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22.蓼食う虫も好き好き

「うわあ」

 小松氏はそれ以上の感想は洩らさなかったが、晶の疲れた感じと千尋の隈の取れない顔を見て、ゼウスに対してどれ程の献身を注いだのか理解したらしい。五時頃起き出してきてぼうっとしている千尋は小松氏が訪れるまで煙草すら口に咥えず、起きているんだか眠っているのだか。

「よぅ、コマッチ、今日はどうした」

「どうしたって、ちーさんが寄れって……寝てないの?」

 まだぼんやりしている千尋は小松氏の言葉の些細な部分を上手く聞き飛ばしてくれたようだった。

「さっきまで寝てたさぁ……変な時間に眠ると体がいうこときかないな」

 よく言うよ、普段昼寝三昧の癖に。

「晩飯食べた?まだなら俺材料買ってくる。どうせ冷蔵庫にあるの、卵だけでしょ」

 小松氏は財布だけ掴んで飛び出していってしまった。


 戻ってきた小松氏は袖捲りし、ネクタイの剣先を胸のポケットに押し込み、家に戻って取ってきたらしいエプロンまでかけて、猛スピードで料理を始めた。人参、赤黄のパプリカ、玉葱は皆細く薄く切ってこの家にある最も深くて大きい皿に全部入れた。その横で揚げ油がぴちぱちいってる。鶏の腿肉を少し大きめに切って四枚分唐揚げ。玉葱を丸ごと一個使ったのに、今度は長葱。芯のところは薄く小口に切って皿にどんどん入れちゃう。それから白髪葱をどっさり作って水に晒す。レモンをぎゅうぎゅう搾って、残った皮は灰汁抜きして砂糖漬け。ご丁寧にグラニュー糖までまぶしている。小一時間で出てきたのは油淋鶏だった。香味油かけ、というより、どちらかっていうと鶏南蛮に近いかも。鶏肉のボリュームと刻んだ野菜のかさが同じくらい。味噌汁はキャベツと豆腐。千尋と晶はメニューを見てげらげら笑い出した。

「凄っげぇ。露骨なメニュー」

 小松氏は小さく鼻白む。

「農学部卒は嫌だね。そうだよ、野菜沢山食べさせたいし、蛋白質も、枸櫞酸も摂らせたい、葱って疲れ取れるし、キャベツは消化を促進するしだよっ。つべこべ言わず食べなさい」

 砂糖漬けでできた蜜を炭酸水で割って出してやる。とことんお腹のことを考えたメニュー。ふむっ、流石オレ。人選、間違ってない。あとは小松氏がぺらっと上手く情報を流してくれたら言うことなしなんだけど……頼むっ。お願いっ。明日あの人がすっ飛んでくるように仕向けてっ。

「甘酸っぱいのが体に染みるぅ〜っ。コマッチさん、飯屋開いた方がいいんじゃない?」

「あはっ、おんなじようなこと、潤一さんに言ったなぁ。あの人の料理丁寧だし綺麗だし美味しいし量も丁度いいし何度もそう思ったっけ……俺のがさっと盛ってじゃばっとかけただけの料理なんて目じゃないもん。でも飲食店なんか開きたくないよって言った潤一さんのあのときの気持ち、今頃やっと解った気がする」

「秋津の仕事がしたいってこと?」

 晶はなんだかんだ言ってまだ体力が余ってる。千尋は咀嚼に専念して黙りこくっているのにさ。

ちかしい人の為だけに働きたいって言った気持ち。不特定多数の為になんて働きたくないって笑い飛ばした気持ち、痛感してる」

 重職にありながら潤一さんも仕方無い人だな。

「会社員なんて超不特定多数の為の仕事じゃん」

「あはは、会社員なんてもろ会社の為だけ。目の前にあることの為だけ。給料の為。自分の為。獣医の方がよっぽど不特定多数の為の仕事じゃないの。いつ来るかわからない病気の為に万全の備えをするなんてさ。地域の人に目を配って、個々の動物に心を砕いて。ちーさん、頑張り過ぎだよ」

「今頑張んねぇでいつ頑張るんだよ」

「そうだけどさ、ちーさん、見えない努力っていうか、お金になんない努力好きなんだもん。もっとさぁ、こう……報われる努力をしようよ」

 じろりと目だけ動かして千尋は小松氏を見据えた。

「コマッチは打算的だな」

「えぇ〜そんなぁ」

 ひとつ鶏肉を口に放り込むと、よく噛み砕いて飲み込み、言った。

「コマッチに惚れてる女がいたとする。お前の気を引きたくて、女を磨いて超一流の、逆に足許にも寄れない女になってしまったとしたら、それは打算じゃないと言い切るんだな?」

「それは打算っていうよりもう才能?じゃないの?」

「お前が足許にも寄って来なくなったことを蔭で泣いてたら、それも打算じゃないんだな?」

「い……いやいやいやいや!泣いてるのを誰かに知られてる時点で、そこは打算じゃないの?大体俺を原動力に自分に磨きがかかる女の子なんているわけないっしょ」

 いるよ。

「……いたらどうする」

「だからいないって。仮定の話にしたって、有り得無さ過ぎだよ」

 おいおい千尋ぉ、幾つ案件を抱え込む気だ?そのことは今やっつけなきゃなんないことか?千尋が今対峙すべきはゼウスの予後管理であって、堀切粒嬢の行き場の無い恋心じゃない筈だぞ。

「てゆうか、なんでそういう話になるの。もう、ちーさん、他人が心配してるんだから素直に心配されようよ」

「されてる。ありがたいとも思っている。だからお前のことも心配してやってるんだ、コマッチ」

「訳わかんない……」

 オレも訳わかんないよ。どうして自分のことだけ、今目の前にある事案だけに専念しないのさぁ?

 小松氏は味噌汁の椀を空にしてぽつんと言った。

「仮にそんな女の子いても、俺、どうにもできないよ」

 おいお〜い小松氏ぃ、彼女のひとりやふたり作ってこなかったとは言わせないぞ?

「学生時代とは違うからね、なんていうの、構ってあげられないっていうのかな。仕事終わったらなんかへとへとだし、休みの日は寝てたい。夜になったら飲みたいだけ飲んで寝てしまいたい。スーツクリーニングに出して、靴磨いたら、もうなにもしたくない。ドラマとか映画とか見るのも嫌。バラエティなんか見たら苛々してきちゃう。そんななのに、お洒落してくるであろう女の子に釣り合いが取れるように服を選んで我が儘聞いてあげて振り回されてなんて、今絶対無理」

 えぇ〜っ、そこをなんとかするのが男の甲斐性ってもんじゃないのぉ?

「……以前、堀切の姉さん、環さんのこと、矢鱈褒めていたじゃんよ」

「だからぁ。年齢の割に可愛らしい人だったなって。感想だよ感想!堀切が確りし過ぎてる所為か、つい比べちゃったのっ」

「状況が許さないのに、手のかかりそうな可愛い女の方が趣味なのか」

「へ?」

 小松氏は目を丸くした。

「だってそういうことだろう。堀切が確りしてみえるなら」

「い……ぃいぃ?ま、待ってよちーさん、別にどっちがいいとかそういうんじゃなくてね」

「俺はずっと待ってるが」

「いやそういう待つじゃなくてね……」

 千尋よ……小松氏をそうやって甚振ることが心の安寧になるのかい?いい趣味じゃないな。

「ははっ、揶揄い過ぎた。このくらいにしといてやる」

 小松氏は眉間を摘んだ。

「……もしかしてさぁ、ちーさん俺に環さんか堀切を勧めようとかしてる?」

「いいや?」

「言っとくけど、さっき言った通り俺今女の子に望まれるようなつき合いできないし、環さんはどうだか知らないけど、妹の方……堀切粒は、タケさんが好きな筈だよ」

 はへ?

 なんでそうなってんの?だって堀切嬢はここに来て、オレを撫で繰り回して、小松氏の心が姉に向いてしまったとめそめそ泣いてたんだぜ。そこのどこにも、桜庭洸人氏の名前なんて出て来もしなかった。

 箸を止めた兄弟の顔を小松氏は不思議そうに見比べる。

「え?なんで二人とも固まってるの?あれ?堀切、もうタケさんのことやめたのかな?」

 もうやめたじゃなくて、彼女、洸人氏のことなんて端から眼中に、無い。

「そこんとこ、ちょっと詳しく聞かせろ」

「えぇ〜この話やめにするんじゃなかったの?……もう。高校んとき、堀切、俺達が三人でいると必ずタケさんに話しかけてたじゃん。俺、タケさんに話を振られるまで堀切といの一番では話、殆どしてない。ちーさんは由利と話してたから、結構喋ってたけど」

 それって……話しやすい人にから話しかけてただけなんじゃん?それだけ三人で寄り固まってたってことでもあるよね。堀切嬢、苦労してたんだなぁ。

「堀切、俺と話すと表情硬かったし。タケさんと話してるとよく笑うし、饒舌だったと思うんだよね。ね?タケさん狙いでしょ」

 ……洸人氏、罪作りな男。同じような誤解、千尋もしてたよね。

「タケは単に気安いだけだ」

「そういうところが女の子のツボなんじゃないの?」

「俺が女なら、タケなんて絶対に願い下げだ」

「そう?タケさん、話題も豊富で話してて楽しいし、美香乃さん似の綺麗目な顔立ちじゃん。高校んとき、結構モテてたよ」

「モテるとかモテないとかじゃねっだろ。あいつ、頭良過ぎて言葉の裏の裏まで読むから、気味悪い」

「そんなの、誰でもすることじゃないかなぁ……ちーさん、どうしてタケさんにそんなに冷たいの」

「冷たくなんかしてない。ただ、誰にでも迎合されやすい言葉を使って本心をなかなか見せないのが、気に入らないところではあるが」

 犬の気持ち猫の気持ちまで見抜く千尋にしてみれば、常に韜晦しっ放しの洸人氏には苛々させられるのだろうか。

 ご馳走さま、と千尋は飯碗に汁椀を重ねて席を立つ。流しシンクまで運んでゆくのを見送って晶は言った。

「コマッチさん、彼女いたことあるんでしょ。学部生のときつき合ってた人いたよね?」

「まぁ、一応。でもなんていうの、便利に使われてただけだったと思うな、今から思えばさ。授業のノートを無償タダで貸してくれる相手。代返しといてくれる便利な人。俺達、三人でよくつるんでいたから、そこに混じれば顔のいいタケさんまで取り巻いてくれてるみたいに見えるでしょ。ていのいい恋愛ごっこの相手。彼氏もいないような空虚な大学生活を送らなくて済むって感じでつき合わされたのだと思うよ」

「そんなに冷たい分析するんですか」

「だってそう思うんだもの。別にあのときあの娘と過ごさなくてもよかったんじゃないかな〜とか、向こうも俺じゃなくてもよさそうだったし」

「……そんなぁ」

「あはっ、弟くんは女の子にまだ夢を持ってるの?女の子はね〜変なところシビアだからね、自分のステータスをがっちり作り上げないといられないんだよ」

「ステータス?」

「そ。自慢の彼氏がいて、心身共に愛されてて、って思い込んでないと気が済まないの。だから俺、四年のとき別れたんだもん」

「なんで?」

「俺が院に行くって言ったら、凄く嫌そうな顔してた。いいところにさっさと就職して楽しく貢いでくれそうな男じゃなくなったことに失望したんじゃない?自分はさ、就職活動してなんとか企業にもぐり込んだけどドラマにあるような優雅なOL生活でもなさそうで、そういうとこ、俺に期待してたんだと思うのよ。学生なんて自由になるのは時間ばっかりだからね」

「う、うへぇ……なんて言って別れたの?」

「それ訊く?ちゃんと言ったよ、別れてくれって。君の彼氏をやめて勉強に専念したいからって。殴られるかと思ったな〜あのとき」

 湯呑みや急須を持って戻ってきた千尋が尋ねた。

「……そういやあの女、どこ行ったんだ?」

「確か、富士電の卸の会社に入った筈だけど……なんっつったっけな、興提電子通信っていうんだっけっか……本人は商社に入ったって喜んでたけど、企業相手に富士電のパソコンやシステム売り歩くのが実情みたいだって、人伝てに聞いたよ」

「ふうん、富士電……」

「売れるならなんでもいいみたいで、AppleでもDELLでもLenovoでもなんでも用意するらしい」

「Lenovoなんか投入したがる企業あるかよ、怖いもの知らずだな」

 千尋は急須に茶葉を入れながら言う。

「リスキーだけど安いからね〜」

「DELLかぁ……メリットあるのか?」

「DELLはね、ポートやスロットをおそろしく沢山持ってるモデルがあるんだよ。リーダを繋いだりしなくていいって使いたい人もいるようだね。テンキーもスーパードライブも取っ払っちゃうMacとは真逆だよね〜」

 湯呑みに湯を張っていた手を止めて真顔で尋ねる。

「秋津は富士電のPC使ってるのか?」

「社内に無い訳じゃないけど、今は殆どレッツノートかなぁ。SDサービスドライバーは殆どハンディで事足りてるけど……持ち出して使うならタフブックかエルーガ、iPhoneにiPadかな」

「洋松とApple?」

「Apple使うのは主に営業マンだね。プレゼンには一番みたい。洋松使うのはハンディが洋松だからなのと、タフブックが頑丈だからだよ」

 すると千尋は違うな、と首を振った。

「秋津のシステム、洋松が食い込んでるだろ」

「なんで知ってるの……潤一さんだな?」

「残念でした。鳩村さんが話してくれた。富士電の子会社が開発ベンダとして入り込んでたそうなんだが、そこに……開発ベンダの中に裏口バックドア屋が巣食っていたそうでな、大慌てでそのベンダを切って、洋松系のベンダに乗り換えたんだってさ」

 肩を竦めて千尋は湯呑みの湯を全部急須に注ぎ込む。

裏口バックドア屋の話は聞いたことある。九州新幹線陸送の仮見積を盗まれて仕事を半分持ってかれるわJRには金額叩かれるわで散々だったって。潤一さん、仕事奪っていった衣手物流のトレーラを引っ繰り返させちゃったっていうんだから、相当怒ってたよね」

「あのニュース、速報で聞いたときはびびったなぁ。秋津のトレーラが引っ繰り返ったのかと震え出しそうだった。そのあと中継が入って秋津の車じゃなかったからほっとしたけどさ」

 かぽ、と音を立てて急須の蓋を閉めて指先でとんとんとん、と蓋の摘みをタップして、注ぎ分ける。

「そうだったね……ん?どういうこと?勿論年単位の契約もあるし機材の減価償却考えたら直ぐどうこうとかいう話じゃないけど……」

「紅林現社長は当時専務だったそうだぞ。システム部長がズタボロになるまで罵詈雑言を浴びせかけたらしい」

 きゃぁ、と小松氏は声を上げた。

「あの人ならやりかねなさそう……ああっ、もしかして報復や制裁ペナルティも兼ねて、秋津は富士電をなにもかも切ったってこと?」

 千尋はずい、と小松氏に湯呑みを差し出した。

「富士電グループ全体に対する不信、ってとこだろうな。だから秋津は衣手製作所系も使わないだろ。その点洋松は自社物流力を持たないから、逆に安心して任せられるって訳。秋津が洋松のロジを担ってるらしいし」

 小松氏はやだもう、と呟く。

「ちーさん、秋津の内部事情に詳し過ぎだよぉ。幾らなんでも皆喋り過ぎ!」

「はははっ、そんだけ俺が信頼されてるってことでいいじゃんよ。どうせ話す相手はコマッチだけだと思われてるんじゃね?」

 けらけら笑う千尋の横で晶が考え込んでいた。

「どした」

「えっ、あの。主殿さんにご執心だったっていう人……いたよね?城山部長代理の奥さんに昔しつこく纏わりついて仕事を疎かにして、秋津のシステム、裏口バックドアだらけにされたって言ってなかった?」

 小松氏は湯呑みを口に運びながら笑った。

「あぁ、その話。そうだよ、九条さんね。城山課長補佐……当時まだご結婚前の酒匂さんに纏わりついて用も無いのに特輸来て入り浸ったり飲み会お好きじゃ無いのに毎度毎度誘ったり……それにあの香水でしょ。弦巻課長代理に毎回毎回煩い臭い帰れって凄まれてたんだって。そうやって席を外してる時間が長かったから、当時の開発ベンダの富士電シスが秋津に常駐させてたエンジニアが好き放題に裏口バックドア拵えて、そのパスを競合他社に売りつけていたんだってさ」

「なにしに出社してきてるんだかわかんねぇな、そいつ」

「九条さんはちゃんと作業させれば手際もいいし、勘もいい人ではあるんだ。ただ……ぷふっ」

 小松氏は湯呑みを置いて横を向いた。

「特輸の分析によれば、重度のマザコンなんだって。母親が好きとかいう倒錯じゃないよ。お母さん依存症とでもいうのかな。家じゃ箸の上げ下ろしくらいしかしないんじゃないかって言われてる。女の子にモテる訳ないよね、私はあんたのママじゃないっつの!とか言われてぶっ飛ばされるに決まってる」

 あははっ、それじゃ駄目だよね〜。女性だってそんな面倒なことしたくないもん。

「俺、それを鑑みるに、軽々しく九条さんを笑えないところもある。自分がお腹が減って散らかってないところで過ごしたいから炊事洗濯掃除くらいするけど、やってもらえるなら任せちゃいそうだもん。他人事じゃないよ」

 千尋は小さく息を吐いた。

「……割れ鍋には綴じ蓋。母親依存症の男には世話焼き女房志望の女が合うというものさ。秋津の中で探したってそんな女見つかる訳無かろうに」

 ところで、と千尋は小松氏に向き直った。

「今日は日曜日の筈だがなんでお前はスーツなんか着てるんだ?」

「今頃ぉ?鹿児島の機器を入れ替えたばかりだからね、不具合あったら即対応ってことで詰めてたの。この土日平気なら今週中に代休取れるんじゃないかな。マクこそ日曜日なのにお家に帰してもらえなかったの?」

「奥さんの実家に孫の顔を見せに帰ったんだってさ。マクがもう少し落ち着いたら連れてってもらえるだろう。今回は大事をとって、うちで居残り」

「そうだったの。マク、もうあんまりそわそわしないみたいじゃん」

「賢いからな。ゼウスのことがあってあんまり構ってやれなかったけど、出る場所と引っ込んでる場所の弁えがついてきたようだ。これで音がするから携帯持ってきた、とかできるようになったら確り聴導犬だな。ははっ、そこまで鍛える気は無いよ、マク」

 頭を撫でられてマクはふさふさと尻尾を振っている。そういうことすると喜ばれるの?と目がちょっと爛々気味。いや、それはやめとけ。犬が銜えると、携帯はべちゃべちゃになっちまう。良かれと思ってしても逆に叱られるぞ。


 小松氏はゼウスを見てから帰っていった。千客万来だな、とゼウスは言う。彼だってぐったりしてた貴方を運んでくれたんだよ、と反駁するとゼウスはそんなことは承知している、と鼻をふんと鳴らされてしまった。お見逸れしました。ごめんなさい。素直に謝ると、ゼウスは彼は布石なのだろう?と言うので、五分五分だね、と返した。千尋の癒しになってもらえたら万々歳だけど、まだ体面を取り繕って見栄を張りたいお年頃でもあるんだよな。ふふふ、とゼウスは低く笑う。なにその笑い。褒めてんの、貶してんの?

 晶がマクと真を誘って風呂に入ってしまうと、眉根を寄せて携帯の画面を見ていた千尋は巻き舌気味に言った。

「こら、ポル。お前いつの間に携帯のいじくり方憶えた」

 ひゃっ!

 聞っこえませーん。オレ犬だからわかんなーい。そういうことできなーい。

 知らんぷりで遣り過ごそうとしたけど、耳がぺしゃっと寝ちゃってたのは失敗だった。いやーんな気持ちが耳に表れていたのを千尋は見逃してくんなかった。オレの前に回り込まれて正面にしゃがみ込まれてしまったから、二進も三進も行かなくなってしまいオレは剥れてぶっすーとしたままぷいと横を向いた。

「お前ね、愛玩犬なんだから余計な気を回すなよ」

 余計ですみませんねぇ。

「ふふふ、緊張の連続じゃあ神経参っちまうもんな。弛緩の時間を作るにはコマッチはいい相手だ。お前いい犬だな」

 千尋は膝を抱えるようにしていた手を解いてオレの頭を撫でた。

「手段はどうかと思うけどな、お前が俺のこと気遣ってくれてることは嬉しいよ。ありがとうな、ポル」

 褒めてくれるの?

 ふわっと抱き上げられたのが嬉しくて、千尋の顎を舐める。

「ははっ、やめい、ポルカ。今晩ついてて平気なら、もういいだろう。ゼウスは傷口をいじってしまうような馬鹿なこともしないし、経過も順調だ。俺だって夜中じゅう起きてる訳じゃ無いんだ、ただ少し寝心地が悪いだけさ」

 その寝心地ってやつが千尋の心身の回復に深く関わってんじゃん。

「犬が獣医を否定すんなよ。要領のいい遣り方じゃないのは俺がよくわかってる。なにかあってから後悔するのはご免だし、自己満足でやってやったっていう実感が欲しいだけなのかもしれない。俺は未だ未だ経験が浅いよ。そこんとこ、若さと体力でカバーできるのは今のうちだけだろ?」

 あははっ、若さとか言っちゃう?獣医としては若い方だけどさ。

「お前今物凄く嫌味なこと考えてたろ。目が泳いでる」

 知ーらなーい。晶がマクを洗い終えたみたいだよ!オレ、マクでブリの二の舞は嫌だかんね!千尋は巧くやったってよ!


 朝方冷え込んだからか、ふかふかな毛皮のマクがオレの寝床にもぐり込んできた。

 狭いよ。

 ねぇ千尋先生はどうしてわたしと言葉が通じるのとうとうとしながら尋ねてきた。それはマクが伝えたいことが千尋に通じるという意味かい、それとも千尋の言うことならマクにもわかるということかい。マクはうーん、と少し唸って両方ではあるんだけど、と続けた。マクから千尋に伝わるのは、千尋の特技みたいなもんだ。千尋からマクに伝わるのは、千尋は犬猫にわかりやすいように言葉と行動をその素質と技術で最大限に伝えてくれるからだろうなぁ。始めにトリックを教わっただろう?持ち前の犬の耳に届きやすい声で、わかりやすいハンドサインと共に指示をくれる。あれみたいな感じ。言葉だけのコミュニケーションに完全に依存している人間には稀有な才能だね。その上マクのことを心の底から考えてるからだろうなぁ。犬の特徴を最大限に理解して、マクにとって最善を提供してくれる。最善は往々にして心地よい結果が伴うから、やってほしいことに思えて、素直に従える。そんなとこじゃね?……こんにゃろ、マクめ、半分以上聞いてないな。殆んど眠ってる癖にマクはまだ疑問を口にする。千尋先生ってなんで頭に尻尾が生えてるの?だなんて、オレだって知るかよ。時々切って無くなってるときもあるよ。邪魔だから結んでるんだろ。折角説明してやったのに、マクは鼻をぴすぴすいわせながら眠りこけていた。ぬくいのはありがたいけど、重いんだよね。仕様も無いやつめと思いながら二度寝に入ったらちょっと夢を見た。なんてことはない、千尋が髪を切ってきた、と後頭部を掻きながら帰ってきてへにゃっと笑う、それだけだ。そういや晶は短くしてるところ見たことないな。オレがここに来たときにはもうでれ〜んと長かった。そのときにはもうあの金色のピンで留めてたっけ。マクの背中がずっしり俺を圧迫してくるのに耐えかねて俺は寝床を仕方無く這い出した。足音を忍ばせてそっと階段を降りる。ダイニングのドアはラッチが嵌っておらず、鼻で押し開けると蝶番ヒンジが微かに軋んで通り抜けられた。ケージ室へ入ると、申し訳のように毛布に包まって椅子に座ったまま天井に口を開いている千尋がいる。早いな、とゼウスがオレに気づいた。おはよ、ゼウス。調子はどう?悪くなっていないから、良いのだろうよとゼウスは笑みを含ませて言った。年寄りって難しいなぁと思いながらゼウスのケージに寄っていくと、だらんと垂れ下がった千尋の手の真下に文庫本が一冊落ちていた。新釈落語咄?立川談志かぁ。談志なぁ。ゼウスがこの衒学ペダン犬、談志について一席つか、とにやにやしながら言う。そんなことしないよぉ、大体オレのこと衒学ペダンだなんて失敬な。談志みたいにある日突然参議院議員になるとか言い出されたら困るなと思っただけさ。ゼウスは議員などになりたがるものか、と言う。……うん、そういう暴挙には出ないだろうけど、現状現実にはいっぱい不満を持ってるからさ。ゼウスはまた皮肉げに笑ってヨークシャーテリアってのは剛毛が生えている癖に心臓そのものは小さいのだなと言った。余計なお世話だと憤慨したが、心臓がミニサイズなのは事実だ、と聞き流してやった。嫌味はスルーするに限る。だらんとぶら下がった千尋の腕時計がそろそろ六時を指そうとしていた。もう直ぐ晶が起きてくることだろう。


 昼やってきた杵鞭氏は薬がよく効いているらしく、呑酸が治まってきた、とご機嫌だった。昼飯に散らし寿司を持参してくれて、兄弟もご機嫌だ。

「姿勢の問題は解決したの?」

「うーん、設備との兼ね合いもあるから、そっちはちょっと」

 すると千尋はことも無げに言った。

「下駄をやめればいい」

 杵鞭氏はそれだけは、と反駁しかけたが、千尋はお構い無しに続けた。

「要は作業台が低いんだろう。親父さん、杵鞭くんより五センチくらい背が低いから親父さんには合っているのだろうが、君には合わないんだ。花緒のついた履物がいいなら雪駄にすればいい。下駄の歯の高さの分だけ目線が低くなる。首の角度が改善されるだろう」

 晶が下駄履いてたのって水虫予防?と横から笑いながら言うと、そういうのもある、と杵鞭氏は半分茫然としたような様子で言った。

「和菓子屋だから雰囲気の為にも健康サンダルとかビーサンとかは避けていたんだけれども……下駄……下駄の高さかぁ……」

「盲点なんてそんなもんだ」

 履物ひとつで癌を回避できるなら、と納得しかけたとき、玄関に物音がしてオレ達犬が一斉に出迎えに出るのを杵鞭氏は物珍しげに目で追ってくる。

「おぅポルカ、誰が来たんだい……」

 うっそりやってきた千尋はぎょっとしたように足を止めた。

「主殿」

「思ってたより大丈夫そう。あぁよかった」

 小松氏は想像以上に伝令として素晴らしい働きをしてくれたらしかった。オレとしては主殿嬢が仕事が退けてから来てくれるのを予測していたが、彼女はどうやら態々早退してきたようだ。千尋の責めるような目線に跋の悪いような、それでいて膨れっ面のような顔になる。

「いいの。急ぎの仕事は無いし、代休だって残っているんだもの。弦巻おつるさんだって半休にしなさいって言ってくれたんだもの」

 千尋は額を抱えた。

「秋津特輸はおかしいよ……皆主殿に甘過ぎる」

 取り敢えず上がるように促して千尋はドアを開けてやった。

「甘くなんか無いわよ、締めるところはきちんと……あら、お客さま?」

 背凭れに腕をかけて身を乗り出していた杵鞭氏が目を丸くしたまま固まっているのを見て主殿嬢は忽ちのうちに自分を対外仕様に切り替えた。これ、多分人にはわからないと思うな。犬の鼻と耳でやっとわかることだから。

「ち……千尋さんの彼女さん……ですよね?遠目で綺麗な人だなと思ってたけど」

 遠目って?と主殿嬢は微笑む。千尋が龜屋の跡取で杵鞭というんだとやっと説明して店番のときに連れ立って歩いているのを目撃されていたことを言う。主殿嬢は自己紹介をして頰を染めてみせた。

「千尋、いろんな人に注目されてるのね」

「いや龜屋が暇だっただけだろう」

 杵鞭氏は慌ててすっかり食い散らかした様子になってしまっている散らし寿司を勧めた。もう食べてきてしまったのだけど、と言いながら少しだけ分けてもらう主殿嬢に更に恰も貴女の為に持ってきましたという風に菓子を差し出した。

「わ♡葛桜♡餡が透けてるのが綺麗ね、千尋っ」

「そういうことは作った本人に言ってやりなさい」

 千尋が急須を取りに台所へと離れた隙に杵鞭氏は前のめり気味に主殿嬢に尋ねた。

「千尋さんにどんな風に口説かれたの?」

 主殿嬢はぞんざいな口の利き方をする杵鞭氏に引っかかりは感じたようだったが笑みを崩さず言った。

「どんなと言われても困っちゃうな。私が千尋のこと好きでずっと近くにいただけだもの。ほら、どういう経緯で晶くんとお友達になったの?って訊かれたら困ってしまうでしょう?」

 さり気無く遠回しに仕様もないことを問いかけるなとやんわり言って主殿嬢は千尋から湯呑みを受け取った。千尋はにやにや笑いながら言った。

「主殿、あんまり苛めないでやれよ。生りはでかいがコドモなんだ」

「晶くんと同級生なんでしょ?」

 主殿嬢の知性を知っている晶はずっと黙っている。そうさな、薮を突いて蛇を出すことはない。


 杵鞭氏が帰ったあと、千尋は晶に昼寝を厳命されて自室に追いやられてしまった。千尋の後を追うように階段を上ろうとした主殿嬢に晶は囁くように謝った。

「杵鞭が、ごめんなさい」

「ん?どうして晶くんが謝るの?」

「だ……だってあいつ主殿さんに失礼なことばっかり」

 主殿嬢は肩でくすりと笑った。

「気分が良くはないけど、ああいう人は、結構いるから。晶くんが気にすることないわ。千尋もちゃんと牽制してくれたでしょ」

 晶は俯いたままである。

「慣れてるからって、言われていいことじゃ、ない」

「ふふ、ありがと。でもきっと、お嫁にきたら随分言われることだと思うの。都度目角めくじら立ててたら晶くんの胃が擦り減っちゃうわよ」

 晶は肩を落とした。

「……女のひとって強いなぁ……」

「強いのかな、どうかしら。そういう心配をしてくれる晶くんがいるから千尋と結婚しても大丈夫って思えるのかも。晶くんと千尋って、そこのところ似てるよね」

「えぇ?似てるの?そういうのってどうなんだろ……」

 主殿嬢はくすっと笑って階段を軽やかに上がってゆく。主殿嬢、貴女も案外小悪魔なとこあるんだね。オレちょっと吃驚だよ。千尋はシーツを張り替え枕を叩いて膨らませていた。

「……来てくれて早々で悪いけど、俺は寝るよ」

「布団、かけてあげる。横になっ……」

 夏がけを被せようとした彼女の手を引いて、千尋は甘えるように口づけた。主殿嬢は嫌でなかったとみえて、しっとりと応えていたが、軈てくすくす笑い出しながら待って、と顔を離した。

「この体勢、苦しい。腕、ぷるぷるしてきちゃった」

 呼吸を整えながらベッドの縁に腰をおろした主殿嬢の腿を千尋は引き寄せて自分の方に向かせると、膨らんだ枕を彼女の腰に譲って己は顔を膝に乗せた。

「……重い?」

 スカートの布地を通してくぐもった声がする。

「微妙な重さね。ずっとだと痺れてきちゃうかも」

 千尋は彼女の腰に腕を回した。

「暫く、こうさせて。寝ちゃったら振り落としていい」

 主殿嬢は千尋の髪を撫でて言った。緩く首を振っていた。

「千尋が甘えてくれるの、嬉しいの。いつもひとりでなんとかしちゃうの、凄いなぁって……私思うだけ。なんの手助けも要らない千尋は凄いけど、」

 千尋は目を閉じた。

「主殿?俺にだって原動力ってのは必要なんだぞ?俺は五斗先生と違って永久機関なんて信じない。エネルギーはなにもないところからは湧いてこない。使い切れば熱になって放出されてしまうさ。……あぁ、何日ぶりだろう、こんなに身体伸ばして眠るの」

 ゼウスの手術してからこの方、千尋はケージ室で座って眠り、ここで丸まって縮こまって眠っていた。体を萎縮させていただけじゃない。ずっとなにかに緊張しっ切りでいた。

 やっとちゃんと眠れるね。俺も寝よう。

完全犯罪なんて上手くいきっこないのです。

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