一方的な幕引き
目を覚まして時計を見ると、いつも起きる時間より数分早かった。
いつもならばギリギリまで寝ていたかったと口惜しく思うのだが、今日は違った。
なんというか、抽象的に今の自分を表現するならば、ほわんとした気分、なのである。
といっても呆けているわけでもなく、どこか幸せを噛みしめたような状態で。
原因は当然といえば当然だが、昨日の上田さんとのやり取りであろう。
昨日眠った時の浮かれた気分のままに目覚めた、という感じである。
支度を済ませていつもより余裕を持って出社しようと思った。
こんな日は何もかも順調に行く気がする。
玄関を出たところで、すぐ右側からもその音が響いた。
「ではよろしくお願いいたします」
知らぬ声を聞いて、水を浴びせかけられたように頭の芯がすっと冷えた。
恰幅のよさそうな和服の還暦ほどの男性が、廊下から室内へ向かって頭を下げていた。
男性は俺の視線を奇妙そうに受け止めながら、前を横切って階下へ下りていった。
「上田さん」
扉が閉まろうとする瞬間にドアノブをひっぱって止める。
それにつられて、黒いローブ姿の上田さんがたたらを踏んだ。
「あの、昨日言ってくれましたよね……。俺がいる時に客を上げるなら、知らせてくれる、って」
単刀直入に切り出す。
頭がかっとなっていることは自覚しているが、止められない。
舌の根も乾かないうちに約束を破られるのは、いや、そもそもこちらから無理やり取り付けたものだが、それでも、納得がいかない。
何故だ。疑問と怒りで目の前に立つ黒い人影を凝視した。
「今のは昨日みたいな客じゃないわ」
「人がどうとかいう問題じゃないっていうのは昨日、言いましたよね」
風体に関わらず、見知らぬ人を上げることに対して不安なのだと確かに伝えたはずだ。
「そうじゃない。今のは…………」
じっと見つめているが、上田さんはずっと俯いたままで、ローブの頭頂部しか見ることができない。
昨日あれほど視線が合っていたのが嘘のように、他人行儀の雰囲気を感じる。
会って間もない頃に、俺が触れた場所を払う所作を自然としていた人と、同一人物なんだと実感した。
「いいえ。あなたには関係ない」
「……っそれは昨日も」
「知っていてほしい、と言っていたけど」
繰言は無用とばかりに驚くほどの声の大きさで言葉がかぶさってくる。
いつも静かなトーンで話していた上田さんとは思えない。
「あなたの気持ちなんて知らない。どうでもいいの。私にもう関わらないで」
いくらか大きさを戻して、それでも、はっきりと、そう言った。
息がとまりそうになった。
聞き間違いを疑う余地もなく、俺はそれを数回頭の中で繰り返した。
それはじわじわと現実を理解させるには充分で、そしてその拒絶の言葉は、俺にひどい衝撃をもたらした。
だってそうだろう。
昨日は彼女と和やかに話をして、彼女の過去を聞いて、それでも笑顔を見れたというのに、この反撃はなんだ。
全て俺の錯覚だったとでも?
黒いローブが邪魔だ。
彼女の表情が見たい。
どんな顔でそれを言ったのか。
それは昨日見せてくれたような本当の顔なのか。
俺の手がフードに伸びたのを上田さんが払い落とす。
「触らないで」
もう声もでない。
あまりの衝撃に。
あまりのギャップに。
あまりの悲しさに。
固まってしまった俺の手から力が抜け、ドアノブが逃げていく。
それは自重で自然の位置に戻り、ゆっくりと、だが大きな音を立てて閉まった。
俺と上田さんを隔てる壁が、そこに確固として立ちふさがった。
いや、これは、元々ここにあったものなのだろうか。
俺はそれが崩れたと、勝手に思い込んでいたと。
払い落とされた手と、ドアノブをつかんでいた手を見つめて、途方に暮れる。
自覚してすぐに失恋とは。笑えないにも程がある。
俺はしばらく動くこともできず、その場でじっとしていた。
それでも日常は変わらず流れ、俺はどうしたって重くなる体を引きずりながら会社へ行った。
昼になって水村と食堂に行き、河合さんが今日休みであることを知った。
その妹に振られ、顔を合わすのはどことなく気が重かった為に、助かった、と思ったのは否めない。
不自然な3人組で昼食をとるのは気が引けた為、俺は1人で席を取って食事を済ませた。
3食を欠かさず食べることは習慣だから、気分のせいで食欲が落ちるという問題はなく、その辺りは健康な生活を刻んでくれた親のおかげだろうか。
ただ、料理の味は曖昧模糊として、陰気くさく咀嚼していたに過ぎないのだが。
仕事に戻っても、俺の周りは何かモノクロのような風景で、現実感を帯びていなかった。
精神崩壊を起こすほど自我が弱いわけでもない自分に嫌気が差すほど、それでも俺は意識をしっかり保っていた。
その分余計に、ふとした瞬間に、事あるごとに、上田さんの、昨日の様子と今日の拒絶を繰り返し思い出させる。
思い出す度に呻きたい衝動に駆られ、手が止まる。
体調が悪いのかと同僚に心配されるが、不自然な笑みで大丈夫だと返すことしかできなかった。
忙殺されたいと思う時ばかり暇であるというのは、世の中の常というもので、いつもより早い時間に家へ帰された。
俺の足は家路とは逆の方向へ行き、実家への電車に乗っていた。
近くに時間と暇が潰せる店があるわけでもなく、しかし家に―上田さんとすぐ隣の―帰ることなどすぐにはできず、俺は突然の帰宅に驚くおふくろに詫びることになった。
「どうしたのよ?」
「いや、ちょっと早く仕事が終わったから……、漫画でも持ってこうかと思って」
実家に残したままの、学生時代に集めたそれらをダシにしてとりあえずは誤魔化したが、おふくろは案外勘が鋭い為、様子がおかしいことは気づかれたかもしれない。
「ふ~ん。まぁいいけど。ご飯食べてくの?」
「お願いします」
「あ、ちょっと、正」
見透かされるような視線に耐えられず、俺はさっさと自分の部屋に行こうとした。
「あっれ、正兄、おかえりー!」
「……純?」
階段を上ろうとして、すぐ横の開きっぱなしの襖の向こうから声がした。
見当をつけて振り向くと、居間の畳の上で寝そべってTVを見ている直と、こっちにヒラヒラと手を振っている純がいた。
「どうしたんだお前ら」
階段にかけた足を戻して居間に入ると、直も遅れて「正兄だ、おかえり」と起き上がって挨拶をしてくる。
「た、だいま……じゃなくてどうしたんだって」
「九里子ちゃんの実家が法事だから、2、3日うちで泊まるのよ」
玄関から追いかけてきたおふくろが俺にそう言う。
「それ言おうとしたらさっさと行っちゃうんだからまったく。ご飯もうすぐできるからね~」
直純に最後声をかけて、台所へ引き返して行った。
「お前ら、学校は……まだ休みか」
去年まで学生をやっていたのに、もうその感覚を忘れている自分に驚く。
「九里子叔母さんの実家の法事……ってお前ら行かなくていいのか」
九里子さんは直純の母親で、俺の父の弟の奥さんに当たる。
その法事と言えば、母や俺は関係ないだろうが、その子供は行く必要があるんじゃないだろうか。
「んー、正兄知らないんだっけ。お母さんの実家って、一口で言ってもすっっっごい大きいんだよね。今回の法事は、えーとなんだっけお母さんのお父さんの弟の…??」
「一回も会ったことのない、はとこの法事だから」
「そうそうそれそれ。はとこ、またいとこ?」
純の混乱した言葉を直が継いでまた純が喋り出す。
毎回思うが、こいつらは絶妙な相槌が多く、2人で1セットなんだな、と感心する。
「じゃあ、まぁ、関係ないのか。そんなのに借り出されて気の毒だな九里子さんも」
「お父さんもね~」
腰を下ろしたところで、「ご飯できたわよ~」とおふくろの声でまた立ち上がるハメになった。
親戚の誰かや客が来ると、張り切る母はから揚げを大量に作る癖があって、今日もまた尋常でない数の揚げ物が食卓に上ることになった。
大体が直純がぺろりと平らげてしまうのだが。
夕飯が終わって父が母に酒を持ってこさせる段になって、純がなにやらボストンバッグの中身を探り出した。
「伯父さん伯父さんちょっと待って……えーとどこやったか」
「直前になって入らなくなったから俺の鞄に入れなかったか?」
「あ、そうだった」
そして今度は直のバッグをあさって長細い箱をとりだした。
「じゃっじゃ~ん。大吟醸~」
箱をあけて取り出した一升瓶を父の前に置く。
「お父さんがお世話になるから持ってけって~」
「まぁまぁ。よかったわねぇ」
父にそういいながら、いつも晩酌に付き合う酒好きのおふくろも嬉しそうにしている。
「正も飲む?」
「いや、明日仕事だし……」
「あらそう。帰るの?」
「えー!帰るの!?せっかく久しぶりなんだから泊まってきなよぅ!」
おふくろの問いかけに俺が答える前に純が高らかに抗議する。
まるで自分の家のようだ。
「いや、何のために家出たんだよ。こっから行くと遠いんだって」
「俺、車出せるけど」
直がチャリ、とポケットから鍵を出す。
「車、どこに……」
「菅谷さんとこ今使ってないから置かせてもらったのよ~」
近所の家の人の駐車場を使ってる、ってことか。
確かに車で行けるならアパートまで20分程度だ。それくらいならいいか。
「じゃあ、泊まってくけど、直頼むぞ?起きてくれよ」
寝起きはあまりいい方じゃなかったはずだから念を押しておく。
「最近はちゃんと起きるんだよ直も」
「へ~」
それからみんな順番に風呂に入って、居間に布団を3つ並べた。
「純は俺の部屋使って寝ればいいだろ」
「いーじゃんいーじゃんお土産話直だけするのずるい」
純はそう言って最初に寝そべると、沖縄すごいいいとこだったよー!と話し出す。
これはもしかしなくても夜更かしコースだな……。直だけじゃなく俺も起きれるかどうか。
直純の旅行談を聞きながら、俺はこっそりと2人に感謝した。
おかげで今朝から続く身の置き所のなさから解放され、しばし心の安寧を得た。
そしてよくよく落ち着いてみると、もう一度上田さんと話をしてみようという思いに至った。
どうにも俺は頭に血が上っていたし、鬱陶しい煩わしいと思った勢いであの返事が返ってきたのかもしれないと思ったからだ。
ポジティブ思考に切り替えて、俺は明日の行動をどうするか考える。
「正兄聞いてるー?ていうか今度正兄も一緒に行こうよどっか」
「お前社会人の財布あてにしてるんだろ。無理だって休みも少ないし」
「え~?別にそういうわけじゃ……半々だけど」
「休暇ってそんな少ないのか?」
純が白状するように笑うと、直が聞いてくる。
「ん、まぁ、お盆が終わったし、次は年末年始しかないな」
「そっか春休みないんだもんね」
「そうだぞ、せいぜい今のうちに楽しんどけよ」
「は~い」
「じゃ、俺は寝る。直くれぐれも頼むぞ」
直が頷いたのを見てから、布団をかぶり直した。