対照的な二人
「………………………」
買い物に出ようと、玄関から一歩出た瞬間、なにか柔らかいものに爪先がめり込んだ。
フカフカした感触に目を落とすと、そこには昨日上田さん宅に持ち込んだ一式があった。
毛布、その上にタオル、その上にアイスノン、だ。ちなみに下にはなにも敷いていない。地べただ、地べた。
「イヤ……いつか返してもらいに行こうとは思ってたけど、これは……ないだろ」
普通チャイム押して本人に返すだろう。
上田さんならそのままほったらかしかねないからこそ、返してもらいに行くことを考えていたのだが。
「そうか、返ってきた分だけありがたいと思うところか」
って、違うだろ。
空しい一人ツッコミだ。
もしくは、……顔も見たくない、ってか?
今度は自分の考えに落ち込む。
とりあえず埒があかないので部屋の中に置いて、帰って来てから洗うかと、一式を拾い上げた後の地面に紙片が一枚落ちていた。
《ありがとう》
と一言だけ書かれて、差出人名も何もない。まぁ、上田さん以外には浮かばないわけだが。
「ありがとう、ねぇ……。俺一応年上なんだけど。敬語もなし」
文句を言ってみるが、どうしてか、口元が緩んでしまう。
買い物を済ませて帰ってくると、上田さんの部屋の前に誰かがいた、が、すぐに中に入ってしまった。
本人ではなかったような気がする。
また例の怪しい客人たちの一人だろうか。
と、階段を上り終える頃にその扉がまた開いて、後ろ向きに人が出てきた。
どうやら入る入らないの押し問答をしている様子に思える。
セールスか何かだろうか、後姿から知れるその人は若い女性に見えた。
病み上がりの人の家に押し入ろうとしているのは見過ごせない。
上田さんに迷惑がられようがなんだろうがここは阻止しなければ。
俺は自分の部屋を素通りして隣の部屋の前で声を上げた。
「あの、一体な……にを…………?」
呼びかけた時点で相手がこちらを振り向き、俺は硬直した。
「え、内藤君?」
「か、わい、さん……?」
「あっ、こら!!」
一瞬の隙にドアが閉まるのを阻んで河合さんが足を挟みいれた。なんとも豪快な様に思わずこちらがびくりとしてしまう。
「梓!いい加減にしなさい!?」
どうやら俺の隣人のフルネームは上田梓、というらしい。
そんな呆けたことを頭の隅で考えながら呼びかける。
「あの……?」
「あ、えっと、この子が昨夜言ってた妹なの。で、……内藤君はもしかして……?」
尋ねてくる河合さんはドアが閉まらないようにすごく頑張っていた。
見えない裏側では上田さんも必死に閉めようとしているはずだが、そんな姿はあまり想像できない。
「はい……ここが、俺のうち、です」
指差しながら打ち明ける。
「そっか……すごい偶然よね…………で、昨日倒れたっていうのはうちの妹だったのね。迷惑かけたねホント…………ありがとう」
「いえ…………」
相変わらずドアを介して行われる押し引きに、どちらに味方すべきだろうかと考える。
「と、とりあえず、お二人とも落ち着きませんか?」
見ていられなくなって、俺はそのドアをひっつかんで動かないように固定し、二人が手を離すように促した。
力を抜いても動かないことを確認した河合さんがそろそろと手を離して固まった筋肉をほぐすように振った。
「は~、疲れたわ……」
それからこちらを見上げて、今までの攻防は嘘ですと言わんばかりな笑顔でもって
「内藤君。お昼はまだかしら?」と問いかけてくる。
「?はい、これからですけど」
「じゃあちょうどいいわ。ご馳走するから食べていかない?」
上田さんの部屋を指差しながらそう提案されて、俺は言葉に詰まった。
「いや、でも…………」
どうして大家さんといい、河合さんといい、先に上田さんに了承を得なければいけないことを俺に訊いてくるんだろうか。
知らずドアの向こうにいる上田さんにちらりと視線を向けた。
相変わらず黒い服を上から下まで纏っている彼女は、何か考えるような顔をしていた。
それからややあって。
「そうね。それがいいわ」
「っへ!?」
当然拒否されると思っていた予想が裏切られ、素っ頓狂な声を出してしまう。
「決まりね。どうぞ上がって頂戴」
河合さんは上田さんの横をすり抜けて、我が物顔でさっさと台所へいってしまった。
「どうぞ」
「あ、はい…………」
取り残されてポツネンと立ち尽くす俺にいやにあっさりとした口調で上田さんが言う。
「お邪魔します………………」
*
会社のマドンナと、アパートの隣人が、姉妹だった。
なんて、ありえていいのだろうか。
実に美味い状況だ、と思う人もいれば、気まずいと思う人もいるだろう。
俺はといえば、後者であるが、しかし今はそんなことにも考えがいかず、ただひたすら戸惑って、この場での居た堪れなさと必死に戦っていた。
河合さんが作ったお手製チャーハンとスープを食べ終わり、お茶飲んでいる。というこの手持ち無沙汰の状況に耐え切れず、俺は口を開いた。
「あの、さっきから気になってるんですけど」
「ん?」
「立ち入ったことだったらすみません。お二人の……苗字が違うのは…………」
不躾にも程があると感じながらも、この疑問は速いうちに解決しておきたいところだった。
無神経だと思われることも覚悟の上で切り出した。
「ああ、よくあることよ。両親が離婚してね」
この答えを聞いて、俺は拍子抜けした。
考えていた答えはこうだ。
①連れ子同士の再婚。既に自立していた河合さんは苗字を変えなかった。
②腹違いの姉妹で、片方は妾腹ということで母方の苗字を名乗っている。
③どちらかが実は人妻だった。
いや、勿論③は限りなく薄い線と見てはいたが…………その中に実の姉妹、という項目は一切出てこなかった。
俺に兄弟がいないことと、身内にそっくりな(しかも性別違うのに)双子がいることも含むが、やはり二人を見比べてみても、凡そ共通点というものが見当たらないからである。
二人とも身長は同じくらいだが…………、そこだけだ。
10人中10人が似ていないと断言するんじゃないかと思う。
涼やかな繊細さを持つ快活な河合さん、目鼻の際立った白い肌を持つ儚げな印象の上田さん。
どちらも、美女、とつけて美辞麗句を尽くしても、違いがわかる。
この二人のつながりを予想できなかった俺を誰が責められようか。
「内藤君、今ものすごいわかりやすい顔してるよ。私は父似で、梓は母似なの。で、それぞれについていって苗字が違うってわけ」
「なるほど……。把握しました」
そこでまた会話が途切れてしまう。
明らかにこの場では部外者に当たる俺は、さっさと退散したいところなのだが、先ほどからそれをほのめかすと、なんだかんだと引き止められてしまうのだ。
これは一体どんな拷問だ?
こめかみをもんで正座した足を組みなおした。
「それにしても、意外だったわ。梓がご近所と面識があったなんて。ほら、この子こんなんだから、外にもあまり出ないし」
「はぁ、それは、なんと言いますか、偶然……」
まさかゴミ出しの注意から始まったとは言えるはずもなく、適当にお茶を濁して苦笑いする。
上田さんはといえば、我関せずといった様子で窓の外を見ている。
本当は俺と同じくらいの頻度で席を立とうとしているのだが、やはり河合さんはそれを許さない。
座っているだけ、という体でそこにおり、会話には先ほどから一切絡んでこない。
「梓。お母さんに連絡するわよ」
初めてその視線が河合さんに向けられた。不機嫌そうに。
「そんな顔してもダメ。ちゃんと一人でできるっていうから許可したのに。全然できてないじゃない。なに、あの空っぽの冷蔵庫」
河合さんは部屋に入ってすぐの時、半ば呆れたような悲鳴を出したのだ。
「なんにも入ってないじゃないのー!?」と。
俺もその中身は一度見ているだけに、同意の感想を抱いた。
俺の冷蔵庫にですらもう少し食品が詰まっている。
河合さんは冷蔵庫のもののありあわせで昼飯を作る予定だったらしく、俺に謝罪を入れてから慌てて買出しに走ったわけだ。
その間俺と上田さんが取り残されたわけだが、彼女はさっさと自分の部屋に引き上げ、料理をし終えた河合さんが呼ぶまで出てこなかった。
「しかも倒れただなんて聞いたら、姉として黙ってるわけにはいきません」
「知らない。チクったら許さないから」
「どう許さないっていうのよ」
「お姉ちゃん高校の時」
「アーアーアーアーあーあーあああああああああああ!!」
静かな攻防が始まったと思ったら、それは瞬く間に河合さんの大声にかき消された。
「あんたっ、それは卑怯でしょ!?」
「なにが卑怯なの。じゃあこれは?」
そう言って目を瞑る上田さん。
「ちょっと待……」
焦ったように河合さんが腰を浮かせる。
「お姉ちゃんが今この場で言ってほしくないことが一つある……それは」
「だから、卑怯だって言ってるじゃない!」
ついに立ち上がった河合さんは向かいに座っていた上田さんの口を押さえた。
したり顔で目を開いた上田さんはそれを鬱陶しそうにひっぺがしてから声のトーンを上げた。
「お姉ちゃん。チクったりしないでしょ」
「だから…………」
「今お姉ちゃんの」
「わかった!わかったからやめて!」
がっくりと項垂れて河合さんは白旗を上げた。
なにがなんだかわからないやり取りだったが、俺にはなんとなく予想がついていた。
ヒントは上田さんが目を瞑ったこと。
俺が頭の中を読まれたらしい時も、そのような状況であった気がする。
つまり河合さんも今の頭の中を読まれて、この場で言われたくないことを言われようとしていた…………と。
これ、プライバシーもなにもあったもんじゃないよな本当に。
俺も被害者なのはさて置いて、この状況に何度も晒されてきたであろう河合さんに同情せざるを得なかった。
姉の立場形無しとはこの姿のことだろう。
「もう…………あんたって子は…………」
「俺、席はずしましょうか?」
そしたら言われて困ることも消えるわけだ。
「いいわ。もう帰らなくちゃいけないし…………。梓!また来るからね!」
「…………来なくていい」
「お母さんに言わない代わりに私がしばらく通うのよ。感謝してほしいくらいだわ」
上田さんは心底嫌そうな顔をして追い払う仕草をした。
俺と河合さんは外に追い立てられ、ガチャンと丁寧に鍵までかけられたドアを前にすることになった。
「えっと、そんなわけだから、…………てのもおかしいけど、もしまた何かあったら連絡頼める?」
「はい。もうないことを願いますが」
と笑っておく。
「ありがとう。じゃあ、また明日ね」
「はい。お疲れ様です」
仕事ではないけれど、その言葉を選んだのは然るべきといえただろう。