#06
柔かな陽光に包まれたある冬の日。それは桜の蕾が開き始めるもまだ肌寒さの続く日々の中の、たった数時間の暖かなひと時。
そんな一足早い春の訪れに、芽吹き始めた緑に囲まれた公園には、陽気を求めて多くの人が訪れていた。
その中にその子、天宮さんがいるのも見えた。
天宮さんは両手に売店で買ったドリンクを持ち、園内の小道を軽い足取りで進む。小道に沿って植えられた眼下の花々は、早春の寒さの中の束の間の暖かさに、光を求めて一心に花を開こうとしていた。
「おまたせ」
天宮さんが向かった先は、暖かい陽だまりに包まれた小さなベンチ。
そこには彼女の連れ人が、待っている。優しさのにじむ目尻にしわを湛え、その人は天宮さんに手を振った。
ベンチに横づけされた車いす。それに座ったご老人。僕はその人を知っている。
天宮さんはご老人のそばへ小走りで駆け寄ると、ドリンクを差し出して笑いかけた。まだ春にもなりきらないというのに、その場にだけ眩しいほどの向日葵が花開く。それはいつもの可愛らしい笑顔。彼女が一人で『gift』に訪れたあの時には一度も見せてくれなかった顔だ。
「はい。こっちがおじいちゃんのお茶ね。温くしてもらったんだけど、もし熱かったりしたら言ってね」
「悪いね。ありがとう」
そう。その車いすのご老人は、彼女の御祖父。忙しいご両親に代わって、彼女を幼い頃から見てきた人だ。
名前を天宮総次郎さんという。天宮家の代々営んできた雑貨屋の4代目店主で、今から20年前に早々と息子夫婦に店を譲り渡し、その後は陰から店を支えてこられた方だ。――もっとも、孫娘が生まれてからは、店の経営からは殆ど退いていたと聞くが。もともとは厳格な人だったが、孫娘ができてからというものの、その性格は一変して穏和になったという。まさに目に入れても痛くないという奴だ。
そんな総次郎さんだが、数年前から体を壊されていると聞いていた。最近ではすっかり姿を見なかったが、車いすの生活を送っているとは僕も知らなかった。彼女の記憶を覗いて初めて知った事実である。病状が気になるところであるが、僕の見るこの記憶からでははっきりと言えることはない。しいて言えば、顔色の悪さが気になるところだ。
天宮さんはベンチに腰掛け、空を仰ぐ。
「良かったね、晴れて。せっかく外出許可が出たのに、天気悪いんじゃどこにも行けないじゃない。お医者様もおじいちゃんの普段の行いが良いからって言ってたよ」
「外出とはいうが、頼子。ここは病院のすぐそばじゃないか」
総次郎さんは苦い顔で笑うと、木々の茂った先に小さく覗く白い建物に目をやった。それは町の中心よりも少し外れた高台にあり、静かに町全体を見下ろす病院の外壁であった。
天宮さんもつられてそれを視界にとらえたが、すぐに目を逸らす。
「いいの。近くだろうと遠くだろうと、外に出ることに変わりはないもん。それともおじいちゃんは、可愛い孫娘と一緒に外を歩きたくないっていうの?」
「こらこら、何を言っているんだ、お前は。年寄りをからかうのはやめなさい」
「からかってなんていないもん」
そう言って、二人は顔を見合わせて笑い合う。こんな一瞬のひと時が二人にとって、何にも変え難い貴重な時間であることは傍から見てもすぐにわかる。
「いやだって言われても、頼子はずっとおじいちゃんのそばについていてあげますからねーだ」
「はいはい」
「なあに? その反応は」
「いやいや、ちょっとね」
総次郎さんの微妙な声色の変化に、天宮さんは首を傾げた。総次郎さんは膝の上にあるまだ口をつけていないカップに手を添えて、それをただ見つめる。否、彼の目にはカップが映っているのではないのだろう。何か思うところがあるのか、伏し目になっているのだ。その何かを見る目はひどく悲しげだった。
「ずっと……ねえ」
総次郎さんの口からぼそりとそれだけが漏れ聞こえた。それを聞きとれたのか、雰囲気で読みとったのか、天宮さんは一瞬はっとなって、次の瞬間には顔を青くした。
数秒の凍りついたかのような時の間。その隙間を埋めるかのように、上空を飛行船が通過していった。
「も、もう。何言ってんの、おじいちゃん。変なこと言わないの」
やはり、総次郎さんの病状は良いとは言い難いのかもしれない。おそらく二人の間にはもう“ずっと”という言葉がつかえるほど多くの時間は残されていないのだ。総次郎さんの諦めにも似た眼差しと、天宮さんの様子を見れば、医者でない僕にだってわかる。それをお互い口には出さずとも分かっているんだ。
それでも、いつもと変わらずに総次郎さんの前で笑っている彼女を僕は偉いと思う。
「そうだ。ほら、良い天気なんだから少し歩こうよ。あっちにね、水仙が綺麗なところがあるんだって。まだ咲き始めだけど、もう十分見応えがあるって看護師さんたちに教えてもらったの。今日はそれが見たかったのもあるんだから。ね?」
思い立ったかのように言って、天宮さんは返事を待たずに総次郎さんの手に自身のカップ渡し、車いすの後ろに回った。そして、タイヤのストッパーを解除し発進させる。
そこで僕はなるほど、と思わずにいられなかった。
総次郎さんからの死角に回り、天宮さんの表情は一瞬にして悲しそうなものに変わってしまった。きっと相当無理をしているのだろう。
「海の向こうの国の水仙なんだって。忘れちゃったけど、何だか長い名前だった。覚えられなかったよ。もう、私ったら記憶力ないよね」
それもでも声を極力明るくし、彼女なりに普段通りにふるまおうとしているのだ。それはとても健気で、見ていて少しつらくなる。
総次郎さんも総次郎さんで、それは分かっているように感じられる。彼は気持ちを入れ替えるようにカップの中のお茶をほんの少しだけ口に含み、晴れた冬空を振り仰いだ。
「まったくだ。頼子は昔から物覚えが悪くていけない。こりゃあ、誰に似てしまったんだか。因みに私は、学生時代から記憶力は長けていたからな。私ではないだろうな」
「む……なによ。そこまで言う? おじいちゃんの意地悪」
暫くはこのまま他愛のな会話を続けながら、緑に囲まれた小道を歩く二人。やがて、
「あ、ねえ。見えてきた。ほらほら、見える?」
「ああ、見えるよ」
天宮さんは上体を低くし、総次郎さんの目線に合わせて前方を指差す。その先には、一面に鮮やかな黄色が広がっていた。足を近づけていくと、それがより鮮明に目の前に広がっていった。
「うーん。まだ6分咲きってところだね」
「そうだな」
日のあたる暖かい所に咲く水仙は比較的元気に花開いているが、日陰にあるものはまだ申し訳程度にひっそりと咲いている。まばらな状態ではあるが、それでも一面の黄色は美しいと形容するには十分であった。
「綺麗だね」
水仙畑の淵に立ち、天宮さんは目を細める。総次郎さんもそれに頷きで返し、無言で正面を見つめた。
「ねえ、おじいちゃん」
春めいた爽やかな空気を一度胸に吸い込んで、天宮さんは総次郎さんの横に屈みこんだ。総次郎さんは、少し改まったような態度の孫娘に不思議そうな表情を浮かべる。天宮さんはそれに応えるように、続きの言葉を紡ぐ。
「おじいちゃんさ、何かやりたいこととかある?」
「やりたいこと?」
彼女の唐突な質問に総次郎さんは首を傾げた。
「そう、やりたいこと。せっかく病院の外に出られたんだし、今日は特別に私がおじいちゃんの言うこと何でも聞いてあげる」
「ないよ、そんなもの」
「だめ。何かあるでしょう」
天宮さんは総次郎さんに詰め寄る。ふざけているようで、その目は真剣さを持っている。
総次郎さんは、しばらく考え込んだ。
「……やっぱりないかな。頼子がいてくれたら、私はそれで十分だよ」
「それじゃあ駄目なの」
天宮さんはふるふると首を左右に振る。それはさながら駄々をこねる子供のようだった。
きっとこれは彼女にとってとても大事なことなんだ。“ずっと”がもう通用しない祖父の願いを何か一つでも叶えてあげたい。と、そんな感情が僕には読みとれた。
「やりたいことじゃなくても、何か欲しいものとか行きたい場所とか、あとは会いたい人とか……どう?」
「……会いたい人、か」
会いたい人、という天宮さんの発言に何か思い当たった様子で、総次郎さんが不意に顔を上げた。
「会いたい人なら」
「いるの?」
「ああ。……都子に、お前のおばあさんにもう一度だけ会いたい」
「おばあちゃん……」
総次郎さんの願いをせっかく聞くことができたというのに、天宮さんの表情は明るくはならなかった。むしろ、落胆したように目線が下がってしまった。
なぜなら、彼女の御祖母、総次郎さんのご夫人は――
「なんて、そんな馬鹿なこと言えるのは頼子にだけだよ。もう、何十年も前に、お前の父さんを産んで死んでしまったあの人に、会うことが叶うなんてあるわけがないんだから」
「……おじいちゃん」
「それでも最近、ふと思ってしまうんだよ。頼子はあの人にそっくりだから。お前が成長するのを見ているとどうしてもあの人の姿が重なってしまうんだ。だから、もう一度だけ……死ぬ前にもう一度だけあの人と会えたら、などと仕様のないことを考えてしまうんだ。それがたとえ夢だったとしても嬉しいんだがな。あの人は夢にも出てきてはくれないんだ」
総次郎さんは、最近ますます大人へと近づきつつある孫娘の頬を撫でながら、滔々と語った。その表情はどこまでも穏やかで、かえってそれが天宮さんのやるせない思いを更に大きく育ててしまった。
そう。だから彼女はさっきあの姿で『gift』を出て行ったんだ。今頃、総次郎さんと会っているんじゃないかな。
え? そうだよ。あの姿は彼女の御祖母様の姿なんだ。彼女の成長した姿じゃないんだよ。だいたい、僕は他人の記憶を見ることができるだけで、未来を見ることはできないからね。成長した天宮さんの姿なんて分かるわけがない。まあ、御祖母様にかなり似ているそうだから、いずれ数年後にはあんな女性になるかもね。勿論、その時もこの店の常連であることを祈るよ。
そうだ、紬。これだけは言っておくが、どんなにあの子が素敵な女性になったとしても手を出さないように。……返事は?
ん? なんだい蛍。それに柏木も。
ああ。そうだね。彼女の願いは総次郎さんに御祖母様、都子さんを会わせることだったんだ。まあ、都子さんを蘇らせるなんてことは出来っこないから、結果的に言ってしまえば、総次郎さんに嘘をついているようにも取れてしまうね。
でも、それで良いんじゃないかな。今、総次郎さんの目の前には、愛する奥様と孫娘の両方が立っているんだから。
それにしても、あの子は本当に不思議な子だね。
本当は、もう一つ。彼女には願いがあったんだよ。
――もっともっと、御祖父様と一緒にいたい。これからもずっと成長を見守っていてほしいっていう彼女自身の願いがね。
でも彼女はその思いよりも、御祖父様の願いを叶えてあげることを強く願ったんだ。
まったく、優しすぎるよ。他人の願いを叶えることが、自分の願いだなんてさ。
そう思うだろう?