動惑、そして…。
翌日、水曜日。 社内に昼のチャイムが鳴り渡って、俺は大きく伸びをした。
ついでに欠伸まで出てしまい、不謹慎だったかと口を押さえる。
「寝不足?」
「あ~、昨夜、なんか隣に住んでる人が夜中までガサゴソ音させてて、安眠できなかったんで、す・・・」
反射的に答える途中、声の聞こえた方を椅子に座ったまま振り仰ぐと、河合さんが笑顔で立っていた。
「え、あれっ?あ、課長とかに用なら、今ははずして・・・」
「違います。お昼まで仕事はしないわよ」
呆れた顔で片手を腰に当てている。
「じゃあ・・・どうしたんですか?」
「お昼、一緒に食べない?お弁当作ってきたから」
河合さんは包みを二つ、俺に掲げて見せた。
「はい」
ビルを出て、近場のベンチに二人で腰かけて、女性の方から手作り弁当を渡される。
これって、安本じゃなくても勘違いできてしまうシチュエーションじゃないだろうか。
いっそ勘違いなんかじゃないという妄想を描きたくなる。
「ありがとうございます。・・・でも、どうして?」
「安本君の件についての、お礼」
ガラガラと、妄想のパズルが崩れ落ちた。
「あとは親しみの意も込めてかな~。内藤君、話しやすいみたい」
「そうですか?」
「うん」
まぁ、そういうことなら、・・・・・・手作り弁当も食べられることだし、とポジティブに頭を切り替える。
「じゃあ、いただきます」
手を合わせて、拝むように言うと、河合さんが笑いながら「どうぞ」と微笑む。
「あんまり見栄えよくないんだけど、召し上がれ」
と、自分も弁当の蓋を開けた。
俺もそれに習って、直後硬直した。
うわ・・・、なんて色とりどりの綺麗な配色・・・しかも、全部自ら作った感じのメニューだった。
こんな弁当を見てしまうと、高校時代作ってもらっていたレンジ用品だらけの弁当がかすんで消えていく。
ごめん、おふくろ。
一口食べて、更に感動が広がった。
「美味いです・・・・・・!」
「本当?ならよかった」
俺はあっという間に弁当を空にしてしまった。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
軽くなった容器を、洗って返すべきかと迷ったが、やはり男一人暮らしの俺が洗うより、河合さん自身で洗う方が二度手間ではないと考えてそのまま返した。
昼の時間が終わって、午後の業務をこなしていたところに、水村がやってくる。
「よぉ、俺には厄介ごと押し付けて自分はマドンナと仲良く昼飯かよ」と。
河合さんが昼休み開始時にやって来ていたのを見ていたか、俺と彼女が二人で戻ってきたのを見たかしたらしい。
「厄介って・・・。てか、河合さんとはそういうんじゃなくて、安本追っ払ったお礼だってさ。ただの」
「安本が追っかけてたのって河合さんだったのか?」
「ああ、すごい迷惑してた」
「ハハ、俺も迷惑だけどな」
乾いた口調で少し笑ってから嫌味に言う。
「そんなにか」
「あいつ、店から何から全て決めやがるんだ。俺が主催だっつの!けど頑張ってもどうせ安本に取られるだけだしな。むなしくなってきてるトコ・・・」
「そっか。ハハハ・・・・・・」
すまん。水村よ。
もし誰かいい女の子いたら必ず紹介してやっから。
心の中でだけ宣言をしておく。
口に出せばすぐ出せとか言われるだろうから。
「そこの二人、仕事に戻ってください」
水村がさらになにか言いかけようとした時、見かねたお局さまに注意を受けた。
すっかり日も暮れ、肌寒さが増す中を一人帰途につく。
俺と同様、駅方向から出てくる自転車や車が通り過ぎる度に吹いてくる風が寒い。
アパートが近づいてくると、ふと嫌な予感がした。
まさか、と思う。
一昨日の今日だぞ?
すぐ目と鼻の先に自宅が見える。
そして、階段を上っていく静かな黒い人影も発見してしまった。
恐る恐るゴミ置き場を横目で確認すると、しっかりゴミが置いてあった。
「マジっすか・・・」
誰にともなく項垂れた声を出す。
黒い隣人はまたも夜にゴミ出しをしやがり、俺はまたそれに立ち会ってしまった。
この頻度で、どうして今まで遭遇しなかったのが不思議になってくる。
バタン、ガチャ、と隣人が部屋へ入った音がして、俺は思わずため息を吐いた。
今日は即行で大家さん宅に届けてしまおう。
早起きはもうたくさんだ。
決意し、袋を持ち上げる。
ジャラ・・・ッ
「は?」
ボリュームのある袋の下方からそれは聞こえた。
どうやら何かの破片が大量に入っているらしい。
そういえば、昨夜、硝子の破砕音がしていたよなぁ。
それを片付けるために夜中までガサゴソとやっていたのか。
「そして分別もせずにそのまま突っ込み、夜にゴミを出す、か」
それを俺が持っていく。
・・・・・・どんなサイクルなんだ全く。
ジャラジャラと、音のするゴミを持っていくと、大家さんは昨日の朝と同じように快く引き取ってくれた。
「ごめんなさいね。また見かけたらお願いします。放置しておくのが一番まずいので」
おまけに、次があったときのお願いまでされてしまった。
気を取り直してアパートの階段を上っていくと、隣の角部屋の前に身なりのいい男性が立っているのが見えた。
40絡みのその人は、上田さん宅のインターフォンを鳴らしている。
すぐに開いたドアから上田さんが顔を出・・・したんだろう。
真っ黒なのでわかりにくかったが。
俺が自分の部屋につくまでに、彼等は二言三言会話して二人そろって部屋に消えていった。
すぐ目の前で扉が閉まる。
父親か何かかな?とも思ったが、確か男性は一礼していたような気がする。
自分の子供に頭なんか下げないよな、普通は。
昨日のギャルといい、今さっきの男性といい、訪問者が最近多いな。
もしかして、顔が広いのだろうか。あの、変な格好で?
首をかしげずにはいられなかった。
しばらくして、上田さん宅のドアが開いた音がした。
客人が去るようだ。
正味、二時間くらいの滞在だった。
その間、俺は飯を食って、テレビを見て大笑いなどしていた。
昨日とは違って、何の騒ぎもなかったことにほっとする。
まぁ、人が人だからな。良識人っぽかった男性と、今時のギャルを比べるもんじゃないだろう。
ピーっピーっピーっ
風呂のタイマーが鳴り、それに気をとられている間に隣人の客は帰ったようだった。
***
暖かい日差しが瞼を照らして、その眩しさに目が覚める。
暑くもなく寒くもない、爽やかな朝だ。
わずらわしい目覚まし時計に起こされることのない快適な起床・・・・・・ん?
鳴る前に起きたのか?
頭上にある目覚ましを掴んで、目の前まで持ってくる。
「・・・・・・ぇ~~~~、マジですか・・・・・・・・・・・・」
ため息交じりの気の抜けたような声しか出なかった。
午前九時。もう社に着いていないといけない時間だ。
手の平で顔を覆って
「ぁあぁぁぁあああ~」と唸る。
人間、急場のことでは身動きが取れなくなるもんだな、と悟った風なことを考えてから、身を起こす。
と、図ったかのように電話が鳴った。
ヤバい。絶対会社からだ。
一瞬、ずる休み、または仮病が頭を過ぎったが、やっぱり大人しく受話器をとる。
「はい・・・はい。すみません。・・・はい、はい、すぐに。申し訳ありません。・・・はい。失礼します」
ピッ。
通話を切った音を号令に、思いっきり伸びをした。
「さぁ、支度しますか・・・。」
「はい、すみません。申し訳ありませんでした」
ふかぶかとと頭を下げて、直属の上司にもう一度念を押されてから席に着く。
「初の遅刻なのに、こってりしぼられたなぁ」
隣の先輩同僚が同情するように言ってくる。
「遅刻は遅刻ですから・・・・・・」
今までの無遅刻無欠勤記録が水の泡だ。
最低でも三年間は貫くのが目標だったのに。
嘆息してから仕事に入る。
昼、朝からひきずっていた暗い気分が晴れ渡ってしまう人物がやって来た。
河合さんだ。
「お弁当作りすぎちゃったの。また一緒に食べてくれる?」
これはもうアレだろうか。脈アリと考えていいんですか?
「勿論です」と答えて、今は、昨日と同じ場所で昼食を摂っている最中だ。
今日の弁当も色鮮やかで、味も素晴らしい。
傍から見ればきっともう恋人同士にでも映っているんじゃないだろうか。
会話の内容が、まだ全然そういう雰囲気ではないのが悲しいところだが。
「そういえば、内藤君。今日遅刻したんだって?どうしたの?」
「え?なんで知ってるんですか?そっち側通ってませんけど」
「ふふふ。OLの情報網なめちゃいけないわよ。それで、どうしたの?」
河合さんは不敵に笑って誤魔化した。
つまり秘密ってことですか。
口には出さず突っ込んでから、首を捻って考える格好をとる。
「なんでか・・・・・・寝坊しちゃったんですよ。自分でも不思議なんですけど、目覚まし止めて、また寝ちゃったんですかねぇ?」
「昨夜、夜更かしでもしてたの?」
「いえ、それは全く。11時ジャストに寝ました。むしろ早いくらいですよ。いつもは目覚まし鳴ればちゃんと起きるのになぁ」
「体調不良とか」
「ないです」
「今日寒かったから、怠け心出ちゃったとか」
「俺はそんなに寒く感じなかったです」
「目覚まし時計、壊れちゃってた、とか」
「・・・・・・・・・・・・それが有力、ですかねぇ」
「起きた時、調べなかったの?」
「いやもう、初寝坊だったので気が動転してて、それどころじゃなかったです」
「そっかぁ、じゃあ帰ったら調べなくちゃだね」
「そうですね」
昼のひと時はそんな風に過ぎていった。
「しまった・・・」
パタムと冷蔵庫を閉じる。
会社から帰ってきて着替えてから夕食にしようと冷蔵庫を開けてから、自分の失態に気がついた。
「どうして何にもないかなぁ・・・」
そりゃあ、俺が悪いんだけど。
腹は鳴るし、何もないしで、しょうがなく外へ出れる服に着替える。
「この時間ならコンビニだけだな・・・」
午後九時過ぎ。スーパーの安売りを諦める。
財布をポケットに入れて、上着を一枚持って玄関を出る。
鍵をかけていると、横から音がした。
ガチャン、と隣の扉が開いて、暗い中から黒い人影が出てくる。
・・・うわー、また黒尽くめだよ・・・・・・。
気配にこちらに気づいた様子があったので、
「こんばんは~・・・」と言っておく。
返事は期待していなかったが、やはり何もなしでスルーされるとそれなりに傷つく。
ゆっくりな足取りで、俺の横を無言で通り過ぎ、微かな風が動く。
すれ違って、何気なく行方を追うと、その手にはゴミ袋が提げられていた。
「・・・てぇ、ちょっと待った!」
ほとんど反射で、黒い人物の肩を掴んで引いてしまう。
その意外な軽さに、加減ができず、勢いで相手はのけぞりそうになってしまった。
慌てて腕を掴んで倒れる前に支える。
慣性の法則で黒いフードだけが後ろに落ちる。
後ろに倒れそうなままの状態で俺を見上げている彼女。
思わずその顔を見入ってしまう。
はっきり言って、凝視だ。
なぜなら、その顔の造りは『絶世の美少女』と言っていいものだったからだ。
その美少女の眉が僅かにひそめられてから焦る。
「あ、す、すいません」
肩と腕を放すと、彼女はしっかりと体勢を立て直した。
俺が掴んでいたところを軽く手で払ってから、フードをまたしっかりと目深に被り、その綺麗な顔が闇に隠れた。
それでやっと呪縛から解かれたように、彼女から目を離すことができた。
「なに」
「え?」
「呼び止めたの、何の用事」
初めて聴いた声は思っていたよりも高く清らかな響きで、坦々とした調子だった。
想定外の出来事が連続したせいで、頭が上手く働かない。
空回りする思考を持て余していると、彼女は無言で踵を返して歩いていってしまう。
「・・・あっ、ごみを!」
今度こそ用件を言わなければ。
ツカツカと近づいて、ゴミ袋を指差す。
「ごみを、今出すつもりなら、やめてください。明日は収集日だから、明日の朝出せばいいでしょう」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・いつ出そうが、私の自由」
「違います。近所迷惑起こすなら、自由なんて適応されませんっ!」
自分勝手な返事に反駁して更に言い募る。
「カラスやネコが食い荒らしたりしたら、誰が片付けるんですか。皆さん困るじゃないですか。大体・・・」
「あなた・・・・・・」
とくとくと語っているところに、小さな割り込みが入る。
「何か」と黙った俺を見上げて、その口元が覗く。
「あなた、今日、寝坊したでしょう」
「・・・えっ?なんで・・・」
「どうして寝坊したのか教えてあげましょうか。朝はバタバタしてて気がつかなかったでしょう」
「・・・な・・・?」
まるで朝の風景を見てきたような言い方だ。
「なんでそれを・・・?まさか、覗き・・・?」
隣の部屋なのだ。ベランダを伝えば、できないこともないはずである。
すると彼女は
いかにもな動作で口元に手を持っていってから、考える風な仕草をとる。
「覗き?あなたの知らないことも知っているのに、覗きだと?」
「知らない、こと?」
「そう。あなたの使っている目覚まし時計。ベルの方の電池が切れてしまっている」
確かに俺の使っている目覚ましは、時計とベルと、電池は別についてはいる・・・が。
「何で……」
「戻って確かめればいい。今から買い物に行くのならついでに買う方が楽でしょう」
落ち着いた調べで言って、ツイと指先が俺の部屋の玄関を指し示す。
「……」
得体の知れない、不気味な感じがした。
目の前にいる彼女から、ただならぬ気配が流れてくる。
「早くしないと、夜ご飯、なくなりますよ」
今度こそぞっとして俺は後ずさる。
そして促されるままに部屋のノブに手を当てまわして、すぐさま家に駆け込んだ。
玄関口でしゃがみこんで頭を抱えた。正直震える寸前である。
どうしてだ!?何で朝寝坊したこと、今夕飯の買い物に行こうとしていたことまでバレてる!?
買い物だと言うだけならまだ推測の域であるが、「夜ご飯」とわざわざ限定していた……まさか当てずっぽう?!
それにしたって確信を持って、……というかごく当たり前のことのように話していた……。
やっぱり覗きか?その方がまだ安心できる。
……それを確かめるにも……。
バッ!と部屋の中に目を向ける。
目覚まし時計を遠目に視認してふらりと立ち上がる。
靴を脱いで、荒々しい足取りでたたみ上のそれに近づく。
ごくり、と喉を鳴らして、わし、とつかみ挙げる。
タイマーを一分後に設定し直してセットする。
……20秒、40秒、1分!…………何も鳴らない、静かなものだ。
後一分待ってみるが、ベルはうんともすんとも言わなかった。
電池を取り出して――途中何度か取り落としそうになってしまったが――残りを計測器で調べる。
針はほぼ動かず黄色と赤の間に停止した、残量はほぼないということだ。
ハハ……と渇いた笑い声が自然と出てきた。
疑心と緊張etc心拍数が臨海を超えようとした時点で
「た……ただの偶然だ、そーだよ。朝寝坊したのはきっと慌てて出て行くのを見ていたからだ」
うん、そーに違いない。よしんば覗かれていたとしても別に見られて困ることもない、はずだ、ちょっと自信ないけど……。
渇いた動揺口調で呟いて、さらに無理に納得・決定して自身を落ち着かせるのに専念する。
よし、そうとわかれば早速買い物に行こう。
いやあ~助かったな、これで明日は寝坊しないで済むし、気づけてよかったよかった。
まだ激しい心音を圧して外へ出ると、冷たい風が吹き付けてきて少し頭が冷えてくれた。
もうじきにも平常な思考が戻ってくることだろう。
外へ張り出した、ガランゴロンと音を出す階段を下りてコンビニへ向かう。
「あ」
ゴミ置き場に放置された黒いビニール袋。
「……やられた」
手を額にやって、まんまと隣人の術中にはまってしまった自分に馬鹿を見て、ため息をついた。
「まんまと上田さんの策に引っかかった訳ですか…………」
ていうか、ゴミ出すことに使うな。
ぶつくさとぼやきながらゴミを引っつかんだ俺は、馬鹿正直に大家さん宅へ向かった。
俺の晩飯は、もう少し後になりそうだ。
「いっただっきます、と」
午後九時、大分遅い晩飯にありつく。
コンビニ弁当なのが悲しいところだ。
食べている合間に、行儀悪いとは思いつつも、目覚まし時計に買ってきた電池を入れる。
「よし、と」
一分後にタイマーをセットし、今度こそ無事にベルが鳴ったのを確認してからきちんと毎日起きる時刻に針を合わせた。
これで明日からは遅刻せずにすむだろう。
今度からは度々電池の残量を気にした方がよいという教訓が刻まれた。
こうして誰しもが一人暮しの生活に色々チェックをつけながら慣れていくのだろう。
学生の時分は親元にいれば、目覚ましでなにかがあって起きれなくても時間がいつもより遅いことに気付いた母親に起こしてもらえる。
俺は今そういった甘えから少しずつ脱そうとしている最中だ。
俺自身としてはそれなりに自立していたつもりであったが、今日のようなアクシデントがあったりすると、改めて思い知らされる。
無理すれば自宅からでも会社に通えたところを、心配する母親を説得してまで家を出た甲斐があるというものだ。
相変わらず一月ごとに送られてくる米や果物などを見るにつけ、まだまだ親に頼っている感は抜けないが、さすがに仕送りがないことだけは一応一人前として認めてもらっている証といえた。
むしろこちらから送るのが世の習いなのだろうが、入社一年目の俺はまだまだ安月給であり、親からも、まずは自分のために使い、できれば有効にやりくりし、残りは将来のために貯蓄しろとのお達しが出ているので、一丁前に金がおくれるようになるまでは、もう数年必要だろう。
俺は一人っ子であるから、実家にはまだ余裕があるらしく、親父もまだまだ元気で定年も早々にはこないため、ゆっくり腹を据えてから親孝行しようと思っている。
ほぼ夜食になったコンビニ弁当の材料を片付けようと座卓から立った時、隣人のドアが開いた音が聞こえた。
先程のすったもんだの後、ゴミ袋をやはり何事もなかったように収拾場に出し終えた上田さんがそのまま外出したのであれば帰ってきたということだろうし、そうでなければまた客人が訪れたのだろうか。
ある意味での恐怖(驚愕)体験をさせられたにも関わらず、何故か俺は玄関口に向かう足を止められなかった。
好奇心と言おうか、単なるやじ馬心が出たと言おうか、自分に自分で言い訳を考えている。
なにせ俺は今から常日頃思っている『正義』に充分反する行為、〈覗き〉をやろうとしているのだから。
朝の出来事を見てきたように語る上田さんが本当に覗きを行っていたとしても、同じことで仕返しなどあってはならないのに。
勿論俺は仕返しなどとは微塵も考えていない、……この場合言い方を誤っているような気がするのだが、つまるところ要するに、俺は奇妙な隣人がとても『気になっている』のだった。
音をたてないように速やかに移動して玄関の魚眼レンズから周囲の様子をうかがった。
そこで俺は己の愚かさに気づく。
階段から上田さん宅へ行くのには上田さんの隣にある俺の部屋の前を通過しなければいけないが、来たときすでに玄関のドアは開いていたのだから意味がないではないか。
もしくは、訪問客が今帰るというならばレンズで見ることができるのだが。
「ほん…に……とう…まし…」
外から声が漏れ聞こえて来た。
察するに、本当にありがとございました、と受けとれた。
そして今度はボソボソと、高めの声がなにかしゃべっているようだ、これは恐らく上田さんだろう。
と、声が止み、うちの玄関の前を人影が通った。一瞬のことだったが、それは女性で、髪形や服装などを見る限り20~30才の方、そして顔…というより目元にハンカチを当てていたように見えた。
もしかしなくても、泣いていた、のだろうか。
そのすぐあとに上田さんがドアを閉めた気配がして、これ以上つっ立っていてもしょうがないと、さっき立ち上がった本来の理由である弁当の残骸を片付けに移った。
その間中、数多の疑問が羽を生やして飛び回っていた。
上田さん宅にやってくる客人は一体なんの用があるのだろうかとか、そもそもどういった知り合いなのだろうか、とか、色んな種類といっては失礼だろうが、年齢も性格も性別も異なる人物を招き入れることにどんな意味があるのだろうかと。
加えて、思わず硬直・凝視してしまうほどのあの美貌と、掴んだ肩と腕の細さを思い出す。
一体なにをしている人で、ちゃんと食べているのかなど、余計な疑問や心配まで発生してしまった。
俺の隣人についての謎は深まるばかりで、できればこれ以上は関わらない方がいいのではないかと、なんとはなしに思った。




