「兄貴まだ時間が……」
「もう客なんか来やしないよ」
言われるまま晶は席に着いてグラスを手に取る。
「晶くん白衣が板についたね。今日は往診?」
「ええ、まあ……」
小松氏は面白そうに笑った。癖のない猫毛が少し流れる。
「親父さんみたいに自転車で?」
「行った先に車が駐められるとは限らないので……」
「賢明、賢明」
二人はなにが可笑しいのかげらげら笑っている。
「コマッチさん今日は仕事は?」
「世の中はゴールデンウィーク。今日の晩飯は冷奴と唐揚げだったな。おい晶、庭行って大根抜いてこい。確か明太子が冷蔵庫にあった筈だから……」
座れと言ったり庭へ行けと言ったり、忙しい男である。不承不承庭へ晶が出ていくと、千尋は立ち上がり小松氏に背を向けたまま冷蔵庫を開いた。
「晶に無理に言うこたぁない」
彼は瞬いだが、元の顔に戻って、いや元よりもはっきり嬉しそうに見える笑顔になって、子供のような返事をしながらグラスを傾けた。
「はぁい」
物臭大王の千尋が率先して庖丁を握っている。
抜いてきたばかりの大根を銀杏に切ってマヨネーズと明太子に和える。俎が空くと代わって晶が晩飯の仕度を始めた。
「そうそう、あれは見ものだった、あの教授の顔!忘れようったって忘れらんないよ。ずりぃよな、コマッチ、傍観者のふりしてさ」
「ははは。教授といえば皆河教授でしょう。あの笑いながら毒を吐き出すあの黒さには本当に敵わない」
「司書の佐伯さんが辟易してたもんなぁ。あの人が農学部の教授じゃなくて本当によかったよ」
「あはっ、農学部には誰にもわからない言語でしれっと嫌みを言うリヒター教授がいるじゃん」
「あの人なぁ。レポートとか遅れると今度は遅れないでね、とか優しい言葉言っといて、最後にちょろっとギリシャ語とかロシア語とかポーランド語とか、誰にも通じない言語でこの馬鹿者、とか言ってるからなぁ。あれ、全部聞き取れたらきっついよなぁ」
「タケさん、半分くらい解ってたみたい。偶ににやにやしてたでしょ?」
「タケもなんであの頭をもっと有意義に使わねえかな。折角特上級の脳味噌なのに、美香乃さんみたいに貢献度の高い研究をすりゃいいものを」
「あはっ、そんなことしたらタケさんじゃないよ」
だらだら飲みながら三人は夜が更けるのをただ待っているかのようだ。千尋が煙草に火を点けたののついでに蚊遣りの豚の渦巻きにも火を点けた。真は晶の椅子の下でおとなしくしている。ブリは小松氏の膝を定位置と定めたのか、そこでずっと丸くなっている。オレは千尋の隣の椅子の上で顎をつけて聞き耳を立てていた。
「もう飲めにゃいしゅ……」
晶は早くももう潰れて幸せそうな顔でテーブルに突っ伏している。先日は千尋と由利嬢に潰されたのに、晶は懲りないのかな。それとも潰れる程アルコールを摂るのが彼のそんなに幸せなのだろうか。二十代半ばにしてそれは拙くないか?
日本酒は越乃景虎と鶴齢だった。
「ふふ、伊勢原さんと潤一さんのお奨め?」
「ちーさん相変わらず強いね」
「よく言うよ。二本も日本酒を持ってくるやつに言われたくない」
伊勢原さんというのは潤一さんの大学の同期生で、今や天然宝石よりもハイクオリティと言われて人気の高い合成宝石ブランド『フェリーチェ』を提供する瑞穂光学器機の本部長だ。実質的に『フェリーチェ』起こして牽引してきた人と言っても支障ない人物だそうだ。本名は落合誠。彼も旧姓で呼ばれている。千尋が知り合ったときにはもう落合になっていたそうだが、潤一さんを始め大体の人が彼のことを伊勢原の名で呼ぶのでこいつらにも定着してしまったようだ。年齢的な関係が高いとはいえ、千尋の潤一さん関係の知り合いは高いポストに就いた人が多い。
それにしても、と言いながら小松氏は景虎の栓を開けた。
「ちーさんが猫を飼うとは思いもよらなかったね」
「ブリは……養子みたいなもんさ」
ブリは名を呼ばれたのかと勘違いしたのか、顔をそっぽに向けたまま長い尾をたゆんたゆんと振ってみせた。鼻から眉間にかけて白く、黒とグレーの鯖虎っぽい色になってきた。シルバータビーアンドホワイトなんて素敵な呼び名もある毛色のようだが、ブリの場合は白鯖で充分だろう。
「呼ばれたのと勘違いしてる」
低く笑いながら小松氏は酒を注いで栓をし直すと、ブリの縞々の尻尾を軽く毛流れに沿って撫でてやる。千尋はその透明な酒を口に運びながら言った。
「猫も悪くない」
「ちーさん、高校のとき猫には懲りたくせに」
「犬の方が飼うには飼い易いよ」
ブリは『嫌』が多すぎる。躯を洗われるのが嫌。汚れるのが嫌。一所にじっとしているのが嫌。構われるのが嫌。放っとかれるのが嫌。矛盾だらけである。
「犬は集団行動の動物だから」
小松氏はブリの顎の下をこちょこちょと撫でながら言った。ブリは気持ち良さげに目を細め、頚を伸ばす。もっと撫でろと言わんばかりに名でている手に顎の下を押しつけてくる。
千尋はグラスをことり、と音を立てて置いた。
「……潤一さんは犬じゃないぞ」
「犬だなんて」
「あの人優しそうだから誤解されがちだけど、あの人は狼だ。それも馬鹿でかい灰色狼。北條教授だってそう言う」
さっき黒い毒を吐くと言われていた皆河教授の奥さんが北條玲教授だ。因みに皆河教授の本名は北條昭宏。この人も旧姓で呼ばれている。このご夫妻も潤一さんの同期。
「ドクターイエローを運んでるのを見てコマッチはそう思わなかったのか?」
特殊品輸送事業部はそういう部署である。不定期で規格外のものを運ぶことが業務なんだそうだ。ドクターイエローを潤一さんが運んだのは彼がまだ課長代理のとき。千尋は十四歳だった。……無論、オレはまだこの世にいない。
「そうだね、言われてみれば……社内でもちらほらそういうの、耳にするよ」
「どんどん偉くなっちゃうわけだよなぁ。じいっとあの目で見られたら心の裏の裏まで見透かされそうなのに、笑っているようにしか見えないんだから。……コマッチ、素質あるんじゃね?」
やめてよ、と小松氏は笑いながらブリを撫でる。
「猫には明日の不安ってのはないそうだね」
「それは明日とかそういう概念がないからだろ。だけど猫だって夢は見るんだぜ?」
「夢?」
「寝言、言うんだ。ふみゅ〜なんて悲しそうな声で鳴くんだよ。何事かと思って見るとぐうぐう寝てやがる」
「ははは」
犬だって見るぞ。旨いものをもらった日とか、楽しいところへ出かけた日はそれが夢になることが多い。単純と言うな。
「二階の奥の和室が空いている。晶を運んだらそこを使ってくれ」
朝、どこか醒めきらない表情で晶は起き出してきた。
「コマッチさん、和室使ったんですか」
「うん、使わせてもらった」
千尋と小松氏は何事もなかったかのような平常運転である。
「何日か前に粒さんが使ってから布団干したっけ?」
「干した」
千尋はちょっとしかめっ面だった。だが焜炉の方を向いていたからその様子を見たのはオレだけだ。
「堀切?ここに来たの?」
「ちょっとな。ポルカが好きなんだ、あいつ」
う、うん、そういうことにしておこう。ここで泣き崩れたことまでは晶、口が裂けても言うんじゃないぞ。
「ふうん。俺、彼女のお姉さんの引越を担当したよ」
「お姉さん?」
堀切嬢には姉が実は三人もいる。少し歳の離れた満さんは既婚者。環さん、円さん、堀切粒嬢、と続く。
「環さん。俺より歳上なのに可愛い人だったなぁ」
ん?
おい、千尋。
おいおいおいおいおい。
千尋は焜炉から振り向かない。どうやら千尋と由利嬢の予測は当たってしまったらしい。堀切粒嬢が長年焦がれていた男というのは、ここで襟足を頻りに擦っているこの小松計史氏だということなのか!
「コマッチさん、首痒いんですか?」
なにも知らない晶が頓珍漢な質問をした。晶のこの全く兄の発散する空気を読まないところは時としてありがたい。
「痒いんじゃないんだけど……今朝さぁ、この猫耳許に潜り込んできて、手をこう、もむもむさせて俺の髪を口に含んでてね」
「あー、それコマッチさんもやられましたか。俺随分毛を喰われましたよ」
「喰われた?」
彼は気になるらしく頻りに耳の後ろを触っている。千尋が珍しく失敗していない目玉焼きを三つ並べた。
「ブリはまだ子供だから」
「寝惚けて母猫の乳でももらった気持ちだったんだろう」
少し声が硬い。でも多分、晶も小松氏も気付かないだろう。
「寝惚けて、ねぇ……」
小松氏が来ていようといまいと客が来ない限り千尋は自分の生活のペースを崩さない。庭の盆栽鉢に水を遣り、ケージ室の消臭に励み、診察室でぼうっと過ごす。彼も承知しているらしく、和室でブリを背中に持参の文庫本を読み耽ったり、のんびり黄色い水の金魚を眺めたり。
「ねぇちーさん、金魚ってのも悪くないかな」
「飼われるならな」
文庫本から目を離さずに千尋は答える。
「外側が透明な硝子やプラで囲まれているから世界は無限に続いているように思えるだろう。だが見ろ。こうやって猫が覗いていることもある。ブリ!」
ブリが水槽の縁に前肢をかけ、興味深そうに中を覗き込んでいた。千尋に呶鳴られて、ブリは身を翻し小松氏の膝に飛び移って関係ないよ、と言いたげに丸くなる。……とブリは床で涼んでいたオレに目を付けたらしい。小松氏の膝から落ちない程度に身を乗り出し、今度は両前肢でオレの鼻先を掴もうとしてくる。へっ、できるもんならやってみな。思わず楽しくなってきてしまう。ちょっと左右にフットワークを利かせると、前肢は放り出したまま、その大きな瞳で必死にオレを追い、顔まで捩ってオレの動きに追いつこうとする。空の前肢がなにも掴んでいないトングのように空振りを繰り返す。こうなるとブリは捕まえるどころかオレに肢を届かせることに夢中になってしまって、段々と自身の躯のバランスのことなど頭から抜けてしまい、にょろりと人の膝から落ちてしまう。
そう、落ちてしまうのだ。
オレには気を許しているのだろう、楽しい気持ちになっているから腹を出す。それが落ちるのと重なるから……
「ちーさん、この猫今背中から落ちた!」
「落ちるんだよ」
「だって猫でしょう?」
猫は高いところから落ちても肢で着地できる。できるが、それは猫が着地を決めようと躯を捩るからである。今のブリは落ちた、というより、流れた、のだ。
オレとブリがじゃれているのを見ながら小松氏は呟いた。
「犬と猫って……」
「仲良くできるんだなぁ、これが。今はブリの方がポルより小さいし新参で、真もポルより少し大きい程度だから。体格差があったらこうはならない。また別の関係ができてるだろう」
千尋はブリをひょいと抱き上げた。ちりりん、と首輪の鈴が鳴る。あーもうっ、今いいとこだったのにぃ。
「ブリ?爪は反則だぞ?」
「うわぁ、肉球が真っピンクで柔らかいっ」
「まだ外を歩いたことがないからな」
「えっ、箱入り?」
「そう。箱入り」
千尋は前肢を弄って半透明の爪を出したり引っ込めたりしている。ブリは迷惑そうだ。
「そうか……外、出たことないのかお前……」
夕方になって小松氏はふらりと出ていった。どこへ行ったのか、近所過ぎる家に帰ったのかと思いきや、ほんの小一時間でまたここへ戻ってきた。昨日ここに現れたときのように大きな紙袋に何本も酒壜を詰めて戻ってきた。その姿を見て千尋がにやりと笑う。
「和泉屋に行ってきたのか。あそこのおやじ、喜んでいたろう」
「いっぱいオマケもらっちゃった」
彼は片手に提げたビニル袋を重そうにちょっと上げて見せた。成る程沢山もらったようである。夕飯の時間を待ってまたしても酒盛りが始まった。よくよく鋼鉄の胃袋と高出力の肝臓を持つ連中である。先ずは銀鱈のの味噌漬けにあわせて昨日開けなかった鶴齢、それに続いて白ワインを開けた。
「でしょでしょでしょー!あれはマジ、ヅラだって!」
「吹くと飛ぶタイプ?」
「ワンタッチでカチッと止めるやつじゃないの?」
「取れちゃったら、うっすら残ってるっていう気の毒な感じ?ぎゃはははは」
昨日よりもテンションが高い気がする。真はあまりの騒擾に辟易したのか窓際のいい風の来るところに平べったく腹這いになっている。ブリはこの騒ぎなど素知らぬ顔で網戸に鼻っ面を押しつけて頻りに外ばかり見ている。時折蛾が灯りに惹かれて網戸に寄ってきたり、庭を他所の野良猫が横切っていくのが興味深くて仕方ないのだろう。この狭い庭でさえブリにとって未知の広い世界なのである。彼が食い入るように見るのも、尤もといえば尤もな話だ。
「ブリ?お前網戸を破くなよな?」
確かに網戸が少し伸びてしまって撓んでしまっている。
「うわ、ちーさん、この猫鼻真っ黒だよ」
湿った鼻を汚れている網戸に押しつけていた所為で汚れを吸いとってしまったのだろう。ブリの鼻は狸のように真っ黒になっていた。千尋は苦笑しながらブリの頭を掴み、ティッシュペーパーで鼻を拭ってやった。ブリは汚れなどとんと関知しないらしく、迷惑そうに顔を振るう。
「毎日同じ景色を見ていて飽きないのか、ブリ?」
飽きる飽きない以前の問題だろう、ブリはその光景のなかに身を置いたことがないのだから。汚れをすっかり取ってもらって逆に気になるのか、ブリは顔の掃除を始めた。器用に目脂や汚れを取り、毛並みを揃えてゆく。日々目脂との戦いのヨーキーのオレにとしては見習ってあそこまで器用になりたいものだ。
昨日と同様晶は潰れ、千尋に両脇を、小松氏に両足を担がれてベッドへと放り込まれた。まるで番犬のように真がベッドの傍に座る。
「コマッチも意地悪なんだな、案外」
千尋は態と口の端を歪める。
「飲む量を自分で制御しきれないのって、偶に苛立つんだよね。晶くん二日目だから気づくかなと思ったのに、駄目だね」
「会社勤めしてない弱さだな。口頭で伝えた方がいい」
千尋は後ろ手で晶の部屋のドアを閉めて言った。
「ヱビスが冷やしてある。飲むか、小松?」
「いいね」
ダイニングへ戻るとブリはまた網戸に鼻を押しつけるように外を見ていた。
「ブリ、鼻の頭を蚊に刺されちゃうぞ」
小松氏が声をかけるとブリは大丈夫だと言いたげに小さく鳴いた。千尋は壜ビールを冷蔵庫から出して栓を抜く。
「今度はね、出向なんだ」
「どこへ」
「秋津情報システム」
「子会社か」
小松氏は頷いた。
「いつになっても十二階に呼ばれない」
「秋津情報システムってどこだ」
新たなグラスにビールを注ぐ。
「六階」
「ははっ、そりゃ問題ない」
「笑い事じゃないよ。俺だって潤一さんのことイチさんて呼んで新幹線とか運びたいよ」
グラスを差し出して千尋は尋ねた。
「潤一さんに特輸に移りたいって言ったことあるのか?」
小松氏は少し口隠った。
「ある……にはあるけど」
「もうあの人も事業部長だから現場に殆ど出ないだろ。それでも特輸に行きたいのか?」
「行きたい。由利が羨ましい」
「主殿は新幹線なんか運んじゃいないぞ」
「それでも潤一さんの近くで働いてる。俺、修士まで取ったから使いにくいのかなあ……」
「そんなことないだろ。抑それなら会社が採用しないだろ。あまり卑屈になるな」
ビールを呷るように傾けて小松氏は溜め息を吐いた。
「避けられてる?」
「学校じゃあるまいし。今回の人事にもし潤一さんが絡んでいるなら、この三年であっちこっちの部署を見せてくれてるって考えた方が妥当じゃないか?どこの部署も半年かそこらだろ」
「どこの仕事も中途半端だよ」
「通運、小口貨物、大型貨物、警送、海外事業、どれをとっても秋津運輸の基幹事業じゃないか」
「経理と渉外は?」
「重要だろ。会社の金と外向き対応を見たんじゃないのか」
「確かに株主総会のとき駆り出されたよ……」
「秋津情報システムってなにをする会社だ?どうせ百パーセント子会社だろ」
「ちーさん会社員でもないのになんでそういうこと詳しいの?」
「俺も一応社長なんでね。暇だし、大学で農業経営の授業取ったからな」
「ちーさん獣医にしとくの勿体無いよ……秋津情報システムは一言でいえばシステムインテグレータ。秋津運輸の、いや秋津グループ全体の情報システムを担ってる。……あ。そういうこと?」
「ほらみろ。潤一さんの意図が見えてきたか?」
小松氏は頬が朱に染まり、少し興奮してきたらしい。
「お、俺、潤一さんにき、期待されてるってこと?」
「いつか特輸にも呼んでもらえるかもな。でも新幹線陸送要員としてじゃなく、いずれ会社の幹部として機能するように、だな。あの人結構野心的だよ。事業部長の次は常務か?」
「潤一さんが特輸から離れる前に一緒に仕事したい……」
「そこら辺汲んでこの早さでコマッチをあっちこっちの部署に回してるんじゃないのか?年齢的にここ一〜二年だろ」
千尋は壜を小松氏のグラスで空にした。
にやりと上目で小松氏を見詰める。
「ちーさん」
「お前ここ来るとき本当に馬鹿になってるよなぁ。楽観的に考えれば俺でもこのくらい思いつくのに」
「俺そんなこと思いつかないよ」
「思いつく。視野が狭まり過ぎているから、考えることをやめているだけだ」
「潤一さんに文句言われそう……」
「また並川さんにフロネシス、とか言われるぞ」
二人は昔に言われた言葉を思い出して笑った。
「二人とも偉くなるわけだよ」
「コマッチ期待されてるのに?」
「あんな風になれないよ」
「なれって言われてるんだろ。俺に説教さすな」
「……ちーさんキライっ」
「なんとでも言え。今のお前はブリに似すぎだ」
またブリは呼ばれたのかと勘違いしたのかこちらにくるりと顔を向けた。すると小松氏ともろに目が合ってしまい、一人と一匹は気まずそうに目を逸らしあったのだった。
朝になる前の話をしておこう。気の早い雀達が軒先でばたばたと騒ぎ始めた頃、オレは窓の外から聞き覚えのある鈴の音が気がして目が覚めた。首を巡らせてみるとどうやらその鈴の音は庭からするような気がする。この時間に庭で鈴を鳴らす猫は近所に巨万といるが、これと同じ鈴の音をさせている猫はいない筈だ。だってこれ、千尋スペシャルなんだから!
千尋スペシャル。なんのことはない、千尋がブリにつけた首輪のことなんだけど千尋はなにを思ったか首輪に元からついていた鈴に加え四つも別の鈴をつけたのである。それもみんな違う種類、大小様々な鈴を。たがらブリが歩くと直ぐにわかる。じゃらじゃらうるさいのだ。
その音が庭からするというのはどういうことだろう。オレは静かに寝床を出てドアを鼻で押し開け、階段を降りる。ブリトイレの横を通る。おんや?臭くない。ブリのやつ、ここで排泄しないでどこでしやがった?
ブリは二階の和室で小松氏と寝ている筈だった。ということは、ここをスルーしてどこかへ……庭へ?どうやって?
「む~痒~」
小松氏だった。蚊にでも喰われたようだ。
ふむ。
これはもしかして。
……脱走ってやつ?
六時過ぎ晶が唸りながらベッドから這い出してきた。彼は目をしょぼつかせながら伏せてあったコップになみなみと水を汲んで先ず一杯。二杯。三四五杯と流し込んで口を手の甲で拭うとシャワーのコックを捻った。水分を補給し加水分解と排出を促し、熱いシャワーで頭をすっきりさせようという魂胆なのだろう。なかなか賢いぞ、晶にしては。
その音に小松氏も起き出してきたようだ。風呂場から出てきた晶に問う。
「あれぇ、晶くん?猫は?」
「はい?ブリっすか?兄貴のとこじゃ……」
小松氏は着替えて千尋の部屋を覗きに行った。
「ちーさん、猫いる?」
「うぁ?猫?要らない……」
あーあ、本音?寝惚けるにしても酷くない?
「そのいるじゃなくてね、ちーさん……ブリ、そこにいる?」
「ブリならコマッチのところに……あ?コマッチ?ブリ?」
やっとエンジンがかかってきたらしい。千尋は夏掛を撥ね飛ばすように起き上がると、物凄い勢いでダイニングへ降りていった。ダイニングの窓の網戸のところにしゃがみ込んでいる。
「コマッチ、お前蚊に喰われなかったか?」
「喰われてる」
千尋の勢いに気圧されるようについてきた彼は頷いた。
「見ろ」
千尋は網戸の一番下の部分を示した。
「蚊に喰われるわけだ」
網戸の網は枠から外れて拳ひとつ分の穴となっていた。そこは昨日ブリが散々鼻を押しつけていた箇所だった。
「ブリ」
小松氏は回れ右をするや、サンダルを突っ掛けて庭に飛び出していった。慌てて千尋が彼を追う。
「ごめんちーさん、ブリは外に出さない猫なんでしょう」
「そういう訳じゃ……」
千尋がブリを外に出さなかったのは預かった猫であることと、足を洗ってやるのが面倒だったからだ。
小松氏は足を止めた。
「今ブリの鈴の音がした」
辺りを見回すがブリの姿は見当たらない。だろうね、オレにはその音、上の方から聞こえてくるもん。ブリは庭にはいない。オレは破れた網戸のダイニングから出て千尋の部屋の南向きの窓へよじ登った。この窓は硝子戸を全開にして網戸だけ閉めてある。ここからなら外が見える。
ちりん。
ちりん。
いや実際にはこんな微かな音ではなく、じゃらじゃらと鳴っているのだが、音が断続的なのはブリが足を竦ませているからじゃないだろうか。ちょっと鳴ってはすぐとまる。千尋!千尋!ここだよ!ブリはここにいるよ!
「ポルがなんか騒いでいる……おいコマッチ!いたぞ、ブリだ!」
二人は直ぐさま中へ戻ってきた。そして足音も荒く階段を上がり、千尋の部屋の窓からベランダへと顔を出してみる。ブリの姿はここにはない。当然だ。ブリはベランダの下、瓦の上にいるのだ。ちりりりりと鈴の音が移動する。千尋と小松氏のただならぬ様子にブリは恐れをなしたのだろう。自分を追ってくるとなれば尚更だ。
「俺捕まえてくる。ちーさんはそこで待ってて」
小松氏はそう言ってベランダに素足で出た。そして片膝をついてしゃがみ込み、耳を澄ます。ブリの頚には五つも鈴がついている。ちょっと振り返るだけで鈴は鳴る。彼はそっと立ち上がり、ベランダの柵を越えて瓦の上に降り立つ。
「ブリ」
ちりりりりんと鈴の音が動く。ブリは小松氏の突然の出現に吃驚したらしく、鈴の音は西の端の瓦の方まで移動してしまった。小松氏は威かさないようにゆっくりとブリを追う。
ちり。
鈴の音を小さく刻んでまたしてもブリは東の方へ戻ってきた。小松氏もそれを追ってこちらへ戻ってくる。
オレを抱き上げて成り行きを見守っていた千尋はオレを下ろして徐に東側の窓を開けた。鈴の音はどんどん移動してとうとう南側の瓦から東側の玄関の上の張り出しへと回り込んでしまったらしい。
「待てブリ!」
小松氏の声がする。とそのとき、千尋は東の窓をから身を少し乗りだし、なにかを掴んで部屋の中へと引き摺り込んだ。
「よう、ブリ。一体どうやって屋根に登った?」
千尋はブリの首根っこを掴み、自分の目の高さに持ち上げて言った。走り回った所為かブリは息を荒げている。
「よかったちーさん、捕まえてくれたんだ」
瓦の上で小松氏はへたり込んでしまった。
「お疲れさん」
ブリに千尋の顔が近づいたのでブリは興奮のうちに攻撃したくなったのだろう。前肢で横張パンチをかけようとする。
「……っと。こりゃブリ?お前俺に向かって爪で仕掛けるのか?」
鼻っ面をピンっと弾くとブリは厭そうに鼻を振るった。小松氏は笑い出した。
「なにが可笑しい」
「いえ。……いいえ。」
「そんなところで胡座かいてないで足の裏を洗ってこい。ついでにこいつの肢もな」
ブリの大冒険はこれでお終いである。このあと小松氏にブリを渡した千尋はメールをひとつ打ってから、ゆっくりと敷地をぐるっと一周してみて如何にして一階から出たブリが屋根の上へと登れたのか納得行ったらしかった。シルビアの後ろには自転車等を駐めるお手製ガレージがあるのだが、ここの色々ながらくたを階段代わりに使うと身の軽い猫ならばこれらを崩すことなくガレージの波板の上に上がることができる。ここまで上がることができれば屋根の上なんぞホイで跳び移ることができる。斯くしてブリは屋根の上を散歩することができた、とそういうことらしい。ただ、何故ブリが上へ上へと移動していったのかというという疑問は残っている。庭だって探索にはかなり魅力的な場所だとオレは思うんだけど。ブリにはブリの趣味とか考えとか、その時その場でないとどうしても辿り着けない不思議な事情がある、ということでオレは納得することにしよう。
自身の足とブリを洗った小松氏が洗面所から出てきた。とても不機嫌そうな晶を伴って。晶の頭は湿っている上にぼさぼさである。
「あれ?晶風呂入ってたの?」
晶はむっつりとテーブルに着いた。
「俺と入れ替わりでコマッチさんがブリを洗ったの。ブリのやつ、器用に風呂場の扉を自力で開けやがって」
小松氏は笑っている。彼の方には被害はなかったらしい。
「だーっ、もう!引っ掻くわよじ登るわ、ものは倒すわ……もう俺イヤッ」
千尋は堪え切れなくなったように笑い出す。晶はかなり不満げに猫をじろりと見て、自室へと引き上げて行ってしまった。
「晶くんに悪いことしちゃったかなぁ」
「気にするなコマッチ。相手は猫。これでいいんだ」
小松氏は千尋を凝視した。
「本当は単独行動を好む群をつくらない自由な動物が、猫。この狭い家のなかで飼ってりゃぁな、仕方無いさ。晶はブリに対して要領悪すぎるだけ」
そう言って千尋は煙草に火を点ける。小松氏は猫を抱き上げた。
「猫は狼の許でもやってけるものかな?」
千尋は朝刊を広げながら言った。
「それは好きにしろや」
秋津運輸、敷島商事、瑞穂光学器機…とうとう会社名が出てきました。無論架空です。秋津運輸は操業200年近い物流企業で、宅配便から新幹線陸送まで、運べないものはないと豪語する運送会社です。本社は汐留にありますがあの企業ではありません(あの企業は宅配事業からは撤退しました)。敷島商事は内幸町にある全国七位の総合商社です。あの合併した商社ではありません。金属部門だけ取り上げると政商的色合いが強いので全国一になる、という設定。瑞穂光学器機は中野にあるレンズメーカー。カメラフィルタや交換レンズを作ってた会社ですが(実際に中野にあるフィルタメーカーではありません)十年程前から合成ダイヤモンドで席巻したという設定。京都にある合成宝石も作ってるセラミック会社でもありません。