14.アマレットは少し苦い
朝からなんか変だなあと晶が言い続けている。缶ごみをひいふうみいと数えてはそんなに飲んでないよなぁとまた首を捻る。
マクの散歩から帰ってきた千尋は怪訝そうに言った。
「どうした、晶」
「ねぇ兄貴、俺昨日ビール一本しか飲んでないよねぇ?」
「あぁ。……ははぁ、一本しか飲んでない筈なのになんか酒が残ってる感じが、ってか?だってあれ、IPAだもんよ」
「意味が解んない」
「ラガーなんかと較べるとアルコール度数も高いしホップも強く効いてる。昨日のはIIPAの部類だったから、ビールの調子で飲むときつかったんじゃね?でもホップの香りの強さがちょっと脂のきついあのスープに合っていたな」
知らないうちに強い酒を飲まされていたことを知り、晶は頭を抱えて蹲っていた。千尋は底無しなのに、晶は弱いなぁ。
「あっはは、そんなに辛かったら病院の方は俺がいてやるよ?」
「いや、そこまでじゃない……」
あっはは、晶は迂闊だな。蠎の小松氏が翌日がまだ平日だからってちょろっとアルコールを舐めたくらいで満足する訳無いじゃん。抑昨日彼は千尋を心配して、その手土産に持ってきたIPAだよ?
オレの鼻息が近いのがわかったのか、晶は膝に埋めていた顔をあげた。
「ポルカに滅っ茶虚仮にされた気がする……」
そんなことしてないって。被害妄想も甚だしい。晶は心配そうに寄ってきた真の首にがばっと腕を回して芝居がかった声を張り上げた。
「俺のこと心配してくれるのは真だけだぁ!」
マクがそうなの?とオレと千尋を見比べる。知恵の使い処を心得てない晶がオレ達とっても心配よ?
「ポルカ、晶に追い討ちをかけるような顔すんなよ」
千尋が真顔でしれっと言う。おいおい、オレの所為にすんなよなあ、笑けてきちゃうだろ。
マクは嘘のように吸収力が高くて、今日一日で待機の姿勢、『伏せ』を憶え、『待て』のトレーニングにも入っていた。といっても客の来ない診察室で千尋の足許でちょろちょろ遊んでいただけなんだけれども。相変わらずブリはじゃらじゃらと鈴を鳴らしながら心地好く眠れるところを探してうろうろし、金魚の水槽が循環する水音を立てている。ストルバイトの尿路結石の猫がやって来て、フードの相談をしていった。ストルバイト、燐酸マグネシウムアンモニウムかぁ……もっと水を飲んで飼主を早く安心させてやんなよ。猫は餌が不味いんだよ、と不満げに帰ってゆく。千尋が選んだ種類を多めの缶フードを飼主は重そうに提げていった。ペット保険にも入ってくれてていい飼主さんでないの。即日給付型なので千尋が保険会社に診察内容を通知し申請しなくてはならない。千尋はぱちぱちキーボードを叩き、仕事を如何にもしてる。製薬会社の営業マンが暇なのを見越してやって来て新しい薬の説明をしてゆき、相次ぐように医療機器メーカーの営業がやってきてカタログをどっさり置いてゆく。千尋は都度面倒臭そうな顔を隠すようにいい人の面を着けて熱心に相手の話を聞く。看護士も事務もいない零細病院の院長はマルチな業務をこなす才能が要る。
「どうしてこっちの餌缶だけにしなかったの」
晶が指したのは利益率の高い、且つ一缶あたりの値段の安い餌だった。
「猫にだって好き嫌いはあるんだよ」
「そういう理由?」
千尋はぎっと音を立てながら椅子に身を投げるように座り直した。
「飼主さんは保険にも入ってて、経済的に余裕が無いのでもない。獣医の俺からすれば効果の高い餌だとか利益率の高い餌だとか勧めるのがいいのかもしれないが……飼主さんサイドからすりゃ、いろんな種類の餌をやってみて、猫を満足させながらよくなるようにさせてやりたいもんなの。自分で治してやったっていう満足ってとこかな。俺達は家畜のような経済動物だとか、競争馬のような商品を診てる訳じゃない。ペットだ。愛玩動物だ。家族だ。世話を焼くのも楽しみのうちなの。そりゃ、猫が健康であることは願って止まないが、その過程は生活の一部なの。獣医はサービス業。決して必須アイテムではない動物との暮らしの質を上げることが俺達の仕事。畜主にもいろんな事情がある。今日の明日で治してほしい、金がかかってもいいからゴージャスに治してほしい、金をかけずに治してほしい、苦しむところを見たくない……」
流石に獣医にとっての旨味は言わなかったが、どの餌が治りに対して効果が出易く、味が淡白なのかを千尋は説明を怠らなかった。飼主はその説明に納得して餌を選んでいったのだ。
「マクの声帯を切ってくれってのは極端だったから……飼主さんが思い詰めちゃってたから阻止したけどな、人間の生活あっての小動物診療だ。教科書通りにはいかないんだよ」
晶が真面目ごんごちなのは真を見ればわかる。動物に対して優しいのもな。でも獣医が商売だってことは学校じゃ叩き込んでくれない。
「コンパニオンアニマルの授業の中で説明あったね……なんだかキナ臭い話をするもんだなって思ってたけど、こういう現実を指してたのね」
動物の医療は難しい。晶が獣医というものに夢を打ち砕かれないことを願わずにはいられないよ。
六月が近づいてくると千尋は近所の小鳥達と臨戦態勢になる。
金曜は朝から笊を小脇に抱え、いつもの黒いゴム長で庭へ出る。動物病院の先代院長は暇をもて余していたのだろうか、周囲にぐるりと山桃を始め妙な果物の樹が植えてあり、その収穫時期が重なる。特に小鳥が狙っているのはジューンベリー。采振木とか四手桜ともいう。指先を真っ黒にして戻ってきた千尋の笊にはブルーベリーや李、ソルダムなんかも入っていた。ソルダムは李の樹に接いであって、同じ樹の上に生るんだよ。
「杏は?」
「まだ硬かった。あれは潤一さんが楽しみにしてくれてるからなあ」
どっさりという程ではないが、笊にいっぱいに穫れた漿果を軽く洗って千尋が夕飯のメニューでも考えようかと冷蔵庫に顔を突っ込んだとき、玄関に訪う者がいた。
「あのう……」
見憶えは無いが知ったにおいだなと思っているとマクがふっさふっさと嬉しそうに尻尾を振って、飛びつきたそうにしている。あ、そうなの、マクの飼主さん、奥さんの方。彼女はまだ新しい抱っこ紐で胸に乳児を連れていた。千尋は玄関のその様子から大体察したらしく、念の為名前だけ確認して彼女を診察室に上げた。
「マクが静かにしてる……」
マクの首には包帯もエリザベスカラーもない。苦渋の決断として獣医に持ち込んだ依頼は拒否され、別の方策を採択したことはご主人から聞いていたのだろうが、嬉しそうに尻尾を振るばかりできちんと床に伏せの姿勢を貫くマクには吃驚なようだった。
「お利口でしょう。頑張ったんですよ、マクちゃん」
頑張ったのは千尋だ。
「夜ご主人がお迎えにおいでになる予定でしたが、今お連れになりますか?」
今連れて帰るのは奥さんには負担だろう。案の定奥さんはか細い声で私だけでは無理ですと、今にも泣きそうな声で言った。千尋は安心させるように微笑む。
「ははっ、マクが恋しくなって堪らなくなって返してくださいってお言いにおいでになったのかと勘違いしてしまいました。そうですよね、お子さんもまだまだ手がかかって、その上マクの世話までするのはしんどいですよね、失念しておりました」
奥さんがそんなつもりで来たのではないことくらい、犬のオレにだってわかってる。マクも……だよな?
「……よく眠れてないのですか」
椅子を勧めて千尋は少しだけ犬のように首を傾げた。そっと覗きに来ていた晶を目で呼び寄せる。晶は何気ないふりで静かに横の丸椅子に腰かけた。
「ご主人は夜泣きとか、手伝ってくださらないんですか」
彼女は驚いたように顔をあげた。
「先生は、……その、まだお子さん……ご結婚もされてませんよね……?」
「ええ、まだ未熟者なので。生まれたての乳児が手のかかることくらい承知しています。主に哺乳類が相手なので」
哺乳類、というところで彼女はくすりと笑った。
「ご家庭内の問題かと思いますのでこれ以上は獣医としては踏み込めませんけど」
「あ、いえ、主人は……よく手伝ってくれていると……思います。なんというか……私が、その、不安定で」
彼女はふっと目を伏せた。あ、ヤバい。泣いちゃうよ。泣いちゃうよ。マクがきゅう、と鼻を鳴らした。ぽとりと床に涙が落ちた。千尋はティッシュの箱を晶から受け取ると、どうぞお使いくださいと差し出した。
「産科でも指導がありませんでしたか?産後はホルモンバランスなどが大きく変化しますからそういう不安定や倦怠感がつきものだと」
「ええ、まあ……でも、……」
ぐすっと洟を啜り上げながら肩を震わせる。
「だ……だからって、……その、ヒステリックというのでしょうか……マクの声帯を切ってと言い出したの、……私なんです……」
わあっと火が点いたように奥さんは泣き始めてしまった。こればっかりは千尋はどうにもならない。晶に湯を沸かしてくるように言いつけ、黙って事態を見守る。マクは困ったように千尋と奥さんを見比べ、千尋に頷かれて立ち上がり、奥さんの膝に前肢をかけた。ぺろんとその長い舌で奥さんの頬を舐めたようだ。
「マク……」
余計に涙を誘発しちゃうんでない?
「ご……ごめんね、マク……」
マクはいいの、気にしてないの、というのをどうにか示そうと奥さんの涙をぺろぺろ舐める。奥さんは泣き止めなくて、泣き笑いになってしまった。
「マクはお家の不安定さをよくわかっていたようなのですが、このコもまだ一歳で自分の気持ちと上手く折り合いがつけられなかったみたいです。まだこの先少しずつトレーニングを積む必要はありますが、声帯など切らなくても大丈夫ですよ」
「で、でも、うるさく吠えて……」
「もう吠えません。ふふ、この辺りもトレーニング中ですけど」
奥さんの死角から晶が飲み物はなににするのかとパッケージを翳していた。
緑茶。違う、とサインを出す。紅茶。違う。コーヒー。違う。焙じ茶。違う。晶は少し首を捻ってインスタントのミルクココアを翳した。それだ、と千尋はゴーサインを出した。
「ま、マクに申し訳なくって」
「そうですねぇ、かなり淋しがってましたよ。置いてけ堀は人間だって淋しいですもんね。ですからね、マクにはお留守番を頼んでみました。シェルティですからね、仕事なら、引き受けてくれるみたいですよ。公園ピクニックには連れていってほしいみたいですが」
腫れた目で見詰めた奥さんにマクは盛大に尻尾を振る。なんだかんだ言ってもマクは家族が好き。置いてけ堀を喰らう以外は大層可愛がられていたのだろう。
「本当はこの犬種は目一杯ドッグランを駆け回りたい。でも基本の待て・お座り・伏せ・それからお手おかわりくらいまでは教えました。散歩も飛び出したりしないよう教えました。一緒にピクニックシートの上で座っていられるくらいにまで慣らします。……これで心配はひとつ減りましたか?」
奥さんは千尋を目を丸くして見詰めた。
「いや、そんなに驚かれなくても。今の色々な制度や慣習は妊婦さんにはとても優しいですけど、産婦さんには稍冷たいですよね。どちらかというと疲れているのは産婦さんだと僕は思うのですが」
晶がこのタイミングでココアを持ってきた。
「ココア、インスタントですが、よかったらどうぞ。マクは家族を癒す存在であるべきだと、本犬もそう望んでいるみたいなので、獣医としてはそのお手伝いをしたまでです。そうすれば飼主さんも幸せ、マクも幸せ、ついでに僕らもそのお手伝いができて幸せ、というわけです。三方一両損どころか三方皆満足だと思いませんか?」
おぉ?大岡越前をも上回る気かい、大きく出たな。
「わ……私……本当にマクに……マクに謝らなくちゃ……」
「そうですね。マクを見縊っていたことはちょっとどうかと思いました。でも、こんな賢いマクが優しいのはご家族のお蔭だと思います。ココア、冷めないうちにどうぞ」
奥さんは抱っこ紐で密着している我が子の向こうからマグカップを確かめるように見ながらやっと手を伸ばした。ふうっと息を吹きかけたが、もう熱くはないようだった。一口含んでその味と温かさに頬を緩めたが、それを飲み下すとまた顔を翳らせた。
「……でもまた連れて帰ったら、マクにあたってしまうかも……」
「難しいですね。マクも迸りは御免でしょうからねぇ。まぁ、そんなに気にはしないと思いますが。平日は暫くこちらに預けてくださって、トレーニングを続けるも良し、段々日数やここにいる時間を短くしていって、ご家庭に戻っていけばいいとは思いますけど」
犬を預けるのも無料では無い。だからこそ獣医という商売が成り立つのであって、そこを蔑ろにされたら千尋だって困ってしまう。でも子供が生まれたばかりで物要りの今に負担はきついよな。
「金銭的なことはご主人と僕とで考えます。それよりもマクが気持ちよくお姉ちゃんでいられることの方が今は大事。……そうですね、マクをお散歩がてら連れておいでになられては?奥さまが。」
ぱちくり、と彼女は目を瞬いた。
「お茶でも飲んで無駄話でも。ここ、割とお客さんも少ないですし……ご主人に話し難いことでも、全然関係ない第三者に話すっていうのも手段といったら手段ですよ」
市の保健師さんに話すと公的に登録されてしまいそうで嫌でしょう?と千尋は笑う。
「病気でない動物もいっぱいいますし、知り合いの子供や近所のお爺ちゃんとか結構出入りして騒がしいですけど、家に閉じこもっているよりは。あぁ、強要はしません、方法のひとつだと言っただけで」
「か……上村先生にご迷惑でしょう……」
まぁ、そうだね。一銭にもならないし。
「マクの健康を守るのが僕の仕事なので、その一部に過ぎないことです。変な噂が立つといけないので、月曜のご出勤のご主人と一緒にいらっしゃるとかでもいいですよ」
千尋はまた自分のハードルを上げた。おいおい、開院時刻よりずっと早いだろう。
「しゅ、主人と話し合ってみます……」
「マク、よかったな、奥さんと散歩できるかもしれないぞ?」
千尋は身を屈めてマクの頭を撫でてやる。マクは尻尾を振りっ放しだ。
「お子さんは女の子ちゃんですか、男の子ちゃんですか?」
「あ、男の子……まさお、といいます……」
「まさおくん。どんな字を?」
真蒼、と奥さんは字を伝える。晶が首を捻った。
「もしかしてマクは漢字の名前ですか?」
「あ……真紅、というつもりでマク、とつけたのですが……?」
晶と千尋は、つられるようにオレと真がマクに目を集めていた。なぁんだ、やっぱりマクはお家じゃ長女だったんじゃん。
外でなにかがさがさ音がする。泥棒にしては大胆だなと思いながら網戸に向かって吠えついてやると、見知った顔と目が合った。
「よう、ヨーキーくん。ちーくん、いる?」
おいおい桜庭洸人氏よ、幾ら身軽なポスドク生活だからって金曜の真っ昼間から他所の家の果樹に登って腕いっぱいに枇杷を抱えてるのはどうかと思うぞ?
洸人氏はぴょいと地面に降り立つと、遠慮なく網戸を開けて掃き出しの窓から上がり込んだ。
「ちーくんはまた昼寝?」
真顔でオレに尋ねられてもなぁ。その彼の背後に千尋は音もなく立ち、低音よろしく言った。
「昼寝の権化で悪かったな」
「きゃあっ。んも~、いるならいるって言ってよ~」
「お前は牛か。牛なら牛らしくそこら辺で反芻してろ」
「やっだなっ、俺四つも胃を持ってないよ」
洸人氏は勝手を知っているらしく台所にずかずか入り込むと、笊とボウルを出して穫ってきた枇杷を洗った。千尋は網戸の真下の三和土を見遣って、洸人氏の荷物らしいバックパックと買い込んできたと思しきスーパーの買い物袋を取り込んだ。なんか物凄く重そうなものばっかり入ってるんですけど?
「なにしに来た」
「ちーくん、シェルティの世話してるって父さんからメールが来てさあ。真面目に仕事してるのが気になって、見に来ちゃった♪今年の夏は雪が降るの?」
「降るか呆け」
洸人氏のお父上は同じ町内にお住まいで、今年は自治会長を務めておられる。日中マクを連れてふらふら散歩してる千尋の姿を見かけていても不思議ではない。けど、それがなんでホワイトリカーと氷砂糖の手土産になるかな。
二階からばたばたと足音高く真とマクが争うように降りてきた。途中から真がけたたましく吠え出した。
「おぉ、来た、シェルティ。綺麗なコだねぇ。おや、女の子」
現在我が家の紅一点だよ。
「真、気持ちは解るが止めい。喧しい。タケは怪しいやつだが、悪さはここじゃしないから」
なにその限定用法?
マクが頻りに洸人氏の手を嗅いでいる。そうなんだよ~この人のニオイ、不可解なんだよ。美香乃さん似の綺麗な顔が台無しな感じ。
「タケも適当なことばかりほざきよって。マク、そいつのことを理解するのは諦めた方がいいぞ」
謎の人、桜庭洸人氏。ナントカと天才は紙一重っていうから、この人はそういう部類なのかもしれない。勝手に捥いだ枇杷を勝手に洗って勝手に食べ始めた。
「うふふっ、ちーくんよくわかってるでないの。それよりブリちゃんは?折角会いに来たのに」
「ブリこそ寝とるわ。ブリに会いたかったら朝飯に来い」
「朝かあ、朝なあ、朝はなんというか……俺死んでるなあ……」
おやおや、この傍若無人な御仁にも苦手があり申したか。
「いっひっひっ、お前まだ朝弱いのか。ダサ」
千尋はげらげら笑いながらマクの黄緑色のトリートボールにおやつを詰めて渡してやる。マクは真に邪魔されないようにお気に入りのラグのところへ持っていって遊び始めた。洸人氏はむしゃむしゃと枇杷を食べ続けている。
「ちーくんが全ての生き物に責任持つ必要なんて、無いんだからな」
「阿呆が。んなこと元よりできんわ」
「うん、そうだよね~」
洸人氏の言う通りだ。千尋はぶすっとしながら反駁したけど、千尋、やろうとしてるよね?頼まれたのはマクだけなのに、マクのところの奥さんまで心配してたじゃん。
洸人氏の情報源がどこかは定かではないが、直ぐ突っ走る千尋に歯止めをかけようとしに来てくれたことはオレにもわかっちゃった。
案外いい友達じゃん。
「Je verdient een rust.」
「何語だ」
「Unastahili kupumzika.」
「だから何語だ」
「Вы заслужили отдых.」
「お前、伝える気ねぇだろ」
「Αξζετε να υπλοιπο.」
「もういい」
「Þú átt skilið hvíld.」
「やめろって……」
「Usted merece un descanso.」
「む?Usted?葡語だな?いや、西語か?」
「你应该休息一下。」
「逃げやがって」
「Você merece um descanso.」
「煙に巻こうったってそうはいくか」
「Dinlenmeyi hak ediyorsun.」
「くっそ、タケ、聞け」
「Ti meriti un periodo di riposo.」
「それは伊語だな!」
「คุณสมควรได้รับส่วนที่เหลือ」
「頭に来るな、書け」
メモに書き出されて余計に千尋は混乱した。
「أنت تستحق الراحة.」
「書け。……は?右から?アラビア語か?んなの解るか!」
「شما شایسته استراحت کنید」
「なんで長くなるんだ」
「Sie verdienen eine Pause.」
「あのなぁ。独語解らないと思っているなら殴るぞ」
「You deserve a rest.」
「……余計なお世話だ。お前が帰るのが最善」
ずっと同じことを言ってたわけね。
「冷たいなぁ。んも~、ひんやりさんなんだからぁ♥」
「気色悪い」
合理的なだけことを言うならば、独語と英語を理解してる千尋ならこんなしょぼい一銭にもならないような日常を過さないで、ばりばりキャリアを積む仕事をした方が……とは思うよ。でも、洸人氏も言わない。一番合理性を求めそうなこの人だって、千尋の能力は認めつつも、儲からない獣医という仕事を尊重してくれている、そういうことなんだね。
「ったく。……ぁあぁっ、お前ひとりで枇杷を全部食っちまいやがって!」
見ればあんなにあった枇杷はすっかり皮と種だけになってしまっていて、皮はボウルに、種は笊に別々に分けてある。彼はその両方を台所へもってゆくと、皮は三角コーナーに躊躇い無く捨てたようだった。直後、じゃあっとなにかを洗う音がした。とんとんと水を切って戻ってきた彼の手には洗ったらしい種を入れた笊とキッチンペーパーがあった。
なにを始める気?
「ちーくんのその無理しない感じっての?悪くない。だからってなにもかも受け入れるのは違うからな」
「だーかーらーっ、余計なお世話だっつの」
洸人氏は丁寧に種をひとつずつ拭いて乾いたキッチンペーパーの上に並べてゆく。
「ちーくんは器用なんだか不器用なんだかよくわからん」
枇杷の種を広げてそこら辺に置いてあったチラシでぱたくたと扇ぐ。
「おい……その種でなにを始める気だ」
「うふ。前にね、潤一さんに教わったの。九十九パーセント失敗しない」
「残り一パーセントの主要因はなんだ」
「引っくり返しておじゃんにすること、かな」
洸人氏は買ってきたらしい袋から広口の密栓壜とでかい紙パックとごつごつしたものが入った袋を出した。ホワイトリカーと氷砂糖だ。
「潤一さんのお墨付きじゃなかったら絶対にやらせないのに」
「俺らあの人に弱いよねぇ。特に食い物」
「間違いなく旨いのは、確かだからな」
煙草を咥えると、フィルタを噛み潰すような顔で火を点けた。煙は洸人氏を避けるようにそっぽを向いて吐き出す。ふむ、この御仁は非喫煙者なのね。
洸人氏は枇杷の種を壜に入れ、氷砂糖を入れ、上からホワイトリカーを注ぎ込んだ。
「どんな味になるんだ」
蓋を閉めて掛金をかけながら洸人氏はにまっと笑って答える。
「甘いアマレット」
「駄洒落かよ」
「だって事実だもん」
農協のロゴの入った付箋糊のついたメモを一枚勝手に引っ剥がして今日の日付を描き入れると天面にぺたりと貼った。
「いつから飲めるんだ」
「三ヶ月目くらいからって言ってたな。あとね、アミグダリンが含まれてるから、がつがつ飲むなって」
「ははっ、幻のビタミンB17」
酒に漬けたものだから気にする程でもないけどね、と洸人氏は笑って軽く壜を揺すった。氷砂糖が少し溶けたのだろう、透明なホワイトリカーがゆらゆらと揺れてみえた。
アミグダリン。C20H27NO11。C6H5-CHO(CN)-Glc-β1-6-Glcって言った方が正確かな。レートリルともいう。主に梅・杏・桃・枇杷などの薔薇科植物の未成熟な果実や種子、葉などに含まれる。加水分解されるとシアン化水素を発生するというから、彼らはそれを危惧してるのだろう。アミグダリンそのものには毒性は無いけども、高濃度のアミグダリンが残った果実などを経口摂取すると、エムルシンとβ-グルコシダーゼによってアミグダリンが体内で加水分解されて青酸を発生し、中毒を起こす。但し致死量は遊離した青酸の状態で凡そ六十ミリグラムとされてて、この量を満たす為には多くのアミグダリンを必要とする。未成熟なウメで百個とか三百個というから、少量であれば死に至る程の効果はまず現れない。水溶性で炭水化物をエネルギーに変える手助けをする働きがあるものということでビタミンB17と名付けられたこともあったそうなんだけど、整理された結果現在ビタミンB群は八種類になり、アミグダリンはビタミンとは看做されていない。因みに八種類のビタミンBは1、2、3、5、6、7、9、12だよ。B3はナイアシン、B5はパントテン酸、B7はビオチン、B9は葉酸と本名で呼ばれて、ビタミンBとはあんまり呼ばれない。
「枇杷は薔薇科だったな。ベンズアルデヒドでアマレットか。成る程ね」
ベンズアルデヒドはC6H5CHO、六員環の水素原子一つがホルミル基で置換された構造を持つ。アーモンドや杏仁の香り成分である。アミグダリンが加水分解されるとグルコースとマンデロニトリルが生成されて、マンデロニトリルが分解されるとベンズアルデヒドとシアン化水素つまり青酸ができる。アミグダリンが危険視されるのはこの猛毒の青酸ができちゃうからだけど、致死量に至る程アミグダリンを食べるとなると、青酸ができる云々の前に口が飽きると思うね。食傷ってやつ。
「上手く使えば咳止めとかにもなるってさ」
「そりゃ飲兵衛の言い分だろ」
潤一さん、お酒強いもんね。
そうこうするうちに日は暮れて、晶は診察終了の札をかけ、預かっている動物達に夕飯をやる。七時になろうという頃合い、玄関からまたちわ、と声がした。ねぇ、小松氏、家で晩ご飯食べないの?
出迎えたオレ達以外に洸人氏が顔を覗かせたのに少し驚いた様子で彼は靴を脱ぐ。
「タケさん、珍しいね。象牙の塔から出てくるなんて」
「それ皮肉?」
小松氏がそうそう皮肉なんか言う人じゃないの、多分知っての発言なんだろうなぁ。
「……なにか漬けたの?」
小松氏はテーブルに置きっ放しのホワイトリカーのパックを見て言った。
「贋造アマレット」
「えぇ〜っ、被っちゃった?」
「なに買ってきた」
「アマレット・フローリオ」
「ディサロノじゃないところがコマッチらしい。贋造酒が飲めるのは三ヶ月先だ。安心しろ」
うわ、アマレットの中でもエキス分の強いやつじゃん。どこで買ってくるんだ、そういうの。ジュースだのコーラだのが入っているところを見るに、そのまま飲もうっていうんじゃないから、まぁまだ大丈夫、かな?
「タケさん、残ってるホワイトリカーもらってもいい?」
「勿論」
「ちーさん、台所借りるよ〜♪」
小松氏は背広を脱ぐと袖捲りをして台所に入った。どうやら千尋が昼間に摘んできたソルダムが見えたらしい。壜を見つけて洗って熱湯消毒までして、ぱっとソルダム酒を作ってしまった。
「お前らなんかおかしい……」
「あはは、ソルダムで李酒作ると真っ赤なのができるってどっかで読んだんだ〜。やってみたかったんだよね〜」
勝手知ったる小松氏も農協の付箋メモに日付を書いて貼付けた。こちらにはちゃんとソルダム、と書いてある。
「今日は早いじゃないか」
「うん、多摩地区サービスセンターのシステムメンテナンスに行ってたんだ。立川だったから、直帰」
「そうかい。真面目に仕事してたのなら言うことは無い」
小松氏は使った鍋の湯を零し、片づけた。広げっ放しの洸人氏とはこういうところが違う。それでも余ってしまった氷砂糖を片づけているとこんばんはぁ、と涼やかな声が玄関からした。はっとして千尋が携帯を見る。そしてさっと青ざめた。
洸人が次々と繰り出したのはポルカの独白通り同じ意味です。
You deserve a rest.
さて何語?
答え
1オランダ語2スワヒリ語3ロシア語4ギリシア語5アイスランド語6スペイン語7簡体中国語8ポルトガル語9トルコ語10イタリア語11タイ語12アラビア語13ペルシャ語14ドイツ語15英語