第2話「放っておいて欲しかった」
少女は先を行く男の背中を追いかける。
付かず離れず、手の届かない距離。
魔族である彼に、それはあまり意味のない行動だと知っていたけれど、気分の問題だ。
やはり黒一色に塗り潰された廊下をひたすら歩く。
時折横を通りすぎる窓から夜空が見えた。
窓越しに見上げた月は傾いていて、日付が変わっているのだと知る。
廊下は不思議と明るかった。
廊下に設置された燭台には火が点っている。
否、点っていく。
二人の歩みに会わせて灯りが点いていくのだと少女は気づいた。
後ろを振り返ってみる。通りすぎた先の灯りは遠くから順に消えていく。
魔術だ。
この場所がどこなのか、少女は知らない。
けれど恐らく名のある人の屋敷なのだろうと思った。
案内されたのは、重厚な扉の前だった。
男にどうぞ、と促されて少女は扉に手をかけた。
少女の手には少々思い扉は、ゆっくりと外に開く。
扉の先には、やはり重厚な木製の机があって、机上には書類が山積みになっている。
その向こうに座る男を見て、少女は目を丸くした。
書類から目を上げた男は、鋭い眼差しを少女に向けた。
息を呑み、少女は立ち尽くす。
とても鮮やかな紫の瞳が少女を射ぬいた。
少女はようやく思い出した。意識がなくなる前に、自分ははこの男と合っていた。
今は銀糸のような髪を緩く結わえた男は、かけていた眼鏡を外して、少女の後ろに目をやる。
「ジェン」
「はいはい、聞いてますよ」
ニュッと顔をつきだした案内をした男が、少女の背を押して部屋のなかに入れてしまう。
「ちょっと」
少女が抗議の声をあげると、ジェンと呼ばれた男はにっこり笑って少女を置いてあった椅子に座らせてしまう。
「連れてきましたよ我が主」
主……。
その台詞に引っ掛かった少女の前に、紫眼の男が歩いてくる。
羽は背中にない。
彼は、椅子の前に立ち、少女を感情の見えない顔で見下ろした。
「死ぬ気だったのか」
爆弾のように落とされた言葉は、少女を揺さぶった。
一瞬呆然として、それから徐々に怒りが込み上げる。
自分でも驚くほどに一気に燃え上がった怒りで、目の前が真っ白になる。
だって、じゃあ。
どうしたらよかったというの。
「……っ、何で助けたりなんかしたの!」
叫び声は悲鳴にも似ていた。
「私は、死にたかったの! 」
行く場所なんてどこにもない。
教会を出たら生きていけないことくらいわかっていた。
そんなことは初めから。
勢いよく立ち上がった少女は、紫眼の男に食って掛かる。
紫眼の男は避けなかった。
少女はキッと男をにらみ上げた。男の方が遥かに背が高い。しっかりした体は揺らぎもしない。
「放っておいてよ!」
「だが」
動揺した様子もなく、彼はゆっくりと口を開いた。
「まだ死ぬには早いだろう」
少女はぽかんとした。
彼はいたって真顔だった。人形めいた顔に、嘲るような表情は浮かんでいない。
予想外の台詞に毒気を抜かれ、へたりこむ。
へたりこんだ先は椅子の上だった。
「死ぬには早いだろう。だから連れてきた」
繰り返した彼は「ジェン」と傍観者を呼んだ。
「後始末、押し付けないでくださいよー」
不服顔の男が、少女の膝の上に置いた手にカップを握らせる。
カップの中には温かい茶色の液体が湯気をたてている。
いつの間に用意したのか、湯気からは甘い匂いがした。