13.テールスープは贈り物
いいよって言っちゃったものは仕方無い。
でもさ、ちょっとボリュームが違うんでないの?オレよりでかいなりのマクが吃驚してオレの後ろに回り込む。
火曜日の午後、こんにちはぁ、とやって来たのは早川焔硝くんひとりではなかった。ぞろぞろと、四人。潤一さんとこの雪英くん、小夜子さんとこの蘩縷くん、焔硝くんの再従兄弟の北條紫銅くん、皆中学一年生。君達、全然学区が違うのに仲いいよね。
「シェルティがいる!」
「シェルティだ!格好いいなぁ♪名前は?」
犬に訊いたって答えられるわけなかろうが。
「こーらっ、お前達なにしに来たんだよ?マクをびびらすなっ。おやつは持ってきたんだろうな?あ?」
持ってきたよぉ、と四人はそれぞれ持参したものを差し出した。焔硝くんはレーズンのロッククッキー。雪英くんは真っ白な粉砂糖がたっぷりまぶされたブール・ド・ネージュ。蘩縷くんは模様が楽しいアイスボックスクッキー。紫銅くんは優美な絞り出しクッキー。
なんで皆クッキーなの?
「決まってるじゃん。小麦粉、卵、砂糖、バターは冷蔵庫のレギュラーメンバーだからだよ。千尋さん、相変わらず冷蔵庫空っぽなの?」
こういう憎まれ口を叩くのは蘩縷くんである。それでもちゃんと千尋にさんをつけてる辺り、落合夫妻は確りしている。
「蘩縷くん、千尋さん自営業なんだからあんまり手をかけるようなことはできないんだよ。毎日カップラーメンとかじゃないだけ凄いじゃん」
毎日レトルトだけどな?
「そうだよ~大体蘩縷くん、自分でご飯作って片づけてしながら仕事とかできるの?千尋さんは能鷹なんだからね?」
さらっと嫌味にも聞こえなくもないことを言うのは紫銅くん。どうせ千尋は爪を隠したままですよ。千尋は一番でかい平皿に四人の持参したそれぞれの母作のクッキーを明けてやりながら苦笑いした。
「どうでもいいけど、勉強しに来たんだろ?範囲とか皆同じなのか?」
大体一緒、と唱和した。なにからやる?とダイニングテーブルを陣取ってわあわあと騒がしい。
「ごめんなぁマク……俺もこの人数で来るとは想定外だった」
吃驚はしたけど、子供が好きなマクは構わないらしい。尻尾をふさふさ揺らして子供達の様子に興味津々だ。中学生達はなにを思ったか、沢山用意してきたらしい日本地図の白地図をせくせく埋め始めた。県名と県庁所在地、主要な河川や山脈、半島、島嶼、湖沼、工業地帯、港湾名に幹線道路。ふーむ、潤一さんの得意分野だな。
「こっちが大分?」
「山形の方が南だって」
「もう面倒だから律令国名の地図作ろう!」
……とても中学生らしくて安心する。というか土曜の焔硝くんは大人び過ぎていたよ。
「降雨量グラフと平均気温グラフとのセットも憶えちゃおうぜ!」
「いいね!雪英、県別に全部載ってる資料無い?」
雪英くんは黙ってさっと手許の資料の頁を開いて三人の方へ向けた。
「千尋さん~これなんかいい憶え方無い?」
千尋はぞろっとグラフばかり並んだ頁を見て顎を擦った。
「先ず気温の折れ線グラフを見ろ……特に冬だ。ほら、気温が下がり切らないのが幾つかあるだろう。こういう寒くない地域って、限られてるよな?」
「おおおおお~!」
「寒い地域は大まかに二つに分けられる。降雨量の棒グラフを見てみ?夏に降雨量が上がるところと、冬に降雨量の上がるところ。これはなにに起因してる?」
四人は持てる知識をフル稼働させて口々に考えを述べる。
「夏に雨が多いのと冬に雨が多い……」
「待て待て、冬は雨じゃなくて雪になるだろ」
「あーっ!冬に雨が少ないのって関東でしょ!空っ風!」
「日本海側で雪を降らせて山脈越えて、乾いた風が吹くのか!そうだね、うんうん!」
「この降雨量のピークが二つあるのは瀬戸内海ってことだ♪読めてきた!」
千尋はテーブルから離れながらフロネシス、と呟いて笑った。晶が麦茶を飲みにこちらに顔を出した。
「賑やかだね~」
自分の分だけ出そうとして驚いたように慌てて四つコップを出した。そういえば四人に飲み物を出していなかった。こういうとこ、千尋は粗忽だな。
「こうやって見ると山脈とかいっぱいあるなぁ。海嶺とかとセットにすると地球って本当凸凹」
四人に麦茶を配ってやりながら晶は埋められた白地図に目を丸くした。
「お、こっちは平野か。なんで川とセットで憶えないの?」
「なんで平野と川とセット?」
「だって平野って川が作るんじゃん」
四人は顔を見合わせ、河川の白地図と平野の白地図を重ねて灯りに透かした。
「そうだったあっ!晶さんって合理的ぃっ」
「はは……合理的、ねぇ……」
因みに今晶は四人の区別が殆どついていない。制服のまま来た四人がそれぞれ違うものを着ているから、それでなんとか区別しているだけ。本当は晶はこういう似たようなものが集まった集団が、とても苦手。
「道路は後でコマッチに来てもらうからそのときに存分に訊け。それまでに自然地形とか憶え込んでおけよ」
わあわあやってるなか、雪英くんがそっと席を立って千尋に紙袋を差し出した。
「これ……父から。十人前弱くらいはあるって言ってました」
中を覗くと大きなタッパが四つ。それと、五キロの米。
「重かっただろ」
「途中から皆が代わり番こで持ってくれたので。一応凍らせてきたので……このままおいておけば夕飯頃には融けると思います」
すみません、炊飯だけはここでお願いします、と頭を下げる。
「そんなこと気にするなよ……こちらこそ助かった。潤一さんの手料理にありつけて嬉しいよ。時間は気にしないでゆっくり勉強していきな。どうせ本当は四人共試験なんか楽勝なんだろう」
「えへへ、楽勝という程じゃないですけど、皆でやってると結構粗も見えるので」
「楽しんでいけばいい。地理ばっかりやってないで他の教科も、な」
「はい♪」
素直な雪英くんは嬉しそうに笑って席へ戻ってまた鉛筆を握った。千尋は携帯を取り出すと、高速でメールを作る。小松氏を潤一さんのカレーで釣る気だな。結果は見えてる。入れ食い確定。
四人が山背とは、黄砂とは、フェーン現象とは、木枯しとは、颪とは、と用語を説明しあいながら騒がしくも知識を深めたことを確めていると、からからと玄関が開く音がした。ちわ、という声に出迎えたオレや真に笑いかけた。
「今日は賑やかだねぇ」
マクも昨日沢山遊んでくれた小松氏を歓迎している。小松氏は几帳面に揃えられたサイズがまだ小さい運動靴を数えてあの四人なの、とまた笑った。
「それは第十二旅団だろ」
その区分は中学生には不要な知識だろ。
「物騒な話題で盛り上がっているなぁ」
「あぁっ、計史さん!ねーねーっ、道路!道路ってさぁ!」
「待って!待ってね、俺まだ靴も脱いでない」
昨日の今日でまたしても玄関先で用件を頼まれそうになって小松氏は慌てた。見上げたマクの額を撫で、真の額を撫で、オレを抱き上げた。
「おっかしいなぁ、俺潤一さんのカレーを食べに来た筈なんだけど……」
「ただで食えると思うな旨いカレー。ん?上の句が無いな」
「下の句にもなってないよ」
小松氏はテーブルに広げられた雑多な教科書やノートを見て試験勉強をしていたことを理解したらしい。
「少し片づけてからにしない?それだけ地図が埋めてあればノートはもういいよね?」
後は都市と都市を繋ぐ交通網を憶えるだけ。飯を食ったら理科か国語にしなよ。
九時前に紫銅くんのお父さんがお迎えに来て、四人を全員車に乗せていってくれた。皆河さんこと北條教授も明日仕事だろうに、東京中送っていくのか。大変だなぁ。
「親が同じ研究室出身だからってあの四人、仲いいよねぇ」
そう、潤一さん、伊勢原さんこと落合さん、北條教授は大学の同じ研究室仲間だった。焔硝くんの父上の軍医殿は潤一さんの幼馴染みだけどね。
「来年になったら並川さんのとこや佐伯さんのとこも中学生になるよなぁ……逸そ塾でも開いた方が儲かるんじゃないだろうか」
「風ちゃんや八雲くんも来るのかねぇ?大人気だね、ここ」
「澄晴くんや穂人くんも今だにふらふら来るからな、時々……ここをなにかと勘違いしてる、絶対」
あの研究室のあの世代は本当に結束が強い。そういうのって、あんまり普通じゃないと犬のオレでも思う。
小松氏は晶に茶を出してもらいながら少し表情を改めた。
「……よかった。ちーさん、今日は大体平常運転」
「そうかね」
「昨日は酷かったからね。エポケも悪くないよ、うん」
京一郎氏のスケジュールに感謝だな。
「で、ちーさん、由利さんとどうするの?九条さんが全社にばらしちゃったようなものじゃん?」
熟迷惑な人だ。
「どうするも、俺金無いもんよ。主殿は貧乏甲斐性無しの俺を認めてはくれてるが、無い袖は振れないからな」
ぶすっと湯呑みを口に運んだ千尋を見て小松氏は少し笑った。
「特輸の女の先輩達は自分の結婚とかで色々苦労してきてるから、変な風に盛り上がらないでくれてるけどさ。心の内ではもうカウントダウン態勢だよ」
「勘弁してくれ……」
「その前に准将に挨拶してこなきゃなんないっか。函谷關より厳しいねぇ」
「准将はそんなに難しい人じゃない。俺の気持ちの問題。そうだな、安宅の関くらい」
「あははっ、白紙の勧進帳でも読み上げるの?」
「その前に、晶もなんとかしたいし」
いきなり矛先を振られてやっと席に腰を下ろした晶は目を白黒させる。
「所帯持ったら晶の区別のつかないのにいつまでも感けちゃいられねぇだろ」
しゅんと晶が下を向いたのを小松氏はまあまあ、と執り成した。
「それよりコマッチ、お前こそどうなんだ。昨日気になること言ってたな?秋津の中には興味のあるような女はいないって」
「うわ、憶えてた」
「裏返せば外にいるってことだろ」
「穿ち過ぎだよちーさん」
「さっき言ったろう。俺は余裕が無いからいきなり明日結婚しますご祝儀くださいって言われても出せねんだよ」
「そんなことしないよう」
小松氏は困ったように笑って逃げようとしている。
「前に堀切の姉さんのこと言ってたな」
それも憶えてるの、と小松氏は眉に困惑をのせる。
「環さん」
「可愛い人だったって言っただけじゃん……」
その照れ具合、どうにも読めないんだよなぁ。小松氏の文字通り切れ長と言うべきいつも笑っているような細い目はどうにも感情が読み取り難い。
「堀切も美人の部類だし、四姉妹っていうからきっと美人揃いだろうなって思っただけだよ」
うーん……なんか、それだけっていう感じでもない気がするんだよなぁ……小松氏は顔からは見えないがいつもより鼓動が少し速まっていて、見た目より汗をかいてる。犬を見縊んなよ。
「堀切か。最近会ったか?」
「環さんの引越のときにちらっと、以来会ってないかな?どうして?」
「いや」
晶が薮蛇にならないように目だけ回して千尋を見る。こら、小松氏は目は細いが視界は確保されてるんだぞ。
「ここ来て布団使ったって言ってたっけ……ま、まさかちーさん、二股なんかしてないよねぇっ?!」
「するか阿呆」
ぴしゃりと千尋は言って口を尖らせた。
「並川さんに絞め殺される」
小松氏は湯呑みを片手に握ったまま天井を見上げた。
「そういうことするかなぁ?爽やかに笑いながらプライドをぎたぎたにしてくれるんじゃない?」
どっちにしろ嫌なこった、と千尋は呟いて湯呑みを空ける。
「悩んでることがあったようでポルカと遊んでるうちにぼろっぼろ泣いて、主殿に慰められて泣き疲れたのを休ませたんだ」
小松氏はふうん、と軽い調子で相槌を打つ。千尋はどこか気に喰わなかったのか、微かに眉間を寄せていた。
「……彼女、頭いいし要領もいいからもうすっかり解決しちゃってるだろうね」
千尋は珍しく冷たい目つきになった。
「どうだろうな」
やっと水曜日になった。恒例水撒き、マクの散歩とトリックの練習を午前中に終えて昼飯は昨日残ったカレーとポテトサラダ。潤一さん、気を遣い過ぎ。
二人は感謝しながら全部食べ終え、皿を洗っていると玄関からこんにちはぁ、と声がした。
千尋が騒ぐオレ達を追うように玄関へ顔を出すと、そこには黒いランドセルを背負ってベルトを掴んでいる小学生が立っていた。
「フルミネート……」
早川雷汞くんが固い表情で千尋を見上げている。ランドセルが小さく見える早川家らしく整った顔の小学五年生。ランドセルが無ければ私服の中学生と言われても通るだろう。兄や母親と同じところに黶があるも、姉兄よりも強そうな強い癖毛。意思の強い眸。
「……こんな時間に、学校はどうした」
雷汞くんは片眉だけ器用に強く寄せた。
「今日は水曜。給食食べたらお終いだって」
「家にも帰らずにここへ来たのか?」
「母にはここへ行くと言ってきてあります。そういう心配なんかより、話があって来たんです」
強気に負けるような格好で千尋は雷汞くんを上げた。ダイニングに通すと晶が麦茶を出してやる。誰だっけ、と迷っているのはいつものことだ。雷汞くんもそんなことには慣れている。雷汞くんは態とランドセルの名札が見えるように横の椅子に置く。
「ありがとうございます。晶さん、ピンが取れそうですよ」
取れそうなのは確かだったが、雷汞くんは体よく晶を追い払って千尋を見据えた。
「先日は姉と兄が。」
「そういう話をしに来たんじゃねっだろ。前置きはいい」
「失礼承知ということですね。じゃあんまり家のこと、引っ掻き回さないでくんないですか」
言葉は丁寧を心がけているようだが、稍文法がおかしい。それだけ気持ちの方が先走ってる、ということかな?
「悪かった」
掻き回されたのはこっちだって、……言わないのは大人の大人たるところかな。雷汞くんはむすっと反駁した。
「簡単に謝っちゃわないでくれませんか。千尋さんだって迷惑がかかったでしょ」
「やな言い方しやがるな、フルミネート」
雷汞くんは鼻白んだ。
「雷酸水銀(Ⅱ)。雷銀でもアジ化鉛でもDDNPでもトリシネートでもテトラセンでも無い」
ちょっとぉ~……小学生にこういう物騒な物質名を列挙させるのやめてくんないかなぁ。雷汞くんが並べ立てたのは全部起爆薬である。雷汞、Hg(ONC)2、本人が言った通り雷酸水銀(Ⅱ)のことである。雷銀はAg3N 、窒化銀、アジ化銀、一窒化三銀ともいう。アジ化鉛はPb(N2)3、鉛アジドとも。DDNPはジアゾジニトロフェノールの略。C6H2N4O5、面倒臭い構造式は抜きだ。トリシネートはスチフニン酸鉛、2,4,6-トリニトロレソルシン鉛塩、C6HN3O8Pb。テトラセンはナフタセンのこと。2,3-ベンゾアントラセンともいう。C18H12、これも起爆薬に含める?
「……トリシネートやアジ化鉛だって充分有害だと思うが?」
雷汞くんは肩を竦めた。
「害の無い起爆薬なんかありませんて。でも俺は水銀。ノーベルが開発した最も初歩的で最も有害な起爆剤だよ」
なにが言いたい?
千尋はよく見る夏目漱石の肖像画のように半分そっくり返って肘をついたまま動かない。
「家の父は昼行灯だけど、とんでもなくなにもかも見越してるときがあるの、知ってるでしょう。焔硝ちゃんが硝酸カリウムだっていうのは言うまでも無いよね?」
KNO3。仄紅い紫の煙を上げる火薬。だから彼はガンパウダーと呼ばれてる。
「姉さんはボラックス……Na2B4O7の十水和物だろ」
Na2B4O5(OH)4・8H2O、硼砂は白い結晶だ。
「姉の名はね、ホーシャと読むんですよ」
「ホーシャ?」
「そ。葡語でROXA、薔薇色。風ちゃんのお家の人は姉のことを薔薇色薔薇色と呼ぶでしょう。あの人達はホーシャが赤紫の薔薇色だとご存知だから」
風ちゃんのお家の人……並川さんこと水間透織氏と奥さんの燐さん。燐さんは潤一さんの妹御だ。
千尋は赤紫、と呟いた。
「焔硝ちゃんは火薬で起爆剤の俺と繋がってる。でも、兄に雷酸水銀(Ⅱ)を振らず、俺に充てた。これはね、火薬と呼ばれながらも燃え難い硝酸カリウムであることに意味があるの」
雷汞くんは……まさか、知ってる?否、知っていたらこんな回りくどいことは言わないな。
「兄はね、焔硝ちゃんはね、駄目なの。問題を起こすのは、雷酸水銀(Ⅱ)の俺。飛び散る水銀で辺りを汚染することも織り込み済み。俺がばんばん騒がしくする。迷惑もかけまくる。でも焔硝ちゃんは不穏な名前を背負っているけど、ぎりぎりまで燃やさない。そういう役割なの」
千尋は夏目漱石ポーズのまま言った。
「雷汞……いや、雷汞は、それで納得しているのか」
雷汞くんは即答した。
「是非も無し」
千尋は漱石ポーズを崩さぬままにやりと笑った。
「信長が好きなのか。あまりピカレスク好みは感心しないな」
「信長が悪漢だとは思わないし、悪の道へ走ろうとは思ってないですよ」
「ガンパウダーも納得しているのか?」
「少なくとも、どういう意味が充てられてるかくらいは理解してる筈」
ずっと兄弟であれ……姉弟であれ、と期待されていたということじゃないの?
硼砂嬢と雷汞くんは名前が直接には繋がっていない。この二人は実の姉弟だから、無理矢理結束を求めなかったのかな。でも異分子である焔硝くんは薔薇色という色で硼砂嬢と、爆ぜる物質という共通点で雷汞くんと一生手を取り合っている。
焔硝くんは硼砂嬢の手を取るに慊らずぐいぐい掴んで、掴み合って、とうとう抱き締め合っちゃった感じだけれど……雷汞くんはそこに無頓着なのかな?
「千尋さんが変な風に焚き付けたとは思ってないよ。元々硼砂ちゃんと焔硝ちゃん、べったりなくらい仲いいし」
うわ、気づいてる。
「少し放っておいてやれよ」
「放っておいて、週末を過ぎたらこうなったんじゃん」
「で、俺がなにかしたんじゃないかってか」
「知らん顔なのは葵ちゃん……祖母だけで、なんか家の中がぎくしゃくしてる」
それはさぁ、今瑞樹先生と軍医先生が十四年前のツケを払ってるんだよ。うーん、まだ京一郎さんが帰ってきていない今雷汞くんにぺらぺら喋っちゃう訳にはいかないよなぁ。
「それで苦情を言いに来たのか。家族思いだな」
「千尋さんはしないですか、同じ立場だったら」
「フルミネート程頭が回るかどうかな。苦情を言うのに喧嘩腰で来るなよ。でもフルミネートの気持ちはよく解った。君の家の中が不穏になって収まらないことについては謝ろう。俺が謝っても仕方無いことではあるが、誰かが謝らなきゃなるまい。誰かの代わりだと思って聞いてくれ」
雷汞くんはぶすっとした顔に戻った。
「その言い方狡いでしょ。千尋さん、謝らなきゃなんない張本人を知ってるね?」
「馬ぁ鹿、知ってたってその尋ね方で知ってます誰それですって白状するかってぇの。聞け、フルミネート。今回のことはさっきも言った通り、放っておいてやれ。不穏なのはあと数日でなんとかなる。どう物事が転がっていくかは俺も見通しは立たないけれど、まだ放置する期間中だったってことだ。穏当に戻ったら、フルミネートはそれでいいのか?」
「本音を言えば、根本から解決したいけど、千尋さんのその言い方からすると生易しいことじゃないみたい。俺が手を突っ込んだってできることは嵩が知れてるから、放っておくしか無いよね」
この子本当に小学生?
千尋はやっと漱石ポーズをやめた。ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。
「軍医先生の真意はもうひとつ先があると俺は思うな」
「先?」
「爆薬の類いは即ち兵器って考えるのはさ、流石軍人一家故だ。けどな、ノーベルも兵器が作りたくて雷管を作り爆発物を開発した訳じゃないだろう。もう少し穏やかな使い方もあるんじゃね?別に他人に害を齎さなくったって、土煙だけでも他人の目は眩ませられる」
雷汞くんはふふふっと笑い出した。
「原始的戦略」
「悪かったな」
「電波欺瞞紙を撒くのは現代戦でもやることです。空でも、海でも」
「やだね、軍事オタク」
横を向いて千尋は煙を捨てるように吐く。
「いちゃもんというか、言いがかりというか、難癖をつけたことについてはすみませんでした。軽率でした」
「おいおい、フルミネート、それは小学生の謝り方じゃねぇって」
「うわーんごめんなさぁいって号泣するの、もう似合う外見じゃないのは充分わかってるから」
「小聡明いな。詫び代わりにそこのマク……シェルティと少し遊んでいけ。あのコはおいでお座りお手おかわりまでしか教えてないからな」
千尋はマク用のおやつを持ってきて手渡した。
「そしたら送ってやる。あまり無鉄砲なことするなよ、フルミネート」
雷汞くんはよく心に留めておきます、と変な風に大人っぽく答え、千尋にそんなに急いで子供をやめるなと諌められていた。
後部座席足下に置かれた圧力鍋が気になるらしくマクは頻りに助手席から後ろを覗く。オレも気にならない訳じゃないんだが、圧力鍋は確り締められちょっとやそっとじゃ開きはしないから、無駄な努力はしない。紙袋にすっぽり入れられた寸胴型の圧力鍋の中身は牛テールスープ。瑞樹先生の力作である。
……一日中家にいる強みってやつかな。彼女は決して料理上手とは言えないんだけど、自衛官をしていた経験からか、最低限食べられるもの、食べ難いものでもそこそこ美味しく食べる工夫、少し男性的にパワーを求める食事を作ることには長けている。未だにすき焼きとか作らせると醤油からぶちこんじゃうのはご愛敬。雷汞くんを送っていったら瑞樹先生は気前よくテールスープを鍋ごとくれた。鍋は返せよな、と冗談っぽく笑いながら。千尋は早川医院に由利夕医師がいないことに少し安堵しながらありがたく鍋をもらって帰途に就いている途中。
そんなに気になるなら後部座席にしてもらえばよかったじゃん、マク。
車の挙動に慣れさせる為に連れてきて乗せたのだけれど、一応マクはお預りしているお客さまなのでいつもオレにするようにぽいっと車のなかに放り込むだけという訳にはいかない。往路は雷汞くんがいたから後部座席に、復路は訓練を兼ねて助手席。胴輪を着け、確りシートに固定されている。犬を車に乗せるなら、運転手の為にも犬の為にも本当は後部座席の方が望ましい。けれど、マクのお家のシエンタはベビーシートが設置されていて、それは運転席の真後ろで、間違いなくその隣にはママが座るだろう。マクが一緒に連れ出してもらえたら、空いている席は助手席しかない。
マクはきょろっきょろ外を見たり鍋を気にしたり千尋を見たりと少々落ち着かない。
「マク……落ち着きの無い犬は連れ出してもらえないぞ?」
それは嫌、とマクは身を縮め込ませる。
「赤ん坊も一年経てば立って歩く。ふかふかの芝生のある公園に遊びにいこう!ってとき、マクは留守番じゃつまんなかろ?外は燦々と明るいのに、マクだけ薄暗いお家でお留守番。皆きゃっきゃ嬉しそうに出かけていくのにさ。嫌だろう?広い芝生に連れていかれてもドッグランとして開放されてなきゃ走り回るのは厳禁なところも多い。でも、家に閉じ込められるよりいいよな。マクの妹か弟かが昼寝の時間に突入するまではちょっと我慢だ。シェルティのこの姿に求められるのは落ち着き。公園では家族をじっと見守って、最悪危険が迫ってたりしたら助けにいく以外辛抱できることが理想だ。難しいよなあ」
千尋は信号が赤の間に一気に言って青に変わるやシフトレバーを入れ替えてシルビアのアクセルを踏む。
マクはじっと千尋を見ている。車が走っている間は多分なにも言わないぞ?オレは胴輪では固定されていないが、座席で転がるのも嫌なのでシートに確り顎をつけて姿勢を低くしている。千尋がオレに胴輪を着けない主な理由は面倒臭いからだが、その面倒のなかにオレ達ヨーキーの毛質に因るところがある。ヨーキーの毛って細くてふわふわしたアンダーコートしかないから、服を着せたり胴輪を着けたりすると摩擦で一発で毛玉になる。特に肩のところはフェルト化し易くて、あっという間に羽根でも生えたようになってしまう。いや本当、冗談じゃなくあの毛玉を翼に空でも飛べるんじゃないかと常々思うね。だから千尋はオレに言い含めて胴輪や首輪を着けない。車に乗せていってやるけれど、迷子札ついてないから絶対に車から飛び出すな、急制動をかけるかもしれないから車のなかでうろうろすな……最近は暗黙の了解事項になっている。ここら辺は習い性であり、互いの信頼というやつだ。
また信号に引っ掛かったのは国立に入る少し手前だった。
「シェルティはなんでそこまで辛抱を求められるのか。多分な、日本人は誤解してるんだ……毛が長くて優美に見えるから、悠然とした性格なんだって。牧羊犬としてきびきび働く映像なんかもちょくちょく目にするから、やれと言われたらはいと二つ返事でできちゃうんじゃないかって。あれは訓練の賜物なのになぁ?本当は毎日牧場を目一杯走り回って、羊や他の家畜をわんわん追い立てて、そういうの、子犬の頃からリーダー犬と犬使いの牧童に鍛え上げられてそうなれるのに。でも、期待された分くらい応えたいよな。だからマク、いい姉ちゃんになろう。シェルティの幸せとはひと味違うかもしれないが、国立で暮らすマク、として幸せになれるよ」
……言っただけでわかるのかって?わかるわけ無いじゃん。オレ達犬よ?人間の言語が完璧に理解できてたら疾っくに完全なコミュニケーションを図っとるわい。言葉そのものがわかる部分もある。でも、大半はその態度だ。千尋は適当に生きているが、患畜としてやって来た動物には真剣だ。否、自分にはあまり頑張らないが、千尋を頼ったり慕ってくるものに対して、人間だろうと犬だろうと本人の自覚以上に心血を注いじゃう。
マクに伝わるのはそういうところだ。
マクはやる気充分だ。お迎えにきた飼主にマクを選んでよかったって、言ってもらえるといいな。
「うふふっ、いいときに来ちゃった♪」
ご機嫌なのは小松氏である。って貴方、ここ連日夕飯食いに寄ってるじゃないの。兄弟が寂しく豪華なテールスープを啜るよりいいけど……なんだろ、この腑に落ちない感じ。
「マクの訓練、進捗見えてる?」
「まあまあってとこだな。さっき車入れるとき助手席に座らせておいたんだが、ぴーぴー鳴り始めるともう遠吠え態勢だな。一度中立に入れて仕切り直さないと、なんともね」
流石に毎晩手ぶらというのも気が引けたとみえて、小松氏は缶ビールを持参していた。今日はIPA。この人酒だったらなんでもいいの?
マクはテーブルから少し離れたマットの上で狸寝入りしている。耳がくりくり動いているのがその証拠だ。
「仕切り直しでなんとかなるとこまできてるんだ?ちーさん、流石だね」
獣医の職分を越えてるけどな。これは訓練士の仕事だよ。
「週末にはマクを帰らせてやりたいんだ。それまでに少なくとも後退警告音を無視できるようにならないと」
「焦ってるんだ?」
「こういうのはさ、もっとじっくり時間をかけてやるべきなんだ……でも家庭には赤ん坊がいて、マクは一歳で基本を叩き込むのは時間的にぎりぎりなんだよ。マクのいない時間が延びるとあの家でのマクの居場所が無くなる。それでなくてもマクは謙虚な性格だし」
「謙虚なの?」
「もっと我儘でもおかしくはない。ごみ漁りや籐を囓ったりなんてのは往々にしてあり得るのに、マクはしない。置いていかないでくれって主張するだけだ。健気だろ?」
確かに、と頷いて小松氏は一緒に出された麦飯をスープに入れた。
「このスープ、誰作?」
千尋は仕様も無いやつ、と溜息を洩らしながら言った。
「それ旨いのわかるけど、瑞樹先生の前でやるなよ」
「あぁ、だからスープが白濁してるのか」
小夜子さんや潤一さんが作ると逐一見張ってあくを小まめに掬いそうだもんね。瑞樹先生のようにどばーっのがーっのでタイマーかけて怒濤の如く作るのとは違う。白濁してるのは圧力鍋で蓋をして煮込んだからだよ。いろんなものが乳化して溶け込んでる。
「肉が骨からするっと外れるのすら快感だね!あぁ、キムチ買ってくればよかったな」
「それも瑞樹先生の前でやるな」
「瑞樹先生ならそういう食い方も旨そうだって言いそうだけれど?」
「だから余計にやるなって言ってるの。あの人、元自衛官だけあって変な風にサバイバル能力高いから、ちょっとしたことで旨くなる、とかみたいの教えると変な風に吸収しちゃうんだよ。そういうことは軍医先生に任せておけ」
小松氏はくすっと肩を竦めた。
「あの昼行灯先生、ねぇ。ふふ、なんだっけ、五十キロの崖道をミラー三つで振り返らずに下りきったんだっけ?」
「空爆受けながら、な」
昼行灯呼ばわりされてる早川彬尭軍医大佐だけれど、妙な経歴の持ち主で、高校を早くに卒業して自衛官になりPKFに軍曹として派兵され、退官して医学部に通ったという。PKFの最中、ジープで崖道を下るにあたり、後退で五十キロ、上から爆撃もあって体を捻らずサイドミラーとバックミラーだけで下りきったのだという武勇伝を残している。それは同乗者の的確なナビあっての賜だと彼は懐述するが、ナビに絶対の信頼が無ければできない話なのだから、充分誇るに値すると思うね。
「瑞樹先生、鍋ごとスープをくれるだなんて、どうしちゃったの?」
「くれたかったからだろ」
迷惑料ってとこかなぁ。じゃなきゃ、お詫び。
「こんな栄養満点の手のかかった旨いスープ、家族にこそ食べさせたいんじゃない?」
「瑞樹先生には瑞樹先生の考えがある」
小松氏は千尋からはなにも出てこないと諦めたのか、切り口を変えた。
「瑞樹先生も今だに薮とか呼ばれてるよねぇ」
「薮結構。……そう呼ぶのは夕先生だけだよ」
夕先生とは主殿嬢のご母堂のことである。早川医院にお勤めだ。
「瑞樹先生はそう見せかけているだけだ。元来器用だし、誰より頭がいい。齷齪働かなくったって医院は維持していける。憖腕がいいと忙しくなるし責任も重くなる。そういうところをよく心得てるんだろ」
状況は上村動物病院と似ている。うちの動物病院が流行らないのは千尋と晶が未熟なだけだ。先代のとき流行っていたかというと……そこら辺は、まぁ。動物病院の看板をあげている以上春の狂犬病予防接種の委託が回ってきたりなんて小遣い稼ぎもなくはないが。
やっぱね、基本動物診療が好きなんだよね。モンスターペアレントならぬモンスター飼主もなんだかんだいて結構いて、千尋の学生同期で獣医師として勤めたり開業したりしている何割かは鬱になったりこの仕事に見切りをつけたりして公務員になっちゃったり製薬会社に再就職してたりするのを聞くと、実家が開業していたからという基盤があって負担が少なかったからかもしれないけれど、千尋は頑張っている方だと思う。とはいえ、まだ獣医師三年生だけど。動物看護師も雇わず兄弟だけでなんとかやっていけているのは、偏に幸運と二人の資質にあるとオレは思っているよ。だから千尋があまり焦らないように踏ん張っているのを見ると、もっと流行らせたいなぁと思うと同時に現状をどうか維持できますようにと願っていたりもする。犬の願いだよ。
瑞樹先生もこんな気持ちがよくわかっていて、その上で早川家が迷惑をかけたと、それで元気づけようとスープをくれたのだと思うな。
……それにしてもいい匂いするなぁ。う、う、ずっと言わないようにしてたけど、オレだってそれほしい。拷問だよ。マクも真も、ブリまでもテーブルの下に陣取って、誰か粗忽な輩が天からの恵みを齎さないだろうかと期待満々だ。いや、目が爛々としていると言っても過言ではない。
二本目のIPAのプルを引きながら小松氏は辟易気味に言った。
「このテーブル、犬猫の目力で浮かび上がりそう」
「ははっ、匂いだけでコラーゲンだのアミノ酸だのたっぷり含んでそうだもんなぁ。ごめんなぁ、葱だの生姜だの使ってあるんだろうし塩気も強いからやれないよ」
千尋は小松氏にではなくオレ達犬猫に謝った。謝る相手が違うんでないかい。
「ねぇ、ちーさん。瑞樹先生にこんな素敵なスープをもらう程、なにを苦しんでるの」
「悩んじゃねぇよ」
「そぅお?」
優しい口調の小松氏だが潤一さんに見込まれるだけあって洞察力はピカイチだ。その上千尋のぐだぐだなのも尊重してくれている。無理に訊き出そうと言う腹づもりではないようだった。スープの具を丁寧に箸で摘まみ上げながら坦々と言った。
「ちーさんはちーさん、自分のことだけでいいんだよ。ね、晶くん」
晶は黙って頷く。頷くしか無いよなぁ、千尋のいない場所に就職でもしてたら他人の顔の判別かつかない重圧に圧し潰されていたことだろうから。何気なく振る舞っているけど、晶はそういうの、とっても痛感してると思うよ。その為に千尋は晶の卒業が確定するまで大学の動物病院に勤めていたのだし、そういう気遣いと有難味をわかっているから、この実入りの少ない動物病院で一生懸命働いている。
千尋はふん、と鼻を鳴らした。笑っているのに泣きそうだ。
「馬ぁ鹿、俺は好きなようにやってらぃ」
ぱきゃ、と音を立てて千尋も今日二本目のIPAの封を切っていた。
早川さん家の構成。
早川秀真…故人。葵の夫。医師だった
早川葵 …京一郎と瑞樹の母
早川京一郎 …ASDF少将、瑞樹の兄
早川瑞樹 …女医、通称薮
早川彬尭 …GSDF軍医、通称昼行灯、早川家婿。旧姓鷹村
早川硼砂 …瑞樹と彬尭の長女
早川焔硝 …瑞樹と彬尭の長男
早川雷汞 …瑞樹と彬尭の次男
同じ名字が羅列されると戸惑いますよね。秀真さんこそ亡くなっていますが、家族は全員同居です。軍人二人は幸い地方に飛ばされることもなく…出張は多いようですが。