1.ようこそ上村動物病院へ
台所から頻りに音がする。匂いからして晶が朝食を作っているのだろう。オレは寝床を出て伸びをした。ちょっと目線を上げると、安物のパイプベッド。全く、人間ってやつは階下であれだけ盛大にやってるってのに、わぁ、今ステンレスの空のボウルが落ちたぞ!だのに、オレの飼い主ときたらまぁだ夢の中、なんて感覚が鈍いんだろうか。
オレの名はポルカ。犬だよ。背は艶々とした黒い毛皮で顔は茶色、ピンと立った耳、小さな体。人間はオレのタイプを“ヨークシャーテリア”と呼び、一部の人間は矢鱈と有難がる血統書なる系図を作ってオレ達の出自の証としているらしい。市役所がくれる鑑札で充分じゃんかねぇ。オレにとってもどうでもいいことだが、オレの飼い主(と、人間と犬の世間一般ではこう言う)である上村千尋もそんなことはどうでもいいらしく、オレのことを単に“ポルカ”と呼ぶ。最近略称化されて“ポル”とか“ポー”、酷くなると“ポ”一字だけになったりすることがあるが、オレは状況によってはこれらの名称で呼ばれた際は返事をしないことにしている。
兎に角、オレの名はポルカ。視点が床に近過ぎるのがやや欠点気味のヨークシャーテリアだ。
飼い主の上村千尋は獣医で、この上村動物病院の二代目院長である。……なぁんて言ってみると物々しいが、上村動物病院の獣医は千尋を含めてたったの二人しかいない。付け加えておくと、彼ら二人以外に従業員は皆無であり、院長は掃除夫兼電話番兼経理係兼その他雑務係をもう一人の獣医と共にやっている。
そのもう一人の獣医は千尋の弟、晶。今、台所で朝飯を作っているやつのことだ。
千尋は二十七歳独身、晶は二十五歳矢張り同じく独身。
因みに、この家は男所帯である。飼い犬でさえもが雄。どういうわけだか、主婦がいない。上村兄弟の婚期が遅れているか否かについてのオレのコメントは控えさせていただくが、主婦不在のこの事実は兎に角不便を招いている。
掃除。
洗濯。
炊事。
これら基本事項三点が千尋と晶の野郎二人で賄われている。尤も千尋は物臭で不器用で要領が悪い上に怠け者なので、分担以上はやらないのだが。
ここでちょっと失礼して、オレはトイレへ行く。オレのトイレは人間のトイレと洗面所の前の廊下にある。
……スッキリ。
と思ったら、首に農協のタオルを掛けた千尋がいきなり洗面所から出てきてオレを踏みそうになった。
うわぁぁぁ。
「ごめんごめん、ポルカ。お前ちっこいから視界に入んなくてさ。危なく踏んじゃうとこだったねぇ」
それが獣医の吐く科白かよ。千尋には悪気はないので良心の呵責というものもある筈も無く、大して気にもせず寝起きのままぼさぼさ頭をばりぼり掻きながらサンダルを突っ掛け外へ出ていった。
千尋の無神経さに腹を立てていてもなにかがどうなるわけでもなく、非生産的である。オレは台所へ行く。台所では案の定晶が朝飯を作っていて、晶の飼い犬でシェパード犬の仔犬、真が朝飯をぱくついていた。あっ、真!幾ら育ち盛りだからってオレさまの分まで食うんじゃねぇ!
オレ達が朝食にありついていると、千尋が朝刊を片手に戻ってきた。
「悪い、ポル。ちょっと退いてくれ」
はいはい。晶は器用に五枚の皿を持ってテーブルに並べる。ちゃっかり着席していた千尋が皿の中身を見て思いきり嫌そうな顔をした。
「また今朝も目玉焼き……」
千尋はそう言いつつ新聞を傍らに置き、煙草を一本咥えた。右手がテーブルの上でライターを探して彷徨っている。煙草を咥えてからライターを探す。彼はそういう男である。
「文句言うなら自分で作れよ。ライターなら新聞の下」
新聞の下にもぞもぞと千尋の手が入り込んでライターを探り当てた。小さな炎が点いて、紫煙を上げ始める。これがまた煙いんだ。
「食べ飽きてるよ。けどねえ、俺の料理の腕前はこの程度なの。目玉焼きすらできない兄貴は黙って食えばいいのっ」
「そんなことはない」
千尋は煙草の灰を灰皿に落としながら言った。
「目玉にならないだけだ」
威張って言えたことかね。要するに料理がド下手ってことじゃないか。
『鳥の目』という言葉がある。鳥瞰的と言った方が解りいいかもしれない。第三者的に高く離れた位置から見る、という意味だから、下から見る『犬の目』では大した判断材料にはならないかもしれない。それでもオレの見る限り、千尋も晶も抜け作だが、人間的欠失があるが故に嫁の来手が無いのではないと思う。容姿からいくと、二目と見られぬ凶悪な顔であるとか目鼻口が揃っていないとか、そういうわけではない。晶は少々八重歯だがそれも愛嬌ってやつで、二人共優しげな中の上から上の中くらい、言うなれば『そこそこいい線いってる』であろう。
世に言う『三高』の条件も満たしていなくもない。
背丈も低くない。寧ろ高い方だ。
獣医だから、学歴も低くない。ま、高い方だ。
高収入は……ちょっと駄目かな。でも贅沢を望まなければ収入は安定している。或いは二人の尻を叩いてもっと馬車馬のように働かせればいい。こいつらはさぼっているだけだ。
二人共、白衣の似合う好青年である。……ただ、この兄弟、髪型に少々無頓着なのか、両方共髪が長い。長いといったって、アフガンハウンドのようにでれ~んと長いのは晶だけで、千尋は日本人男性としては長い方の為後頭部にオレ達ヨークシャーテリアの尾のようなちょんちょこりんを結んでいる程度である。オレには欠陥とは思えないのだが、世の中の女性諸姉がこれを理由にするならば、貴女達の価値観がオカシイのではないかとオレは問いたい。
兎もあれ、兄弟は毎日と同じ朝食を済ませ、病院で預かっている動物達に飯をくれる。その間に食器を洗うのは千尋である。超面倒臭がりで怠慢なことにかけてはピカいちの千尋が、である。実はこれには経緯がある。オレが千尋に貰われたての頃、つまりオレがまだ全身真っ黒でぽしゃぽしゃの毛だった仔犬の頃のことだが、炊事にかけてはずぶずぶの素人だったらしい千尋は流し台に使った食器を溜め込めるだけ溜め込んでしまったことがあった。記憶は定かでないが、一週間分くらいだったろうか。夏だったこともあり、汚れ物が腐って異臭を放ち、黴と蝿の大発生を招き、そして遂には皿の山は大崩落、何枚かを割ってしまった。現在流しの前から焜炉の前まで長いマットが敷いてあるが、それを捲ればそのときの皿で凹んだ痕がある筈である。床板の損害にとどまらず、大いに汚し、床の大掃除をする羽目になった挙げ句、皿の破片で怪我、流血に及ぶという大惨事。爾来、食器洗いだけはマメに進んでやるようになったのである。彼が小金を持っていたら、手を煩わせない文明の利器の購入も検討したかもしれないが、それは分不相応というものだろう。嫁をもらってから考えればいいとオレは思っている。
一方、晶はカルテを整理したり患畜の様子を見たりしている。千尋は薬棚の整理整頓と欠品の補充、診察台の消毒。ここら辺からやっと彼らは獣医らしい活動を始める。
九時、診察開始。
だが客が直ぐ来るわけじゃない。平日の午前中なんて動物病院が閑古鳥なのは当たり前。人間はオマケでオレ達ペットを“飼っている”わけで、自分の為に忙しい。ペットの身分から言わせてもらうならば、人間が忙しいのは大いに結構なことで、そうやって齷齪稼いでもらわねばオレ達ペットは明日の餌にもありつけぬ。だから働け人間、なぁんて思っちゃったりする。しかしそれは世間普通な飼い主様に対する一般論。オレの飼い主には適用できない。
「暇だなぁ、もう少し宣伝とかした方がいいのかねぇ、兄貴……兄貴!?」
晶は雑誌を閉じて辺りを見回したが、オレの飼い主の姿はなかった。それもその筈、千尋はなんの為に白衣を着たのやら、庭に出て鉢植えに水をやっている。
「ン?客か?晶」
「あーのーなーッ」
暢気に五葉松にホースの口を向けている千尋を見て晶は少々呆れたらしい。ファイト、晶っ。いつものことじゃないか。
前述の通り、千尋は基本的に物臭太郎なのである。しなくていいことは極力しない。やりたいことだけする。不精ここに極まれり、のいい見本である。誰も来ない診察室で無言で弟と面を突き合わせているくらいなら盆栽の灌水の方がいいと思ったのだろう。のほほ~んと皐に水を遣りつつ、尤もらしく言った。
「そういう怖い顔するなよ晶。俺達は接客業。微笑みを絶やさない♡だから彼女ができないんだぞう」
「兄貴に言われたくない」
お互い様だと思うよ。晶は全く女のオの字にさえとんと縁がなく、千尋といえば……そのとき真がピンと耳を立てて振り返った。ム、玄関に人の気配。
誰だろう。
オレ達は競うように甲高く吠えながら玄関まで走っていった。
ニオイからして客だな。
「ほれ、お待ちかねの客だぜ晶」
「俺ばっか働かせるなよ」
オレと真が喧しく吠えながら出迎えた客は先週も来たデブ……ととと、いやいや、実に恰幅のよろしいオバサマであった。一週間前の夕方、閉める間際に自分の猫が餌を喰わんとかなんとか言って千尋を散々困らせ抜いて預けていった、まあまあブルジョワジーな近辺のオバハンだ。あ違う、オバサマ。そう、オバサマ。千尋の所見では猫はなんともなくて……敢えて謂うなら今は満腹で寧ろ食べ過ぎて、且つ肥満……千尋は大丈夫ですよと太鼓判を押したのに、オバハ、違うってオバサマ、オバサマはそれでも頑として連れて帰ろうとはしなかったのだ。この強烈なニオイ……化粧品だよな、うぉう鼻が曲がりそうだが肥満気味の猫さんよ、あんたはこのニオイ、なんともないのかい?猫に話が通じるのならそう尋ねてみたいところだと思いつつも、オバサマが表に路駐してるアウディの後部座席に大きなヴィトンがあるのを見りゃ、オレでなくともぴんとくる。仮病に託つけて獣医に世話をさせようって魂胆なんだ。こういうのって預けるっていわないよ、押しつけるってのが正解だよ、そう思うよ、オレは。千尋もそう思ったらしくって、少々悪意を含んだ診断を下したのだった。
『預かってほしいのだが素直にそう言えない病』と。勿論、病気なのはオバサマの方である。預けたいのなら、獣医も商売、ちゃーんと預かってくれる。当然、入院より低額で。健康管理だってするし、運動だってさせる。サービスだって重要な収入源だからね。だが千尋は彼女のような病気持ちが大嫌いなのである。
「いや待て晶。俺が出る」
こんなときの千尋は実に愉しそうである。のっそり待合室の扉を開けて猫の飼い主を呼んだ。
「山平さん、どうぞ中へ」
動物の場合、人間と違って公的健康保険がないので、獣医に思いがけない金額を請求されて青くなる人もいる。予防接種だけでも馬鹿にならない金額だが、オレ達動物が何故飼われる立場に甘んじているのか、というところをよく考えてみれば納得いく筈である。人間の保護欲やら一方的な愛情欲を満たす代わりに保険の利かない家族がいると思ってほしいものだ。世の中持ちつ持たれつなのである。金を払うのが嫌なら動物を飼うべきではない。殊にそれがブルジョワジーならば。
オバサマはまだ玄関の三和土に立ったままである。それも仁王立ち。千尋が猫をハイドウゾと渡してくれるのを今か今かと待っている。
「山平さん?実はですねえ、ご説明したいことがあるんですよう」
この病気持ち達の魂胆は読めている。自分の動物がなんとも無いのを熟知している。動物だけ受け取ってそそくさと帰りたい。仕方無いから餌代くらいなら払おうかしらね、とか思っている。
……しかし物臭の癖に千尋はそういう輩を容赦しない。
「いっやーダイエットって大変ですよねえ!頑張りましたよ、ミーヤちゃん!褒めてあげてください!さぁ鍛え抜かれた彼女をご覧になって差し上げてください!」
堪らえ性に欠ける晶は自分の口を両手で塞いで二階に走って避難していった。晶ぁ、目が笑ってるよぉ。
晶を抱腹絶倒させる原因となったのは、あの山平とかいう『預かってほしいのに素直にそう言えない病』のオバサマである。
オレ、笑えない顔でよかった。じゃなかったらオレもきっと吹き出して爆笑していただろうから。千尋は不平顔のオバサマを診察室に呼び、延々となにがなんだかわからない話をしているのである。段々とオバサマの仏頂面が募ってゆくのにも、お構い無し。猫の餌のことに始まり、猫の病気殊に肥満が原因となる代謝系の病について述べ続け、……云々。話はミーヤちゃんに関わることをきっちり織り込み、漫ろになることを許さない。話はあっちへ跳びこっちへ跳び、果ては栄養バランスにまで話は及び、終いに猫の適切な運動量について一席ぶった後、代金の計上を始めた。
「予防注射はなさってなかったようでしたので、入院の都合上最初に致しました。あ、今年は風邪が流行るそうですよ、射っておきますか?」
オバサマは冗談じゃないとばかりに激しく首を振るった。
「それと入院費ですね。今回ミーヤちゃんはダイエット入院ですから、お預かりより割高になってしまいました。ええ、ミーヤちゃん、確りダイエットできましたよ。当初の体重がこれです。現在はこれ。体脂肪率も下がってます。心臓への負担も軽くなりました。一年くらい維持できれば長生きできますよ。飼い主さんがご旅行の間にダイエットって合理的ですね!お預かりでもきちんと運動させてあげますからご心配は要りませんよ。あ、診察費は込みです」
症状を有耶無耶にしておいてこの科白である。千尋には悪徳商人の才があるに違いない。そして猫を代金と引き換えに渡して、最後に極めつけ、駄目押しのこの一言。
「またご旅行の際はどうぞ♡ミーヤちゃん、肥っちゃ駄目だよ~♡」
不承不承紙幣を出した財布を慌てて仕舞うと、オバサマは猫のケージを抱えて逃げるように帰っていった。
「兄貴……ちょっちやりすぎじゃないの?」
そんなオバサマの後ろ姿を、やっと降りてきた晶が見て言う。
「なにおぅ。ちゃんと予防接種もしたし、一週間入院の心算で預かってやったぞ。十ポイント近く体脂肪率も下げた。普通に運動時間をとって食餌管理して、それだけだけどなっ♡」
「そりゃ詐欺じゃね?」
「そうかな」
「すれすれだ」
千尋は真顔で晶を暫く見詰め、言った。
「……バレなきゃいいよ」
玄関先で大声で討論会を開いていれば、隠し通せるものも自ずとバレるに決まっている。千尋はオレを抱き上げて眉間を撫でた。
「俺、今度生まれてくるときはポルみたいなお座敷犬がいいなあ。これ程安穏とした暮らしは他にないぜぇ」
期待する程安穏でもないぞ。
「ハイハイ、兄貴は来世はお座敷暮らし。なっ、真」
真は困ったように尻尾を振っただけ。多分意味、わかってない。当たり前か。真はまだまだ仔犬だもん。
十一時半を過ぎると千尋はそわそわし始める。まるで排泄したくなってきた真のようである。
「またレトルト?俺もう親子丼は飽きたよ」
晶はそう言うが、それについては他でもない彼ら自身の責任である。彼らの貧乏性はきっと買い置きレトルトのなかから今日も最も安いものを選択させるに違いない。約三十分後、というわけでこの兄弟の昼のメニューは今日も親子丼。世の中総じてこともなし。
テレビを点けて今日は料理番組を見ている。彼らは昼メロか時代劇、料理番組か洋画と決まっている。疑問なのは料理番組を見て意義があるのだろうかということだ。分量をメモるわけでもない。コツとか言われても基本のなってない二人には無意味だ。オレは不思議でならない。
「あれ旨そうだなあ。晶作ってくれよ」
「兄貴作ってくれよ」
これだもんなあ。
「潤一さん作りに来てくんねえかなー」
潤一さん、というのは千尋の悪友の姉の旦那だ。千尋にとって数少ない兄のような存在である。この人については話すと長い。今日のところは割愛させてもらう。
「無理っしょ。あの人秋津運輸の事業部長でしょうが。シナバーとボラックス、最近来ないね」
シナバーとは北條辰砂、ボラックスとは早川硼砂というお嬢さん方だ。潤一さんの同級生のお嬢さんで、彼女ら二人は再従姉妹同士。こんなむっさいところへ何故遊びにくるのか理解不能な美少女達だ。
「来るわけねえだろ。あいつらやっと受験が終わって新学期始まったばっかだ。大学に慣れるだけで手一杯だろうさ」
あ、大学生になったのかぁ。
「粒さんか主殿さんが来てくれたらなあ……」
「堀切と由利がなんでここに来るんだよ。つかなんであいつらをお前が名前で呼んでんだ」
「なんで兄貴があの美人二人と縁があるのかの方が不思議だねっ。我が校の奇跡の至宝と言わしめたあの二人……」
堀切粒と由利主殿は千尋の高校時代の同級生だ。二人共飛びきりの美人だが、由利嬢の方が飛び抜けて麗しい。ん?こう考えてみると千尋の周りには案外女がいるではないか。それも極上級の綺麗な人ばかり。誰かに嫁に来てもらえよ。
「へっ、由利も堀切もおっそろしいんだ。それに仕事がある。こんなところで油を売ってる暇なんかあるか、ボケ」
由利嬢も堀切嬢も優しい品のいいお嬢さんだったとオレは思うけどなあ。千尋にはどうおそろしいのだろう。そんなにおそろしい思いをさせているようには見えなかった二人の女性を思い出しながらオレは床に顎をつけた。
さて閑古鳥と貧乏神が同居するこの病院には客が来ないので、暇を持て余す千尋は大して働きもせず、小説なぞ読んでいるうちに毎度の如く、午後のシエスタに突入する。シエスタと片仮名で書くと如何にも素敵な活動のようだが、実は単なる昼寝である。……嫁の来ない理由のひとつがこれでないことを祈りたい。折角性格が円満でも、顔がちょいとばかりよろしくても、このだらしのない寝顔では百年の恋も一遍で冷めるというものだ。デスクに就いていても専門書や雑誌を読んでいるうちにいつもこの昼寝に入ってしまう。デスクに突っ伏して寝てしまう場合もあるが、今日は椅子の背凭れに寄りかかりあんぐりと開けた口を天井に向けて鼾をかいている。組んだ腕の指先から今にも文庫本が落ちそうだ。本が降ってくる前にオレは避難することにする。
ばさっ!
ほーらねっ、やっぱり降ってきた。でも千尋はぐうすか寝ている。二、三歩後退して後肢に力を溜める。え、い、しょっと、千尋の膝の上に乗ってオレも少々昼寝に付き合うとしよう……。
千尋の昼寝は約一時間強で終わる。
「……う……」
おっ。目を覚ますかな。もう三時半じゃん。おい起きろっ。
「わしっ」
「うっせえよー、ポルカぁ……」
あのなーっ、もう一度寝るなあっ!
「うぅ~」
阿呆な寝顔に戻るなぁっ!絶対ぇ起す。
舐めてやる。
べろん。
「ひゃはぁ!」
べろんっ。
「擽ってぇよ、冷てぇよぉ、鼻つけるなポルカ。……お、もう三時半かぁ。晶ぁ、茶ぁ飲むかぁ?」
すると階上から、一週間ぶっ続けでジグソーパズルの大作にのめり込んでる晶の返事が返ってきた。
「戸棚にねぇ、煎餅あるよー」
「ちっ、俺が淹れるのか。ふわわわわ」
横着な。昨日は晶に淹れてもらったろ。その軽い欠伸はやめろよ。台所へ行き、湯を沸かす。棚に煎餅があると言われたのに何故か千尋は冷蔵庫をかき回している。
「なにやってんの兄貴」
階下に降りてきた晶が戸棚から取り出しつつ言った。千尋はまだかき回している。
「たーしかここら辺に残ってた気がするんだよな……あったあった、ありました。ふはははは」
子供っぽい笑い方でくるりと振り向く。
「じゃじゃあん。羊羮見いっけ」
「……ねぇ兄貴、それってお中元の……」
賞味期限、過ぎてるんじゃない?千尋は宝物を拾ってきた仔犬のような目をしている。得意満面というところか。
「晶も食べる?」
オレと真は牛乳をもらった。ウフフ、これ旨いよね。腹下すってあまりもらえないけど。
四時を回る頃にはちらほら客も現れて、一応兄弟も仕事らしきものをこなすことになる。飼い犬が雲脂症であるとか、猫の咳が止まらないとかのちんまりした切実ながらかわいい病気ばかりだが、時折骨折だ流血だ寄生虫だ伝染病だなんていう、如何にも獣医らしい仕事も巡ってくるのでこの仕事手も気も抜けない。
今帰ったのは、兎とその飼い主。前歯が伸び過ぎてしまったので削ってもらいに来たそうな。
「俺いっつも思うんだけど、獣医ってなあんでもアリだよね」
「はぁ?今頃なに言ってんの晶」
「人医なら人間オンリーじゃん。けどさぁ獣医って両生類から哺乳類までなんでもござれ、じゃん」
千尋は首にかけていた聴診器をデスクに置いた。
「魚類も、昆虫も、だよ」
「うそーん」
「嘘じゃないよ。俺、金魚診てくれって言われたことあるもん」
オレもその話は知っている。確かあのとき、千尋は病名とかわかんないもんだから早々に病院を閉めて図書館へ走り本屋を巡り、観賞魚の専門店を幾つか回って薬を何種類か買ってきたのだ。その薬、大して使った訳じゃないからまだ結構残っている筈だよ。
……何故オレがこうも執念深く憶えているのかって?
まだ真っ黒な仔犬だったから、車に不馴れで、その上周章てている千尋の運転は雑だった。趣味でマニュアル車になんか乗るのやめてほしい。我慢に我慢を重ね、帰りついて降りた途端げろげろげろ~っと戻してしまった。吐き出せたのは胃液ばかりで喉は痛いし口は酸っぱ苦いし頭はぐらぐら足はよろよろ。オレの吐瀉物を片づけながら、げんなりしているオレに千尋はこう笑いくさった。
「ほう、車酔い。車のなかで吐かなかったのは素晴らしい。偉い偉い」
なに暢気なこと言ってんだよ今にも死にそうなんだぞと散々な気分で思ったのだが、のほほん顔の千尋が指先でオレの額を撫でるものだから、怒りはどこかへすっ飛んでいってしまった。本棚の魚関連の本はそんな千尋の指先を思い出させる。
晶はまだ学生だったから、知らないのだ。
「中学生のときにさ、言われたんだ。牛の直腸に腕を肩まで突っ込めるのか、アルパカに嫌われない自信はあるか、甲虫は越冬できるか、蛇を掴めるか、野鳥を見つけられるか……獣医に多大な期待を寄せているんだとな」
晶は熱帯魚の本と文鳥の本を出して捲りながら目を丸くした。
「アルパカ?誰、そんなこと言ったの」
「落合さん。ってお前会ったことあったっけ?」
「喋ったことはない……かな?」
落合さんってのは潤一さんの同級生。潤一さん関連は話が長くなる。割愛。落合さんの欲張りな獣医像を追うのもいいけどさ、千尋、そのパワーを生活の気合にも振り向けてよ。洗濯物を取り込む気になったらしい千尋の背中にオレは常にそういう念を送っているが、如何な改善はない。まあ、犬の一念は通じるまで相当の時間がかかることは覚悟してるよ。洗濯物を晶に押しつけて千尋は夕飯当番で台所に立つ。
米飯。
葱の味噌汁。
南瓜の煮物。
鯵の塩焼き。
菠薐草のお浸し。
沢庵。
このくらいなら千尋でもなんとかなる。千尋はレトルト止まりでないことは彼の名誉のためにはっきりさせておこう。沢庵や葱が切りきれてなくて繋がっているのはご愛嬌だとしてほしい。いずれ俎の真ん中か凹んでいることに気づくだろう。一応人間の食べるものには仕上がっている。完成度が低いのは気合いのなさということだ。
六時、受付終了。六時半で診察終了。そしてお泊まり動物達の晩飯タイム。亀やら猫やら犬やら犬やら犬やら。今日は鰐とかいなくてよかった。なによりかにより、まず餌の買い出しに走らなくてはならないのは晶だ。その晶は一匹一匹に話しかけながら飯をくれる。
「ウラン、骨のくっつき具合どう?」「クリスティーヌ、洟止まったらじゃん」「ようマイキー、あれ?太ってきた?」
晶って不思議な特技があるんだ。同じ種類の動物が十匹いたら、全部見分けられる。例えば、同じ年齢同じ月齢同じ性別同じ犬種同じ色の犬が十頭いたとする。ぱっと見よく似ていて見分けづらい十頭を晶は一頭一頭ちゃんと見分け、個を認める。人間同士だって人種が違うと見分けがつかないことも多いらしいように、人間からは犬種を見分けるのが精一杯のところを晶は難なく犬の個体を見分けるのだ。犬だけではない。猫然り、鶏然り、牛然り、羊然り。これって殆ど視覚に頼ってる人間同士なら尚更難しいことだと思う。ただ、残念なことに晶のこの特異な能力は動物相手にしか発揮されず、彼の対人関係には全く機能しないものらしい。興味のないものには発揮されぬというのが特技の特技たる所以だろう。気の毒な晶の独身貴族事情である。オレの憐憫の視線など晶は全く気づかないまま全部の動物に目を配るとケージ室の電気を消した。取り敢えず病院業務は終了だ。夜通し見守らなくちゃならない患畜はいない。
「晶、夕飯」
台所へいくとオレ達の飯も用意してあった。それと新しい水。おや、今日の飯はいつものと違うなぁ。
「ポルカ、真、今日の飯は試供品にってもらったやつなんだ。新製品なんだってよ。旨い?」
どれどれ。はむはむ。んー、むぐむぐ。んー。
「真は尻尾振ってるぞ」
「真の口には合ったんだな。ポルはどうだ?」
んー。うーん。
「ポルさん?首捻ってます?」
千尋は鷹揚に笑った。
「大して旨くもなく不味くもなし、まあまあ無難、ってとこか。そうかな?ポル?」
ん。ま、そんなとこ。
「そうらしいぞ。さて俺達も飯にしようぜ、晶」
テレビは洋画を垂れ流している。この時間帯は洋画かニュースである。ニュースを見てはいるがあまり意味がないように思う。世界が破滅したらしたで千尋はどうにか食い繋いでいきそうだ。
当の千尋はその映画にのめり込んでいるのかと思いきや、携帯の画面を睨んでいた。千尋にメールがくるなんて珍しいな。そして返事をどうしようか迷っているらしい。軈て短い文章をなんとか捻り出したらしく、送信してほうっと息を小さく吐き出した。やっと真がとろんと眠たそうなことに気づく。
「眠いなら真、ちゃんとハウスで寝ろよ」
真は大丈夫、と頷いた。真は晶が風呂から出てくるのを待っているのである。流石はシェパード、自らに課した戒律には仔犬の頃から厳しい。
「風呂空いたよ」
「おうポル、来い」
はーい。晶に朝頭に結んだリボンつきゴムを取ってもらって風呂場へゆく。オレの風呂頻度は低い。三日に一度でも多い方。風呂が嫌いというわけではないんだ。面倒なのは人間の方。風呂場の戸の磨り硝子をがりがりと引っ掻くと、千尋が開けてくれる。シャワーのぬるま湯をかぶっていると、千尋に洗面器でざばーと湯をかけられた。
「顔出しな。また目脂が出てるなぁ。目に毛が入ってんの?」
そうだよ。
「そうか、そうだな。ちょっと目を瞑っていろよ」
頭の天辺と背中にひやりとした液体がかけられた。多分シャンプーだろう。液が垂れてしまわないように千尋はわしゃわしゃかき回して泡を立てた。この泡ってのがヒゲにくっつくってのは、凄く変な気分になる。口を開けて振るい落としたい気持ちにさせられる。全部舐めてでも落としたいんだ、兎に角。でも、ちょっと我慢。千尋が丁寧に目脂を取り、耳朶を少し撫でるように洗うと、強い水流のシャワーですっかり洗い流してくれた。多分、ヨークシャーテリアはこの瞬間が最も情けない姿になっている。
一口で形容すると、濡れ鼠。
大体チワワくらいしかない本体に、乾いてこそ見事な毛皮が濡れそぼってぺったり張りついてしまうからいけないのである。濡れ鼠状態のオレの頭と背中にまたひやりとしたものを千尋はかけた。今度はリンスである。これをするとオレの毛は艶々のふかふかになるのだ。早く流してくれよ、と待っているが一向に流してくれない。見上げると千尋の頭が泡だらけになっていた。こう見るとさ、軟弱大王みたいな千尋は案外いい体をしてる。今はのらくら暮らしているけど、大学の実習は結構きつかったらしいし、やらなきゃならないことにはちゃんと取り組む千尋だ。それなりに体もできるって訳だ。だけど着痩せする質らしく、服、特に白衣を着せると途端に細く見える。オレ達ヨーキーが濡れたときみたいだな。リンスを流してもらい、体をプルプルと振って水を払う。湯船のなかで千尋が鼻唄なぞ歌っている。あまり上手くない。
風呂場から出ると晶が待ち構えていて体を拭いてくれる。ここまでは天国だと思うんだけど、この次に控えているドライヤーが好きになれない。すみません嘘です。大嫌い。だって物凄い轟音と共に熱風が猛烈な勢いで吹き付けるんだぜ。あれは遠目で見てるだけでも怖い。……が、仕方無い。真の手前ということもあってじっとしている。そしてブラシをかけてもらうと、ほら、ぴかぴかになる。
「おう、綺麗になったな、ポル」
うん、地がいいからね。
オレは千尋の部屋の寝床に行って寝やすいように籠のなかのクッションを調える。昼間干しておいてくれたらしく、ふくふくに膨らんで暖かい。
千尋が頭にタオルを載せてやってきた。口には煙草。煙いのに。
「早いな、ポルカ。よしよし、綺麗だぞ」
千尋はオレの綺麗になった頭を撫でて言った。
さーんきゅう!
灰皿で煙草を潰して電気を消す。
「風邪引くなよ」
これで上村動物病院の一日は終わるのである。