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11.羊腸の小徑

 日曜も開けている上村動物病院は朝からそこそこの客足が途切れずにあった。小型犬の肛門腺を搾ってくれとか、爪を切ってくれとかの小銭にしかならないようなことから、予防接種、無駄吠えするから声帯を切ってくれとかいうトンデモ相談……それは躾の問題だろう。

「犬と人間との関係が出来上がっていないからマクちゃんは吠えるんですよ。まだ一歳になったばかりですし……」

 丁寧に犬と向き合えば吠えないよう仕向けることはできる。よく説明をして毎日散歩するよう諭す。渋る飼主をどうにかこうにか説得して、手術より安く上がるからとうちで預かることにした。飼い主に置いていかれたシェルティのマクは淋しそうだ。

「……ったく、シェルティなんて運動量の必要な犬飼うなよ……羊の群れをぐるぐる囲い込むのが仕事なのになぁ、マク?」

 玄関に気配がするのを知らせてやると千尋は玄関に顔を出した。

「主殿」

「おはよ、千尋。今日も仕事だろうけど、ここにいてもいい?」

 いいに決まってるじゃん!な!千尋!

 晶が顔を出して言った。

「マクの散歩、行ってきたら?少し疲れさせないとトレーニング、きっついだろ」

 オレも行きたい!抱っこでもいいから!主殿嬢に抱っこをせがむと彼女は嬉しそうに抱き上げてくれた。

「わかった。主殿、結構歩くからその靴じゃきついぞ」

 千尋の健康サンダルを借りながら彼女は言った。

「……お散歩用にナースサンダルでもあった方がいいかしら」

「運動靴の方がいいと思うが?」

「邪魔になるわ」

 鈍ちんめ!頻繁には来れないし、仕事の全面的お手伝いはできないけども一緒に外を歩きたいからサンダル置いてっていいかって訊いてるんだよ!序でに明らかな女物で存在感を示したいんだ!

「好きなようにしたらいい。家の靴箱はがら空きだから」

 オレのジト目に気づいたのか千尋はやっとそう言った。主殿嬢は早速買ってきちゃお、と笑って千尋と外に出た。リードをつけてもらったマクは嬉しそうだ。リードを握っているのとは逆の腕にそっと主殿嬢が手を伸ばすと、千尋は腕を少し緩めてやった。主殿嬢が嬉しそうに腕を絡め、千尋を見上げる。

「……なんか、今更だけど、今までごめん」

 そうだよね~ここは謝っとかないとだよな~。

「いいの。千尋とやっと恋人になったって感じ♡」

「……申し訳無い」

 やることやって自分のものだって、絶対誰にも渡したくないってぐずぐず思っていながら、外部に全く表明しないできたっておかしいよね。心の広い優しい彼女に感謝しろよ。

 昨日の硼砂嬢に見せた偽りのいい人っぷりとは打って代わって千尋は肩の力が抜けて楽しげだ。なんていうの?幸せそう、がやっぱり正解?意図しない他愛ない会話。やっぱりこの人が好きなんだって、どっちからもそういうにおいがする。もう結婚してって言っちゃえば?……ってそう簡単にはいかないっか。

 公園に着くとひと休みしてマクは水をもらう。

「綺麗なコね」

「これはね、飼主さんがしてくれたんじゃない。プロの仕事だよ」

「トリマーさん?」

「そう。人間と関わる機会が多いからとても懐こいけど、もっと構ってほしいんだ……マク、お座りはできるかい?お座り」

 人差し指でお尻の方を指すハンドサインを出してやるも、マクはきょとんと首を捻るばかり。

「ほらね……普通、犬を飼い始めると犬が犬であることが面白くてお座りお手お代わり伏せくらいまでは一気に教えてしまうものなんだ。けれど、このコは散歩も足りてないし基本も教えてもらっていない。主殿が来る直前に喧しく吠えるから声帯切ってくれって連れてこられたんだ」

 ベンチに腰かけてオレを抱いていた主殿嬢の手がオレをきゅっと締めつけた。ちょっと苦しい。

「そんな風なのにこの明るい性格と人間に対する信頼性で、ほら、こんなに素直でいいコ。マク?色々教えてやるから、飼主さんにもっと可愛がってもらえるようになろうな」

 マクはふっさふっさと尻尾を振って期待に満ち満ちている。なにか教えてくれるの?って目が綺羅綺羅。なんでこんなに可愛い性格のマクが放置状態なのかなぁ。

「マク?今日憶えるのは散歩だよ。この綱、散歩用のリード。これをつけると外に出られるんだ。お前専用のを用意してやるよ。飼主さんに渡しておくから、行こうって誘ってごらん?おっと、わんとか言うんじゃないぜ。リードには金具がついてるから、啣えて持ってきて、目の前に落とせば分かってくれる。タイミングを見極めるのも大事だ。暇そうで退屈そうなときを狙うんだぜ」

 主殿嬢はこういう千尋が好きなんだな、目を細めて嬉しそう。綺麗に揃えられた膝下が眩しい。

「いいかい、飼主さんの左にくっついて歩くんだ。前に出るなよ、危ないだろう?外には気になるものがいっぱいあるかもしれないが、そんなのは後回しだ。飼主さんの方が面白い。マクは飼主さんを見てくれ。目が合ったらこっちのもんだ。尻尾でも振ればめろめろさ。歩いてみようか。ゴー」

 マクを左につけて千尋はベンチからぐるっと公園の縁を回る。マクは従順に尻尾を振りながら千尋を見つつ歩く。リードを手繰ってあるから、離れず歩いている。戻ってきたときには舌を出していた。

「マクちゃん、お散歩上手♡」

「主殿、代わってくれないか。誰でも上手く歩けるようになれた方がいい」

 それがいい。オレはベンチの座面に降りてお座りで待機。リードの持ち方を簡単にレクチャしてマクは彼女と同じコースを歩いてみる。マク?そんな綺麗なお姉さんと歩けるって、光栄なことなんだぜ?微笑みかけてくれる主殿嬢をマクが程好いテンションを保って見詰め返して歩く姿は楽しそうだ。

「マクに妬きそうだ」

 馬ぁ鹿。十年もうじうじしてっからだ。

 ベンチまで戻ってきた主殿嬢からリードを受け取り、マクを撫でてやる。

「近所を少し歩いてから病院に戻ろうか。マクは確か三丁目だったよな……」

 主殿嬢はオレを抱っこし直して千尋に寄り添う。千尋はマクの家の方をぐるっと回って帰るつもりのようだ。なんで放置されてるのか、わかるかもしれない。公園を出ると車通りの少ない道を選んで歩く。それでも道には行き交う人はいて、ケーシー姿の千尋に挨拶して行く人もいる。人と行き違う度に千尋はリードに少しだけ力を伝えて、マクに害意が無いから平静を保つように無言の指示を出す。

「マクはお利口ね」

「俺のところに来てから一度も吠えてないんだよな、マク……お前、なにに家ではわんわん言ってるんだ?」

 角を折れて住宅街を歩くと、黄緑のシエンタの目立つ一軒の家が近づいてきた。あの家か。車が置きっ放しということは家人は在宅。玄関にベビーカー。洗濯物が干してある……バスタオルに隠れるようにワイシャツ、Tシャツ、ベビー用ロンパース。ふむ。

 エクステリアの植物は季節の手入れの要る草花ではなく、植えっ放しで問題の無い青木や蛇の髭。少し見えたな、千尋。

 無言で通り過ぎ、病院へ戻る。あと百メートルくらいになったところで呟くように言った。

「マクを飼い始めたら子供ができて、マクは後回しにされたって感じだったな。合ってるか、マク?」

 車は新しかった。ベビーシートも取りつけてあった。でも犬が乗るような仕様にはなってない。家族で出掛けるとき、マクは多分置いてけ堀なんだろうな。ん、それは仕方無いと思うよ。犬はお留守番、務めだ。でもマクだって甘えたいお歳頃なんだよ。

 マクの鼻がきゅうと鳴る寸前だった。

「ごめんな、淋しがらせるつもりじゃ無かったんだ。もう少し赤ちゃんが大きくなったらマクも構ってもらえるよ。一年くらい我慢だ。時々病院に預けてもらって、遊んでいくといい。赤ちゃんは女の子?男の子?マクはお姉ちゃんとして頑張ってたんだな」

 褒められたマクは嬉しそうだ。

 戻って直ぐリードを片づけ、オレ達は水をもらう。マクの肢を洗って病気でもなんでもないから家のなかを自由にさせてやる。幸いトイレの躾は出来てるマクは室内のルールを概ね理解し、真やブリとも仲好くできそうだ。

 湯を沸かしにかかった千尋の横で主殿嬢は急須を出して言った。

「千尋の動物とのお喋り、健在ね」

「喋ってねぇよ、あれは俺の独り言」

 それでもいいわ、と主殿嬢は湯呑みと急須をダイニングテーブルに運ぶ。千尋は湯を沸ききる前に火を止めて薬罐を持ち上げた。そのときだった。外でピーっピーっピーっと車の後退警告音バックブザーがしたと思うや、ぴくっとマクが耳を立ていきなりわおぉぉおん!と吠え始めたのだ。

「どうした、マク」

 マクはさっきまでの落ち着きはどこへやら、待ってぇ!置いてかないでぇ!と吠え捲っている。落ち着き無く右往左往しながら天井に向かって吠えて叫んでいる。真がどうしたものかとオレを見、同調して吠えようとするのをオレは止めた。後退警告音バックブザーが止んでエンジンの音もしなくなった。どこかで車庫入れが終わったのだろう。マクは耳を下げ、しょんぼりと項垂れてしまった。千尋は薬罐を五徳に戻すとマクの前に膝をついた。

「マク。マクは家族が車で出かけるとき、いっつも留守番なのか」

 きゅうんととうとう鼻が鳴る。そら淋しいわ。

「もし連れていってもらっても、車でお留守番だろ?」

 ……そうか。車の後退警告音バックブザーはマクにとって聞きたくない音なんだ。一緒に出かけても、駐車場に駐めるのに後退バックで入ったら、置いてけ堀。頭から突っ込んで駐めてあるシエンタが出発するときも後退警告音バックブザーと共に出て、マクは置いてけ堀。そんな音、聞きたくないわな。置いてかないでぇ!待ってぇ!って言う訳だ。

心的外傷トラウマか……こりゃ難しい問題だな」

心的外傷トラウマ……」

「可愛がられている犬は分離不安といって長時間独りにされると飼主はもう帰ってこないんじゃないだろうかって早合点してしまうのさ。飼主の可愛がり方にも問題がある。犬の留守番は四時間が限界とかいう説もあるにはあるが、元々眠りの浅い動物だから寧ろ家人が誰もいなくなることで深い睡眠時間に充てることができていいという利点もある。マクは初っ端の留守番が長かったとか、留守番のとき家族がすまなさそうにしてるのとか、過敏に感じ取ってしまったのだろうな……」

 合ってるってよ。マクは子供のいない若い夫婦が子供代わりに飼い始めたのが契機。ところが同時に奥さんが妊娠しちゃって今まで日中可愛い可愛いとべったり過ごしてきたのがある日突然奥さん半日帰ってこなくなる。大方妊婦検診だとかに出かけてたんだろう。なんで連れてってくれないの?マクは疑問でいっぱい。段々周辺がばたばたして、ある夜奥さんは苦しみ出して、ピーピー鳴る音と共に一週間帰ってこなくなっちゃって。日中ご亭主は仕事でいないし、病院に寄ってくるからだろう、帰りも遅い。マクに餌だけ出してぱっと寝てぱっとまた出勤。軈て奥さんが帰ってきて出産だったことは理解したマクだったけど、赤ちゃんが可愛いなと寄ってゆくと無下に追い払われ、今までマクのいた位置は占領されっ放し。それでもマクは焼き餅も妬かずじっと待ってた。けれども被毛の手入れに手間のかかるシェルティだけに赤ちゃんの散歩程優先されず、また連れていけない場所も多くなってしまってすっかり軟禁状態になってしまった。車で出かけてゆくときは後退警告音バックブザーをBGMに見送り、偶に連れ出されても後退警告音バックブザーに慌てた後車に置き去り……置いてかないでよう!なんて悲痛な叫びくらい許容してくれたっていいじゃんなぁ。

 ん?迷惑なのはわかってるって?家は住宅密集地だし?うんうん。マクが自分を抑えきれないと、折角寝てる赤ちゃんを起こしてしまうから?くぅ~っ、マク、お前いい犬だなぁ。なんなのその忠犬ぶり。お前の飼主、お前の声帯切ってくれとか言い出してたんだぞ?え?それも悩んだ結果だって?うーん、それで許容しちゃうのか?お前本当に犬にしとくの勿体無いなぁ。

「ポル?」

「ポルちゃんがどうかしたの?」

「ポルカが妙な顔してる気がして」

 うおっと。顔に出ないのが犬の特性なのに、やらしいね~表情なんか読み取りやがって。気の所為かななんて言ってるが、オレは信じないぞ。

「分離不安になると自傷行為やごみを散らかしたり家具を壊したりとかをすることもあるんだが、そういうのはマクはしないみたいだな。ただ淋しい気持ちを吠えてわかってもらおうとするだけならなんとかできるかもな。マク。留守番はお前に恃まれた大事な仕事だ。仕事のやり方は簡単だ。家族が安心して出かけられるように笑って送り出すことと、留守の間はよく寝ること、帰ってきたとき嬉しそうに迎えること。おやつでもあったら気楽にできそうだと思わないか?」

 普段通りにせよ、というのは言葉にするのは簡単だが、家族に囲まれてほんわかすることが日常のマクにとって、家族がいなくなることは異常事態だ。だから新たなミッションとして別の視点で捉えた方がいい。

 主殿嬢が言葉で言ってわかるのかしらと不安げな顔だ。ん、案外わかるものだよ。後は慣れだ、慣れ。

 マクは性格も優しいしのんびり気質で家族が好き。シェルティだっていう犬種の特性と併せれば指示と共にできるようになる筈。うん、方針は決まったな。千尋はマク用にシエンタと同じ色のリードと転がすとおやつがひとつずつ出てくるトリートボールを出してきて、マクに見せた。

「これはマク専用。リードはここにかけておくな。トリートボールはいいかい?こうやって転がすと、ほら、おやつが出る。やってみ。出てきたら食べていい」

 やってみせるとマクはおやつにつられてトリートボールで遊び始めた。転がすと出てくるというのも面白いよね、あれ。

 千尋はマクをそのままにして薬罐に再び火を入れ、茶を淹れる。次の行動に犬には減り張りをつけずに無駄なスイッチを作らない。分離不安解消の第一歩だ。暫く静かに茶を飲んでいるとトリートボールのおやつが無くなったらしくマクはトリートボールを啣えて千尋のところへ持ってきた。

「よくわかってるなあ、マク。おやつはこれでお仕舞い。ポルカや真と遊んでおいで。ブリと遊んでもいいよ」

 よし!遊ぶか!騒がしくならないように気をつけような!


 今日の千尋は頑張っている。頑張っていることすら片鱗も見せていない。本人、忘れたことにしてなにも考えずに過ごしているのかもしれない。それだって大変な努力だ。昨晩潤一さんから聞かされた話を千尋は晶にも話さなかった。無論主殿嬢にもである。居合わせて聞いてしまったのはオレだけ。ブリは千尋の布団でぐうすか寝ていたし、真は玄関の上がり框で忠犬よろしく完全に待ちの態勢だった。ドアを隔てていたから、通話をしていることは聞こえていただろうが、内容は聞き取れていない。

「なぁ主殿」

「ん?なぁに?」

「……やっぱいい」

 だよなぁ。そう簡単に訊いちゃ駄目だよなぁ。

「また千尋、なにか溜め込んでるの」

「溜め込むだなんて」

「私に言いたいことがあるなら早く言って?十年越しの告白とか、嫌」

 千尋は薄く笑った。

「ん?主殿が好きなのはもう揺るがないぞ?それとも毎日言ってほしいのかい」

 珍しく主殿嬢がばっと真っ赤になった。

「も……勿論言ってほしい……」

「はははっ。主殿もそういう顔するんだなぁ。大したことじゃない、主殿と早く結婚してしまえって潤一さんに言われたんだ」

「け……結婚?なんで事業部長イチさんに?」

「秘密」

 主殿嬢は飛び出してきたキーワードに更に頬を赤らめつつも、少し沈んだ調子になった。

「……私……会社でお荷物なのかなぁ」

「お荷物?」

「お父さんがGSDFの准将だからコネで入れてもらったんじゃないかなって、今でも思っちゃう。最初は受付嬢だったし、特輸でも現場には出ないし」

「秋津運輸の受付って渉外部なんだろ。腰掛けだと思って雇われてる訳じゃないと思うが」

「でも、雅さんみたいに美術品搬送リーダーとかなれそうにない」

 雅さんというのは特殊品事業部の女性リーダーで、城山じょうやま雅課長補佐。仏像だとか絵画だとかの輸送のリーダーを担っている。主殿嬢と同じく受付嬢に当初配属されて、特輸に移ってからは永らく後方支援を務めていた。

「ご主人が部長代理だとかそういうのは関係ないと思うぞ?」

 ご主人は同じく特殊品事業部にお勤めだが、殆ど一緒に仕事をすることもないという。潤一さんの片腕だ。

「主殿はまだどういう仕事をしたいのか固まっていないんだろ?潤一さんは別に結婚退職しろっていう意味で俺を唆したんじゃない」

「じゃ、なんで?」

 そ……それは。

 千尋はにやりと笑った。

「三十になっちゃうよって」

「うわーん、おばさんになっちゃうってこと?」

「綺麗なうちにドレスを着せてやりなさいって」

 ドレス、と聞いて益々主殿嬢は赤くなった。頭の上に今薬罐を載せたら瞬間的に湯が沸きそうだ。

「でもさ、俺大学出て仕事始めてからまだ三年なんだよ。親父が動物病院をやっててくれてたから、昔のお客さんとか近所の人とかにある程度の知名度があって頼りにしてくれるけどさ……食ってくのがやっとっていうの?寧ろ主殿の方が稼いでいるだろう。かといって、この病院の規模じゃあんまり手を広げるのも危険だし……そういうの見越して発破をかけてくれたんだと思うんだよ」

 千尋はあの人は三十六まで結婚しなかった癖にねぇ、と更に笑う。

「主殿、どうしたい?」

「どうしたいって……」

「俺と、結婚してくれる気、ある?」

 口を尖らせて当り前でしょ、と呟く。

「国立から汐留まで通うのは大変だろう」

「雅さんだって小平から通ってるわ」

「ここ、動物臭いぞ」

「随分においなんかなくなったわ。千尋、頑張ってくれたんでしょ」

 うん、それは凄く頑張ってる。俺が太鼓判を捺す。

「あとは准将がうんと言ってくれるだけか……」

「なんでお父さんが出てくるのよ」

「あのなぁ、男にとってそこが一番のハードルなのっ」

「千尋はお父さんの肩書きにびびり過ぎよ」

「いやびびるだろう。准将ブリガディアなんてそうそう就けるポストじゃないぜ。隼人さんも帯刀さんもまだ独身だし」

「兄さん達は、放っておいていいのよ。帯刀たて兄さんはお馬鹿だから女の子と上手に付き合えないし」

「あれだけ顔のいい人が上手く付き合えない訳ないだろ。主殿が知らないだけだ」

「そうかなぁ」

「貯金とかあんまり無いし、正直大したことができそうにない。でも准将の一人娘ってなりゃ、それなりの式は挙げなきゃなんないだろうし」

「千尋、そんなこと考えてたんだ」

 潤一さんに言われたことはちょっと違うけどね。千尋の結婚資金能力の低さは事実だし、そういうところで足踏みするであろうことは常に脳裡にはあったのは確かだ。

「今日明日の話でもないし、また改めて……ちゃんとする。今の話は……なんていうか、世間話だと思ってくれ」

 頭をがりがりと掻いて千尋はすまなさそうに言った。

「千尋って馬鹿ね。これで済し崩しに言ったことにしちゃう人、結構いると思うわよ」

「俺にだって格好ぐらいつけさせてくれ。主殿が嬉し泣きしながら同意してくれるのが夢なんだ」

 可愛い夢ね、と主殿嬢は指先を軽く千尋の頬に当てた。


 主殿嬢に夕飯を作ってもらい、晶は缶ビール二本でご機嫌で眠ってしまった。晶も晶で気を遣っているんだよ、わかってあげなよ、千尋。彼女は朝ここから出勤するつもりでいたようで、存分に千尋といちゃいちゃして夢中で抱き合って、互いに裸のまま暖め合って眠りについてしまった。

 ん?ぎこぎこいうベッドの上でなにがあったか明確に描写しろって?いやいやいやいや、オレそこまで出歯亀じゃないって。それにマクもこの部屋に寝床をもらっている。オレが率先して知らんぷりを決め込まなきゃマクが眠れないだろう。

 家の外で救急車のサイレンが聞こえる。派出所が近いから、救急車の音が聞こえるのは仕方無いんだ。オレは耳だけくるくる回しながら狸寝入り。犬の睡眠は千尋が指摘した通り浅い。顎を地面につけて眠るのは地面を移動する外敵の立てる僅かな振動を顎で察知する為。マクが淋しがりなのは集団生活をする犬特有の性質。その上働き者なシェルティ……シェトランド・シープドッグ。牧羊犬のマクはいつも声をかけられて走ってこい!って言われたいんだ。この国立の、乳児のいる世帯じゃ、合わないよなぁ……半分だけ起きている脳でそんなことを考えていたら、ふとベッドの上で千尋が目を覚ましたのに気がついた。身動きしないで目だけ開けて千尋の動きだけ目で追う……常夜灯の僅かな灯りですうすう寝息を立てている主殿嬢の頬をそっと撫でて暫く見詰めていたが、軈てその灯りも消して布団をかけ直して包まり、無言のまま眠ってしまった。


 前肢、伸び〜っ。爪の先まで力を入れないとねっ。後肢、んにににっ、伸びっ。尻尾の先まで確り気合いを入れるよ。オレはベッドの端に前肢をかけると主殿嬢の耳許でふすふすと鼻息を立ててやった。

「うぅん……ポルちゃん?」

 主殿嬢、その甲斐性無し共々晶より早く起きてひとっ風呂浴びてこなくていいのかい?今日は月曜日だよ?

「ポルちゃん眠いわ……」

 おやおや主殿嬢、意外と寝穢い。これは千尋の方を起こさなきゃ駄目か。ベッドの足の方へ回り込んで跳び乗ると、千尋の顔をべろべろべろ。起きろよ、彼女を誘って風呂ヘ行け。

「んだよ、ポルカ……まだ早い……あ。主殿。そうだな、ありがとうよ。主殿、主殿、朝だよ、起きな。会社行くんだろう」

「ん……千尋ぉ……」

 主殿嬢は腕を伸ばして千尋の首に回した。

「主殿?それ嬉しいけど朝。風呂。晶が起きちゃうだろ」

 主殿嬢は千尋の首を引き寄せ、寝惚けている癖に唇を強引に合わせさせた。力はあるのにそれに抗えずキスにのめり込む千尋が情けない。でも仕方無いか。愛しくて堪らない女が積極的に求めてきて、それが裸で、またその姿がこれ以上無いくらい綺麗で扇情的ときてるんだもの。人間は一年中発情期。殖えるわけだよね~。

 それでも一応千尋には知性というか理性というかは残っていたようで、キスをたっぷり味わいつつも片手で主殿嬢をシーツで包み、片手でパンツだけ穿いた。とろんとなってまた眠るか千尋の欲望に巻き込まれるかを期待しているような主殿嬢をシーツごと担ぎ上げると肩に負って部屋を出る。

「ちひ……」

「しいっ。晶が起きる。そんなにしたかったの?」

 主殿嬢は千尋に担ぎ上げられ、半分逆さまにされながらも言った。

「……かも」

「あっはっはっ、じゃあ今日も泊まってくか?准将怒るだろうなあ」

「お母さんの方が怒りそう」

「そうなの?」

 階段をゆっくり降りる千尋の背中にそっと掴まる。

「お母さんは……本当は京一郎さんのことも好きだったみたい。できることなら、お父さんと京一郎さん、二人と同時に結婚したかったって、半分冗談みたいに言ってたの、子供の頃聞いたことある」

「無秩序だな」

「お父さんも……お母さんが二人いたらなって思ってた感じ。お母さんを京一郎さんと浮気させる気なんか微塵もないけど、お母さんもそんな気ないけど、いっつも二番目に好きな人は京一郎さん。もしお父さんが急死したら直ぐ彼と再婚しろってなんか三人で約束してたみたいだし……なんだろ。よくわかんないや」

 それは潤一さんに聞かされたな。あの超絶に格好いい早川京一郎氏がとうとう独身のまま五十を過ぎたのは親友由利和成氏と由利夕夫人との深くて重い感情故だということを。

「千尋と結婚したいって言ったら賛成はしてくれるだろうけど、気軽に出来ちゃった婚とか、いい顔しなさそう」

「ふふっ、参ったな。俺、全然避妊してね」

 脱衣場で主殿嬢を降ろして千尋は苦笑いした。

「それは私も確信犯だよ。千尋が四の五の言っても子供を楯に結婚してって言おうかと思ったこともあるもん」

 もう浴室に入るんだから声は低めろな。響くぞ。

 オレは足拭きの上でぺたんと伏せになると、顎を床に落とした。シャワーの水音の向こうから二人の声が漏れ聞こえてくる。

 ……でも千尋がちゃんと結婚のこと考えてくれてるなら。

 ……子供産むなら早い方がいい。

 ……出来ちゃったら、一緒に怒られてね。

 ここっから先のくだりはもういいや。風呂場でいちゃいちゃも程々にな。朝の時間は限られてるぞ。


 最低限の着替えを用意してきていた主殿嬢は朝食後自宅に戻ること無く千尋のシルビアで汐留まで送られた。襟の立ったケーシーに白いパンツ、一応仕事を抜け出してきました的にジャケットを羽織ってはいるものの、なにやら怪しい医療関係者、の千尋とまたしても熱いキスでおわかれ。ここ、秋津運輸の人、結構通ってるんだけどなぁ、そんな風に思っているとエンジンをかけ直したシルビアの窓がこんこんとノックされた。誰だ、とウィンドウを降ろすと見たこともない四十絡みの……どわっぷ!なにこの凄いにおい!

 千尋も気づいたらしく小さく眉を顰めたが、多分この人物は日常的にこのにおいを放っているのだろう、彼と対峙した人がこの反応を示すことに多分無頓着だ。

「なんでしょうか」

「君、由利さんを乗せてきた?」

 オレは鼻が曲がりそうなのを我慢してこの人物の風体に目を走らせる……ベージュのスーツ。黒地にショッキングピンクの変な模様のネクタイ。硬く糊のつけられているワイシャツ。変なパーマ。天然かな?背広のポケットから秋津運輸のロゴの入った身分証のストラップが見えている。色からするに、AISのものらしい……秋津の正社員さんじゃないのかな?

「ええ、乗せてきました。失礼ですがどちらさまでしょうか」

 彼は千尋の問いには答えず、重ねて問うてきた。

「お医者さん?」

 よく考えてみれば失礼極まりない人物なのだが、秋津運輸の関係者ならば下手な印象は以ての外だ。千尋は警戒心を抱きつつも怪訝でありながらも好青年らしさを保つ素直そうな表情をキープしている。内心顔がぴくぴく引き攣ってるんだろうなぁ。

「獣医をしております」

 獣医だと言ったぞ。この肩書は吉と出るのか?凶と出るのか?

 獣医という職業を咀嚼して一言なにか言いたそうな彼が口を開いたとき、彼の胸で携帯が鳴った。彼は妙な柄のネクタイを避けて携帯を取り出すと耳に当てた。

「はい九条……は?お、おはようございます桜庭部長……あ、いえ!……いいいいいえそんなつもりは!……わっ、わっかりましたぁっ行きますっ行きますっ!」

 ぷ。

 犬の耳を嘗めんなよ。携帯から聞こえてきたのは、こう。『おはようございます。特輸桜庭です。君、今どこにいるんですか。あぁ、答えなくていいですよ、僕には見えています。ミントグリーンのシルビアの横ですね。話している相手の獣医師は僕にとって弟同然ですし、うちの篠原くんのお宅のわんちゃん達のかかりつけの先生でもあります。彼が君になにかしましたか。それとも彼がなにか気に入らないのですか。彼がなにか不手際をしたというのなら仕方ありませんが、ただ気に入らないというならば、僕に対する侮辱同然です。……時に、もうあと数分で九時になりますよ。いつまで油を売っている気です。遅刻は査定に響きますよ。君がAIS出向からシステム部へ戻るのは、未だ未だ先になりそうですねぇ』

 あたふたと通話を切って彼、九条と名乗った男は千尋に非礼を詫びることもなくそそくさと立ち去っていった。千尋は車から降りると秋津運輸の社屋を見上げた。遮熱高断熱複層硝子に朝日が当たって、十二階の様子なんか見えやしない。視力の悪いオレには到底見える距離でもないけどさ。でも、想像はつく。十二階の特輸の人達は面白がって窓辺に群がりこっちを見おろしてるんだろうな。鷹のように目のいい鳩村さんなんか下手するとオレまで見えてるんじゃないの。千尋は眩しげに掌を翳してふっと口許を緩めた。

「手でも振っとくか」

 千尋は翳した手を振り上げると、天空に向かって大きく左右に振った。惑わすようなことを言ってしまいましたからね、千尋くん、という潤一さんの声がした気がした。

箱根八里、ご存知ですか。

ピョンコ節の唱歌です。滝廉太郎、歌い易い歌を作りますよね〜。でも歌詞は案外難しくて漢詩だとか当時の状勢とか知らないとちんぷんかんぷんで、結構必死で調べたことがあります。

ウネウネ長い千尋の往く道はどこまで繋がってるんでしょうねぇ。途中で盲腸、違った、虫垂炎みたいになっちゃったりして。その前に苔で滑るか。


生物学・化学・工学に詳しい方にとって、本文中用語遣いがおかしいと思われる部分が多いかと思います。特に漢字表記を用いている部分については、現在の科学の常識に逆らって敢えてそうしています。動植物の和名は片仮名表記が基本なのですが、そして工学用語はできる限り漢字を使うようにしているのは、態とです。牧野富太郎なんかは漢字そのものは外来語で、本場中国での意味と日本での意味が異なることなど強く指摘していますが、ここは日本ですし、科学文献ではないので…というのと、現代ではない世界ということで。もしかしたら未来は自国の文化をもっと偏重する世界だったらいいなぁという希望、でもあります。色々なご意見はあるとは思いますが。ご意見、よかったらお寄せください。

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