2.金魚の飼い方、教えます
診察中の札を出すや、千尋は今日も碌でもないことを思いついたらしい。裏の物置をがさごそとかきまわしてきて、そのでっかいものについた埃を熱心に洗い流し始めていたのだ。鼻唄なぞ歌っていたりしている。矢張り上手くない。
「なにしてんの兄貴」
晶が聊か不安げな顔つきで作業を見学しに来た。千尋はご機嫌である。
「いい天気だからねえ。フハハハハハハハ」
これだからいつになっても嫁さん来ないんだよ。わかってんのかなぁ、千尋。……残念ながらオレと千尋の言語体系が一致しない為、彼にこの言葉は直接には通じない。間接的に伝えようと日々努力はしているが、聞く耳を持たない者は都合よく聞こえないようにできている。聞く耳のある者は聞きなさいとキリストも二千年以上前に言ったそうだ。
「どっから出してきたの、その水槽」
千尋が熱心に磨いているそれは観賞魚を飼う為の大きな水槽だった。それ、本当に硝子?束子で磨いて大丈夫?
「昔父さんが病院でなんか飼ってたんだよ…見ろ、濾過装置に砂利もある」
ははん。今日の千尋のよからぬ遊びはこれか。
「なに始める気さ?」
千尋はにやにやするばかりで問いには答えず、ホースの先を皐に向けた。おいおい晶、お前の兄貴だろう、何年弟やってんだよ。このくらいずばり当ててみなよ。
「さ~ぁね~ん♪」
こういうどうしょもない答えを出して千尋は水槽を診察室へ運び込み、砂利を敷き、濾過装置を据え付けた。こういう作業をしているときの千尋は矢鱈愉しそうである。
「バっケツ♪バっケツ♪」
妙な節回しをつけて子供のように洗面所からバケツを持ってくると千尋はいそいそと水を汲み、水槽に移す作業に没頭した。こういうことには熱心になるよね、千尋。好奇心を隠せない晶はとうとう椅子を引っ張ってきてかぶりつきで見ている。千尋の熱心さの割に水はなかなか溜まらない。晶は水槽の縁に辛うじて残っている水槽の規格を印刷したシールを小声で読む。
「五十八リットル……」
牛乳パック五十八本分ってことだな!
「あのバケツ十リットルだったよね……」
それはバケツにいっぱいに水を汲んだら、だろ?ちゃぽちゃぽ運ぶにあたって満杯にして持ってこれるわけないじゃん。六往復ではこの水槽は満タンにならないぞ。解ってる?晶?
そんなつまらない算数をどう晶に伝えたものかと思う頃、やっと水槽にはそこそこ見映えのする量の水が溜まった。
「ハイポ出して」
「ハイポ?」
はいぽはいぽと晶は首を捻っている。
「チオ硫酸ナトリウム」
正確な名称を言われてやっと晶は薬品棚を開け、小壜を取り出した。千尋が数粒その結晶を水の中に入れたのを見てああ、塩素ね、と晶は呟いた。馬鹿ばかり言っている二人だが、獣医になれるくらいには化学に強い。そういうとこ、もっと前面に押し出して、インテリジェンスを見せた方がいいと思うんだけどなぁ……。
「飯食ったらちょっと出てくる」
千尋はそう言ってバケツを片付けると、焜炉にレトルトを温める為の鍋をかけた。
せかせかと昼食を摂った千尋は白衣を脱いで珍しく俺に共に行くかを問うた。そりゃ行くに決まってるさぁ。答え代わりに尻尾を振って千尋の手に飛びつく。
「よし、来るんだな」
……というわけでオレは千尋のミンツグリーンの旧式なシルビアに乗せられた。車という乗り物はなかなかどうして激しい乗り物で、密かにオレの怖いもののひとつでもある。停まっている間は座り心地の良いソファでしかないそれは一旦動き始めると恐怖と戦慄の鉄の箱に変わる。オレの全速力より速く、千尋より大きくオレをふりまわす。特に右折や右カーブが曲者だ。千尋は実用品に金をかけないことに誇りをもっているので矢張り国産車らしく右ハンドル。お蔭で右に曲がる度にオレは助手席であっちころころ、こっちころころ。ケージに入れられるのは好まないが、転がっていかない対策くらいしてほしいところだけども、千尋は獣医なんだからさ。
「大丈夫かぁ、ポル?お前よく車乗るの嫌にならねぇなぁ」
ま……まぁね……。
それにしても何処へ行く気なのだとウィンドウを立ち上がって覗くと、そこは最寄の国立駅のロータリーだった。ロータリーに入ったということは千尋が電車に乗るということではなくて……車はタクシーを避けて縁石に横付けした。千尋は助手席のウィンドウを下げると窓の外に言った。
「由利、乗れ」
するとドアが外から開けられ、あら、ポルちゃん、と涼やかな声がオレを呼んだ。彼女はオレの知るなかで最も麗しい千尋の女友達、由利主殿嬢。高校時代の同級生。彼女は流れるような動作でオレを抱き上げ、助手席に身を収めた。麗しい人は動作まで麗しい。正面から微風を受けているような佇まいの由利嬢はありがとう、と小さく言った。
「晶が居るんだぜ」
「うん」
意味のよくわからない会話をして千尋は車をロータリーから出した。このまま真っ直ぐ帰るのかと思いきや、少し違う方向へ進路をとった。車内は無言だ。険悪な雰囲気、というわけではない。千尋も由利嬢も特に交わす言葉が無いらしかった。暫くして千尋は左へハンドルを切り、道路沿いの建物の前に車をと駐めた。ドアを開けるや、少し生臭い。水と魚の、ナマモノなニオイ。
「おいで、ポルカ」
う、うん……千尋が呼ぶのでオレはシフトレバーを跨いで運転席から外へ出る。由利嬢は何故こんなところにきてしまったのかしらといった風情で車から降りた。千尋は由利嬢に無頓着に店の中へ入ってゆく。店の名は菊池観賞魚、道理で魚のニオイが立ち込めているわけだ。由利嬢のことを気にかけつつもオレは千尋に従って店内に入る。そこから直ぐに両脇は地面に直接作られたコンクリートの生簀になっていて、ぴちぴちと小さくて色鮮やかな金魚が沢山泳いでいた。
あの水槽で金魚を飼うつもりなのね、なるへそ。
千尋は生簀の横に無造作に置いてある洗面器と長めの竿の網を持ってきて、オレの横に屈み込んだ。
「黒出目金、五十円……」
高値くはない、と思う。道楽にけちけちするのもなんだかちょっとおかしくない?
「目つきが怖い。そっちはなにかい」
オレに訊いてんの?言葉が通じないこと甚だしいだろう。そっとついてきた由利嬢に訊けよ。だが、千尋は自問自答した。
「東錦、二百円……」
オランダ獅子頭のように頭部に肉瘤があって、全体的に青っぽく、ところどころにぶちぶちと小さな黒い斑点が朱の斑と入り交じっている。なかなか見応えのある金魚だなぁ。
「なんか、美しくないなぁ。特に頭のこの辺り」
仕方無いよ。多かれ少なかれどれにだってあるじゃん。だってこいつら、金魚だもん。気長に気に入る金魚を探そうよ。
「朱文金、二百円」
東錦と同じ色合いの、和金タイプだな。やっぱり青白い体に黒と赤の斑。
「頂天眼、百五十円」
変な魚だ。出目金のように目が飛び出ている上に、皆目が頭と水平の位置に上向きになっている。それに、背鰭が無い。
「和金、五匹で百円」
千尋は和金の前で立ち止まった。そしてぽつりと一言洩らした。
「……安い」
吝嗇なのはなんだか意地汚いというか、お前、金魚屋になにしに来てんの?オレの頭から湯気が立ちそうな様子には千尋は頓着せず和金の前で暫し思案に耽っていた。時折零れてくる呟きで彼が何に迷っているかオレにも判明した。
「安い……でも五匹は多い……でも安い……」
軈て千尋はその生簀には手を出さずに隣の生簀に目を移した。どうやら“五匹は多い”が勝ったようである。
「水胞眼、二百円」
頂天眼の目の外側の縁に大きな袋がついていて、泳ぐ度にゆらゆら揺れている。なんだよ、これ本当に金魚?
「この袋にはリンパ液が入っているそうな」
へ……へぇ……金魚って可哀想な魚だなぁ。突然変異ばかり大事にされてこんな体型に生まれつかされてしまうだなんて。水胞眼の血管の走る袋を見ながら思う。突然変異ってのは、人間であったならば奇形児と呼ばれて謂れの無い差別を受けたりするわけだろ?ところが魚だからってそんなもの有難がるなんて、これ以上の残酷なことないぞ。
「おいおいポルカ……そんなに覗き込んでると、落っこちちゃうよ。俺、水胞眼なんか買わないんだからね」
落ちるもんかい。
「キャリコ、二百五十円」
三色琉金のことらしい。キャリコ琉金の略だろう。
「いいの、ないなぁ」
あっちの方に人間の目の高さに水槽があるよ。そっちへオレが行くと千尋は網と洗面器を置いてついてきて、水槽を覗き込んだ。見えないよう、オレには見えないよう。そんなつもりで千尋のズボンの膝に飛びついたら、千尋はオレをその高さに抱き上げてくれた。
「こっちは土佐金か…… 尾鰭がでかくて綺麗だなぁ」
確かに千尋の言う通り、土佐金はちょっと胴が寸詰まりで、左右に大きく広がり更に左右が反転してギャザーを寄せた紗のような尾鰭は、この世のものとは思えぬ程美しくて儚げだった。
はー、千尋が見蕩れるのもわかるなぁ。でもその阿呆面はやめた方がいいと思うぞ。
「地金。尾鰭がまるでスクリューだ」
こいつはたまげた。和金の体に、変な尾鰭。千尋がスクリューと言った通り、後部から見るとX状に分かれ、尾筒に対して直角についているから、金魚の肛門を真正面に見るとまるで蝶が羽を広げたようであり、スクリュー型であるのだ。
「はぁぁぁぁ~高値いぃ」
値札には20,000と書かれている。零の読み間違いかと思ったら、本当に二万円。千尋が唸るのも尤もだ。因みに土佐金は二万五千円だった。それは道楽過ぎだ!
「やめよ。俺、こういうの買いに来たんじゃないもん」
そう言って千尋は隣の水槽を見て眉をひそめた。緑亀、つまりミシシッピ赤耳亀だったからだ。まだこんなもの売るのか、と小さく吐き捨てて目高の水槽に目を移す。
「おっ、コメット。三百円。う~ん、ちとでかい……」
コメットは和金の尾鰭の矢鱈長いスマートな魚だ。アメリカで改良された金魚だそうな。千尋はオレを地面に降ろすとふらふらとまた生簀の方へ行ってしまった。
もうかれこれ五分近く千尋はある生け簀の前で座り込んでいる。新たに洗面器を用意して、そこは半分程あまりきれいとはいえない水を湛えている。その横には網を構えたままぴくりとも動かない千尋。その半歩後ろにオレを抱えた由利嬢。
千尋は五分もこんな体勢のままじっとしている。しゃがみ込んだまま網を片手に目だけぎょろぎょろと、でもじっとしているのである。
生け簀は“琉金百円”。寸詰まりの胴に、垂直に立った大きめの尾鰭。千尋好みのちょっと豪華ででも至ってシンプルな金魚。安さに合わせてちっこいけれど、レジの横にはオレの顔程にも成長したやつが悠々泳いでいたよ。和金の次に作られた、殆どの金魚の体型のベースになっている金魚だ。
真っ赤一色の猩々、赤白の更紗、全身白の白、総身朱がかった橙黄色の素赤。
オレは由利嬢の腕の中でちょっと立ち上がり、顎を小さく舐めた。
「ポルちゃん?」
ねぇ、由利嬢。千尋は琉金を選んだんだよ。ちょっと豪華でシンプルな美しい金魚。千尋の好みって、こういう傾向なんだよ。由利嬢、貴女は琉金に似ている、とオレは思うんだ。
千尋は生け簀と睨めっこをしながらやっと数尾を洗面器に掬い上げた。
「ありゃ。こいつ、尾鰭が折れてら」
今度は洗面器と睨めっこをしながら気に食わない魚を生け簀に戻してゆく。そうしたら、更紗が二尾、猩々が一尾残った。猩々はちょっと尾鰭が立ちきっていないのが千尋の中では不満のようだが、しかし元気が取り柄、健康一番って残れたようだ。
「もう一匹ほしいなぁ」
そう言って千尋はやや乱暴気味に生け簀を網でかき回した。そうしたらいるもんである。面白いのが出てきた。早速掬い上げ、洗面器に加える。
それはその名の通り、金色の金魚だった。
素赤ではない。白でもない。金色、黄金色なのである。
「よし気に入った。こいつにしよう」
そして千尋は生け簀の区域を出た。レジへ直行、と思いきや、またまた千尋は足留めを食らってしまった。地面に直接置かれた水槽の中で、黒っぽい丸っこいちっこい魚が懸命に体を振って泳いでいる。
「蘭鋳の当歳魚、五百円……」
そのとなりではオレンジ色の蘭鋳がのうのうと泳いでいた。こいつは七~九百円する。千尋は店の販売戦略に見事に嵌まり、うまうまと乗せられた。千尋はその背鰭の無い金魚蘭鋳の、当歳魚を買ってゆくことに心を決めてしまったようだ。
当歳魚、というからには今年生まれということだろう。金魚は鮒由来の魚なので、生まれてから暫くは黒っぽい鮒色なのだという。逆に言えば、まだ発色していないのでどんな色が出るかわからないというところが賭けに似た気分にさせるのだろうか。
結果千尋は琉金を四尾、蘭鋳を三尾買っていくことになった。だから千尋は今両手に風船のように膨らんだビニル袋の入ったポリ袋を提げている。片方には琉金、もう片方は蘭鋳がある程度の水と酸素ガスでぱんぱんに膨らんだビニル袋に入っている。
金魚屋で、千尋は一度も由利嬢と口を利かなかった。
シルビアに戻り、無言厳しい車内、オレは由利嬢の膝を借りて帰途につくわけである。
動物病院に帰って車を車庫へ戻すと……ありがちな展開だが、後退の際助手席のシートに腕を回した千尋に由利嬢が顔色こそひとつも変えなかったが、動悸が激しくなっていた。オレは犬の端くれ、耳と鼻には自負がある……千尋は水槽に酸素ガスでぱんぱんな袋をそのまま浮かべ、珍しくなにも言わず湯を沸かし始めた。急須に茶葉を入れたところを見ると、茶を淹れる気らしい。ダイニングの椅子に由利嬢を略無言で座らせ、湯呑みを出した。
オレに水を出し、沸き上がる前に火を止める。湯呑みに湯を注いでそれを急須へ……おそろしく丁寧に茶を淹れている。普段なら湯は沸くまでほったらかしだし、沸いた湯をダイレクトに急須へどぽどぽ入れるような適当さなのに。
急須を数回に分けて均等に注ぎ分け、由利嬢に差し出した。彼女のありがとう、という声は小さかった。しかし千尋の耳には届いていたようで、ん、と千尋も小さく返事をしていた。二人が黙りこくって茶を啜っていると、階上から晶が降りてきた。
「おかえり兄貴……わぁ、主殿さん!?」
だからなんで名前なんだ、と千尋は不満そうに小さく言った。由利嬢は湯呑みを置くと、にこやかにこんにちは晶くん、と会釈と共に言った。もう晶は恐縮してしまって全身がちがちだ。千尋は湯呑みを干して置くと、黙って水槽に袋を開けて金魚を放った。
「あ、金魚」
「綺麗だろう」
「なんか黒いんですけど」
「当歳だ」
へぇ、と言ったきり晶は水槽に張りつくように釘付けにになっていた。金魚に夢中なのは事実だが、その背にいる由利嬢がどうにも気になっているらしい。それも、彼女を兄が迎えにいってまで連れてきた、ということが気になっているのだろう。千尋はビニル袋を片づけると白衣を羽織り、庭の盆栽に水を遣り始めた。盆栽の良し悪しはオレにはよくわからないが、葉っぱも艶々していて幹も枝もがっしり。将に大きな樹木のミニチュア版だと思えるものが数鉢ある。オレの見ている限りでは千尋は沢山の虫でもつかない限り除虫もしないし、肥料もかなり前に鉢の一角に油粕をちょんと盛ったきりだ。水の遣り方もホースの先からどぽどぽかけるだけ。無論、鋏を手にしているところなど、一度も見たことがない。抑これらの盆栽達はオレが来たときからあったもので、どうやら先代の院長、即ち千尋達の親父さんの宝物であったらしい。余談だが、親父殿は健在である。つるかめ、つるかめ。
息子が獣医としてやっていけると納得して一線から引退した先代は、そのうちに院長からも引退し、それと共にこれら盆栽もここに忘れられてしまったのか、それとも管理を千尋に任せたのか。まぁ、確信をもって言えることは、先代も千尋と同様の生活を送っていたであろうことである。
「俺!二時間くらい出てくる!」
シルビアの鍵を掴んで晶はそう宣言するとあっという間に出ていってしまった。置いてけぼりにされた真がつまらなそうに鼻を鳴らす。
由利嬢と千尋は顔を見合わせた。
「あの馬鹿が」
「気を遣わせちゃったね」
ふん、と千尋は鼻白む。由利嬢は千尋の背中に寄り添った。え、え、やっぱりそういうこと?
「潤一さんになにか言われたのか」
「ううん。事業部長はなにも。代休溜まってるから使いなさいって」
千尋は三時半まで臨時休診という札を出して玄関の鍵をかけた。そして由利嬢に階上へ行けと言い放つ。
どうして千尋はこうも由利嬢にこういう態度なんだ?ここはさ、優しく抱き締めて耳許で、ね、階上へ行こう?とか囁くところじゃね?当の由利嬢は慣れっこらしく千尋の手をとって二階へ上がる。二人は千尋の遮光カーテンを引いたままの部屋に入ると直ぐに唇を合わせていた。千尋は由利嬢の細い身体に腕を回し腰を引き付け、由利嬢は覆い被さってくる千尋の唇を離さないように首に確りと腕を回している。由利嬢は千尋のキスを心地よさそうに、そしてもっととせがむように受けて、とうとう二人はベッドに倒れ込んだ。千尋は由利嬢を組み敷いてキスを続ける。片手が由利嬢の形のよい胸を揉んでいる。彼女はその手が嫌でないらしく、嬉しそうな喘ぎを上げた。
「主殿」
スカートをはねあげ下衣に手をかけても彼女は否を唱えなかった。千尋の白衣を脱がせ潤んで切なそうな目で千尋を見上げている。千尋のさっきまでの由利嬢へのぞんざいな態度はどこへやら、傷ついた小鳥でも扱うようなそんな様子に変わっていた。彼女を優しく撫で、そっと口づけている。二人が裸になるのにそう時間はかからなかった。身体を絡ませ、あちこち甘噛み。獣のように交わっていたかと思えば向かい合って見詰め合っていたりする。ベッドがぎしぎし軋む音が怖いので、野暮天になら無いように足を忍ばせオレは自分の籠で丸くなった。由利嬢の声にならない喘ぎも千尋の達したらしい呻きも聞こえないことにしてやる。暫く静かになり、軈て由利嬢が胸にシーツを当てながら身を起こした。
「由利」
彼女は哀愁を含んだ、いやもっと、淋し気な笑みを浮かべた。
「どうして抱いてるときしか主殿って呼んでくれないの」
千尋は彼女に背を向けて起き上がり煙草を咥えた。かち、と音がして紫煙が立つ。
「呼ばれたくないだろ」
馬鹿だな、千尋。由利嬢は普段から名前で呼んでくれって言ってるんだぜ。二人の仲を公にしたいって言ってるんだ。
由利嬢は千尋の裸の背中に頬を寄せた。
「千尋」
「由利」
「もう一度しよ?だから主殿って呼んで」
「そんなにできねえよ」
「じゃあ泊まる」
「馬鹿言うな、潤一さんと准将に殺される」
そんなことさせないわ、と由利嬢は呟く。こんな麗しい女にこんなに想われてて、なにが不満なのさ。上司も父親も関係無い、千尋を選ぶと言ってるんだぜ。今由利嬢はどんな格好かわかってる?こんな無防備な姿なんだぜ。
「俺で妥協するな」
「妥協?そんなことしてない!」
断っておくが由利主殿という女性は、オレの知る限りこの麗しい見た目に中身が伴っている。とても気丈で頭もいい。だから潤一さんに重用されている。千尋に今まっしぐらのようだが、だからって盲目になってしまうような女性でもない。そんな女性が昂じて眉を吊り上げ声高く言った。それがどういう意味なのかくらい、わかるだろう、千尋?
「……潤一さんとなにかあったのか?美香乃さん?それとも、タケ?」
「誰ともなんともないわ」
潤一さんは秋津運輸特殊品輸送事業部長。由利嬢はこの人の下で働いている。美香乃さんは潤一さんの奥さん。天文学者で大学教授。世紀の天才とかいわれている……潤一さんとは一回り離れていて千尋の十歳上だから、単純に考えると千尋の方が潤一さんより歳は近いけれど、年齢というのは単純に数値の大小ではないから……タケ、というのはこの桜庭美香乃博士の弟で、この二人の同級生だ。オレは会ったことがない。桜庭家の面々の名を挙げた千尋の方がは寧ろその名を思い出して辛そうだった。なんで?
「大体どうして桜庭君が出てくるの。桜庭博士がどうして?桜庭事業部長が人を落ち込ませたりする人じゃないの、千尋の方がよく知っている筈よ」
「由利、もう服を着ろ。晶が帰ってくる」
あ、今千尋、物凄く駄目な逃げを打った。大体話から逃げること自体駄目だっつのに、その上弟をダシにした。
「シャワーくらい貸して」
千尋は頷いた。
シャワーを浴びてきた由利嬢は少し目許が腫れていた。あ~あ、シャワーを浴びながら泣いていたんだろうなぁ。千尋って馬鹿だな。女性が身体まで差し出して千尋のことを好きだと言ったのに、抱くだけ抱いといてそれはおかしいだろ、千尋。
いや、そうでもないか。千尋が由利嬢のことをおっかないとは言うが、嫌いだとか好みでないとは言っていない。抑千尋は彼女を全く拒まなかったし、野の小鳥のように大切そうに触れていた。大体女に迫られたからってほいほい受け入れてしまうような節操なしでもない。
由利嬢のことは、身体を重ねるほどには好きだということ?でも、なにかが千尋を遮っている。あんな魅力的な申し出を有耶無耶にした。オレの知らない歴史が、彼女と千尋との間には、ある。
晶が帰ってきたとき、由利嬢が台所に立って夕飯の支度を始めようとしていた。
「わぁ、主殿さんが作ってくれるの?」
「そんなに期待されても困っちゃうな。出汁巻き卵は好き?」
晶は首をこくこくと取れちゃうんじゃないかと思うくらい振った。ええー、朝に目玉焼き、昼に親子丼を食っておいて夜にまた卵を食べる気なの?
兄が真面目に仕事をしているのを不審そうに見ながら晶は金魚の水槽に買ってきたらしい水草を植え始めた。
「…率直にいえば、お勧めでないな」
「でも殺風景過ぎるでしょ」
千尋は後悔するなよ、と呟くように言って仕事に戻る。なにか思うところがあるようだ。冬枯れのような水槽に緑の水草類を植えつけてゆくと、あっという間に真夏のジャングルになる。水草の間をすり抜けてくる金魚の姿が思いの外艶かしい。千尋見ろ。由利嬢を想起しないか?
しかし千尋はそれ以上水槽を見ようとせず、カルテを整理するのに没頭してしまった。
由利嬢がたっぷり時間をかけて作った夕食は無愛想になっていた千尋の心を少しだけ緩めたらしかった。食欲の湧く食卓について旨そうに頬張ってゆく姿を見ている彼女は少し幸せそうだ。この女は千尋が本当に好きなんだなぁ。こんな女を泣かすなよ。
夕飯を終えると、送ってく、と千尋は由利嬢を車に乗せた。成り行きが気になる、と同乗を要求してみると、すんなり千尋はオレをシルビアに乗せた。車をスタートさせると、千尋は国立駅ではなく別の方角へ進路をとった。
「……飯、とても旨かった」
「本当?えへっ、嬉しいな」
千尋はウィンドウを半分程開けると煙草に火を点けた。
「今日は、すまなかった」
「ううん。……ううん、いいの」
彼女は千尋に指を伸ばしたが、触れる寸前でやめてしまった。
「……千尋が、まだ桜庭博士を忘れられないのは、知ってるもの」
「人聞き悪いな。俺と美香乃さんの間にはなにもないよ。美香乃さんは潤一さん一筋だし……」
由利嬢は助手席側のウィンドウから外を見た。都下の住宅街の灯りが暗闇に浮かぶだけだ。
「でも、好きなんでしょ」
「……よくわからない。初めて見つけた憧れの人で、偶像だったのがある日突然生身の人になった。幻滅させられることもなく、明快な進路を示してくれた。今思えば本当は潤一さんが手を回してくれたんだけどさ。伸ばせば届きそうな人なのに、絶対に届かない。それにいつまでも出会ったときのままのようなんだ」
でも、と千尋は続けた。
「潤一さんとの間になんか割って入ろうだなんてこれっぽっちも考えてない。考えたこともない。そういう存在なんだ」
千尋は煙草を最後の一口吸うと灰を灰皿で潰した。
「……主殿。お前と美香乃さんとを比較したりしたことはない。これだけはわかってほしい」
由利嬢は主殿と呼ばれて頬を赤らめた。
「主殿が俺を嫌にならないでくれることは俺にとって本当に嬉しいことなんだ」
「千尋……」
車は或る一軒家の前で停まった。由利家の前だった。由利嬢はありがとう、と礼を言って降りた。そのまま家に入っていこうとした彼女を追って千尋は彼女に駆け寄った。
「主殿っ」
由利嬢は驚いたように千尋を見上げた。千尋が彼女の手首を後ろから掴んでいたのだ。由利嬢は驚いたように丸くしていた目をふわりと笑みに変えた。
「ねぇ千尋。今度また、夕飯作りに行ってもいい?」
「晶がいるぞ」
お!その答えは二百点だぜ、千尋!
「きっと少し出ててくれるわ」
由利嬢は嬉しそうに微笑んでいた。
「メールする!私、まだ千尋を諦める気ないの!」
彼女は少し伸び上がって千尋の唇に唇を合わせた。お休みなさい、と歌うように言って彼女は家に入ってしまった。千尋は夜目にも判るほど顔を赤くして口を覆っていた。
「おかえり」
晶は水槽の前に椅子を引っ張ってきてそこで金魚を見ていたらしかった。ふわりと揺れる水草は色の対比も美しく、心も和むのだろう。
「ねぇ主殿さんとどういう……」
「高校の部活仲間」
千尋はそれだけ言って風呂に入ってしまった。
「部活ってあの科学部?えぇ?」
あの科学部って、どんな科学部だ。楽園のような水槽を見ながらオレは首を捻った。
と・こ・ろ・が。
その天国は三日のうちに豹変した。千尋が新聞を持って台所へ来ると、空のフライパンからは煙が立ち始めていた。薬罐の湯は煮え滾っていて、トーストは焦げ始めている。
「晶?」
焦げる寸前のトーストを皿に出し、ガスを切り、湯をポットに入れる。晶の姿は台所にない。
「晶?」
なにもかもやりかけでほっぽってある、といった様相である。どこ行っちゃったんだろ。
「晶?……晶、なにしてんの?」
晶は診察室の水槽の前で膝をついて凍りついている。
「なにしてんの、トースト焦げてたぞ」
「あ、兄貴…」
「ん?」
悲痛な顔をして晶は水槽を指した。いや、水槽を指していたのではない。水槽の中の、あるものを指していたのだ。
「羽衣藻が……」
「かぼんば?」
「菊藻が……マヤカが……グロッソスティグマが……エキノドルス・ローズが……石菖藻……瓜皮……」
「ああ、水草のことか。やっぱりね、言ったろ。入れても無駄だって」
言ってない言ってない。
「あはは、丸坊主じゃん」
なんのことかと思ったら、水草のことだった。床にいると見えないので、出窓によじ登ることにする。椅子に飛び乗り、机に飛び移り、そこから出窓に前脚をかける。そして水槽を覗き込むと、水槽の中は公害吹き荒れた昭和の風情になっていた。水草はすっかり茎だけになり、少し水も濁っている。
「そんなにがっかりしなさんな、晶。金魚ってねぇ貪欲だから草でもなんでも食っちゃうんだよ」
千尋も同じ経験をしたことがあるんだな。お勧めでないな、なんて中途半端なことを言って。正確には金魚の栄養源でもあるからなんだが、と説明する千尋の声など晶には届いていまい。
「ハイグロフィラ・ロザエネルビス……」
「へぇ、ああいう広葉の草も喰っちゃうんだ。凄っげぇ」
千尋は笑ったが、これは楽園の崩壊の序章でしかなかったのである。
焦げたトーストで朝食ののち、誰も来やしない病院を開けて千尋は今日も水遣りに勤しむ。晶は半泣きで駄目になった水草を取り出し、復活を目指して別の容器で育てることにしたらしい。ここの家の物置には同じことを目論んだらしい歴史が詰まっている。でもね、晶。そんなことより気付くべきことがあると思うんだ。鈍いの?
真が耐えかねたように診察室から出て行った。うんうん、鼻を休ませてやんな。千尋、お前も気付いてないのか?そんなことないだろう?
「ううう、俺気分悪くなってきちゃった」
今頃?
「そろそろ昼飯作らなきゃ…あれ?」
それでも晶はまた水槽に張り付く。
「あ……兄貴!」
「なんだぁ?」
「充血してる!」
そっち?
「どれどれ」
「あの硫金の鰓のところ。鰓の白い、更紗のやつ。こいつ」
中腰の千尋は溜息を吐いた。
「病気か…」
晶はビョーキビョーキと反芻して漸くビョーキのヤバさを実感したらしい。獣医としてその言葉に対する鈍さってどうなの?
「どどどどうすんの」
「治すんだろ」
「治すって、魚っ」
「魚だって病気に罹るの。薬使うしかないだろうが」
「じゃ薬、薬」
千尋は徐に金魚の飼い方の本を本棚から抜き出し頁を捲った。うーん、と唸る横で晶が思い出したようにぎぼぢわる、と言った。
どうしてこの凄い臭いの中で平気でいられるんだよ、千尋は。
「この水なんとかしない?」
そうそう。
「そこにエアレーション用のチューブがあるだろ。それを使え。水草出したときに水抜かなかったのか……」
エアレーション用のチューブの太さはほんの五ミリ強であるそれで水を抜くとなると相当時間がかかるのではないだろうか。それでも晶はチューブを水で満たし、片方を水槽へ、片方を出窓の外へ垂らして水を吸い出させた。排水する側を低くする、所謂サイフォンの原理。
白っぽく濁った水がどんどん排されてゆく。と言っても水槽自体を見ている限りでは大して減っているようには見えないが、確実に汚水は吸い上げられて窓の外の土に吸い込まれていっている。
「なんの病気なの?」
「うーん、多分赤斑病……トリコディナかな」
千尋は幾つかの薬を取り出し、見比べている。
「トリコディナ?」
「寄生虫の一種。あーこの薬入れたくねえなあ」
グリーンFゴールドという薬の箱を残して他を仕舞う。ニトロフラゾンかぁ、発癌性があるんだよなぁ、と千尋は呟く。
「晶、取り敢えず水槽を洗ってこい。砂利も。浄化槽は俺が洗っておくから」
薬の箱の成分を見る。ニトロフラゾン、スルファメラジンナトリウム、マクロゴール6000。オレには訳が解らないが、この成分を読んで何なのか思い当たる千尋はやっぱりそれなりに獣医だとオレは思う。
バケツに中和した水を入れ、薬を溶かして金魚を移した。濾過装置の浄化槽を開けるとよくこれが濾過装置だなどといえるなという程汚れていた。千尋は溜息を吐きながら流水で流すと、台所から漂白剤を持ってきた。それは乱暴じゃないの?
一通りの作業を終えて兄弟は昼飯にした。何だか疲れきったような晶の為に珍しくハヤシライスのレトルトを千尋は選んでやっていた。水草全滅の危機を少し思い遣っていたのだろう。
夕刻、乾いた水槽に砂利を戻し、漂白剤を何度も何度も洗い流した浄化槽を取り付けた濾過装置が据え付けられ直し、水を入れてやっと水槽は元の姿を取り戻した。砂利から巻き上がった細かい粒子が沈むのを待つ間千尋は煙草に火を点けて金魚の本を捲る。本は丁寧には扱われていたが開き癖がついていたり、端がぼろぼろになっていたりと、かなりの回数手に取り、何度も繙いたことを伺わせる。下手な専門書より具体的に薬剤を商標で載せているこういう本の方が参考にし易いのだろう。
日が暮れて病院を閉めていると玄関から声がした。おっと不覚!全速力で玄関へオレは走る。
「こんばんは」
「……ゆ……主殿」
おや、由利、と呼ぶのはやめたのか。千尋は玄関にスーパーの買い物袋を提げた由利嬢がいることに目を丸くしていた。
「メールしたわよ。返事がないから心配しちゃったじゃないの」
「あ、ああ、すまない……」
「いいわよ。ご飯まだでしょ。材料買ってきたから、作ってもいい?」
「そ、それは歓迎だが……主殿、仕事は?」
「武蔵野営業所へ行ってきて、直帰なの」
「そ、そうか……」
金にならない仕事だったが、金魚を一生懸命看てたんだ、勘弁してやってくれまいか。オレが一生懸命尻尾を振ると由利嬢はオレにも笑いかけた。
「こんばんは、ポルちゃん。このコ、あんまり吠えないのね」
そりゃぁ由利嬢に吠える必要は無いからな。
「そうか?」
彼女を上げてやって千尋は茶を淹れた。晶が目を丸くしている。
「こんばんは、晶くん。ご飯作りに来たの」
「ほ、本当?うわーっ、やったー!」
いやいや、晶、お前もこういう甲斐甲斐しい彼女をだな。
「喧しい、晶。そろそろ薬剤を溶かしておけ」
晶はわかりましたよう、と言って水槽に戻って行った。
「どうしたの?」
「金魚が病気になった」
由利嬢は微笑んだ。
「千尋、それでメール見なかったのね。動物のことになると本当に一生懸命なの、変わらないなぁ……」
千尋はなにも答えず横を向いた。ふむ、これは照れている。うんうん、悪くない悪くない。
「じゃぁちょっと今日のメニューは失敗かしら」
「失敗?」
「目旗魚買ってきちゃった。魚を食べたい気分じゃないでしょ」
「……そういう心配は、いい。金魚は観賞魚なんだ」
由利嬢は買い物袋から食材を出しながら尋ねた。
「まだあの命題、悩んでるの?」
命題?
「あれは俺の一生の問題だ。殊病気については悩ましい」
そう、と彼女は頷いて目を伏せる。千尋は湯呑みを片付けながら言った。
「主殿は悩むな」
「そうだね。私まで一緒に悩んじゃったら、千尋困るよね」
「違う。あれは職業モラルみたいなもんだ。主殿の考えなくてはならないことじゃない。それだけだ」
千尋は由利嬢に向き直り、顎に指をかけた。
「来てくれて、ありがとう」
そっと唇を寄せ、口づける。顔を離したとき、由利嬢はここへ来て最も嬉しそうに見えた。
「俺がついていながら金魚を病気にした。ちょっと凹んでいた」
「大丈夫、千尋、治せるから」
「病気は罹らせないことが肝要なんだ」
「罹っちゃったんだもの。元気出して。ね。晩ご飯、頑張るから」
「そんなに頑張らなくていい」
由利嬢はじゃぁそうする、と言って目旗魚のパックを開けた。
夕食は目旗魚のソテーをメインに、サラダや煮物などが並んだ。丁寧に拵えられた夕食を千尋はいつもよりゆっくり食べ進めていた。晶は少し二人を見比べ、黙って食べていたが、軈てぽつりと言った。
「動物飼うのって、やっぱ責任感じちゃうな」
「なんだ今更」
「真もポルカも大して病気も怪我もしないから気軽に飼ってたけどさ。やっぱ飼ってる以上命を預かってるんだなぁって今回実感しちゃった」
千尋はこんなことを言い出した晶に少し困ったやつだと言いたげに煮物に手を伸ばす。
「ったり前だろうが、そんなこと。お前今までどういう自覚をもって獣医をやってきたんだ」
「でもさぁ、こんなに動物の命の重さを感じたのって初めてなんだ。手で握りつぶせちゃいそうな魚だぜ?食べ物になっちまう魚もいるってのに、殺さないように殺さないようにってし続けるのって、やっぱ大変なことなんだなぁ」
千尋は黙って食べている。由利嬢がちら、と千尋を見る。
「それとも人間が他の動物を飼うってこと自体が驕っているのかなぁ」
「……そうかもな。そうだな」
千尋はそう呟いて更に残っていた目旗魚を口に運んだのだった。
由利嬢は例によって千尋の運転で自宅まで送り届けられ、車の中でばっちり濃厚なキスをして別れた。それでも千尋は戻りの車中で少し複雑そうな顔をしていた。もっと幸せそうな顔をすればいいのに、と少し心配になる。家に着くと先に晶が風呂を使っていたので、千尋はエアレーションを突っ込んだままの金魚のバケツを覗き込んだ。金魚はなにも無かったようにバケツの中で泳いでいて、至って平和そうだ。千尋は珍しく冷蔵庫から缶ビールなぞ取り出してプルを引いた。診察椅子に身を沈め、煙草に火を点ける。診察室じゃ煙草を極力控えている千尋にしては珍しい。
「兄貴、帰ってたんだ」
「あぁ」
「金魚、明日は水槽に戻せるかな」
「よさそうだ。この黄色い水は興醒めだけどな」
そうだね、と同意した弟に、千尋は些ともわかってない、と言葉を投げつけた。
「どうして?」
「どうしてもだ。それと、この水が黄色くなくなったら、広葉の水草と大和沼海老を買ってこい。金魚に食い荒らされないように金網で軽く仕切ってやればなんとか育つだろう」
「なんで?」
「どの部分になんで、だ?」
「海老」
「お前ね、生態系の授業どんだけサボってたんだ?水草は植物。日光が必要だからこの出窓に置いた。すると水中の植物プランクトンや苔類だって日光を浴びて成長するだろう。海老はその苔やプランクトンを喰う。金魚だけじゃ世界は成り立たない」
水槽内は小さな生態系だ。金魚を頂点とする生態系を維持するには人の手が要る。だけど、極力それを抑えたい。しかし金魚は獰猛にも植物も小さな生き物を食べてしまう。それを手助けする方法を千尋は示したのだ。
「あまり凝り過ぎるなよ」
水槽自体はもう人工的環境だ。その中で最小限の人為とはなにか。千尋はそういう方針なのだ。
「……兄貴って偶にしょーもないことに頭使うよなぁ」
「なんだよ、しょーもないことって」
「いや。俺もうちょっと勉強するよ」
晶のいいところは素直なところ。このライオン頭くんを誰か評価してやってくれないだろうか。
「今日のところは寝ろ」
そう言って千尋は缶を空け、煙草を消した。
翌日の午前は猫だの犬だののお客が思ったより来て、飼い主の誰もが黄色い水を湛えた主不在の水槽を不審そうに見ていった。この動物病院の悪評になりませんようにと祈りながらオレは帰ってゆく客を見送った。
昼飯を終えて晶は水槽に一尾ずつ金魚を戻し入れてゆく。
「なんで蘭鋳って背鰭が無いの?」
「江戸時代にまだ硝子の鉢が無くて、金魚を見るといえば盥のような器に水を張って上から見るのが主流だったんだ。だから、上からの見映えを重視した結果背鰭の無いものが淘汰されて蘭鋳は今の形になったんだ」
「そうなんだ…」
小さな当歳魚達は広い水槽に放されて機嫌良さそうに泳いでいる。
「かわいいねぇ」
「これで水が無色透明なら言うこと無しだ」
まだ言ってる。
「寄生虫の完全防除と成分の急激な変化を緩和する為の措置でしょ。兄貴も結構粘着だね」
千尋は黙ったままむっつりと腕を組んだ。晶が琉金も次々に放ってゆく。赤く充血をしていた更紗の鰓も少し治まったように思える。金魚自体は至って元気だ。素赤の琉金も放され、最後の金色の琉金の番になった。バケツから掬い上げられ、そっと水槽の水に移される。網の上で少し暴れていた琉金は安全な環境に出たことに気付いて姿勢を変え、網から離れて蝶が舞うように泳ぎ出す。
それを見ていた晶ががっかりしたように肩を落とした。
「あ……兄貴……」
「なんだよ」
千尋の気のなさそうな返事に晶はよくわかりました、と言った。水槽の中では七尾の金魚が餌をねだっている。なにも問題など無い。
けれども金魚はやっぱり観賞魚だった。
「金色の琉金入れてわかったよ」
なんのことはない。黄色い薬剤の溶けた水を通すと、金色の琉金の折角の黄金色は薬の色に負けて、存在価値ゼロだったからだ。
こののち、水槽の水はバケツに半分くらいずつ何日か置きに交換されるのだが、金色の琉金がその存在を示すまでには道程は長そうだ。オレは出窓に脚をかけて落胆の兄弟に鼻で息を吐いてやった。