3.迷子の子猫に花束を
千尋が午後のシエスタに突入せんと大口を開けて何回目かの欠伸の丁度そのとき、その一組はやってきたのである。
「ちはーす」
オレの出迎え方はただ一通り。ヨークシャーの血が騒ぐ、地球を語源とするテリアの名に最も相応しい、先祖伝来の遺伝子レベルで伝えられるオレ達のやり方だ。甲高い声で吠えながら客を出迎える。
「兄貴ーっ、客だよーっ」
「晶が出ろ」
物臭太郎の千尋は動こうとしない。至福のシエスタを妨害されたのがそんなにお気に召さないのかい。玄関の客にそのやり取りはばっちり聞こえてしまっている。この人物は始めて見る人だが、不思議と見知らぬニオイを嗅いだ時のような不安感をオレは抱かなかった。ただ気になるのはその彼が大事に持っている二つの箱。ひとつはバニラのニオイ、甘いニオイ。もうひとつは……。
「しょーもない兄弟だな。相変わらずってとこか……」
彼は薄い笑みを浮かべ、上がり框に並ぶオレと真を見較べた。そしてちょっと口の端を上げ、オレを注視したまま呟いた。
「成る程千尋が好きそうな……」
素面、だよな……?オレも負けじとじぃっと見詰め返す。
「勇ましいな、ヨーキーくん」
放っとけ。警戒心を抱かなかったことを後悔しようとしたそのとき、晶が不承不承階上から降りてきた。
「よう、上村晶。千尋、いるだろ?」
すると彼を見た晶は目を見開き表情を明るく輝かせた。
「さ……桜庭先輩?」
さくらば?
「憶えてたか。獣医らしくなっちゃって」
彼は大人臭い言葉を子供っぽい口調で言った。その点に関しては晶にも言えることだが、客人の方が一枚上手のようである。
「あっありがとうございますっ!兄貴ですか兄貴ですね、今引き摺ってきますからっ」
はぐれた母犬に会えた仔犬のように晶は転げんばかりに走っていってしまった。もし晶に犬の尻尾が生えていたら千切れんばかりに振っているであろう。
「慌て者め……なんだあのライオン頭は?晶っていつもああいう風なのかい」
オレに訊くなよ。そんなオレの考えを察したかのように彼は小さく頷いて階段に目を向けた。
「あんだヨー晶ぁ、俺ゃ眠てぇんだよ」
「昼寝なら夜にでもできるだろ」
おいおい晶、それは昼寝とはいわないぞ。
「兎に角さ、顔だけでもっ。ほらっ」
客人は甘いニオイのする箱を左手の木箱の上に載せて掌をひらひらと振った。
「よっ、ちーくん♡」
背中を押されて玄関へやってきた千尋はその声でさぁっと青ざめた。
「さっ……桜庭洸人!!」
千尋は何を思ったか、桜庭氏の肩をわしと掴みくるりと一回転させると、そのまま外へと押し出した。そしてぴしゃりと戸を閉め、鍵をかける。
「おぉーい、ちーくん、それはないでしょうがーっ。中学からの長い付き合いの友人をそう邪険にしなくってもいいでしょーっ」
戸板越しに千尋は呶鳴り返す。
「なーにが友人だっ。俺はてめぇに友人扱いされた憶えはないっ」
あ、そこまで言い切るんだ。千尋は鍵もかかっているというのに戸板に背をつけ、手足を突っ張って戸口を塞いでいた。
「そりゃないよー。晶くぅーん、開けてよー」
「開けるな晶!」
珍しく千尋が喚き散らした。
「でも桜庭先輩が開けてくれって……」
「開けてやんなくていいっ!あいつはなぁ、鍵だって開けちまう、核兵器だって片手間で作っちまうような男なんだからな!」
「うーん、ウラン型核爆弾くらいなら片手間でもいけるかな?ねぇちーくん?」
いつの間にか千尋が押さえていた筈の戸が開いていて、桜庭氏が千尋の後ろでうんうんと頷いている。どうやって鍵を外したのだろう。
「だあぁっ!洸人っ!」
ハタと気づいた千尋は有無を言わさず戸を閉めようとした。すかさず桜庭氏はあと十センチというところで手をかけ、阻止する。
千尋は閉めようと更に力を込める。
桜庭氏は閉められまいと躍起になっている。
ただ兎に角不気味なのは、二人とも笑いながらそうしている、というところである。決して楽しそうなのではない。にやけているのでもない。緩んでいるのでもない。勿論和んでもない。我慢比べの意地を張り合って苦し紛れと余力を見せたい、あの不思議な笑いだ。
「同じ科学部の仲間じゃないか~」
「アホ抜かせ、俺は幽霊部員てめぇは部長!」
「部には部長が一人はいるもんだろ~」
「餌で釣って罠に嵌めて無理矢理入れた部員を牛馬の如く扱き使う部長がどこにいるってんだ!」
「知らん、どこだろう」
……成る程成る程、この二人は本当は仲がいいんだな。このたわけた前置きは大真面目なふりしたただのじゃれあい。犬同士が擦れ違うときに互いのニオイを嗅いでいくのとなんらかわりない。
「……桜庭先輩と兄貴がねぇ……」
晶は少し離れて観察に徹している。
「文化祭のときは扱き使ってくれたな、よくも~」
「だ~か~ら~っ、ケーキ持ってきたろっ」
「ケーキ?」
千尋はぱっと手を離した。わあぁ、桜庭氏は勢い余って戸の枠に手を強か叩きつけてしまった。痛そう。
「痛ぇ~」
ケーキと聞いた瞬間千尋は態度を豹変させた。ついでに千尋は甘党であることを余談として付け加えておこう。
「洸人くん痛むところはどこかね、ささ、入り給え、手当をしてあげよう、サササ」
千尋は桜庭氏に畜主用スリッパをいそいそと出してやった。桜庭氏は手を擦りながら、してやったりという風にこっそり晶にちょきを出してみせた。
……余裕のある人だなぁ。
桜庭氏は出された紅茶を啜りながら兄弟を見比べた。
「その尻尾の生えた頭はなんだ」
「野郎に語ることじゃない」
オレは千尋の尻尾より晶のライオン頭の方が気になるけどな。
「そして嫁もなし、客もなし」
「余計なお世話だ」
「この前主殿さんがむが」
千尋は晶の口を塞いだ。
「ん?由利?どうかしたの?」
「どうもしない。お前が悪い」
「えぇー?それどういう脈絡?」
そういえば千尋は何度も由利嬢に潤一さんか美香乃さんかこの洸人氏かと尋ねていたっけ。彼女は誰も関係ないと言っていたけれど。この人が美香乃さんの弟の桜庭洸人氏なのかぁ。顔のつくりは似てるっちゃ似てる……かな?
「洸人は暇そうだな」
「ま、学生みたいなもんだから」
学生?だって千尋と同級生でしょ?
「博士課程は終わってるだろう。ポストドクターで燻ってるのか?」
「一応助教ってことで給料はもらってる。でもできることなら学校制度に組み込まれないで研究したいんだけど……来年は講師決定だろうなぁ」
世の助教の方々が聞いたら怒り出しそうなことを桜庭氏は言う。
「狂人に刃物を持たせたまま綱もつけずにいるのが如何に怖いことかを大学の方がよく知ってるんだ」
桜庭氏が照れたように言った。
「いやぁ、それ程でも」
「誰も褒めとりゃせん」
「ちゃうちゃう。ちーくんは俺のことよく解ってくれてて嬉しいなってこと」
「さよけさよけ」
漫才だな、まるで。
「俺は洸人のことは全く理解できん。昔話をしにきたのなら帰れ。近況報告は済んだ、帰れ。てめぇが暇なマッドサイエンティストのままだってこともよぅく解った、帰れ。俺達は忙しい。業務中だ」
千尋がマイペースを崩されている。珍しいね。最後の方なんかとうとう立ち上がっちゃったりして。桜庭氏は悠然としたものでのんびり啜り続けているカップの向こうから上目遣いに千尋を見返しただけだった。
「ふうん、忙しい。ほんと、忙しそうだねぇ」
言葉に皮肉もなく爽やかに流されたもんだから、千尋の負け。まだまだ修行が要りそうである。
「忙しい中悪いんだけど、こいつ診てやってくんない?」
桜庭氏はケーキと一緒に持ってきた小さな木箱を静かに指した。
「ちゃんとお代は払うからさ」
「ったりめーだっ」
「誰もケーキで誤摩化したりしないからね、ちーくん」
誤摩化されるか、と千尋は目角を立てる。
「この商売をナメとるのかてめぇは?」
ナメられるような千尋がいけない。
「何を連れてきたんだ?」
桜庭氏は漸くカップを置き、箱を大事そうに開けた。
猫だ。
おろしたての柔らかそうなタオルの上に小さく丸まっている。
「生後何ヶ月目だ」
急に千尋は同級生の顔から獣医の顔に切り替わった。いつもそのくらい気合いを入れた顔をして生活してくれ。
「知らない。近所の中学校の裏手の雑木林で死んだ母猫の傍に引っ付いているのを見つけたんだ」
「……母猫はなんで死んだんだ?」
「嫌な話さ。ボウガン」
「まだそんなことやるやつがいるのか」
千尋は動物をただ愛護すればよいという考え方ではない。野良猫が庭の盆栽を引っくり返すなら容赦なく追い出して忌避剤を撒く。烏がごみ捨て場を荒らすなら仮令残虐だと罵られても一羽縊り殺して逆さに吊るしておくだろう。
千尋の考えは簡単だ。野生は現代の人間の生活圏では基本暮らせない。だから追い出す。少なくとも住宅地からは。共存できたのは江戸時代までだとさえ言い切る。しかし、飼われていた家から棄てられた動物や、乱開発で住処を奪われた連中については別途考慮する。勿論考えるのは人間の暴挙についてだ。互いに不干渉。それを侵すのは互いに悪質だと思っている。
この衰弱している仔猫の親の殺され方は千尋にとって最も許しがたい部類である。なにも言わずに仔猫を診ているが、内心かなり煮え滾っていることだろう。
「大学の農学部の動物病院に何故連れていかずに俺のところへ持ってきた?」
「理念が違う」
「幾ら違うとはいえ持ち込まれたら診るだろう」
「放り出すなよ、ちーくん」
「んなことするかボケ」
晶が点滴の用意を始める。壁に寄りかかって桜庭氏は笑った。
「ロバートさんの命題は解けたのかい」
「あれは一生かかって解く。黙っとれ、タケ」
低い声でそう言いつつ千尋は仔猫を体重を量って温め、治療方針を定めた。
「助かるかい」
「預からせてもらう」
桜庭氏は安堵したように頷いた。
「頼むよ」
桜庭氏の帰り際、千尋は言いにくそうに彼を呼び止めた。振り返った桜庭氏に、すぐに切り出せないのか千尋は煙草に火を点けた。
「……タケ」
質問を察したのか、彼は問われる前に答えた。
「野良だよ」
彼も少し口隠っていた。
「野良は難しいよな。ちーくんはどちらだと決めたんだ?」
「ロバートさんの命題にはひとつとして結論を出せていない」
「そうか。結論なんて出ないのかもしれない。でもちーくんは目の前にある自分にできる総てのことをするんだろうよ。それでいいんじゃないか?」
千尋は頷かなかった。
「……最近ゆ……主殿に会ったか?」
「由利?会ってないよ?近況なら潤一さんに訊いたら?」
彼女がどうかしたの、と桜庭氏は逆に聞き返してきた。
「タケにならなにか話してるかと」
「なんでさ?寧ろコマッチにじゃね?同じ会社なんだから」
「部署が全く違うだろ」
「なにが知りたいんだ?」
「別に」
また千尋は本当に訊きたいことを訊けずじまいにしてしまった。彼が帰ったあと、晶は煎餅を齧りながら言った。
「桜庭先輩格好いいね」
猫を覗き込んでいた千尋が怪訝そうな顔で振り返る。
「倒錯?」
「違うよ。なんだかこう…他者には揺るがすことのできないなにかが確立されてる感じが羨ましいっていうか、そんなとこ」
千尋は猫が落ち着いて眠っているのを確認してそこを暗くした。
「努力もする天才だからな」
「天才だって努力くらいするだろ」
「あいつの努力は能力の範囲内の努力じゃないんだ。才能の領域を島に喩えて限界、つまり波打ち際にぶち当たったら努力の二文字でそこから先の海を埋め立てて、島をいつか大陸にすると言い切る。言ったら必ず実行する」
有言実行型。潤一さんと美香乃さんに嘸かし心配をかけているに違いない。
仔猫がミルクを吐かなくなるまで約二日を要した。抗生物質も効を奏したのだろう。その日の昼前に桜庭氏はまた箱を携えてやってきた。
「また来たのか」
「見舞に来ちゃ悪いの?折角潤一さん直伝ピザを持ってきてやったのに」
「なんと、ピザ!それも潤一さんレシピ!寄越せ」
「イヤダ。見舞に来たのにこんな邪険な扱いを受けるなら、やんない」
「なにをぅ、俺が猫の面倒を見てやってんだぞう」
正確には千尋と晶の二人で、な。
「ちーくんが冷たいから、ヤダ」
「寄・越・せ~っ」
「イ・ヤ・ダ~っ」
先日の門前払いごっこにも似たピザの箱の取り合いが始まった。ピザの薄い箱を二十七の大の男が二人で引っ張り合っている。
「寄・越・せ~っ」
「イ・ヤ・ダ~っ」
「猫がミルク飲むようになったの、誰のお蔭だと思ってるん……わぁっ!」
千尋がピザの箱を抱えて後方へ跳ね飛んだ。桜庭氏が箱から手を離したのである。千尋は勢い余って廊下まで転がり、そこで滑って尻餅をついてしまった。それでも千尋はピザを手放しませんでしたとさ。メデタシメデタシ。食い意地に勝る意地など千尋は持ち合わせていないらしい。
「元気になってきているんだな?」
「痛ちち……まぁね。一日目のげろげろ吐くわ熱出すわから較べりゃな」
ピザの箱を片手に尻を摩り摩り立ち上がった千尋に桜庭氏は嬉々と手を貸して千尋を労る。
「大丈夫かいちーくん?そうかぁ、よぅし、そのピザはちーくんと晶くんに進呈しよう。昼食の足しにでもしてくれ給え」
いきなり豪儀になる桜庭氏そのつもりで持ってきたんだろうに。欠伸もしている、ぎっちり目に隈も入っているとくれば千尋と晶が寝ずの番をして猫の世話をしたということは彼でなくとも一瞥で判ろう。だけど二人共必要に迫られてなんて理由ではなく、冗談抜きで仔猫が心配で二晩とも寝付けず結果的に猫の横で夜明かしをしてしまったということだけは彼らの名誉の為にも付け加えておかねばなるまい。要はあんまり賢くないということだ。
さて桜庭氏を交えて昼食となった。兄弟はいつものメニューから脱却できたからか、至極ご満悦である。
「この前野良がどうとか言ってたじゃん。あれなに?」
千尋と桜庭氏は略同時に食べる手を止めた。が、二人の違うところは千尋は完全に手を止めてしまったのに対し、桜庭氏は何事も無かったかのように再びピザの切れ端を口に押し込んだということである。
「……そう身構えるなよ、ちーくん。大したことかどうかを決めるのはその当人であって、ちーくんじゃない」
桜庭氏は晶に向き直り、穏やかに笑った。
「晶くん、君には些細なことかもしれないが、ちーくんにはずっと考え続けても答えの出ない難問なのだよ」
「難問なもんか。勝手に決めるな」
不貞腐れた口調で言って千尋は手に残っていたピザに噛み付いた。
「難問だろうよ。ちーくんはもう十年以上考え続けている」
「四六時中考えているわけじゃない」
なに子供みたいにむくれているんだか。晶が痺れを切らしたように重ねて問う。
「だからなんなの?」
すると桜庭氏はまるで違う話を始めた。
「ここに人間の悪意ある悪戯で瀕死の野良猫がいる。飼い主はいない。君は獣医で加療することができる。さぁ、君ならどうする?」
「えっ、あの仔猫のこと?」
「あれは瀕死だったがあのコ自身は危害は受けてない。実際に怪我して命を落とした母猫のの方が当て嵌まるな」
桜庭氏は小さく笑った。
「やめろ、タケ。ロバートさんの言ったことをそのまま言ったって、晶には伝わらない」
「ロバートさんって誰」
「お前農学系の授業全く採らなかったのか?いただろう、ロバート・リヒター教授。園芸学が専門の」
「あー、もしかしてあの金髪碧眼の。日本語ぺらっぺらの」
「他の言語もぺらっぺらだ」
「えぇ?そうなの?知らなかったぁ」
どうやら千尋と晶の所属していた農学部の専門の違う教授ということらしい。
「ほら、晶に言うだけ無駄だった」
「そんなこと無いよ。晶くん、この問題をちーくんは中学二年のときに聞いて、以来悩んでいる」
「どうして悩むの。助ければいいじゃん」
「ほら、晶はこうだ」
「だーかーらー、少し掘り下げてあげなさいって。晶くん、この問いには三つのポイントがある。野性動物を加療すべきか否か、人為の加害ならということを考慮すべきか、野良は野生か、の三点だ」
晶は少し押し黙った。成る程、野生の生態系にはノータッチってのは基本だよね。でも危害を加えたのは人間だ。そして野良ってのは人間の生活圏で暮らしている。野生とはまた少し違う。
「晶は悩むな」
「いや、悩むでしょ」
「だよねー、獣医たるもの、悩ましいよね。この猫がどういう位置を占めているのか、この猫が欠けることによってなにが起るのか予測がつかないよね。無理矢理持続させるべきなのか、それとも傍観すべきか、ずっと迷ってるってわけだよ」
おぉう、なかなか凄いことを考えていたのだな、オレの飼い主は。いつものほほん顔で食う寝るしか考えてないのかとオレは思っていたよ。
「そんな大層なことじゃない」
千尋は桜庭氏が長広舌を振るっている間にピザを大幅に胃に納めていたらしい。
「野生の動物は手当しないのが野生のルールだ。野良が野生なのかそうでないのか判断がつかないだけだ」
野良は野に棲むから野生なのか。それとも飼い主を持たないだけなのか。野生ならその循環を断ち切らない為に獣医といえども無闇に手当をしたりしてはならない。それがルールだ。それを破ればその世界はいずれ崩壊してしまう。しかし人間に飼われるということはそんな循環などなく、ただ場当たり的に維持する刹那的な活動なのである。良い悪いは関係無い。人間の生活があって、そこで獣医というものは成り立つのだ。
千尋は最後の一切れを遠慮なく口に運ぶ。
「あーっ、最後の!!兄貴幾つ食ったよ?俺食い足りないよ!」
それでも千尋は野良を看病してしまうのだろう。現に今、彼は寝不足で、目の下には濃い隈が入っている。
オレは途轍もなく眠い。真も大欠伸をしている。真の欠伸が終わるや、まるで伝染したかのように晶が大口を開けた。千尋が真面目に仕事に励むと碌なことがないと身をもって実感したよ。何故千尋はあんなに元気なんだろう?日頃シエスタで寝溜めしているからだろうか。猫はすっかり回復したと言っても過言ではないだろう。それを見計らったのか千尋は猫を風呂に入れている。風呂場からはシャワーの水音に混じって鼻唄が聞こえてくる。ジャンバラヤのつもりらしいが、炊き込みご飯の出来損ないにしか聞こえない。
「眠てぇぇ~」
晶はダイニングのテーブルに顎を載せ呻いた。だらしない格好である。
「おぅい、あっきらぁ!」
「あいよぅ~ぅ~」
返事の声に覇気が足らない。のそのそ晶は洗面所へ行くとタオルとドライヤーを用意し始めた。オレと真も面白半分でついていって作業を見守ることにする。
浴室の戸が開き、大量の湯気と共ににゅっと千尋の掌に腹をがっちり掴まれた猫が突き出された。洗面台の鏡が見る間に白く曇ってゆく。晶は猫をタオルで受け取ると、毛を逆立てるように拭き始める。洗面所を最も狭くしている洗濯機の上に置かれ、猫は足先を晶に向けて振るった。
「わっぷ。馬鹿っ、目に入ったろうがっ」
猫はそんなことお構いなしに自分の腰の辺りを舐め取ろうと躍起になっている。
浴室から千尋が散々な態で出てきた。裾を捲り上げた白衣のスラックスはすっかりびしょ濡れだし、腹から胸にかけて水の染みが広がっている。前髪からも雫が滴って、気の毒なくらいだ。風呂場掃除用のピンクの大きなビニル靴は用を為さなかったらしく、脱いで逆さにするとかなりの量の水が零れ出た。
「マイッタ、マイッタ」
それでも千尋の口調はまだ笑っている。見れば腕や脛の辺りは蚯蚓腫れだらけで噛みつかれた痕さえあるというのに、まだ水遊び気分なのかもしれない。足を拭いながら千尋は猫の鼻先を突つく。
「おい、お前、キレイになったじゃんよ?あれだけ暴れられりゃ上等だ」
猫は構われるのも鬱陶しげに自力で体を拭き取ろうとしている。
「よくもまあそんなに引っ掻かれたよなぁ。痛くないの?」
「痛くなくはないが」
解りづらい否定だな。
「コイツもうタケに返せるな。うんとふっかけてやろう」
……ふぅん、正直じゃないね、千尋。餞別代わり?それとも名残惜しんでるの?
それだけ言うと千尋は乾いたタオルを頭に載せ、少しだけ疲労の色を滲ませてダイニングの椅子に投げ出すように腰を下ろしたのだった。
然しもの千尋も寝不足と疲労が祟ったのか、椅子に座るなり天井に大口を開けて高鼾をかいていたのだが、そのときとんでもないことが起こっていようとは夢にも思わなかっただろう。
粗方乾いてきたところで晶は猫の耳の内側を拭いてやり、ドライヤーを持ち出したのだ。幾ら猫とて、いや、毛の密な猫だからこそ、腹の辺りがいつまでも湿っていると下すからと晶はドライヤーの温風を当ててやろうとしたらしい。
かちりと音がしてスイッチが入る。ファンが回り始める。回転は直ぐさま唸りに変わり、朱く光り始めたコイルの熱を吹きつけ出した。
晶もいけなかったのである。いつもオレや真にするように耳許でスイッチを入れたりするからだ。
猫は風の吹き出す音に怯え、その熱さに更に驚かされ、尚且つ熱気が自分に向かってくることに生命の危機を感じたに違いない。洗濯機の上に敷かれたタオル地を掴むかのように爪を立て、後退る。壁まで退ってしまうと逃げ場がないと思ったのか、まだ小さい真っ白な牙を見せるように口をカッと開け、猫お得意のあの威嚇音、「シャーッ」といった次の瞬間。
ドライヤーは跳ね飛んだ。正確には猫が横張りのパンチを繰り出し、握りの甘かった晶の手から弾き飛ばされたのである。
猫は自分でドライヤーを殴り飛ばした癖に、その動きの大きさと落としたときの音にまた驚いて、なにを思ったか晶の頭に跳び移り、洗面台の鏡をよじ登り、壁を登りかけたが重力には逆らえず落ちそうになってパニックになり、晶の白衣の背中に爪を立ててぶら下がり、爪の刺さった痛さに晶が仰け反って叫んだ声にまた驚いて……。
まるで洗面所に竜巻でも発生したかのようだった。オレも背中を、真は鼻っ面をそれぞれ引っ掻かれた。おぉ痛ぇ。
晶がコンセントの抜けたドライヤーを拾う。頭はぼさぼさだ。溜め息を吐いてコードを手繰り纏める。薙ぎ倒された整髪料やハンドソープのポンプを立て直し、散らばったものを仕方無さそうに拾い集める。タイルの床には青い粒の混じった洗剤がぶちまけられている。彼はその洗剤の置いてあった張り出し棚を見上げ呟く
「このアホ猫」
猫はまだ震えている。それを見て晶は怒る気が失せたらしく、再度呟いた。
「そしてアホな俺……」
晶はフランスピンで髪を留め直すと諦めたように洗剤の片付けにかかったのだった。
晶の疲労に追い討ちをかけるようなそんな騒ぎがあったにも関わらず千尋は天井に向けて大鼾をかき続けていた。大物なのかもしれない。
そのとき電話が鳴った。おい、千尋!電話だぜ、で・ん・わっ!
「あぁ?誰だよもぅ……」
文句を垂れつつ千尋は受話器を取り上げた。頭をぼりぼり掻いて欠伸を殺しきれずに答える。
「ふぁい。もひもひ、上村動物病院でふ。あ?」
おいおい、そういう対応でいいのか?
「あぁ。あぁ?あ、そう……そりゃないだろ?おい、タケ!洸人!洸人!」
千尋は茫然と受話口を見詰めた。
「マジかよ、おい……」
受話器を置くと千尋は診察台に両手を置いて黙り込んでしまった。口許が時折微かに動くのだが音にはならず、酷く深刻そうに眉根を寄せたままになっている。
大丈夫?
つい鼻が鳴ったのが聞こえたのだろう、千尋はやっと顔を上げ、弱々しくだが笑った。
「なに、大したことじゃない……平気だよポルカ」
オレを抱き上げ、千尋はそう言ったのだった。
桜庭氏は一向に現れる気配がなかった。あの電話以来、千尋のシエスタの時間になると仔猫はひょいと首根っこを摘ままれ千尋の膝へ乗せられる。いつの間にか廊下の隅っこに猫専用のトイレが完備され、ある日とうとう千尋は猫の首輪を買ってきたのだった。
「だってそいつ桜庭先輩のでしょう?」
「洸人は飼わないとさ。……やつは飼えねえのさ。寮暮らしだからな」
「野良に戻せばいいじゃん」
千尋は見違える程大きくなった猫を掴み上げ、晶の眼前に突き出した。
「お前は戻せるのか?」
なにムキになってるんだろう。
「かわいいだろ」
「かわいいからって拾う猫拾う猫全て飼っていたら俺達破産しちゃうぞ。そんなことわかりきってる癖にどうしちゃったんだよ!?」
憐れなのはなにごとかわからぬまま晶の顔に五センチと離れないところへ吊し上げられた猫である。
「喧しい。ブリは俺が飼う。文句ないだろうっ」
ブ……ブリ?
オレは一瞬遅れてそれが猫の名前であると気づいた。晶も同様だったらしく目を丸くしている。
「も……もうちょっとセンスのいい名前をつけようよ~、ね?」
「駄目だ。もうこいつはブリなんだ」
「なんで選りに因ってブリなんだよぉ~」
千尋は答える気が無いらしい。諦めたように晶が椅子に腰を戻したとき、庭の方から声がした。
「見事な皐だな。花が咲くのが楽しみだろう」
この声!庭から来るなんて、卑怯だぞ!
千尋は猫を膝に乗せたまま物憂げに言った。
「なにしに来た、洸人」
「やっだな、ちーくん。我が愛しのブリちゃんの名前の由来を釈明しに来たに決まってるじゃんよ」
この人がつけた名前だったのか。こういう名前をつけそうにない人のように思えたのはオレの買い被りだったのだろうか?
桜庭氏は網戸を開けると、今日は素直に龜屋の柏餅を千尋に渡して勝手に上がり込んだ。
「またあの雑木林で矢猫が出たよ。これで六匹目だ。ちーくんに預かっててもらわなかったらブリも今頃雲の上だったろうよ」
「余計なことは言わんで宜しい、洸人」
「んー、ブリ~、名前に違わず斑猫になってきたねぇ~」
ブリ……斑?もしかして、brindled、のブリだったわけ?
これがブリンドルド、オレの新しい弟分だ。