18.月の裏側
千尋の指先は少し震えていたと思う。腫れ物でも掴むように受話器をあげて、怖々耳に当てる。
「……はい。上村動物病院です」
声こそ震えなかったが、慎重になっていたのが滲み出て、低くなっていた。受話器の向こうでくすりと笑われた気がした。次の瞬間、千尋はその受話器をうっと呻きながら耳から離した。こんな言葉が次々と繰り出されてきていた。
「Ciao, buona serata! Sei in buona forma con il tuo amante? Sei andato a già dire ciao al generale di brigata? Credo che vi sarà riluttante. Con conseguente esitazione? A proposito, sentito che si è preso la briga da Roxa. È Giunto il momento si soffre. Così, deciso di parlare con te al telefono♪.」
ブォナ・セラータ!ってラーのところがまた素晴らしくよく巻いた巻き舌で、冗談でこんなマシンガンのように喋っている。一段落ついたところで千尋は溜息交じりに言った。
「並川さん……解らないと思って伊語でどばーっと喋るの、やめてくれませんか」
電話の主は回線の向こうで豪快に笑ってごめんごめんと形ばかり謝ったようだった。
「……えぇ、ボラックスとガンパウダーは実際は従姉弟なのですからね」
電話の主は並川さんこと水間透織氏。潤一さんの義弟にあたる。水間家ひとり長男であった潤一さんが桜庭家に婿に出て、並川透織氏が潤一さんの妹御燐さんと結婚するにあたって彼が水間家に婿入りした。大学入学以来からの友人であった彼らが姓を取り替えっこしたみたいで紛らわしい、と透織氏を結婚前から知っている人はしつこく並川と呼ぶようだ。
「追い詰められたボラックスがなにをしでかすのか、心配です。……並川さん!どうしてそういうセクハラなところ、治んないんですか!?」
受話器からひひひひひ、と笑い声が漏れてくる。あのなぁ、どう考えたって揶揄われたんだろ。
「そりゃ、考えつきますよ。早川家が色々重たいのは知ってますから……えぇ?潤一さんだって困るでしょう。は?閻魔大王?」
混迷した様子で千尋は続けざまに小野篁?と首を捻った。小野篁といったら、夜な夜な井戸を降りて閻魔大王にも仕えたという平安貴族だよねぇ。潤一さん、狼、魔法使いの他に小野篁なんていう渾名もあるの?
千尋はぶすっとしてなら並川さんは源頼光辺りですかと問うと、ちょっと意外な答えが返ってきた。
「……へ?戦女神?」
透織氏は不本意だが誇らしいような口調で答えていたところをみるに、女神があてられたことには不満があるようだがギリシア神話のなかで一二を争う程人々の信奉を集める神であることはよしとしているらしい。
「戦女神ですか?随神勝利の女神の変じた黄金の槍を構え、ゴルゴンの首を飾った鏡のように艶やかなイージスの楯を持っている、聖鳥は梟……くらいですかね。はあ、イージスの楯。直視させると相手を石にでもできるんですか?」
千尋がうんざりしたように言うと、相手はできなくもない、と答えた。千尋は驚いたように受話器を見詰めた。
馬鹿な、と呟く。
「石に……したんですか」
いやいや、それは虚構だろう。神話のペルセウスは戦女神に鏡面仕上げの青銅の楯を借り、冥王に隠れ兜を借り、伝令神に空飛ぶ黄金のサンダルとアダマントの鎌を借り、泉の精に魔法の袋を借り、グライアイを謀りゴルゴンのひとりメデューサの居所を突き止める。その首を首尾よく刎ね、生まれた黄金の天馬は逃すも、白い天馬に乗り、アンドロメダを海獣から救って伴侶として得る。神々から借りた道具は返したようだけど、メデューサの首は刎ねられて尚まだ見た者を石にしてしまう効力があったのを戦女神は気に入り、イージスの楯に飾りにしてつけたというから古代の女神というのは案外悪趣味だ。
「そうですよね比喩……」
でもなんで透織氏は戦女神などと呼ばれているの?悪趣味だとは考え難い。総合商社敷島商事の非鉄金属部門事業部長の彼は趣味はバードウォッチングと美術。玄関ホールに架けてある金剛鸚哥の絵は彼が兄弟で動物病院を担ってゆくお祝いにと描いてくれたものだ。とても精密で綺麗だとオレも思う。
戦女神といえば黄金の槍と青銅の楯がシンボルだけど、そんな古式ゆかしい武装なんてしてないよな……スーツはいっつもびしっとプレスの効いた三つ揃いだけれども。つか、誰が彼をそう呼ぶんだ?
比喩にしても石にした、というからには青銅の楯を指してはいるのだろうけれども……。
「イージス艦でも保有してるんですか」
MSDFじゃあるまいし、個人でんなもん所有できるわけないっしょ。阿呆なこと言うなよ千尋。案の定透織氏にもげらげら笑い飛ばされていた。千尋がむっつりとしていると、透織氏は潤に頼めば閻魔大王が動いてくれただろうよと言った。どゆこと?
「並川さんは青銅の楯を使ったということですか」
笑いながらそうだと返ってきた。なんなんだ、その比喩。
戦女神の保有するイージスという楯は、鏡のようにはっきりと相手を映し出すことができて、表面には見た者を石化させる化け物の首がついている。そこから転じて直接対峙せずとも相手の戦力や位置を把握し、音も無く寝首を掻くイージス艦と呼ばれる防空ミサイル艦は世界一高価な楯とも呼ばれている。そんなもん、日本には五隻しかない。
透織氏はそんな超攻撃型防衛装備をどこに備えているっていうの?
「へ?それが敷島の力?あの、全然解らないんですけど」
商社になんでそんな力があるのかは不明だが、自分んとこの戦力の仕様を詳かにするなんて馬鹿げたことをしなくちゃならない理由は透織氏には無い訳で、兎に角思い煩う必要は無くなり、その旨は硼砂嬢にも伝えたと言って透織氏はMi scusi, signore. Arrivederci, Ciao!と電話を切った。ミ・スクージって、何故謝る?
千尋は今日何度目だかわからない溜息と共に受話器を置いた。
「並川さん、なんだって?」
「よくわからん。取り敢えずボラックスが早まった真似だけしないように外側から働きかけてくれたみたいだ。……疲れた」
あははっ、パワーのある人と話をすると精気を吸い取られるような気分になるよねぇ。千尋はソーセージと馬鈴薯を取り出して鍋に水を汲んだ。
「今日はもうなにもやる気になれん。馬鈴薯だけ剥いとくから、鍋が沸いたらソーセージとブロッコリーを適当にぶち込んどけ」
えーっと、それは超適当ポトフかな?オレ達は嫌々飯を研ぐ千尋の為に場所を開けて、なんでもない顔であっちの方で遊ぶことにした。……マクっ!遊ぶことにしたのっ!行くぞっ。
潤一さん達には、なんかこう、社会の秘密というか、機密事項というか、普通の人では知り得ないようなものを抱えている節がある。幾ら自衛官が身近な人物だからとて、その人が発砲するところを間近で見る機会などあるものではない。だが、彼らはそんな場面に遭遇してる。幾ら事業部長だなんて要職に就いたからといって、会社の力なるものを気軽に振り回すように行使できるものではない筈だ。それ以前に、敷島商事はイージスの楯?秋津運輸は閻魔大王?なんなの、それ、本来業務じゃないよね?
千尋にじゃばーっと湯をかけられて、オレははっと我に返った。
うわ、リンスまで済んでる。
「おい、ポルよ……犬にも気抜けする時間は必要だとは思うけどさぁ、風呂の間ざばざば洗われてるのにぼさぁっとするのはやめようぜぇ?」
うん。ちょっと野生を失ってた。よくないよね。
千尋は湯槽に浸かり、天井を見上げた。
「先週はちょっと色々あり過ぎたさ。コマッチも毎日のように来てたしな、タケまで来てた。ポルカにも種雄の話も来たしなぁ」
ふふっ、可愛いヴィヴィアンでよかったなぁ、と千尋は笑う。
「俺は危うく犯罪者にさせられるところだったしな。でもやっぱりボラックスが落とした爆弾の破壊力ったらなかったな」
そうだねぇ。
「疲れたろ、ポル。晶に乾かしてもらって、先に寝てていいよ」
う、うん……そうするかもしんない。オレは忠犬じゃないから千尋が寝るまで待ってるなんて律儀なことはできないけど、千尋もあんまり悩まないで早く寝ろよ?
ぷえっし!くっしゃん!
……おおっと失礼。昨日風呂場でぼんやりしてたのがいけなかったか、どうにもこうにも嚔が出る。おおオレも馬鹿じゃなかったんだなとかそういう冗談を咬ましている場合じゃないので屈辱ながら千尋の診察を受け、風邪みたいなもん、と診断をもらう。……う、う、う……なにが屈辱かって、体温測るのに直腸温とるんだぜー!わかる?わかる?尻尾持ち上げられて、肛門にぶっすー、よ?しくしくしくしく、もうお嫁に行けない……。
「ポルカよう、お前本当に検温嫌いな?」
千尋もやられてみればいいんだよぉ。人間の方がずっと屈辱を感じる筈だ。専門家の前とはいえ服を脱ぎ、普段全く人前に出すことの無い部分を開示するところからの出発なんだからな!
「変な逆恨みはやめろって。ほら、ジャーキーやるから。一本食べていいよ」
えっ♪一本丸々食べていいの♥やったー♪やったー♪どこで食べよう♪真とマクを羨ましがらせるのはいい趣味ではないから……~♪
ジャーキーを咥えて足取り軽く階段を昇って、ちゃんと閉まっていない千尋の部屋の扉を鼻先で抉じ開ける。やっぱここだよね、マイ・ハウス♥
「入ったか」
「入った」
ぬ?ぽそぽそ、と囁き声がしたな、と思ったら、扉の閂ががちゃんと音を立てて閉まった。しまったぁっ、ノブに前肢の届かないオレに自力でこの部屋を出る術がない。くっそ、風邪で耳が鈍っていたか。階段を昇ってくる足音が十段辺りだったから、油断した。千尋めぇ~階段途中から手を伸ばして扉を閉めたな。ぽろり、とジャーキーを落としそうになって周章てて咥え直した。む~ん。マクを預かってる手前、伝染す訳にもいかないし、病態の犬をうろうろさせておくのも体面に関わる。多分このジャーキーは薬入りで食べ切ればなにかしらの鎮静効果でおそらく眠くなる。言われなくったってがっつり寝てやるようっだ。
自棄糞気味に眠ったら、半日近く記憶がなかった。そういえば喉が渇いた。ぼやんとする頭でハウスを出て扉まで来たはいいが、ノブを回せないオレに閂は外せない。途方に暮れ、前肢を掻くように当てると、閂のあそびの分だけ扉ががたがた揺れて、自室にいたらしい晶が開けてくれた。
「起きたの、ポルカ。もう嚔は出ない?」
今のところ鼻はむずむずしない。それよか晶の部屋から嗅いだことのないにおいがするんですけど?ん~この程度じゃ人間だと気になんない程度かな?でも、この非自然物なにおいはオレや真にはちと嫌だな。窓開けてくんない?
晶にそれが伝わる由もなく、どうやらまだふらついているらしいオレは晶の小脇に抱えられて階下へ降ろされた。なんでもいいけど、オレ羊や山羊じゃないんで小脇には抱えないでくんないかねぇ。
金魚の水を取り換えていたらしい千尋が連れてこられたオレに気づいて手を拭きながら寄ってきた。
「おう、ポル!目が覚めたか。お前薬の効きがいいんだなぁ。吃驚するぐらい静かに寝てたぞ。まだ眠そうだけど大丈夫か?」
オレも寝起きなもんでね。それよか喉渇いた。千尋は晶にオレを水皿のところに連れていくように言いながら、完成したのかと問うた。
「うん、全部に糊を張ったよ。道具を片していたらポルカが扉を揺らしていたんだ」
オレとしては引っ掻いたつもり。爪が短く揃えられてるからどかどか揺らしたようにしかならなかったけどな。
「ブリが乗らないようにちゃんとドア閉めてきたか?」
晶はやっば、と言ちてオレを放り出して階上へ上がっていった。水皿を覗き込むと、半分くらい入ってない。ちょっとぉ、足んないよぉ。
こういうとき、皿に肢をかけてがたがたやるのはどうにもスマートではない。マク、見てろよ?水皿の前に来て、回れ右。そしてお座りして、千尋をじいっと仰視。ここでくぅんとか鼻を鳴らすのもありだが、先ずは目力で挑む。水くれ。入ってないぞ。
マクが気づいてないみたいよ?とオレを見たが、オレは動かない。千尋、気づけ。水、無いぞ。
そんなんじゃ幾ら待ったって気づいてなんかもらえないよぉ、とマクが結論を出しかけたとき、千尋はぴちゃぴちゃとオレが水音を立てていないことに気づいたらしい。そうだよ、足んないの。入ってないも同然。どうせだから序でにちょっくら皿を漱いで新しい水に入れ換えてくんな♪
尻尾をぴるぴる振って水皿が戻されるのをご機嫌で待つオレの周りをマクはぐるぐる回りながら、どやったの、凄いよどして?どして?と問うてくる。いやいやいやいや、これは序の口だろう。マクも飼主さんにやってみればいい。晶のように鈍いと真のようにずっと待たなくちゃなんないかもしれないがな。水を鱈腹飲むと気分もすっきりしてきた。
お?客が来るぞ?徒歩だ。女性だな。マク、真、それっダッシュだ!
それっとばかりにオレ達は一斉に玄関へ駆け出した。なんだなんだと千尋もついてくる。玄関のとをからからと開けたのは小柄な四十代の女性だった。ふわっと長い髪をお嬢さま風にサイドだけ後ろで纏めて清楚な感じ。ピンクハウス風のティアードスカートのワンピースはふくらんだ半袖で、クロッシェのジレを羽織っている。スカラップがふりふりでハイカットのスニーカーにも綿レースがあしらわれているが、こういう服装の人にありがちな痛さが無い。色と柄が控え目なのと、根本的に似合っているからだろう。
「こんにちは、小百合さん」
この人は篠原小百合さん。そ、秋津運輸特殊品輸送事業部篠原淳森課長補佐の奥さまだ。高校生の娘さんを筆頭に三人の子持ちには見えない。
「あの……こんにちは……」
生成り色の日傘を閉じながら彼女はぞろっと出迎えられたことに戸惑っているのか声が消え入りそうだ。この人、見かけはこんなメルヘンな感じだけれど、元高校数学教師で本来はもっとはきはきした人なんだけどなぁ。
「暑くなってきましたね。分倍河原から電車ですか」
「南武線は本数が少なくて嫌ね……」
小百合夫人は案内されて応接間に入る。千尋が麦茶と茶菓子を持ってくる間、オレ達犬をずっと撫でたり軽いオレは抱っこされて膝にまで載せてもらった。んふ、役得♡
持ってきた菓子は金鍔だった。
「ごめんなさい、私、そんなに身構えていた?」
金鍔は刀の鍔を模したといわれている。抜き身の白刃など納めてお茶でもどうぞというように解釈したらしい。千尋は参ったなというように苦笑いした。
「そんなに都合よくお菓子を用意しているわけじゃ無いですよ、頂き物で丁度冷やしてあったんです」
小百合夫人は身構えてここへやって来たということなのね。それは日曜日に家族と共にアイシスで来なかったことと相互しているということだね。
小百合夫人はオレを膝に載せたまま金鍔の皿を手にとって楊枝で丁寧に一口大に切り取った。どうしても食べ物のにおいに気を取られてしまうオレの鼻先をうまく躱して口に運ぶ。旨そう、と思ったところでオレは朝飯を食いっぱぐれていたことに今頃気がついた。おほう!オレ、風邪を引いて食欲がなかったんだな!今頃気がついた!
「美味しい金鍔ね。冷たくて更に美味しいわ」
千尋は緩く笑った。
「近所の和菓子屋のなんです。職人が腕を上げてきているみたいで、皆さん喜んでくださるなぁ」
小百合夫人は鋭かった。
「上村先生は獣医業なのにお菓子で面談みたいなことを多くされているのね。ごめんなさい、私も面倒を増やしに来てしまって……」
「あははっ、見ての通りお客さんも疎らですし、小百合さんもヴィヴィアンのことでご相談にいらしたのでしょう。ですから大事な仕事です」
恐縮したように笑ってから千尋は然り気無く話に糸口をつけた。上手くなってきたな、千尋。小百合夫人はゆっくり食べ終えた金鍔の皿を戻し、オレの頭を撫でた。
「あのね、ポルちゃんが嫌とかそういうのじゃ、ないのよ」
お?おう?つまるところ、小百合夫人はヴィヴィアンを妊娠させることに反対なんだな?
「ヴィヴィが赤ちゃんを産むのは、別にいいのだけど……」
んん?どゆこと?オレが種雄であることが不満なのでもない。ヴィヴィアンに産ませることにも不満が無い。でも、なんかこの話そのものには異論がある。そんな感じ?よくわかんないな。
「あっちゃんは……淳森は、名古屋への転勤が決まったのです……まだまだ先の話ですけれど……」
転勤?えぇ?だって、そしたら子犬の面倒なんて見れないじゃん。小百合夫人はどうするの?ついてくの?でも分倍河原の家は持ち家だよね?子供ちゃん達も転校とかするの?オードリィ姐御とかマレーネ姐さんとかヴィヴィアンだっているのに、連れていくの?転勤先って動物と一緒に住めるの?
「転勤といっても……名古屋の特殊品輸送事業部の梃入れみたいな役割で、長くても二年くらい……課長昇進と引き換えの条件……なので、淳森も断りたくないみたい……なの。焦って昇進してくれなくてもいいと思っているのだけれど……家には子供も三人もいるし……父親として頑張りたいところなのだとは思います……」
う、うん?それは篠原家の事情で、千尋に持ってくる話じゃないよな?
「ごめんなさい、こんな話聞かされても困ってしまうでしょうね」
しかし千尋は首を振った。
「いえ、名古屋、なんですよね。名古屋支店といえば特殊品輸送事業部の方々にとって天敵……というか、こう、やりにくい方が支店長をお務めだと耳にしたことがありますが?」
相変わらず変なところで秋津運輸内部の事情に詳しいな、千尋。
「え、ええ……その通りです……淳森も八重樫支店長が苦手……というか……いえ、嫌っているわけではないのだけれど……あっちゃんはああいう人だから、……その……多分衝突とかいえ、大喧嘩になるような……いえ、淳森もこういう言い方はどうかと思うんですけど、大人になりましたからことを荒立てるような真似はしないとは思うのですけど……やっぱりこう……多大にストレスを溜めることだろうと……」
小百合夫人はの言葉は歯切れが悪かった。
淳森氏は休日家族連れでしかここへ来ないから、優しく礼儀正しい人として現れるけれど、今だに鳩村課長につんつん篠ちゃんと揶揄されるくらい一本気で熱い人。若い頃は遣り場の無い鬱憤であわや少年院だなんて武勇伝も持っている。本人にとっては黒歴史らしいけど。
そんな人だからやりにくい上司の下に、賦活剤としての役目を負わされて入っていくのは、確かにそりゃあ辛いよね。小百合夫人もそういうところ、よく理解していると思う。そのゴーサインを出した、潤一さんなら、尚更。
潤一さんも何故名古屋への梃入れに篠原氏を選んだのだろう?昇進を望んでその引き換えという状況がマッチしたという組織的な事情はあるかもしれないが、人選という点においては如才ない鳩村氏の方が円滑に場を回していけるだろうに。つか、潤一さん配下にはそういう適材がいっぱいいるだろうに。
小百合夫人は目を伏せた。
「犬って……何匹くらい子犬を産むのですか?」
流石に千尋もその質問には苦笑いするしかない。
「確かに犬は多胎ですが、ヴィヴィアンは初産になるわけですし、着床しても死産になる場合もありますから……」
そしてあの日刈り込まれた髭を確めるようにしていた篠原氏のように顎を撫でた。
「ご主人は生まれた犬にどんな名前を考えているんですか」
小百合夫人は思い出すように目を閉じ、ゆっくりと名を挙げた。
「エリザベス……リタ……チャーリー……ヘンリー……シドニー……クリント……モーガン……サミュエル……ベネディクト……ジェレミー」
エリザベス・テイラー、リタ・ヘイワース、チャーリー・チャップリン、ヘンリー・フォンダ、シドニー・ポワチエ、クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマン、サミュエル・L・ジャクソン、ベネディクト・カンバーバッチ、ジェレミー・ブレット。男優名が多いな。
千尋はふっと破顔した。
「古い映画がお好きですねぇ、相変わらず……でもないかな。イーストウッドやフリーマン、名優です」
小百合夫人は思い出したようにつけ加えた。
「あと、エヴァ……エヴァ・ガードナーと、それからエマ・ワトソンを挙げようとしてエマは今度ばかりは嫌だなって却下していたっけ……」
エマという名は今回ノーサンキュー。なんだろ。
「……雄が生まれることも期待されてるんですね。幾ら多胎とはいえ、十頭も産めないですよ」
期待してるんだね。でも十頭は多過ぎだよ。
「……名古屋へは……淳森は単身で行くことになると思います。子犬を連れていこうだなんて馬鹿なことは考えていないとは思うんですけど……」
やめて!それだけはやめて!ここにマクっていう置き去りで淋しくなっちゃった犬がいるっていうのに、これ以上淋しい犬を増やさないでおくれよ。
思わずきゅう、と鼻が鳴ってしまった。小百合夫人に大丈夫よ、あなたの息子ちゃんをそんな目には遭わせないから、と囁かれながら撫でられて、オレはオレの息子の行く末なんだなとやっと気がついた。うーん、オレ、今日は頭ゆるゆるだ。
「雄の子犬の可能性を強くお望みのようですね……母犬のヴィヴィアンや他犬種のマレーネがいる状況で飼えないことはご理解なさっていたようでしたが?」
「私の実家……か、彼の実家に……かも。近くですし……単身赴任するから、もっと行き来をするようにとでも考えているのかしら……」
その辺りは千尋にどうこうできる部分じゃないぞ?
千尋はくすくす笑い出した。
「犬好きには悩ましい問題になってきましたね。僕も神さまじゃないので、どうにもできない部分だなぁ……」
雄と雌が何頭生まれて、誰がそれを飼うことになるのか。神のみぞ知る部分だな。
「単身赴任については、名古屋ですし新幹線で直ぐですよ。篠原さんも心をもうお決めになっていらっしゃるようですし、小百合さんとしても天と地を引っ繰り返してまで阻止しなければならない事態でも無いように思ってらっしゃるようにお見受けしました。獣医として僕のできることといえば、場合を考えることくらいですかね……こちらは数学の専門家である小百合さんの方が確かかもしれません。ヴィヴィアンは沢山産んでも四頭くらいですよ」
小百合夫人はぱちくりと瞬いた。
「雌一匹だけ、雄一匹だけ、雌だけ二匹、雄雌一匹ずつ、雄だけ二匹、雌だけ三匹、雌二匹雄一匹、雌一匹雄二匹、雄だけ三匹、雌だけ四匹、雌三匹雄一匹、雄雌二匹ずつ、雌一匹雄三匹、雄だけ四匹……この場合を全て想定しておきなさいということね」
この十四の場合を全て想定して、子犬の行き先を決めておけばいい。それを考えているうちに篠原さんの単身赴任に対する考えも見えてくるに違いない。
「上村先生って本当に二十七?私よりずっと人生経験が深いみたい」
やだなあ、と千尋は笑った。
「小百合さんも学校で教えていらした頃は生徒さんの悩みとか色々相談に乗ったりされていたでしょう……第三者として俯瞰すると大体簡単な答えが出るものではなかったですか?当事者には偏りとか先入観とか……所謂バイアスのかかった状態ですから、目の前に答えがぶら下がっていても気づけない」
自分のこととなると駄目ね、と小百合夫人は笑った。
「最終手段として僕のところで雄一頭なら飼っても構いません」
「上村先生、ここを動物園になさるおつもりなの?由利さんがお嫁に来にくくなってしまうわよ」
参ったな、そんなこともご存知でしたか、と千尋は頭を掻く。小百合夫人はオレをそっと抱き締めて言った。
「ポルカ……ヴィヴィに是非可愛い赤ちゃんを宜しくね。うちの事情に振り回してしまってごめんなさい」
いいってことよ。オレはなにもしてないし、されてない。
小百合夫人がお帰りになって千尋は金鍔に使った皿を片づけに来て、どっかりソファに腰を沈めてしまった。背凭れに両肘を載せて仰向いた。
「どういうことだ。篠原さんが名古屋に転勤。期限は約二年。エマ・ワトソンは小百合さんっぽくてかなり好きな女優だった筈。なんでエマを避ける?どういうことだよ、ポルカ」
オレに訊かれてもなぁ。秋津運輸には秋津運輸の、篠原氏には篠原氏の考えがあるんだよ。
「そんな呆れ顔で見るなよ。俺だって頭パンクしそうなんだよ。ひとつ片づいたと思ったら前の焼け棒っ杭が燻ってる。一遍にばーっと片づいちまえばいいのに」
今ばーっとやってるから、こんな翻弄されてるんだろ。オレの方が問いたいよ。最も蚊帳の外の筈の開業獣医がなんでこんな台風の目にいて、あっちだこっちだと振り回されてるんだ?
「友達や先輩が秋津運輸に勤めている人が多いから、そっちの事情に引き摺られがちなのは仕方無いとは思うさ。だけどこの渦中にどっぷり浸かってる感じっての?なんでなのかなぁ……俺が見えていないだけなのか?考え方が根本的に間違ってんのかなぁ……」
そういうことは考えるだけ無駄というか、徒労とでもいうんでない?客が来ないからってここでだらけているのはよくないぞ。小人閑居して不善をなす。暇なら水撒きでもしろ。
そんな風に思っていたら、晶が呼ぶ声がした。千尋は皿を手に応接間を出ると声のした玄関ホールに出てみる。三和土には脚立が立てかけられて置いてあり、晶は壁を見上げていた。
「あの釘、相当弱ってると思うんだよね。錆も出てるから放っておくと壁に染みが出そうだと思わない?」
「そのままは使えそうにないな。ははっ、ある日突然玄関でフレームごとどばーん、と落ちたら洒落になんね。それで手術ミスとか嫌だぜ」
二人は新聞を広げ脚立を置くと、古釘を抜いて少し高い位置に新しい釘を打ち直した。マクがなにしてるの?と寄ってくる。ん、ちょっとしたDIYだよ。新聞には乗るなよ、危ないから。マクの肢を止めさせようとして、オレはふと片隅の記事に目が留まった。脚立に踏み潰されてちゃんと全部は読めないのだけど……ナントカ文化財団の……理事長が前触れもなくいきなり解任された、とかなんとか。財団としては方針転換を余儀無くされて、月瀬グループ傘下の文化財団に合併というかたちで吸収される云々。おい、これ今朝の朝刊でないの。いいのかよ。
……と問いかけたところで伝わらない。こうやって踏み潰して使ってるんだから、問題ないのだろう。月瀬……なんだっけ……なんか引っかかるなぁ。こう……おでこというか目の上の辺りがむずむずする感じ。マクがまだ薬で頭がぼんやりするの?と心配そうに尋ねる。真もどうしちゃったの、とオレらしくない様子に心配げだ。オレだって多少熟考を要する時があるんだよ。思い出すのに手間がかかる時があるんだよ。
ふと陰になってるなと顔を上げると、しゃがみ込んで千尋がオレの目の高さまで顔を下げ、覗き込んでいた。己の膝を掴み、首を傾げている。
「どうしたの、兄貴?」
脚立を降りて畳もうとした晶が手を止めた。
「ポルカが考え込んでる」
おう、千尋、正確に頼むぜ?考え込んでる、じゃなくて、考え込んでた、だ。千尋と目が合ったら思考が霧散しちまったじゃんよ。
「巧い表現じゃないんだが……むーん、とか唸って、こんな感じに」千尋は自分の眉間を強く摘まんで深い溝を拵えてみせる。「皺寄せている感じ。棋士が大長考にでも入ったようなイメージ」
スパコンじゃあるまいし、人間の握り拳大のこの脳味噌で何百手も先を考えることなんかできっかよ。オレは目の前にあることに一喜一憂するのが精々だっつの。心配するようなことじゃ無いって千尋の鼻の頭を舐めてやる。な?千尋はそう来ると思っていなかったらしく僅かに眉を動かした。真がそういうの、済し崩しっていうんでしょ、と知ったようなことをほざくので、やれるもんなら真似してみやがれと返しておく。
断っておくが、済し崩しってのは一挙に瓦解させることじゃないぞ。ちょっとずつ返済して借金を無くすこと。転じて物事を少しずつ片づけてゆくことや、徐々に行うさまを表すんだ。オレのぺろんは日々の努力あってのここの一撃だ。済し崩しはある日突然突発的には行えない。
千尋はつん、とオレの額を突ついた。
「こら。犬の癖に要らんことに気を回すな。世の中等しく整ったかたちのものなんてなにひとつねぇんだからよ」
そうなの?と目を丸くしたのは晶だった。
千尋は美香乃さんからの受け売りなんだけどな、と苦笑いした。
「天体とかって宇宙空間にあるから球体になるんじゃないの?」
「例えば月は完全な球体ではなく、X, Y, Z軸半径 の長さがそれぞれ異なる所謂三軸不等楕円体の形をしてるんだそうだよ。一番長い半径を地球に向けているんだとさ」
「へぇえ。月って真ん丸じゃないんだ……あぁ、自転周期と公転周期が二十七日だっけ?偶然一致してるから同じ面がずっと地球の方を向いてるんだよね?」
立ち上がりながら千尋はすかさず訂正を入れる。
「二十七 .三二日。でも、それは結果論なんだってさ」
晶はわからない、という風に首を傾げた。マクも同じように首を捻っている。オレも捻りたい。
「月の表側の地殻は薄くて、海を構成するのが比重の重い玄武岩なんだって。対して裏側の地殻が厚くて、地殻の構成成分は比重の低い斜長岩なんだそうだ。この違いによって月の重心は月の形上の中心から約二キロメートル地球寄り方向にずれているという。つまり、月は重い面を地球に向けている、そういうことになる」
「だからそれは自転周期と公転周期が一致してるから……」
「だーかーらー。全ての運動は摩擦がある。摩擦は熱に変換されて逃げてゆく。力学的エネルギーはいずれ失われてしまうって訳だ。月は地球の重力を受けて公転してるだろ。月ができた当初はこちらに向けている面は安定していなかった、お蔭で余計な力がかかって月内部で摩擦となり、熱に変わる。エネルギーはどんどん逃げてゆく、月は安定した形を求めて歪む。熱が逃げ切って、力学的に最小の状態に落ち着いているのが今、ということなんだそうだ」
「……月って、表と裏、全然違う……よね?クレーターとかの様子だって……地質的に違うから、様相が全く違うのか……うん……それで、そういうこと……」
晶はオレより先に合点したらしかった。一度頬に空気をはらんで脹らませると、その上でそれを吐き出すように言った。
「なあ。早川さん家のごたごたしてるのも、水間さん……並川さんがどういう手段を使ったのか知らないけど、なんかいい具合に事態に収拾をつけたのも、月みたいにこっちに向いているのが一面だけだからなんじゃないの。裏側には……全く違う世界が広がっていて、糞っ、上手く言えないなっ、見かけ上安定している今の月と地球のような状態なんじゃない?」
言い足りないが、取り敢えず言い切ってやったぜ、という感じで晶は鼻を膨らませている。晶、そのドヤ顔は締まりが無くてモテないと思うから、他人前ではしない方がいいと思うぞ。オレがそんなことを思っている横で千尋は目を丸くした後、一旦目を閉じ、そのまま低く笑い出した。
「ははははっ、今まで俺は物事の本質を、半分も見えてなかったってことか。くふっ、晶にそんな指摘を受けるとは思わなんだな」
一頻り笑うと千尋は手の甲で晶の胸をぽんと叩いた。
「今現在最小のエネルギーコストで安定しているなら、なにも引っ掻き回すこたぁ無い。月の裏側にどんなに異質なものが隠れていようが、それを知らなくったって俺の世界は平穏に回ってる。ややこしいことはそういうのに慣れてるらしい並川さんや潤一さん達に任せておくさ。必要ないから詳しく言わなかったのだろうよ。晶、今の俺らに必要なのは?」
幾分か気圧されたように晶はたじろいだ。
「え?え?え?必要なもの?」
千尋はにやりと笑い、オレを指した。
「消耗した分を取り返す。風邪だとか引いてる場合じゃないんだ」
「場合って」
「目の前にやることは山積みだ。仕事しようぜ、仕事 」
そうだよ。獣医の仕事は体力勝負だぜ!
小金も貯めないと結婚すらできない。その前に准将に挨拶に行ける度胸をつけることが先だけどな?
イタリア語が間違っていたら教えてください…
透織さんはこんな感じで言ってました。
「やあ、こんばんは。恋人とは順調かい?准将には挨拶に行った?退け腰になってるんでない?気後れしちゃう?ところで、薔薇色に大層困らされているようだね。大層のたうちまわっている頃合いだろう。だから電話した 次第さ♪ 」
それから、
「ごめんね、ミスター。またねっ、バイバイ」
お茶目なイケメンおじさんです。敷島商事の事業部長なのですが、話しやすい気さくな人です。勿論仕事の顔は別の顔ですが。
准将と呼ばれているのは、由利主殿の父由利和成。奥さんは由利夕。主殿には兄が二人いて、隼人と帯刀といいます。それぞれ硼砂にはやちん、たっつんと呼ばれています。
何度も名前だけ登場する美香乃さんというのは、桜庭美香乃、天文学者です。潤一さんの奥さんで、雪英くんのお母さん。潤一さんは言わずもがな、秋津運輸の事業部長さんで、篠原さんの上司です。
あんまり下敷きの世界(十二年前)の尻拭いの話ばかりではつまらないので、そろそろ時代を動かしたいところ…。
『月の裏側』は人類学者クロード・レヴィ・ストロースの公演を纏めたもの。原題はL’autre face de la lune.なので、正しくは『月のもうひとつの側面』、でヨーロッパ文化圏から見た日本という別文化の構成が著しく欧米と異なることを論じたものです。日本での講演で、日本人に向けての講演だったので、やや好意的過ぎるきらいがあるそうです。比較文化論について弁を放つことはできませんが、千尋達にとって別側面即ち裏側だったものとは…L’autre face de la lune、ですもんね。