16.風のように去りぬ
うん、まぁ、いいんじゃない?篠原さん家のヴィヴィアンは映画のスカーレット・オハラのようにハーフツインテール風に頭の毛を飾った可愛いヨークシャーテリアで、オレとも血筋は遠い。オレの美貌と性格のよさを見込んでくれたなら、オレは言うことはないし、どの途拒否権なんかは無い訳で。問題は微妙なお年頃の真がいること、平日になればマクも預かることになることくらいかなぁ?ま、物理的に隔離、だな。やだな、多分隔離されるのはオレ達の方だぜ。
日曜は朝から雨。主殿嬢が朝食を用意してくれて、ちょっとした兄嫁有りの体験生活みたいになっている。相当暇なのか、洸人氏と小松氏が大量のおむすびを抱えて昼頃やって来て、それを昼食にしていると、玄関先で人の声がして、車が走り去っていった。乗せてきてもらって、礼を言ってここで降りた、といったところ。程無くして玄関がからからと音を立てて開けられた。
「おーい、上村ーっ。山形土産、要るーっ?」
流石に漫画のように米粒をぶっと吹き出すような真似はしなかったが、おむすびにかぶりついたまま五人は顔を見合わせた。逸速く破顔したのは洸人氏である。次いで小松氏。晶はきょとんとしたまま、主殿嬢は困ったように顔を伏せ、千尋は食べかけのおむすびを置いて玄関へとその客人を出迎える。客人は玄関の庇の下に入るまでの間に降りかかってしまった雨露を払っていた。
「剣持さん……」
彼は足許の三和土に靴がぞろりとあるのを見てお客さん来てた?と跋の悪そうな顔で尋ねた。
「客じゃないんで。剣持さん、他人をおちょくりに来るのやめてくださいよ……仕事帰りなんでしょう」
彼、剣持翔平氏は着替えが入っているらしいスポーツバッグを肩に、反対の手には脂のにおいがぷんぷんする白いビニル袋を提げていた。スポーツ刈りの髪が爽やかな、けれどスーツはよれよれの開襟シャツ、胸ポケットにはぐちゃぐちゃに丸められたネクタイが押し込まれている、疎らな無精髭のある御仁である。体に染みついているのか、グリスかなにかの機械油の臭いが多少ある。
「鋭いね。金曜から秋津機工に呼ばれて、序でに山形のトラック整備の手伝いさせられてきちゃった。出張するのに新幹線じゃなくてユニックってしんどいよね。運転が荘司さんじゃなかったら死んでたよ~」
土産、と剣持氏は白いビニル袋を千尋に渡して上がり込む。ダイニングテーブルを囲む面子を見てふっと頬を綻ばせた。
「懐かしい面子が揃ってるでないの。タケちゃん、ちゃんと人間してる?コマッチは別にいいよ、望月から聞いてる。AISに転属だって?」
「出向です」
「相変わらず九条さん、臭いの?」
「その辺りも望月さんから筒抜けなんでしょう?」
「筒抜けっていう程でもないよ?由利ちゃん、上村とつき合ってるの、秋津運輸全部に公表したんだって?」
主殿嬢は頬を染めて訂正を入れる。
「べ、別に公表したのではなくて……色々あって皆さんが知るところになってしまっただけです」
わかって言ってるんだ、この人。それだけ情報元の望月氏が正確に伝えているということなんだね。
「剣持さん、お土産ってなんですか」
見かねて千尋が制動をかけるように口を挟んだ。
「米沢牛のコロッケとメンチカツ~♥今朝買ってきたけど衣がしなしなだろうからトースターかけて。お?昼飯だった?なんか凄い量のおむすびだな」
由利ちゃんが作ったの?と問うと、主殿嬢ではなく小松氏がすみません俺が作りましたと答えた。
「へぇ~、これ薄焼卵で包んであるのもコマッチが?思わぬ特技持ってるんだなあ」
おむすびは海苔の巻いてあるものの他に白板昆布や薄焼卵、大葉で包んだり巻いたりしてある。装飾性は低いけれど、なんだかわくわくするおむすびだ。なぜなら外側に巻いてあるものは中身を識別する為では無いから。囓るまでは作った本人も最早中身が何なのか判らないのだから。
「剣持さんもよかったらどうぞ」
席を勧め、主殿嬢が茶を淹れる。トースターで温め直したコロッケやメンチカツも加わって昼食がボリューミーになった。
「どんなブランド牛の肉でもミンチになっちゃえばどんなものでも先ずわからないね」
「いや、脂が甘くて旨いっすよ」
剣持氏は望月氏と同期で、高校時代の同級生でもある。高校生のときトラックの魅力の取り憑かれ、望月氏とは違う進路を選び、現在秋津運輸武蔵野営業所にて車両整備の腕を磨いている。
「望月?あいつも高校のときから秋津運輸に入りたかったんだよ」
「警備輸送の仕事を?」
「違う違う。あいつ、逸れ狼みたいな性格の癖に、チームワークに魅せられて、臨床心理学なんか勉強しちゃって、人がどう動くか読み解こうとしてやんのよ。どうにも理論通りにはいかないって唸ってるけど。あのインドアなやつが警送の一線に立ってるなんて、桜庭部長も無茶苦茶だよ」
「……潤一さんの肝煎りなんですか?」
「五斗先生から話が行ってたんだろうな。俺達が新幹線陸送がしたいんだって」
千尋、小松氏、洸人氏の三人は顔を見合わせた。
「陸送、見たんですか」
「見たよ。熊本陸送」
熊本陸送。九条智彦の杜撰な仕事によって内部から荒らされ発注元に翻弄された、潤一さんにとって辛く厳しい陸送だったことをここにいる者はつい最近知ったばかりだ。
「いつもの半分の人数で制約だらけの環境下での陸送。最終日はおまけに雨ときたもんだ。路面も悪かったのに事故らず運びきった。途中で犬を拾ったりその世話を頼んだ人に礼を言ったり、盛り沢山。陸送しながらあんなこと、よくできるよなぁ」
「犬。篠原さん家のオードリィ」
「あの犬まだ元気?」
「もう十二歳超えてるから衰えてきてますけど」
「あはは、本当にかかりつけなんだあ。あの篠原さんの信頼を勝ち得てるなんて凄いじゃん、上村」
剣持氏は千尋達の高校の先輩。どうやら同じ科学部に所属していたらしい。奇特な人だ。
この浅漬け旨いね、と行儀悪く素手で摘まんで剣持氏は笑った。
「それはタケ作」
「おやまあタケちゃん、料理できたの」
「そりゃ当然、潤……がふ」
両脇から千尋と小松氏によって洸人氏は口を塞がれた。潤一さんが料理上手で桜庭家の主夫であることは秋津運輸の人には秘密なのだ。美香乃さんをパーフェクトな女性に見せかける為で、その事を知ってるのは潤一さんの大学時代の友人達に限られている。千尋達が知っているのは、洸人氏が美香乃さんの弟だからだよ。
「タケは作り方さえあれば食事でもプラモでも建築物でもなんでもござれです。足らないのは創造性」
そうぉ~、と剣持氏は笑っている。オレの知らない時代の千尋達をご存知なのだろう。三人の様子に控えめに笑っている主殿嬢を見、兄達に満足そうな晶を見、剣持氏は納得したように一緒になって笑った。
剣持氏は山形のお土産を渡すつもりだけだったらしく、腹がくちくなるとさあて帰ろうかな、と立ち上がった。千尋と主殿嬢が上手くいっていることも確認できたから、このミッションは完了、といった風にも見えなくもない。そのとき、お客さま用に一台だけ駐められる駐車場にするりと車が入ってきた。シルバーピンクのアイシスである。多摩ナンバーをつけたアイシスは狙い済ましたように迷い無く後退で入ってくると、エンジンが止まるやきゃあきゃあと明るい子供の声を響かせて乗っていた人々を吐き出した。高校生と中学生のお嬢さん方と、中学生になったばかりの少年がひとり。そして彼らの父親の天然パーマが襟足で跳ねている、篠原淳森氏だった。あれ?今日は奥さまはお連れになってないのだな。
千尋は小松氏にぶすっと言った。
「秋津運輸の人って物見高いな」
「やだなちーさん、俺に言われても」
玄関からこんにちはぁ、と明るい声が重なって聞こえた。千尋は忽ちのうちにぶーたれ顔を笑顔に変えて、いらっしゃい、と四人を出迎えた。篠原さん家の子供達はその手にひとつずつ犬用キャリーを提げている。長女の希林ちゃんがマルチーズの姐御オードリィを、次女の五十鈴ちゃんがパピヨンのマレーネ姐さんを、そして長男の優作くんがヨークシャーテリアのヴィヴィアンを連れてきている。傘立てに色とりどりの傘が増えて雫を落とし早くも水溜まりを作っていた。
「今日は奥様はご一緒じゃないんですか」
「ちょっと用事があってね」
吊り目がちの篠原氏は人懐こく笑った。
「いっぱい靴があるけど、混んでるの?」
「あぁ、違います、友達が……」
篠原氏は女物の華奢な靴に目を留めてにぱっと笑う。
「……由利ちゃん来てるんだ?」
「篠原さんまで」
「九条を追っ払ってあげたでしょ。九条は特輸のクレーン班を怖れてるから♪」
「それは城山さんのことでしょう」
「そのことも含めてクレーン班一丸でねちねち意地を突っついているからさ。今日はそろそろフィラリアのチュアブルをもらいに来たのと、ヴィヴィアンのことで、ちょっと」
フィラリアの予防薬は色々なタイプがあるが、おやつに偽装されているチュアブルタイプが一番簡単なのではないかとオレは思う。毎月一個ずつ食べさせればいい。三頭分全てうちに頼ってくれる篠原さんはお得意さまだ。勝手知ったる子供さんらは案内もされぬうちからさっさと診察室に入ってゆく。彼らに続こうとした篠原さんはダイニングにいた小松氏と剣持氏に気づいたらしい。二人は慌ててお疲れさまです、と間の悪い挨拶をした。
「なんだぁ?小松……それに剣持まで。剣持、仕事だったの?」
「山形出張だったんです」
「荘司ちゃんと?」
「ユニック車で山形まで行かされたんですよ」
「荘司ちゃんの運転ならそんな苦でも無かったろ。あいつ、運転巧いから」
「そうなんですけど……やっぱ作業車の乗り心地は作業車の乗り心地ですよ」
「贅沢言うなよ」
げらげら笑いながら篠原さんは診察室に入る。肩を竦めた小松氏と剣持氏は椅子に戻ってほっと息を吐いた。篠原氏はここへ来るときは至ってにこやかで優しいお父さんだが、会社での篠原氏はその吊り上がった目尻が圧迫感に追い討ちをかける、厳つい人であるらしい。鳩村氏に言わせれば、『つんつん篠原ちゃん』なんだそうだが。オレは閉まり切っていなかった扉を鼻先で抉じ開けて診察室に入った。相変わらず篠原家の犬達は手入れが行き届いている。マクのように頻繁にトリマーにかかるという手入れではなく、家庭でできる手入れである。だからちょっとマレーネの毛は伸び放題気味だし、オードリィやヴィヴィアンの頭の毛の括り方は素人だ。でも綺麗にブラッシングされているし、定期的に爪を切り、シャンプーもされている。耳もきれいだ。老齢のオードリィの姐御はまだあと五年以上生きそうだよ。あっ、姐御ごめんなさい、お元気そうでなにより。是非是非、長生きなさってくださいまし。マレーネがオードリィの姐御の寸鉄を面白がってオレの方を見るようヴィヴィアンを促す。よぅ、ヴィヴィアン、毛色が安定してきたじゃん。オレより顔周りのタンが明るい金色味だな。背中はスチールブラックというより消し炭のような真っ黒さだね。うん、それはそれで綺麗だ。
ヨークシャーテリアは一生で毛色が七回変わるという。それはヨーキー好きの贔屓目だけど、他の犬種に較べると確かに移り変わりがはっきりしている。子犬の頃は本当にヨーキーの子犬かよと思うくらい全身真っ黒。このスムースコートが想像できないくらいくりんくりんの、篠原さんの髪型のような感じ。それが段々と顔周りが金色味を帯びて、背中だけが黒く残る。毛が伸びてくると、ザ・ヨーキーという姿になる。ヨーキーの毛質は結構ばらつきがあって、全身が白っぽく見えるシルバーグレーがかったものやこのロングコートになれない癖毛を持つ犬もいる。ヴィヴィアンもオレも、そういう意味じゃ正統派なヨーキースタイルだ。
千尋が三頭の心音を確かめ血液検査をしてチュアブル投薬が可能かどうかを確認している。一頭当り五千円以上かかるのに、篠原さんは殊犬のことには吝嗇吝嗇しない。犬にとっても獣医にとってもいい飼主さんだなぁ。千尋は晶に検査の結果を確かめているふりで話をしながら、主殿嬢と相談しておやつを買ってくるように言いつけた。そうだね、お得意さまにはサービスが大事だよ。
軈てヴィヴィアンの診察の順番が巡ってきて、診察台の上であちこち触診していたとき、篠原氏は顎を擦りながら言った。
「ヴィヴィアンにね、子供を産ませようかと思っているんだ。ポルカを借りて」
うわ、白羽の矢が飛んできて、オレに深々と突き刺さった。ぴた、と一瞬千尋は手を止める。何事もなかったかのように直ぐさま作業は再開したが、心拍が上がっているのがオレには判る。なに動揺してるんだよ。
「今まで……グレースにもイングリットにも子をとらなかったのに、どういう心境の変化ですか」
「身近に種雄として相応しい犬がいなかったのが最大の要因ちゃぁ、要因だな。オードリィがああいう歳だし、うちの子達も落ち着いている頃合いだし」
顎の刈り込まれた髭を指先で確かめているようにも見える。
「理由なんて幾らだってある。犬種を越えて雑種を作りたいとは思わないし、血統を守ってきた先人にも失礼だろう。でもなんだかんだ言って、名前かな」
「名前?ですか?」
裏口から晶と主殿嬢が買い物へ出る。人の耳には聞こえないだろう。
「歴史に残る映画スターの名を犬達に、子供達にもつけてきた。斯く美しく、斯く賢くあれというつもりでね。ヴィヴィアンは当然ヴィヴィアン・リーからつけた。強気な女優だったようだが、同時に脆い人でもあったらしい……『生きる』という意味なのにね」
「“Viv-”は確かに“alive”を意味する言葉の基となっていますね……篠原さん、勉強家ですねぇ」
今更こんなことを言う人は殆んど無いが、高卒の篠原氏は高校時代、かなりぐれていたそうである。あわや少年院とか。だが根が真っ直ぐで、目標が定まって手順が明確なら迷わない篠原氏はきっちりビジネスマナーや言葉遣いを己に叩き込み、課長補佐まで昇ってきた。無論クレーン技師としての腕も一流なんだそうな。
「こんなことはちょっとググれば出てくるさ。なんて言うべきかな、今まで怖じ気づいて踏ん切れなかったというのも、ある」
「怖じ気づく?」
不安げに見上げたヴィヴィアンの頭を千尋は撫でてやる。自分が話題のなかで出てきて嬉しい言葉じゃないよな。
「種雄の飼主には謝礼をしなきゃならないのだろう?」
種付け料として金を支払う他に、宿った子供を取り決めた分だけ雄側に引き渡す子返しなんていう風習めいた取り決めをする場合もある。人間関係で拗れやすい部分でもある。抑犬の腹に何匹宿るのかなんて、獣医にだってわからんわ。
横合いから優作くんが口を挟む。
「上村先生だからなあなあにしちゃおうとかじゃないんだよ?場慣れしたブリーダーとかだと、自分に有利にことを運ばれちゃいそうで、そういうので後から揉めるの嫌じゃん。その点、上村先生ならちゃんと話してくれそうだしさ」
千尋は口の端を上げた。
「優作くんは雄弁だね」
「先生、あまり優作を変に褒めないでください」
五十鈴嬢はやんわりとだが厳しく指摘した。
「お姉ちゃん、そりゃないよぉ」
「お父さんがいけないのよ。ちゃんと喋ろうと考えるのに時間使い過ぎ」
ありゃりゃ、とばっちりだな、篠原氏。
「五十鈴ちゃん、兎に角上村先生のご意見、伺ってみない?」
希林嬢はおっとりと言って、妹弟にブレーキをかける。千尋は一度目を瞑り、開くと徐に言った。
「ポルカを種雄にと選んでいただいたことに先ずお礼を申し上げます。そんなお申し出を受けたことは初めてなので、僕も結構動揺しています。可愛い子犬が生まれるといいですね、僕も期待しています」
千尋は相当動揺しているらしい。一人称を多用してゆっくり喋っている。
「何頭着床くか判らないですが……もし一頭だけでしたら、篠原さん家で可愛がってあげてください。でも雄だったらちょっと考えなくてはなりませんね。極近親交配の危険がありますし、マレーネやオードリィもいますから、異種繁殖も心配です。なにより無計画な繁殖は望まれないでしょう」
努めて冷静に言葉を紡ぎ出す。丁寧に場合を考える。
「ですから、雄犬が生まれたら、雄ばかり暮らしているここで引き取るというのが、簡単な解決です。でも、篠原さんのお知り合いで雄のヨーキーを飼いたいとお望みの方がいらっしゃるなら、そちらへお譲りするというのでも構いません。その際の条件等については僕が差し挟む事柄はありません。あとは篠原さんが生まれた子犬を何頭飼えるか、ですね。総てを引き受けるなどと考えなくていいですよ。ヨーキーは人気があります。飼いたいと思っている人は沢山いますから」
希林嬢は小首を傾げ、尋ねた。
「上村先生はポルカの子供を飼いたいとは思わないの?」
千尋は微笑む。
「犬のいる暮らしは楽しいよ。それは希林ちゃんもよく知っているでしょう。でも情だけでなにもかも抱え込むことはできないよ。飼いたいと思う。飼いきれないかもとも思う。迷わしいね」
犬は縫いぐるみじゃない。食べるし、排泄するし、病気にもなる。飼う人の経済状況に大いに影響する。篠原さんはその答えが満足だったらしい。この人も千尋の主殿嬢との将来を心配して様子を見に来てくれたんだね。
「篠原さん、犬の発情周期は約九十日です。発情九十日、休止期九十日、半年に一度くらいが周期ですね。外飼いの犬は日照の影響を受けて春と秋に発情期がきますが、室内飼いの犬はそのサイクルがずれていることが多く見られます。もう夏が近づいていますし、うちの雄共がが騒がしくならないから、もうヴィヴィアンは休止期に入っているのでしょう……次のチャンスは秋ですね」
犬の雄には特別発情期は無い。雌犬の尿に含まれるメチル-p-水酸化ベンゾエートが雄犬を誘引し刺激するフェロモンだといわれている。雌の体がスタンバイになって雄犬は発情するという仕組み。ヴィヴィアンを始め篠原さん家の犬達からはなんの刺激も無い。つまり今三頭共休止期に入ってるってことだ。
「発情期の見分け方をお話ししますね。大きく三つに分けられて、発情前期、発情期、発情後期になります。……今お話してしまっても宜しいですか?」
ちら、と子供達に目を走らせて千尋は篠原氏を覗き込むように見た。篠原氏は構わないよ、というように頷き、三人に言う。
「三人共、よく聞きなさい。ヴィヴィに無事に赤ちゃんを授かるために大切なことだ」
そういう方針なら言うことはない。千尋は頷き返して続けた。
「発情前期は体内でホルモン濃度が上がり始める時期で、三日から二十七日間とかなりの幅があって、平均すると八日、つまり前後三日程度続きます。 尿の頻度が多くなり、この周辺をよく舐めるような仕種を見せます」
ヴィヴィアンの腰の辺りを指しながら千尋は説明を続ける。
「また外陰部が肥大して出血が見られるようになるのが特徴です。出血量にはばらつきがありますけど……ヴィヴィアンは今までそんなに多くなかったですよね。全く出血の見られないこともありますから、よく注意してあげてください。この時期には性器から特殊な匂い、フェロモンを発していますから、ドッグランに連れていくのは要注意になります。雄がその匂いで皆ハッスルしてしまうから」
千尋は子供達ににこりと笑いかけると言った。
「この時期にヴィヴィアンを一度連れてきて、診せてほしいです。繁殖可能な健康状態か見極める必要がありますし、ポルカも機械ではないので体調を作らなくてはならないからね」
うへぇ。
「このあとくる発情期は実質十日くらいで、前後三日くらいの誤差があるとされています。この期間に雄との交渉を持たないと妊娠することができません。尻尾に触ると反射的に斜めに上げるようになります。篠原さん、この期間はヴィヴィアンをうちでお預かりするということで宜しいですか?」
篠原氏は子供達にそういうことでいいかい?と尋ねた。彼らはいいも悪いも、という感じで縦に首を振る。
「発情期に入って二〜三日後、出血から数えて二週間目くらいに卵子が子宮内に放出される排卵が起ることが多いので、その前後二日くらいが最も妊娠しやすい交尾期間ですね」
あんまりその様子は……お子さん方には刺激的なんじゃないかなぁ。
「排卵された卵子は約五日間受精可能な状態が続き、条件にもよりますが射精された雄の精子は雌の体内で約二日から七日間生き続けます。この辺りのことは理科や保健で習ったかな?人間と同じだよ。ただ、犬の場合人間と体の構造が違う部分があって、後尾の最中に無理矢理離したりすると尿道球腺が膨らんでいるから怪我をしてしまうことがある。犬も気が荒くなっていることもあるしね。だからお預かりさせてもらって、静かなところに二頭だけで放っておいてあげる必要があります。それが預からせてもらう理由。わかってもらえるだろうか」
結構生々しい話をしたな。まぁ、ちょっと調べればわかることだけどね。
「この後着床しなければ発情後期に入り、発情期にあった変化が全て元に戻ります。発情休止期ともいうことがあります。男性には理解し難いんですが、犬も人間もどうしてもホルモンバランスに影響を受けてしまうので、排卵の時期というのは体調も違いますし、気分も違います。優作くん、だから春と秋は犬達に優しくしてあげなくてはならないんだよ。この時期には妊娠の有無にかかわらず黄体ホルモンが出ていて子宮内膜が増殖して乳房が張ってきます。期間は概ね妊娠期間と同じだけ続きます……二ヶ月くらいだね。それと発情後期の後半からプロラクチンというホルモンが増加するので偽妊娠という行動を示すことがあります。想像妊娠ともいうのだけれど、これは妊娠していないにもかかわらず恰も子供を宿した母犬のような行動をとることなんだ。お乳が張って乳汁も分泌され、営巣行動をとり、人形や小動物を我が子のように扱うなんてことをする。これはね、犬が狼だった頃の名残なんだ」
「名残?」
「狼はね、群れを作る動物なんだ。群れは社会で、ヒエラルキーがある。強い個体を残してゆく為に、ヒエラルキーの頂点に立つ一番強い雌、アルファ雌というのだけれど、彼女しか子供を作らない。でもどんなに強い個体でも事故で命を落とすこともあり得るでしょう。だからそのときに備えて群れの他の雌が乳母としてスタンバイしている状態になる為といわれているんだ。だから、もしかしたらマレーネが偽妊娠の状態になるかも知れない。ヴィヴィアンが嫌がらなければマレーネのしたいようにさせてやってね」
人間にもそれは共通事項かもしれない。女子校なんかだと、生徒の月経が揃ってしまうなんていう話もある。互いに作用するフェロモンみたいなのを放っているからだっていうけど、人間だって乳母的な働きを他者に求める動物としてのシステムが組み込まれてるのかなと思ったりもする。あんまり突っ込むと物議を醸しそうだ。
「ポルカは遺伝疾患も無いし、歯並びや骨格も問題ありません。性格も穏やかだし、ヨーキーらしい妙な勇敢さも持ち合わせています。ね、ポル」
なんでそこでオレに確認とるかな。えぇ、えぇ、えぇ、オレはどうせ皮肉屋ですよう。
「ヴィヴィアンとは全く血統も違うし、いいと思います。ヴィヴィアンも初めての発情期ではないですし、体も確りできていますし、……ヴィヴィアン、ポルカのこと、嫌いじゃなかったらどうだろう?どう思う?」
ヴィヴィアンは犬らしく無表情を保っているが、本当のところは可笑しくてならないらしい。どう思う?だって、とオレに流し目をくれる。オレに文句無いんだろ。そこんとこはちゃんと千尋に回答しておけよ。
ヴィヴィアンは顔を近づけた千尋の鼻の頭をぺろりと舐めた。口を開けて笑い顔のような様子をみせる。
「そう。ポルカと待っているから、病気とかしないように夏を乗り切るんだよ。ちゃんと食べて、運動しなね」
ヴィヴィアンの小さな額を撫でて千尋は笑うと、篠原さんに向き直った。
「お気持ちはもう固まっているようですけれど、夏の間ゆっくり考える時間はあります。今ここである程度のことをお話ししましたが、無理強いするつもりはありません。気が変わったり、ヴィヴィアンの調子が変化したりしたら、どうぞお気軽にご連絡ください。犬にとって妊娠して子供を産んだ方が子宮周りの疾患に罹る率が下がるとも上がるともいわれています。そういうことも踏まえて、どうか」
すると希林嬢と五十鈴嬢がくすくす笑い出した。
「上村先生、まるでヴィヴィのお父さんみたい」
千尋は鼻白む代わりに赤味をみせた。
「お嫁にもらう立場なのに、お嫁に出すみたい」
「ヴィヴィアンは篠原さん家にもらわれてきたときから診ているからね。僕にとって大切なお嬢さんだよ」
おおぉ、言った!この三人に、篠原さんの気持ちが伝わるんだろうか……君達もあと数年もしたら篠原さんをそういう気持ちにさせるんだよ。雨はすっかりあがっていた。
篠原さん家の皆さんに、主殿嬢と晶が雨をついて買ってきたアイスクリームをお出しした。器に分けて盛ることを洸人氏が提案し、小松氏が手際よく盛りつけ、午前のうちに集めておいた庭のベリー類を主殿嬢が可愛く飾ってクラッカーを添えると剣持氏も驚く素敵な出来映えになった。潤一さん仕込みの洸人氏が淹れた紅茶と共に出すと子供達、特に女の子達はとても喜んでくれた。お庭で採れたベリーなの、素敵ね、と燥ぎながら味わってくれた。篠原さんは城山さんに相談してうちも植えてみようかなとか言っている。城山ご夫妻はお二人揃って農学部卒なのだとか。ご主人の部長代理は農業機械、課長補佐の奥さまは農芸化学がご専門なのだそうだけど、お二人共お庭でキウイや苺を作るのを楽しみになさっておいでなのだそうだ。晶がキウイかぁ、うちには植えてないなぁとか言い出したから、そのうち苗を買ってくるかもしれない。
篠原さんご一家がシルバーピンクのアイシスで分倍河原へと帰って、剣持氏はほうっと息を吐いた。
「特輸は仲がいい」
小松氏もそうですね、と主殿嬢に目をやりながら言う。
「単純に和気藹々としている訳じゃ、ないんですよ?……昔ね、桜庭部長が仰ったことがあるそうなんです……特輸には鉄の結束がある、って。一見ばらばらの形の秀でた人達の、ひとつの目標にむかってがっちり結束する力は他の部署にはみない」
主殿嬢は噛み締めるように言った。
「由利が羨ましいよ。俺だって特輸で新幹線を運ぶのに携わりたい」
剣持氏が沈んだ声で呟くと小松氏は同調した。
「俺も」
千尋はやれやれ、と呟く。
「潤一さん、大人気だな。あの人、そういうところ、本当に謎」
すると横で洸人氏が笑った。
「よく言う。あの人に一番似ているの、ちーくん、お前だぜ。隠者みたいな顔しやがって、本当は中でずっとふつふつぐつぐつしてる。自覚無いの?」
えっ、と千尋に洸人氏以外の視線が集まる。えっと驚く皆さんにオレの方がえっ、だよ。この暑苦しい獣医が洸人氏の言う通り、誰よりも潤一さんに似ている。義弟である洸人氏より、目の形が似ている小松氏より、ずっとずっとね。
剣持氏はその後直ぐ帰り、例によって例の如く済し崩し的小規模同窓会な夕食を終えてまた小松氏が洸人氏を引き摺って帰った。晶はさっさとひとっ風呂浴びて自室に引っ込んで寝てしまった。今日は剣持氏がいて、見分けがつかないとかじゃないんだろうけど、見慣れぬ人物がいたということで気疲れしたのだろう。変なところだけ野生な晶。
千尋は主殿嬢と部屋で昨日の残りのアマレットを安い炭酸で割って飲みながら、いつしかキスになり、ベッドに雪崩れ込んで、そして今一戦終わったところ。
千尋は肘を枕に胸で丸くなっている彼女の為に綿毛布を引き上げた。
「なんだか、変ね。自分達が結婚を考え出したばっかりだっていうのに、先にポルちゃんに縁談がきちゃうなんて」
「縁談だなんて、大袈裟だよ」
そうかしら、と主殿嬢は呟く。千尋は綿毛布の上から彼女をそっと撫でていたが、暫くしてぽつりと言った。
「……ポルカは、本当は美香乃さんに贈るつもりだったんだ」
主殿嬢は少し驚いたようだったが特に口を開かなかった。
「大学の付属の動物病院に勤めて、初任給をもらった、その金をぶち込んで買ってきた。給料の半分弱が消えたんだ」
それね〜随分聞かされたよ。こっちがわかってないと思っているのか、ぐちぐちぐちぐち、もう、しつこいったら無かった。今となってはそれも古い記憶。
「どうして、美香乃さんに渡さなかったの?」
「渡さなかったんじゃなくて、渡せなかった。美香乃さんは雪英くんが生まれたお祝いや、科学賞受賞のお祝いや、潤一さん昇進のお祝いにものを俺から贈ることをずっと拒んできたんだ。ははっ、そんな物凄い拒絶をされた訳じゃないぜ。初っ端に俺はまだ自分で糊口を凌いでいないから、親から出たお小遣いを費やしたお祝いの品は受け取れないって、そう言い切られてさ。そのときに言われたんだ。祝いたい気持ちを心に積み立てておくようにって……そして自分の力で稼ぎを得るようになったら、その積み立てを形にすればいいってね……だから初任給を使ったんだけど、ポルカに餌を食わせながらふと思ったんだ。今、俺は本当に自力で糊口を凌いでいるのだろうかってね。確かに初の給料は俺の労働の対価として得たものだけど、その基礎に実家から通っている自分、学費を出してもらった自分、まだまだ未熟な自分……まだ自分の力で得た金じゃないって一気に襲ってきて、ポルカを渡しに行く気が一気に殺がれた。それがポルカが俺のところで暮らしている理由」
千尋は残っていた炭酸水をグラスにあけずにペットボトルから直接飲んだ。
「主殿、俺ねぇ、美香乃さんに興味を持ったのはあの人が天才と呼ばれていたからなんだよ」
「どういうこと?」
「天才。飛び抜けて頭のいい人、という意味で平素使われている言葉だけど、俺は『天賦の才能のある人』という意味で話をしてみたかったんだ。それが綺麗な女性だったから、恋したような気持ちになっただけ。恋じゃなかったってことは疾っくに鳧がついてるんだ……主殿、わかって」
嘆願口調に彼女はくすっと笑みを洩した。
「ごめん、千尋、私ずっとそんなに妬いてたのね。ねぇ、教えて……どうして天賦の才能のある人と話がしたかったの?」
「今となっては思い上がりだと思うんだけども……人が言葉を喋るよりも動物の言いたそうなことがわかるような気がしてならなかった……のが、それが才能なんじゃないだろうか、と勘違いしていいのか、謙虚を通り越して変なのだと自覚すべきなのか……晶は人間の見分けはつかない癖に動物だときっちり見分けていたし……異能兄弟なのかなとか、二人しておかしいのかなとか、なんか飛び抜けた才能を持っている人になら、なにかを理解してもらえるんじゃないだろうかって、そう思い込んでいた」
「美香乃さんは、なんて?」
「ふふ、答えを出したのは潤一さんだった。美香乃さんも見抜いてた。俺達はね、殊動物に対してだけ強く観察がはたらくの。人間に対する興味なんかよりずっと。だから動物の思うところがわかる気がするし、晶は人間の外形なんかには全く興味がないから今あんななの。どうして対人間より興味が勝っているのかはわからない。晶と俺とが同じ理由とは限らない。ただ俺達は開業獣医の家に生まれたから、興味を向ける対象として色々な種類の動物が身近にあったんだ。だから、その状態を大切にしながら獣医になるなら人間とも対峙できるようになるようにって勧めてくれた。晶の方が重症だったのか、俺のように直接言葉をもらわなかったからか、あまりいい状態にはなっていないけど……そうだな、老人介護施設にケアドッグを率いて行けるくらいにしてやりたい」
おいおいそれはいきなりエベレストの山頂を目指すようなものでないかい?
千尋が甘ったるい声で囁きかける。
「主殿」
主殿嬢が嬉しそうに返し、密やかな忍び笑いが聞こえた。野暮天は致しませんよ。明日は月曜だってこと、忘れんなよ。
風と共には去っていってないので。
篠原淳森氏が細マッチョ系の強面エンジニアでも小さくてふわふわして可愛いものが好みなのは譲れません。
おそらくマルチーズだと思われる(拾った犬なので、血統書などがないので)オードリィはオードリー・ヘプバーンよ。AudreyはEtheldredaより転訛した名前で意味はold-strengthなのだそうです。パピヨンのマレーネ姐さんはマレーネ・ディードリッヒから。Marlene Mar- で始まる名と,Lenaの合成とおもわれるとのこと。Maria Magdlena の縮約説もあるそうです。昔飼っていたのはグレース・ケリーからとったグレースとイングリット・ハーグマンからとったインリことイングリット。ポメラニアンとミニプードルでした。Graceはラテン語 gratia に由来。語意は『恩寵』後に「優雅」という語意 でも使われるようになったそうです。Ingridは北欧系の名前で、(1)Ingwio -beautiful /Ingwio はゲルマンの一種族の神の名 (2)Ingvi -ride /Ingvi は英雄の名 (3)Ing-beautiful (fair) /Ing は豊穣神の名 と由来がちょっと不確か。ヴィヴィアンはヴィヴィアン・リーから。Vivien ラテン語 vīvus「生命のある」から派生したラテン語名 Viviānus に由来。昔の女優さんは華麗で綺麗で可愛いけど、時代時代のメイクがきっつい…素顔が見てみたい。
「風のように去りぬ」の「ぬ」について。
先ず、【去りぬ】の【去り】に注目。
この【去り】は、四段活用動詞【去る】の連用形。
そこで「連用形」につく「ぬ」について考えればよい。
「ぬ」には、
①打消しの助動詞「ず」の連体形
②完了の助動詞「ぬ」の終止形
があるけれど、「連用形」に接続するのは、完了の助動詞「ぬ」だから、当然、問題になっている「ぬ」は完了の助動詞。
因みに打消しの助動詞「ず」は、未然形接続。
つまり「去りぬ」の「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「…てしまった」「…てしまう」。




