災い転じて
「おはよう、内藤君」
社ビルに入る手前で、後ろから声をかけられる。
そのかわいらしい響きで誰なのか見当をつけながら振り返ると、やはり今日も朝から可愛美しい(俺が今作った複合語だ)河合さんがそこにいた。
「おはようございます」
笑顔がにやけないか気をつけながら返すと、河合さんも慎ましやかに微笑んでくれた。
女神だ。女神がここにいる。
思わず頭の中で美化してしまうが、あながち間違いではないはずだ。
「今日は遅刻しなかったね。昨日の原因わかったの?」
二人して横に並び歩き出しながらの質問に、俺は思わず昨夜の出来事を回想してしまい、なんだか空恐ろしい気分を再び思い出した。
「目覚まし時計のベルの方の電池切れが原因だったみたいです。時計のほうが正常だったんで、気付かなかったようで…」
苦笑を交えて目覚まし選びに失敗しましたかね、と頭に手をやった。
「あら、そうだったの。でも気付けてよかったわね、じゃなきゃ今日も遅刻するところだわ」
ふふっ、と可憐な笑い声を上げる。
「そうですね。河合さんはそんなことありましたか?ご実家でしたっけ?」
「ううん。入社してしばらくは実家だったけど、成人してからは一人暮しよ。私は目覚ましが携帯アラームだから、そういった失敗はないわね」
感心で返すと、でも、と河合さんが遮る。
「私、いつも携帯はマナーモードにしてるのね。そそっかしいからその場その場で切り替えるのを忘れてしまいそうで」
「あぁ、確かに。安全策ですね」
「そうなの。だから夜寝る前にマナーを切らないといけないんだけど、そっちのほうをまた忘れちゃうものだから」
「あぁ~、痛いですねそれ。バイブ音で起きる自信、俺はないです」
「私も勿論ないわ。だからそれでやらかしちゃったことは幾度もあるわよ。むしろ昨日が初遅刻だった内藤君にとやかく言える立場じゃなかったわ、私」
と、しおらしい様子で反省しているので、俺は張り切って励ましの言葉をかけた。
「そんなの、関係なく、先輩が後輩に失敗を質すのは当たり前じゃないですか。それに、同じ立場にたったことがない人に言われるよりずっといいと思いますよ?」
「そう?…そう言えなくもないわね」
「はい、そうですとも」
わざと時代がかった口調で同意すると、河合さんはまた笑い声をあげてくれた。
と、いつの間にか俺が下りる階にエレベーターがくるところだった。
じゃあ、と別れの言葉を告げようとすると河合さんが思い出したように
「あっ、内藤君。今日もお昼、予約していいかしら」
一瞬呆けた顔をしただろう俺はエレベーターが到着したポンという音で我に帰り、開いたドアから波にもまれるようにして出ながら
「はい、是非…!」
と叫んでいた。
河合さんはにこやかに手を振ってくれていた。
「よっす。おはよ」
自分のデスクにつく前に水村の後ろ姿を見つけた。
心なしかどんよりとした空気を纏っていて、普段ならば触らぬ神にたたりなしと退避するのだが、今の俺は頭の中に花畑がひろがっているために、正常な判断をくだせなかった。
「ょぉ…元気そうかつ楽しそうだな内藤…お前がそんなに仕事好きとは知らなかった」
水村の恨めしそうな視線を流して、いや、と否定する。
「仕事うんぬんじゃなくて、ほかにいいことがあったんだ」
瞬間、ギロリと水村に睨み上げられ吐き捨てられる。
「はっ!どうせまたマドンナとなんかあったんだろ?!」
止せばいいのに俺はそれを喜々として肯定した。
「すごいな水村。なんでわかるんだ」
このやろう…と水村が拳を握り呟いた。
「わからいでか……ちくしょう、いいよなお前は、いいとこどりして面倒押し付けてあとは楽しくマドンナと談笑だ。面倒を押し付けられた俺は奈落の底だってのによ………」
そこまできてやっと俺は水村の様子を気にかける余裕が出てきた。
「どうしたんだ?奈落の底って」
大袈裟な、と少し笑ってみせた。
「お・れ・が!組んだ合コンだったんだ。どうせみんな安村に夢中になるだろうが、そこはそれとして、女の子と食事と酒やることを楽しもうとしてたんだ。なのにあいつは、あいつは!!」
力説しようと俺の二の腕あたりをがっしりとつかんで揺さぶってくる。
「あろうことか、女性方の幹事と早々にデキちまいやがって……結果お流れだよ……ちくしょう………」
消え入りそうに悪態をついてから、うおおおおおと男泣きにむせぶ。
いや、ちょっと待てここ職場だし、朝っぱらだぞ……。
仕方なしに喫煙スペースまで引きずっていき、始業時間がくるまでの短い間に話を聞いてやることにした。
自ら合コンを開こうと手配した水村自身も痛手だが、そこに招集されるはずだった男メンバーも気の毒にな。
そいつらに謝罪をいれるのも水村ってことになるし、今回はダブルパンチだったな。
「ホントに悪かったな俺のせいで……すまん。お前はいいやつだ。感謝してもしきれない。いい女の子いたら絶対お前に一番に紹介してやるからさ。元気だせ」
つい昨日に誓ったはずの言わずにいた台詞を、同情心に駆られてぽろっと出してしまった。
「じゃあ、今紹介してくれ」
「いや、今はさ。な。ちゃんと見つけたら紹介するから」
案の定すばやく返ってきた嘆きの懇願に、なだめるように言う。
「いるじゃないか。今お前が親しくなりかけている、スペシャルな女性が」
「おい。おい……それはなくないか水村よ。お前自分が不幸だからって幸せ絶頂の友人からそれを奪い取ったりはしないやつだろ。なぁ?」
「ふ。人の不幸は蜜の味っていうだろ?」
完全にやぶ蛇だ。俺は失態を犯した。それはもう、朝一番にこいつに話しかけようと思った時点から大きなミスだった。
俺が天を仰いで後悔に押し潰されそうになっていると、ふはは、と笑いを堪えようとして失敗した息が聞こえた。
「冗談だって、マジにとんなよ。お前はいいやつだからな。しかも真剣に考えやがって」
絶賛自分と水村を呪っていた俺の姿はどうやら真剣に友人に良縁を譲ろうとする好青年に見えたらしい。
人間日ごろから親切はしておくもんだ。
「なんだよーおどかすなよな……」
「だがしかし、それを利用しない手は、ないよな」
ほっとして相好を崩した俺とは反対ににんまりと笑みを形作った水村がツラツラと今作り上げた自分のシナリオを語り出す。
それを聞いた俺は重大な任務を背負って、楽しいはずの昼休憩を迎えるハメになったわけだ。
***
「それって、合コンのお誘いなの、よね?」
「……はい、えっと、あの、ホント、すいません…………」
昼になって迎えにいらっしゃった女神とともに、定位置になりつつあるベンチに腰を下ろして弁当を受け取った直後に、重い肩の荷を降ろしたかった俺はすぐさま切り出した。
『今度、夜ご飯に行きませんか。俺と同期数人と、河合さんの同期の方々とみんなで』
言葉にしたらたったこれだけの短い文章であるが、俺はかなりの神経を使った。
俺と一緒にデートしてください、と言うよりもある意味気をつかったかもしれない。
だって、俺とマドンナとのつながりは、かろうじて最近できた友人という程度だと思う。
それなのに、いきなり年上の女性たちとの合コン手配を頼んでいるのだ。不敬やら恥ずかしいやらでもうどこかに消えてしまいたい。
まったく、水村のやつめ。カンタンに言ってくれやがって。
『大丈夫。男面子には、河合さんはNGで、他にいくようにって言っておくから。お前はお前でいい機会だろ。頑張ればいいじゃんか。俺はあれだ、実は密かに河合さんとよくいるヨーコさんを狙ってるんだ』
そんな衝撃的事実とともにせっつかれ、それならば、と罪悪感に苛まれ続けていた朝の俺は許諾してしまった。
しかし、もう言い切ってしまったからには覚悟を決めた。
ひたすらにお願いするしかないだろう。みっともない男になることも承知で……。
「やだ、なにそんなに謝ってるの。いいわよ別に。いつくらいの予定なの?」
「へっ?怒らないんですか?いきなりこんなぶしつけな……」
「むしろ大歓迎よ。安本君退治のお礼が、私のこんなお粗末なお弁当でチャラになるとも思ってなかったし」
「そんな!ことは、ないです。すごい嬉しいですしおいしいですよ!水村のやつが……」
そこまで弾みをつけて言いそうになってから口を噤む。
ここで人に頼まれたからだと告げるのはフェアじゃない。もともと厄介ごとを他人に押し付けた自分自身の尻拭いなわけだから。
「ん?」
「なんでもないです。あ、日にちでしたね。月曜は祝日なので、今週だと土日、来週だと金土のどちらかにでも…と思ってるんですけど」
「結構急なのね……明日まで候補なんて。まぁ、数人あたってみるわね」
「ありがとうございます。助かります」
早め決行なのは勿論、傷心水村と他合コンメンバーを早々に癒すためである。
「気にしないで。都合つく日がわかったら連絡するわね。メアド教えてくれるかしら」
!!!!!
成り行きでメアド交換ができるなんて……やっぱり水村、お前いいやつだ。
内心で友人を神のように拝み倒しながら携帯電話を操作した。
その後の会話は食事はなにがいいだとか、酒はどのくらい飲めるかなどの内容で盛り上がった。
災い転じて福となる。今日はそんな諺を体言した一日になった。
夜10時時くらいに、早くも河合さんからメールが入った。
【おつかれさま、河合です。偶然に都合が合う人が多かったは、今週の日曜日でした。そのほかでも都合はつけられますが、どうしましょうか?】
昼間の今で数人にアポをとってくれたことに感謝して、俺はすぐさまその旨を水村にメールした。
やつも手馴れたもので、【じゃあ今週土曜の7時に駅前で評判のよい飲み屋で】と指定してきた。行きつけらしく予約もとれたみたいだ。
内容をほぼテンプレで河合さんへ返信しつつ、浮かれる気持ちが急にふつふつと沸いてきた。
河合さんと合コン・・・しかも男面子は他の女性を目当てにすることが決まっている。
これは頑張って親睦を深めるチャンスだ。
俺は張り切って土曜にきていく服を考え出した。