#03
食器を洗う水音とカチャカチャという陶器の擦れ合う音。それにゆっくりと時間をかけて抽出されるコーヒーが奏でる囁くような微かな音。何か特別な理由でもない限り音楽を使用しない『gift』店内では、それらが唯一のBGMである。賑やかに華やぐ商店街の大合唱も悪くはないが、外のそれとは対照的に奏でられる『gift』内の静かな音楽も非常に耳に心地よい。
こんなに静かな時間があるなんて、知らなかった。と、頼子は大分冷めて飲みやすくなったホットミルクに口をつけ、改めて店内の様子をうかがう。今までカウンター内にいる姿しか見たことのなかった柏木は、テラスの椅子をテーブルの上に持ち上げて掃き掃除にいそしんでいる。その柏木に代わって目の前で水仕事をしているのは、御堂と蛍。これも初めて見る光景。残る紬はといえば、街路に面した窓ガラスを拭いている。否、良く見ると、器用にも雑巾を手に立ったままの状態で、うとうととよろめきながら夢の世界へ旅立とうとしている。彼は、まあ、いつもと大して変わらなかった。
友人数名と連れ立って昼時の込み合う時間帯に来ることの多い頼子にとって、今の静かな『gift』の姿はとても新鮮に映る。まるで別空間。一歩間違えれば、誤って他の店に入ってしまったのではないかと錯覚してしまいそうなほどだ。
たまには一人で喫茶店に通うのも悪くないかもしれない。と、そう思ってカップを口に運ぶ。しかし、頼子は一つ引っ掛かりを覚え、カップを持つ手を止めた。
(……あれ。私、どうして一人で喫茶店になんて来たんだろう)
たしか今日は店番を終えて、そのまま気分転換にと商店街へ出たのだった。明るすぎるくらいの商店街の活気にさらされれば、この誰にもどうにもできない悩みなんていやでも忘れられるのではないかと思ったのだ。しかし、その思惑は残念ながら逆効果であった。明るい街の雰囲気は沈んだ頼子にとっては眩しすぎたのだ。頼子は街の活気と自らの気持ちの温度差に、余計に滅入ってしまった。と、そこまではよく覚えている。
はたして、自分は何故この店に来たのだろう。
この夕方の静けさを始めから知っていたのなら話は別だが、入店前の頼子にとってこの店の雰囲気は商店街ほどではないとはいえ、明るいものでしかなかった。ならば、さらに気分が沈んでしまう恐れのある喫茶店に行こうとは思わないはずだ。
しかし、現に晴子はホットミルクを口にしている。気が付いたら『gift』店内へ足を踏み入れていたのだ。
(変だな。…………でもまあ、いいか)
悩みが解消されたわけではないが、結果頼子は静かな店内で甘いミルクを飲みながら気持ちを落ち着かせている。それと先程の御堂の「力になるってあげる」という一言。その少し偉そうな言い方が彼らしい。彼を困らせてしまうだけだろうから相談はしないでおくが、憂鬱な気分が僅かにまぎれたように頼子には感じられた。
この際、喫茶店に入ってしまった理由など気にする必要のない些細なこと。上手く言葉にはできないが、そう思えるだけの確かな収穫が、頼子の心の隙間をほんの少しだけ埋めてくれた。
頼子は残りのホットミルクを口内へ流し込む。最後の一口は、殆どアイスミルクと化していたが、底に沈殿した蜂蜜の甘みが口いっぱいに広がってまた違った旨みがあった。
静かにホットミルクを堪能し終えた頼子は、カップをソーサーに戻しつつほっと一息肩の力を抜いた。自身の表情が若干の穏やかさを取り戻していることを、彼女はまだ知らない。
「天宮さん、おかわりはどうですか?」
そんな頼子の様子を見ていたのは意外な顔であった。耳をくすぐる落ち着きのある低音。突然、頭上から降ってきたその声に頼子はひくりと肩を震わせた。
「か、柏木さん」
彼の方から話しかけられたことなど殆どない。否、これが初めてである頼子は、妙な緊張を覚え、動揺を隠せずにおずおずと顔を上げる。そこには彼女のおかしな様子に首を傾げ、きょとんとした目で覗き込む柏木がいた。その表情は不思議と小動物を彷彿とさせる。すっと通った鼻筋。透き通ったビー玉のような色素の薄い瞳。微かに揺れる栗色の短髪。いつもカウンター越しに見る彼の顔をこんなにも間近で見るこの瞬間も、頼子にとっては初めての経験であった。
「おかわりは?」
「え、あ、あの……」
普段は快活で物怖じしない性質の彼女も、今日は心の重石が作用しているのもあるのかもしれない。珍しく思いを上手く言葉にすることができないで、口をパクパクとさせている。
そこへ正面から助け船が出された。
「柏木。天宮さん怖がってるよ」
喉の奥をくつくつと震わせ、金の双眸を細めながら柏木を諌める御堂。
「大きな柏木さんに見降ろされたら、誰だって怖がります。特に女の子は。因みに自分のような低身長から言わせてもらえば、怖さ3割増しです」
それから、御堂とは正反対に真剣な表情で柏木を諭そうとする蛍であった。後半の発言は柏木へのクレームという名の本心なのであろう。場の空気に乗せて思い切って言ってみたという感が否めない。
2人からの指摘に、柏木ははっとしたように体を後ろに引いた。
「そうか。すみません、急に話しかけたりして。普段は中で作業ばかりしているから、こういうの慣れていなくて。カップが空になったのが丁度見えたものだから……」
「あっ、あの、ごめんなさい、柏木さん。ちょっとびっくりしただけで、考え事してぼうっとしてたのは私だから」
大きな体に見合わず繊細さをのぞかせる柏木。そんな柏木の気づかいをふいにしてしまったように感じ、頼子は恐縮する。
「だから、悪いのは私なの……」
語気が次第に弱まり、柏木を見上げていた視線は誰もいない宙をさまよい始め、やがて降下していく。気は多少紛れはしたが、やはり今日の頼子はどうしてもマイナスの方向に思考が及ぶ。自覚すればするほどに、普段どうやって明るくふるまっていたかを思い出せなくなってしまう。頼子はそうして次の言葉を探し出せずに、空のカップを握り締めた。
「いや、それは違う」
俯いている頼子の上に再び柏木の声が降り注いだ。それは穏やかさを持ちながらも、先程とは全く異なる響きを含んでいる。怯える女の子を前にしどろもどろになる柏木はそこにはいなかった。
頼子ははじかれたように顔を上げる。
「え……?」
「……その。ここは喫茶店だから、お客である天宮さんが悪いなんてこと一つもない、と思う。むしろ考え事とか、ぼうっとできるような時間や空間を提供することがこの喫茶店の、『gift』の役割なんだから。その手伝いができるなら……そうだな、たとえばそれが俺の淹れるミルクなんかで良いのなら、いつだって安らぎのきっかけを君に作ってあげられる」
柏木は言葉を選びながら、とつとつと語る。しかし、少しぶっきらぼうだが真剣なその語りは、頼子の中に直接的に訴えかけてくる何かがある。普段彼が無口でいるのは、ただ単に口べたが災いしているだけなのかもしれない。頼子を元気づけたい、そう思う柏木の心は頼子に十分すぎるくらいに伝わっていた。
頼子はコクリと頷きかえした。正面では御堂と蛍が顔を見合わせて表情を緩ませている。場に流れる穏やかな空気を味わいながら、頼子もいつしか穏やかな表情を浮かばせていた。
そして、
「柏木さん。ホットミルク、もう一杯下さい。蜂蜜多めで、甘いのがいいな」
そう言って頼子はカップを差し出す。柏木はそれを受け取ると、かしこまりましたと一言口にし一礼してカウンターに戻った。去り際に柏木が浮かべたやわらか笑顔は、頼子が初めて目にした彼の顔であった。普段はポーカーフェイスという印象を受けるが、話してみれば表情豊かな柏木。それを目の当たりし、内心驚くとともに、友人達が知らない自分だけの秘密を持ったようで、密かな喜びを味わう頼子であった。
注文をしてから品が来る間、たいていの場合、一人で来店した客は暇を持て余す。頼子もその例にもれずぼんやりとするばかり。このままではまた暗い方向に考えが及んでしまう。この店にいる間くらいは、悩みごとなど忘れて穏やかな気持ちでいたい。そう思い、頼子は視線を巡らせた。
かといって、特に目新しいものは見つからない。落ち着いた雰囲気がいつもと異なるだけで、他に何ら変わりない店内であった。
仕方がなくテーブルに視線を戻す。すると、頼子はふと思い立ち、目の前に手を伸ばした。
(そういえば、いつもはだいたいみんなと同じもの頼むから、じっくり見たことないかも……)
それは三つ折りにされた長方形。女性客が喜びそうなキラキラとした装飾が施された、この店のメニューであった。頼子はそれを開いて書かれた文字に目を通す。
まず、一番始めに目に飛び込んでくるのは、細かく種類別に並べられたこの店のメインであるコーヒーを始めとしたドリンク類。その後にフレンチトーストやサンドウィッチなどのランチメニュー。そして最後に並ぶのがデザートメニュー。こちらも種類が多々あり、ケーキから軽いスナックまで様々な名前が並ぶ。
几帳面に手書きされたメニューを上から下まで追っていくと、やはり頼子がこの店で頼んだことのないものが数え切れないほどに存在した。
(これも。これもこれも……食べたことないのばっかり)
頼子がメニューとにらみ合いを続けていると、その時。
カウンター周辺に響き渡るかのような、腹の虫が盛大に音をたてた。はっとなって腹を抑えるも、それはもう手遅れであった。乙女とは言い難い頼子でも、さすがに女性らしからぬその音に頬を耳まで赤くする。頼子は誰かに聞かれてはいないかと店内に視線を送る。しかし、夕方の喫茶店は人がまばらであることも幸いして、音を聞きつけた者はいなかったようだ。頼子は胸をなでおろす。
が、何か視線を感じる。再び顔を上げると、藍色の丸い瞳と目が合った。視線の持ち主は「えへへ」とごまかすような笑顔を浮かべる。それは洗い終えた食器を拭く蛍であった。蛍の可愛らしい笑顔とは反対に、頼子の表情は若干ひきつる。
「お腹すいてるんですか?」
無邪気で容赦のない蛍の問いかけに、頼子はしぶしぶ頷いてみせた。
「う、うん。そうかも。何か頼もうかなって思ってたところ」
「そうですか」
蛍はそれだけ言うと、再び手元の作業に集中し始めた。それがまた頼子の恥ずかしさを煽っているのを純粋な蛍は知らない。頼子は赤く染まった顔を覆い隠すようにメニューに目を近づけた。
(……あれ?何これ。こんなのさっきあったかな)
頼子はふと疑問を感じ首を傾げた。
それはメニューの一番最後、紙の隅にあった。
「あてすうぇい? 何語?」
アテスウェイ。と、一つだけ孤立した状態でメニューに載ったその品物は、先程頼子がメニューに目を通していた時には見当たらなかったように思われた。
(さっきは見落としていた?)
確かにそう考えるのが妥当ではある。しかし、そんなことは有るはずが無い。頼子は同時にそうも思う。何故ならば、その「アテスウェイ」という文字だけ他とは違った表記がなされているからである。他のドリンクや料理は均等に同じ大きさの文字、同じ黒色で書かれているのに対し、メニューの最後この一品だけは、他より一回り大きく太い筆致、色は金色ときている。その上、金額が書かれておらず、名前を見ただけではどんな物なのか想像のつかないのはメニュー上でこの一品だけである。はたして、こんなにも目立つ仕様のものを見落とすことがあるだろうか。
とはいえ、つい先程はなかった文字が、ほんの一瞬蛍との会話の間に浮かび上がったなんていうことは、現実的な話ではない。それこそ信じがたい。
答えの出ない頼子は右に傾けていた首を、今度は左に傾ける。そして引き続きメニューをまじまじと見つめた。
「天宮さん、どうかした?メニューに噛りついちゃって。そんなに真剣に見られると、そのうち紙に穴が開きそうだけど。あ、もしかしてそんなにお腹がすいて……」
「ち、違う。違うの!」
頼子は、またしてもやってしまった、と後悔すると同時に自らの顔が再び紅潮していくのを感じた。からかうような背後からの声に振り返って見ると、そこには綺麗に食べつくされたケーキ皿が乗ったトレーを片手にした御堂の姿があった。どうやらテーブル席にいた二人の婦人が帰って行ったようだ。
頼子が焦りの色を浮かべる一方で、御堂は面白い物でも見つけたかのように表情を緩ませている。御堂はカウンター内の蛍にトレーを渡しながら、笑い交じりに口を開く。
「違うの?じゃあ、メニューがどうかした?」
「うん。これなんだけど」
ここは素直に疑問をぶつけてしまおう。頼子は笑い止まない御堂にメニューをなかば押しつけるようにして、金の文字を指で示した。御堂は前屈みになり覗き込むようにしてそれに応じた。
「どれどれ。……ああ。これね」
「御堂さん。これ何なの? 見つけてからすごく気になっちゃって」
「うーん…………」
嫌にもったいぶる御堂。頼子は黙って続きを待った。
そして、次に御堂の口から出た一言はこれである。
「頼んでからのお楽しみ、だね」
ちょっとずつ進んできたかな?というかんじです。
今回は柏木君を目立たせたかったのです。