奇妙な隣人
あれから自室の玄関先にゴミ袋を置き、どうも納得のいかない気分で一日の残りを過ごした。
朝、いつもより一時間も早く起きて大家さん宅へ出向いた。
話を聞いたらすぐ出社できるように、右手に鞄、左手に昨夜のゴミ袋を持って、だ。
アパートのすぐ隣の一軒家の前でインターフォンを押すと、すぐに恰幅のいいおばさんが出てきた。
見た目こそ、調子のいいご都合主義な50~60台の代表っぽいが、話してみると、なかなか話のわかる良心的な大家さんである。
ゴミ袋を示して、この持ち主と昨夜あった出来事を話すと、大家さんは困ったように顎に手を当てた。
「あらあら、ごめんなさいね。わざわざ出勤前にありがとう。これは私が代わりに出しておきますね」
とゴミ袋を中に引き入れた。
「あの、僕の隣の・・・、上田さん?って・・・・・・入居者の方代わられたんですか?」
「え?このゴミを出した上田さんなら代わってませんよ?これも毎度のことなの」
「夜にゴミ出して、他の住人がここに届けにくるのが、ですか?」
「困ったことにねぇ。そうなの。先週は、内藤さんの下の階の伊藤さんが持っていらしたんですけど、彼女カンカンに怒ってたの。上田さんたら、話しかけてもうんともすんとも言わずに行っちゃったみたいで」
それ・・・・・・、僕も同じです。
と言おうとし、だが別の疑問が掠めてそちらを優先する。
「え、と。上田さん・・・って、僕が入る前からいらっしゃってましたよね?もしかして、ずっとそんな感じなんですか?それと、僕が入った時、挨拶に行ったら、昨日の方とは違う人が出てきたんですけど・・・」
疑問が疑問を呼んで謎が深まる。
大家さんは「あぁ」と手を打って思い出したように言った。
「あの人がいらした時は、こんなことなかったんですよ。他の入居者ともその方が応対してらしたし、ゴミもちゃんとした時に出して。どういう関係か詳しくは知らないけど、どうもご親戚らしいわ」
「え?同居者がいたってことですか?それで、その人がいなくなって、あの人だけ残った、と」
「そうなんですよ。・・・あの子もねぇ、どうも変わった子なんだけど、そんなに悪い子じゃないから、これからも大目に見てくれないかしら?」
「あの子?・・・って、若いんですか?」
「あら、見てらっしゃらないんですか?」
ええ、なにしろ、全身すっぽり防備で顔なんかわかりゃしませんでしたから、とは言わないでおこう。
「まだ19歳だったかしら」
「19?大学生か社会人ですか?」
「・・・・・・さぁ、ちょっと・・・」
大家さん自身も知らないらしく、顎に手を当てるばかりだ。
「あ、でも身元とかは大丈夫ですから心配なさらないでください。お姉さんがしっかりしてる方だから」
「はぁ・・・、そうなんですか・・・・・・」
大丈夫なんだろうか、このアパート・・・。
大丈夫と言えば、俺の部屋も。
この際だから、俺の前の入居者が長らくいなかったことを聞いてみようか。
「あの・・・ついでに聞きますけど、僕のいる部屋って、何か曰くでもあるんですか?」
「え?どうしてですか?」
「僕が入る前に一年半も入居者がいなかったらしいじゃないですか。駅近しの良物件なのにって思ったんで」
「そういえば、そうですねぇ。ですけど、別に曰くは何も・・・。内藤さんがいらっしゃる前の入居者の方は何も言ってませんでしたし。単なる偶然だと思いますよ」
「・・・そうですか」
では、と大家さん宅を後にし、謎の隣人のことについて漠然と考えながら歩いた。
社に着き、仕事をしていても、なんだか何かがひっかかる。
あの黒づくめ衣装は一体!?とか
あれで大学だか会社だか行ってるんだろうか、とか
19歳の姉なら、俺と同じくらいの歳の人だろうか、とか
俺、23でも一人暮らし大変なのに、19からとは大変そうだなぁ、ゴミをあんな時間に捨てるのは許せないけど、とかぐるぐると考えていた。
気がつくと手が止まっており、何度か隣の先輩につつかれた。
頭を振って、デスクワークに集中し直す。
アパートの隣に住む住人を、ただのおかしな人だな、に留まらず、あれこれ考えてしまったのは、その時既に、彼女(?)に対して、ただならぬ何かを感じていたからかもしれない。
帰り際、安本が俺のいる部署にやってきた。
昼のうちに、水村には謝りつつ頼んでおいたので、安本には水村のいる場所だけ指してやった。
一直線に進んでいった安本と、水村が話しているのをなんとなく眺めていると、後ろから声がかかった。
「はい?」
振り向いたそこにはなんと河合さんがいて、すぐに俺の横に来て並び、さっきまでの俺と同じように安本のいる方向を見た。
「ありがとうね。今日はなんともなかったわ」
安本を示唆して、彼女は言った。
「そうですか。よかったです」
「その割には安本君楽しそうだし、どんな魔法を使ったの?」
意外そうな表情で河合さんがこちらを見上げる。
・・・・・・かわいいなぁ・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・じゃなくて。
「や、そ、そんなたいしたことはしてませんよ。安本と話してる奴、あいつが合コン魔で、そっち行けって言っただけです」
「そうなの・・・。女の子み~んな安本君のトコ行きそうねぇ」
「ええ、そりゃもう・・・。全部です全部」
「・・・ってことは、内藤君も行ったことがあるわけね」
「えぇ!?え・・・っと。一回、付き合いで・・・?」
河合さんの言葉の意味を図りかねて、半ば焦りながら当たり障りのないことを言ってみた。
「そう。今回は行かないの?」
「い、行きません・・・よ?」
「でも彼女はいないのよね?」
「・・・はい。・・・・・・はい・・・?」
「そう。わかったわ。また明日ね」
一人で困惑して、一生懸命受け答えをしていたら、河合さんはにこりと笑って去って行ってしまった。
目の錯覚でなければ、彼女はとても楽しそうだった。
午前とは違う理由でぼうっとした頭で帰宅して、鞄を放り出してソファに崩れるように座った。
呆然とした頭の中には、河合さんの言葉が駆け巡っていた。
まさか、まさかな、まさかだよ。
いやでもあの雰囲気は・・・、いやいやまさか、いや・・・。
河合さんが俺に気がある!なんてそんな、なぁ?
「まさか!!だっつの・・・」
独り言で勢いよく突っ込みを入れて雑念を吹き飛ばし、ネクタイを緩めた。
それから冬用のスウェットに着替える。
その最中、
ガシャンッッッ!!
ズボンをはいている途中、というなんとも情けない姿のまま、突然の音に驚いてバランスを崩し、床にはいつくばってしまった。
「なんだ・・・今の・・・?」
慌てて着替えを終えてから音のした方向を探る。 俺の部屋からしたのではない、ガラスか何かの破砕音は、まだ少し聞こえてきている。
部屋の壁の向こう、つまりは隣の部屋から。
ベランダから覗いてみる勇気のない俺は、そうっと玄関のドアを開けて、音の聞こえる方の扉・・・上田と名札のかかっている扉を見た。
しばらくして、
ダ、ダ、ダ、ダ!と足音が近づいてきて、扉が勢いよく開かれた。
それと逆に、俺は急いで戸を閉める。
「死ね!!!」
一発の怒声が響き渡る。
おそらく、上下左右のアパートの住人には丸聞こえの声量だ。
覗き穴から窺うと、ギャル風の女子が一人、早足で去っていくところだった。
「な・・・何なんだ、一体・・・」
俺の心臓は、ものすごい速さで脈打っていた。
不測の事態に、元来気が強いほうではなく、正義感がやたら強いだけの『蚤のハート』が破れそうだ。
もう静かになった隣の部屋からは全く物音がない。
それが余計に怖く思えた。
どうなってるんだ。上田さんは大丈夫なのか?
それとも、上田さんが彼女になにかしたのだろうか。
中の様子は、想像するだに恐ろしい。
もしかして、すごい怖い人物に説教をしてしまったんだろうか、俺は・・・。
このハプニングで、奇妙な隣人に対する好奇心も、河合さんによる心浮き立つ疑問も一瞬でなりを潜めてしまった。