刹那と那由多
鳥の囀り。
カーテンの隙間から差し込む陽光。
必要最低限のものしかない簡素な部屋。
僕の隣で寝ている、透き通るほど綺麗できめ細かい白い肌の見知らぬ女の子。
目立つというより、素っ裸だった。
彼女が誰かなんてことは分かり切っているが、何故裸なのだろう。見た目も、まあ割と僕の好みだし、見れて困ることはないのだが。
少年向けの漫画なんかだと、彼女から目を離すべきなのだろう。けれど、僕は別にそれほど異性の裸を見るのに抵抗があるわけでもないし、そもそも彼女自身、見られて困ることもないだろう。ならば今のうちに、見れるものは見ておいて損はないし、見ても問題はない。
どうせ彼女は、夢で話していた彼女なのだし。
――って、おい。
なんで僕は、忘れるはずの夢での出来事を覚えているんだ?
願いを叶えたら覚えていられる、なんてことがあるのだろうか。だがそれなら、叶えるまでの記憶を、夢の外まで持ちかえることが出来ないようにする意味がない。
誰にも知られないように願いを叶えるというのが、彼女のやっていたことの筈だ。そうすることで彼女は願いを捻じ曲げて、自分の都合のいいように叶える。しかし願いを言った本人はそれに気付かない。中には、胸に秘めていた願いが、少し変わった形で叶ったくらいに思う人もいるのかもしれない。
それが、彼女のやっていることだ。
それは夢の最後に聴いた声で分かる。あれは、そういう声だったと。
ならやはり、僕が記憶を維持しているのはおかしい。
ただ、原因が僕と彼女、どちらにあるのかまではわからない。こればかりは、今は眠っている彼女に訊ねるしかないか。
それにしてもあれだな。
とても柔らかそうだ。何が、なんてのは、男なら言わなくても誰もが分かると思う。かなり主観が多く入るが、大き過ぎず小さ過ぎもせず、ちょうど僕の手で包めそうなくらいのほどよい大きさだ。
横を向いているために少し寄って見えるが、本来より深い谷間が望めてこれはこれで楽しめる。そしてやはり、双丘の頂にある桜色の小さなものも魅力的である。
こんなものを目の前にして、何もしないなんて言う男は、異性に興味がないか、少年漫画の主人公くらいのものだ。
だから僕は、手を伸ばす。なんの躊躇いもなく、自分の本能のままに。
しかし――、
「つっ!」
彼女に触れる瞬間、指先に強烈な痛みが走った。咄嗟に手を引いて触れようとした場所を見るが、特に何も見当たらない。
一体何が?
そう思いながら彼女に触れようと伸ばした手を見る。
「う、あ……え?」
頭の中が真っ白になった。一瞬、何も考えられないで、ただそこにある、ありえない光景に目を奪われて。
だけどそうなるのも仕方ないだろう。だってそこには、ある筈のものがなかったのだ。
彼女に触れた指先。僕の右手の、人差し指と中指の、第一関節から先がなくなっていたのだから。
――でも。
と思う。
「痛く、ない?」
そう、なくなった第一関節から下、残った部分は全く痛みを感じない。骨や肉は見えているのに、血が出ることもない。
どういうことだろうと、恐る恐るそのグロテスクな部分に触れようとしたときだった。
「止めた方がいいですよ」
そう、聞き覚えのある声に止められた。
視線を上げる前に、その声は続ける。
「触れれば、私の能力が解けて血が吹き出るし、想像も絶するほどの痛みを味わうことになります」
言い終わるのと、僕と彼女の目が合ったのはほぼ同時だった。
当然その彼女は、先程まで目の前で寝ていた彼女で、今は生まれたままの姿で膝を折って座っていた。
その彼女が、能面よりも表情のないような顔で僕を睨んでいる。長い白銀の髪を揺らしながら。
表情がないのに、目つきだけが鋭い。
そんな彼女が、更に続ける。
「おはようございます、織尾永遠。いえ、今後はご主人様とお呼びしたほうがよろしいでしょうか? ああでも、そんなことはどうでもいいですね」
なんてことを言いながら、自分のこめかみに人差し指を押し付ける。
その動作に、どんな意味があるのか。
もちろん僕には分からない。
けれどそれも、彼女からすれば知ってもどうしようもないことなのだろう。
何故だか、無表情の相手の思考が、そして僕に向けられる感情がわかってしまう。
「わかるようにしてさしあげているんです。ですから」
そうか。だから。
「私の為に死んでください」
僕は死ぬんだ。
●
まあ、死んだらお終いなわけで、実際には生きているわけで。
「つまり、私は貴方の所有物なので、貴方の意に背く行為に及ぶことが出来ないわけです」
と、柔らかい声音で言う彼女は、上にワイシャツ、下にジャージを身に着けて、机の前の椅子に座ってこちらを睨みつけている。切れ長の鋭い目のせいで余計に怖い。
ちなみに僕は今、彼女の目の前で正座中である。別に強要されたわけではないのだが、ベッドの上は枕の中から飛び出した羽毛まみれだし、床くらいしか座る場所がないから仕方なくだ。正座しているのは彼女の威圧に負けた為ですはい。
どうやら、彼女は僕の夢で話していた相手で間違いないようで、最後の最後に願いを捻じ曲げられた腹いせに僕を殺そうと試みるも、その捻じ曲げた願いのせいで殺すことが出来ず、虫の居所が悪い、というのが現状だ。
「で、僕に逆らえない君はどうしたいわけ?」
本当は何故指が消し飛んだのかとか聞くべきなのだろうけれど、どうせ無くなったものは戻ってこないのだろうしいいかな、なんて思っていたら、彼女が急に立ち上がり、僕の前で膝を折った。
彼女の腰まで届くほどの流れるように綺麗な金髪が、僕に触れそうになる。それと同時に、僕は後ずさる。自分でも驚くほどの速さで。
「……」
「……」
「嫌がらせか何かですか? 殺されかけたことに対する腹癒せですか?」
無表情が怖いです。
「いや、そうじゃなくて、えっと、触れたらまた痛い目みるかと思って」
すると少し考え込むような顔をして、
「……ああ、それなら安心してください。殺意はありますけれど、敵意はないので消し飛ぶ心配はないですよ。たぶん」
「いやいやいやいや、どちらも同じようなものでしょう! それにたぶんって何だよたぶんて! あとお前絶対僕の指消したの忘れてただろ!」
「男のくせに細かいことばかり言っているともてませんよ」
「大きなお世話だよ!」
ていうか近付いて来るなよ。四つん這いで! 胸が見えるだろ!
「てか殺意あるなら近付いて来るなって!」
「だから安心して下さいと言っているでしょう。死んでいただきたいですが、私にはどうすることもできないから諦めてはいるけれど死んでいただきたいだけですから」
「死んでいただきたいって二回言ってるから! 確実に別の手段を考えているだろ!?」
「……」
無言は止めろよ!
なんて思っている間に僕は壁際に追い詰められていて、彼女はまた側でしゃがみ、僕の手を取った。人差し指と中指の欠けた右手を、そっと。まるでガラス細工を扱うような、そんな優しい動作で。
「少し、目を瞑っていてください」
先程まで僕を睨むか無表情かだった彼女が、柔らかい笑顔で語りかけてくる。声にも表情にも、敵意なんてない。そう、信じられた。だから、従った。
彼女の触れる手に、もう一つ柔らかい感触を得て、すぐに離れて、
「もういいですよ」
目を開ければ、そこには無くなっていたはずの指があった。あるだけじゃない。ちゃんと動かせる。自分の意思で。
「これは、私の願いも叶えて頂いたお礼ですから」
聞いてもいないのに、そんな言い訳をされた。だから、
「ですから、これからは貴方の命を頂くために善処いたしますので、これから暫くの間よろしくお願いしますね」
なんて笑顔で言われても、
「う、うん」
と、阿呆のような返事しか出来ないのだった。
●
そんなこんなで彼女が人となり、僕の所有物となってから一週間が経過した。
叶った彼女の願いとは何なのか。どうやって指を治したのか。どうして僕好みの外見なのか。他もろもろ、聞きたいことは山積みだけれど、とりあえず今はすべて保留状態である。外見に関しては聞く必要もない気がするけれど。
けれどやっぱり気にはなるんだ。だって金髪碧眼の美少女だよ!
「……みっきー、なににやけてんの?」
「へ?」
声をする方、というか僕の前の席を見ると、最近よく見かける少女がいた。そもそもここは学校で、彼女は僕の前の席なのだからいて当然なのだけれど。
「阿僧祇、そのみっきーっての止めろって。あとにやけてた?」
「うんにやけてた。あとみっきーじゃなかったらなんて呼んだらいいの? 水戸納豆?」
なんて真顔で聞いて来る彼女は阿僧祇那由多。一週間前までずっと入院していたのだが、体調が良くなったため一昨日から復学した、ということらしいのだが、詳しいことは良く知らない。ていうか水戸納豆って何だよおい。
「え? だってしきみとわでしょ? みとでしょ?」
「なんでだよ! みっきーもきみの部分を逆さにしたのか!」
「そうだけど?」
もうやだこいつ。
「諦めろ織尾。既にクラスのほとんどが餌食になってるんだ」
今度は隣から男の声。阿僧祇が来てからというもの、隣だというのにあまり関わりの無かった彼とも良く話すようになったな、なんて思いながら振り向くと、田中幸村は肩を竦めてやれやれといったポーズをして見せた。だいぶ大げさに。
すると当然阿僧祇も反論する。
「でんちゃん、餌食とか酷くない?」
「それだよ!」
ああ、また始まった。
彼女が来てから今日で三日目。もうだいぶクラスに馴染んでいるのはいいのだけれど、やっぱりこのやたら悪いネーミングセンスをどうにかして欲しい、というのが、クラス全体の総意である。
「幸村って名前なんだからゆっきーとかって呼べばいいだろ!? みっきーとゆっきーでいいだろ!?」
え、そこで僕を巻き込むの?
「それじゃふつうじゃん!」
「普通の何が悪いんだよ!」
「だって苗字がインパクトないからそこを際立たせたいじゃん!」
田中が、無言で両膝を床に突いた。
「あ、あれ、もしかして気にしてた? ご、ごめんね」
あ、それ駄目だ。
「くっそ、同情すんじゃねーよ! チキショー!」
ほら、叫びながら走り去ってしまった。もうすぐ次の授業が始まるというのに。
入れ替わるようにして、廊下に出ていたクラスメイトたちがこぞって戻ってくる。出て行った田中を少し気にしてか、何人かは後ろを振り向きながら入ってきた。
しかしまあ、この光景も三日連続で起これば、皆慣れたものだ。すぐに何もなかったかのように席について、次の授業の準備に取り掛かる。
田中が戻ってきたときに、誰か心配して追ってこいとかなんとか言っていたが、元々お調子者キャラで通っていたわけだし、気にしたら負けだ。
さて、授業風景なんてどうでもいいものはすっ飛ばして昼休み。
僕と阿僧祇の席をくっつけて、横に椅子を持ってきた田中も混ざって三人での昼食を摂るようになったのは昨日から。ということで別にこれがいつもの風景というわけではなく。
この高校の二年A組の教室では、好んで僕と昼を共にする相手といえば田中くらいのもので、偶に隣のクラスから来客があるものの、他者から見たら寂しいというかなんというか。
田中はお喋りだが、僕から話を振ることなど稀で、正直何で僕と一緒にいるのかわからないと思っているのだが、今となってはそれを気にするのも馬鹿馬鹿しい。
阿僧祇がこの仲に入って来て、さらに僕の発言権は希薄になるかと思っていたのだけれど、そんなことはまったくなくて。
「だってほら、田ってでんとも読むでしょ?」
「読むでしょじゃねぇよ! 読むからなんだよ! お前だって! お前だって……」
まだやっているこれに収拾をつけられるのは僕だけのようだった。
「田中、わからないんだろ」
「織尾、ちょっと黙ってろ。今出てくるから」
無理だな。
顎に手をやって考え込むようなポーズをしているが、形だけなのが丸わかりになってしまうのは何故だろう。彼の持つ雰囲気とかそういうものの成せる業といったところかもしれない。外見は同じ男の僕から見てもかなりいい部類なので、目を閉じて黙っているととても様になっているというのに。
阿僧祇がそれを意にも介さず田中の弁当をつつくのは、この際スルーしよう。
というか、二人の相手をしていて忘れていたけど、今現在家で大人しくしているであろう彼女について考えなくてはいけない。
その前に、彼女がやってきて今日までの一週間に起きた出来事を簡単に纏めよう。
”彼女”という事象を知ってからというもの、ニュースなどでの情報収集は細かく行うようにしている。まるで奇跡のような何かが起これば、それには”彼女”の願いを叶えるという能力が関与している可能性は高い。
それを知って何かをしようという気は今のところないが、それによって身の回りに良くない変化が起こればそれはまた別だ。今のところ彼女は僕の物なわけだし、それを何とかすることも出来ると思っている。
というわけで地元だけでなく日本全国の情報を、自分の把握できる範囲で入手しているのだけれど、今のところ目立ったものは特になく、起きたことと言えば家族に彼女の存在がばれたことくらい、か。
初めて彼女を見た母親の反応。
「何この美人さん! 永遠の彼女、なわけないか」
失礼にもほどがある。
続いて父親の反応。
「永遠にもついに彼女が出来たか! って、ないな」
夫婦そろって失礼にもほどがある。
一先ず訳あり家出美少女、ということで人には言えぬ事情があって、偶々知り合った僕が匿ている、なんていう嘘だとすぐにばれそうな理由で二人はそれ以上何も追求せずに彼女を家に置いてくれた。
ただ、その際に聞かれた彼女の名前。慌てて僕が答えてしまったのだが、あれは本当に失敗したと思う。母親がもう一人子供が出来たら、男女問わずにこの名前にしたかったと言っていた名前を何故か思い出して、それを口にしてしまったのだ。
本当に、あのときの僕はどうかしていた。
それで母親がどう思うかなんてことも考えていなかった。
これだって言及はされなかったけれど、やっぱり刹那なんて名前を付けたのは失敗だった。
「はぁ」
「どしたのみっきー?」
鼻から提灯ぶら下げ始めた田中を無視して、俺の溜め息に首を傾げる阿僧祇。いや、だからみっきーはやめろって。
「いや、何でもない」
「そう? 溜め息は損気だよー」
なんか久々に聞いたなそれ。ああ、そういえば、阿僧祇に聞きたいことがあるんだった。
「そういえば、阿僧祇って隣町の大学病院に通ってたんだよな?」
「うん、そだよ。一週間前に退院いたしまして、この通り元気もりもりなのです」
目立ったニュースはないのだけれど、少し気になることがあった。目の前でVサインを翳すのは古いと言ってやったほうがいいのか、それはまたあとで考えよう。
「じゃあそれまで隣町で何か変わったこととかなかったか? あまり外の情報が入ってないなら、病院内でもいいんだけど、なんかこう、奇跡でもあったのかっていう出来事とかあったら知りたいんだ」
いきなりこんなことを聞かれて、僅かに怪訝そうな顔を見せるが、すぐにいつもの笑顔で言う。
「うーん、町のことは良く知らないかな。私、一年くらい植物状態ってやつだったし」
「え、植物状態、だった?」
「うん。まあ奇跡といえば、私がこうやって学校に元気に通えてることかな」
そう笑って言ってのける少女は、至って健康そのものに見える。確かに他の女子よりも少し華奢に見える身体ではあるけれど、それでもそんなに悪い状態だったとは想像も出来ない。
それこそ、僕が体験した奇跡のようなことが起こらなければ。
「今側に誰もいないから言えるんだけどね、私、実は皆より一つ年上なんだよ?」
なんて僕の耳元に顔を寄せて囁くその表情も、どこかおどけていて。
「……保険証か何か見せてもらえる?」
「え、疑り深いなーみっきーは」
不満そうに口を尖らせながらも、渋々保険証を見せてくれた。
そこに記された生年月日。
それを見て、確信せざるを得なかった。
僕と同じ誕生日。しかし、生まれた年が異なっていた。
彼女の姿が、一瞬だけぶれて見えた気がした。