序章 夢の終わり
ここは夢の中だ。
僕の周りを、光の玉のようなものが、まるでシャボン玉みたいにふわふわ飛んでいる。それに手を伸ばそうとしても、見えない壁に阻まれて届くことはない。
床も壁も天井も、すべてがガラス張りになっているのか、ほんの二、三歩しか進めないほど狭い空間。
最近は、こんな夢ばかり見ている。
意識をしっかりと持っていて、範囲は狭いが自分の思うままに動ける。
こんな夢を、毎日だ。
そしてこのあと、夢は動き出すんだ。僕と彼女の対話という形で。
――貴方が一番に望むものをさしあげましょう。
そんな声が頭の中で、まるで木霊のように何度も繰り返し響いた。
女の声に聴こえなくもない。その程度の判別しかつかないくらいに中性的で、抑揚のないその声は、僕に無条件で不快感のみを与えてくる。
これが、彼女だ。名前も顔も知らない相手。夢の外、現実の世界で会ったこともない。
その相手が今、どこから話しかけているのかもわからない。けれど僕は、空をキッと睨みつける。
「そうやって、頭の中に直接話しかけるのはやめろって、何度も言っただろ?」
もちろん、それが不快感の原因ではない。これも一つの要因ではあるけれど。
「そういえばそうでしたね」
今度はちゃんと耳へと届く。けれど、どこから聴こえるのかまでは分からないし、相変わらず姿も見えない。
声の主が何者なのか。
それはこの夢を見始めた頃から思っていたことで、何度も問いかけたことでもある。
しかし返ってくる答えは、僕に正確なイメージを与えてくれない。というよりか、想像も理解もできない。
漫画なんかでは定番の神様や悪魔だとか、そういう存在ではなくて、ただどこにでもいて、どこにでもいない。あらゆる生物の声を聞くことが出来て、それらの願いを一つだけ叶える。それだけのために存在していて、誰の目にもその姿は映らない。
なんていうふうに説明されてもダメだ。頭が追い付かない。なんだってこんなにわけのわからない存在でなければいけないのか。
そもそも本当に存在しているのかすらわからない。
彼女が言っている願いを叶えるというのも、本当に自分の望んだ形で叶えられるのかもわからない。
この”願いを叶える為の夢”についても、聞いたことがある。
誰もが彼女によって願いを叶えられている。しかしこの夢のことを、起きているときには思い出すことが出来ない。
それはつまり、彼女が言っていることが正しいのか確かめる術は存在しない。
思い出せないのは僕自身が体験済みだし、それは事実だ。だからこそ、やはり信じることが出来ない。
願いを忠実に叶えているというのなら、この世界はもっと多くの金持ちで溢れ返っていてもおかしくない。むしろそうであるべきだ。貧困で苦しむ国だってもっと少なくていいんじゃないのか。
だから僕は、彼女の言葉の真偽を確かめる為に、願いをずっと先延ばしにしている。
かれこれ一ヶ月くらい経つだろうか。
表向きは彼女を信じて、しかしまだ願いが決まらないというふうに装っているけれど、こうやっているのもいつまで持つか。でもまだほとんど収穫がない。
ということは、まだ嘘を続けなくてはならない。
「また今日も来てもらって悪いんだけど、まだ願いは決まらないんだ」
「いいのですよ。こうやって貴方と話している時間も、とても有意義なものです。こんなに一人の相手と話すことなんて、初めてのことですから」
「……そう、か」
何故だろう。彼女の声が今、少しばかり嬉しそうに聞こえた。
こんなことは初めてのことで、つい歯切れの悪い返事をしてしまった。
彼女は、こんなふうに話すことがあるのか。
これだけのことで、僕は思ってしまった。声に出かけてしまった。
もっと、彼女のことを知りたい。
もっと、彼女のいろんな声を聴いてみたい。
しかしそれは、口にしてはいけない。だから慌てて両手で塞ぐ。
馬鹿じゃないのか僕は。こんなところで、こんなことで、願いを口にしようだなんて。
仮にこれを願いとするにしても、彼女の目的を知らなくてはいけないんだ。そうでなくてはこの一ヶ月がすべて無駄になる。
それだけは避けなくてはいけない。
それだけは――。
「君は、僕と話している時間が有意義だって言ったね?」
「……はい」
――え?
「もっと、僕と話してみたいか?」
「そうですね。しかしそれは、難しいのではないですか?」
「そんなことはないさ。僕がそういう願いを言えばいい」
一体何を言っているんだ。
塞いでいた手はいつの間にか外れていて、僕の意思とは関係なく勝手に話しをしている。
これは、何だ!?
「しかしそんな願いでよろしいのですか? 貴方のための願いでなくて」
「いや、これは僕が望んでいることでもあるから、気にしなくていいよ。君は一人の人間の女の子となって、僕と一緒にいれば良い。そういうのはどうだい?」
「そう、貴方が望むのでしたら」
おい、これは。これは違うだろ!
喋っているのは僕じゃない。こんなことを、僕は言わない!
まさか、彼女が言わせている? これは彼女が見せている夢だ。僕が見ているわけではなく、彼女によって見せられているんだ。つまりこの夢の世界は、彼女の思い通りに動かせるんじゃないのか?
だが待て。だとしたらもっと早く思い通りに、彼女が叶えたい願いを口にさせればいい。なら、何故今までそうしなかったか。
それは、出来なかったから、と考えるのが妥当だ。
だとするならば、この力のトリガーがあるはずだ。発動条件。
それは、今回の夢で初めて起きたこと。
ここまで考えれば、勝手に答えに辿り着く。
もう、後戻りは出来ない。
一か八か、賭けるしかない。
「なら願いを言うよ。僕の願いは」
――願いは。
「願いは!! お前を僕のものにすることだ!!」
「っ!?」
一瞬、彼女の焦った声が聞こえた気がした。
ざまあみろだ。
「それでは、私はこれより貴方のものとなります。さあ、夢の終わりへ、誘いましょう」
すぐにいつもの抑揚のない声に戻ってはいるが、その裏側にあるものを隠せていない。この願いがどういう形で現実となるかは知らない。けれど、彼女が僕のものになる、という大前提だけは恐らく覆せない。
それだけは何となくわかる。
だってそうでなければ、少しでも考えた願いを強制的に口にさせることなんて出来る必要がないのだから。
さあ、夢が終わる。
そして、新しい何かが始まるんだ。