#02
忙しい時間が風のように通り過ぎると、この喫茶店にも長閑な時間というものがやってくる。午後も16時を過ぎた頃、店にいるのは店員4名を除いてわずか3名。テラスでコーヒー片手に読書を嗜む紳士に、フルーツに彩られた宝石のようなデザートに舌鼓を打つ二人のご婦人。
時折聞こえてくるページをめくる音や婦人のかすかな話し声以外は、ほとんど音のない空間。それは心地よくもあるが、眠気もさそうひと時であった。
客のいないカウンター席。ここにも、そんな空気に当てられ、その場の雰囲気に浸る人物が一人腰掛けていた。
「あー、眠い。眠いよ、柏木」
そう言って、カウンターの中で新聞を読む柏木にちょっかいを出すのは、紬である。話しかけられた柏木はといえば、ちらりと一瞬紬を見ただけですぐに活字に目を落とす。ほとんど無視に近かった。
そして少々の沈黙。カウンターに頬杖をついて柏木の反応を待つ紬の横を、自分の背丈に届くかというほどの長いモップを持った蛍が、床を拭きながら小走りに駆けていく。
「おーい。新聞、楽しい?」
「…………」
相変わらず無言の柏木に紬は口をとがらす。と、何を思ったか柏木は新聞を折りたたみ立ち上がった。そのまま何をするのかと紬が目で追っていると、何のことはない食器を洗いだしたのだった。仕事をしろ、ということだろうか。紬はつまらなさそうにあくびを一つ――。
「これ。さぼるな紬」
「あ痛っ……」
「まったくお前は、ちょっと目を離したすきにこれだよ。ちょっとは柏木や蛍を見習え」
柏木が何故急にせかせかと働きだしたのか、その理由は明確になった。買い出しに行っていた御堂が戻ってきたのを新聞越しに認めたからである。
あくびの最中に後ろから小突かれた紬を見て、柏木が口元に笑みを浮かべる。それを認めた紬は慌てて柏木を指差す。
「いや、待て御堂。蛍はともかく柏木は……」
「紬、お客様だ」
荷物を持ち裏へとひっこむ御堂の背中に向かい、カウンターに立つ大男の小さな悪事を暴いてやろうとした紬だったが、その張本人である柏木に話を遮られてしまった。気が付くと御堂はもう裏へ姿を消している。
紬は柏木を睨みつけ一人小さくうなり声をあげた。そんな紬を柏木は早く行けという風に、片手で促す。ますます面白くない思いで立ち上がった紬は、しかし、店の入り口、入店した客に向き直った時には、爽やかな笑顔を作っていた。
「いらっしゃい」
「……こんにちは」
入ってきたのは斜めにかぶったベレー帽が可愛らしい、一人の少女だった。
「ああ、頼子ちゃんじゃん」
紬はその姿を認めたと同時に、少女の名を呼んだ。
頼子と呼ばれたその少女はそれに答えてぎこちない笑顔を浮かべる。
「こんにちは。どうしたの? 今日は一人?」
「……え。うん」
頼子は、この喫茶店『gift』に良く顔を出す常連の一人だ。同じ商店街にある雑貨屋の一人娘で、この年代17、8の女子にしては珍しく、さらさらとした榛色の髪を男子と見紛うほどに切りそろえ、服も華美に着飾らずにひざ丈の半ズボンという出で立ち。先程まで窓辺の席で楽しそうにおしゃべりを繰り返していた3人とはまるで対照的だ。しかし、その服装は決して女性らしさを失ってはおらず、いつも向日葵のように明るい頼子には良く似合っている。
そんな明るく活発な少女というのが頼子の印象であったが、本日はどうも違うようである。笑った顔に陰りがある。そもそも彼女は、普段めったに一人では来ない。仲の良い友人同士4、5人でわいわいと連れ立ってくるのが常である。
その様子に引っ掛かりを覚えた紬は、頼子のすぐそばまで足を運ぶと、軽く腰を折って顔を覗き込んだ。
やはり元気がない。いつもならそんなことをしたら、紬との身長差を気にして食ってかかってくるような子だというのに……。目線をさまよわせるようにして合わすことすらしてくれなかった。
「まあ、いいか。座りなよ」
「うん」
頼子が選んだのはカウンター席だった。その隅の席に腰を落ち着かせると、行儀良く帽子を脱いで脇に置く。
彼女が来店すると必ず始めにホットミルクを注文する。それを知る柏木は何も言わずに静かに支度を始めた。
「どうしたんですか、頼子さん。今日は元気がないです」
清掃を終えた蛍が掃除用具を手にしたままパタパタと駆け寄ってきて、空いたテーブルを片づける紬に耳打ちする。紬の肩のあたりまでしか背がないため、少し背伸びをしているのが傍から見ると可愛らしい。
「さあ。さっきからずっとああなんだよな。まさか、面と向かって聞くわけにもいかんだろう? それとも蛍、お前できるか?」
「え、自分がですか? できませんよう」
蛍は青黒色のショートヘアを振り乱しながらぶんぶんと首を振る。
「まあ、そうだろうな」
「なんですか、その顔は。自分だってやる時はやりますよ」
「へえ。どんな時だよー」
紬は上目づかいに見上げてくる蛍の両頬を、からかいついでに摘んで弄ぶ。モップとバケツで両手がふさがっている蛍は、なすすべもなく目尻にうっすらと涙を浮かべ抵抗する。
「やめてくらはいよ、ふむぎひゃん」
「やめなーい」
「うぐぅ……」
と、まあ。これもいつもの光景であって、止めようとする者はこの店内に一人としていない。からかわれる側の蛍としては、毎度毎度良い迷惑である。いくら抵抗してもやめない紬に、蛍は早くも最後の手段に出る。
「んもうっ!!」
「……痛っ、やめろ蛍。やめろって。それ反則」
突然身じろぎを始める紬。やがて、蛍の頬は自由を取り戻した。
紬は自らのみぞおち辺りを擦りながら後ずさった。一方の蛍は、手に持ったモップの柄を紬に向け、臨戦態勢である。蛍は、手をふさいでいたモップと自らの身長を利用して、紬の腹に容赦ない突きをくらわせていた訳である。
暫くの間、対峙したままの状態が続いていたが、先に動いたのは蛍の方だった。蛍はまだほんのり赤みの残る頬を膨らませ、ふいっとそっぽを向いてしまう。
「ちょっとからかっただけだろう。そんなに怒るなよ」
「知りません。……あ」
蛍はそっぽを向いた先に何かを見つけたようだった。怒りの表情は一時だけで、もう普段の表情に戻っている。常に好奇心旺盛な蛍は、ころころと表情を変化させるのに忙しい。結局は蛍自身、からかわれ怒りながらも本気ではないようだった。
「ん? 何だよ」
「御堂さんが戻ってきました」
「げ……」
蛍とは正反対に、あからさまに嫌な顔をする紬。蛍の目線の際には、確かにたった今裏から戻ってきたところの御堂の姿があった。
「おや、誰かと思えば天宮さんか。いらっしゃい」
カウンター席に頼子を認めた御堂は、エプロンを腰に巻きながら朗らかに笑顔を向ける。紬の女性に対する馴れ馴れしさとは異なり、実に爽やかな対応であった。
「こんにちは。御堂さん」
しかし、やはり頼子は気の抜けたような声で返す。御堂の方に顔を向けたかと思うと。すぐにテーブルの上へ目を落としてしまう始末。そんな普段と違った頼子の様子に御堂も違和感を覚えたようだ。ミルクを入れる柏木にどうしたものかと目を向ける。が、柏木も理由を知るわけではないので、ただ首をかしげて応えるばかり。
「どうしたの? そういえば、今日は一人なんだね」
「……うん」
爽やかな御堂とて、やはり深いところまで突っ込むことは躊躇われるようで、結局紬の時と同じ問答が繰り返された。
「何かあったの? いつもの友達と喧嘩をしたとか?」
あまりにも沈んだ様子の頼子に、御堂は少し踏み切ってみることにしたようだ。一つ席を置いて頼子の隣に腰をおろした。
その途端、御堂は背後に突き刺すような視線を感じ、ちらりとほんの一瞬後ろを振り返る。そこには蛍の横で「仕事はどうした」といいたそうな表情を浮かべ御堂を見ている紬がいた。しかし、御堂は得意げな笑みを浮かべながら、背後へ向け親指で何かを示す。示した先には壁際に立つ年代物の柱時計。
「なるほど、紬さんの負けですね」
柱時計の針がさすのは、16時20分。ちょうど御堂の交代休憩の開始時間であった。
蛍がくすくす笑う一方で、紬が小さく舌打ちをする。休憩時間ならば、誰も文句は言えまい。紬と蛍は、各自自分の仕事へと戻っていった。
さて、そんな二人は置いておき、カウンターでは頼子が下を向いたまま首を振る。
「……ううん。喧嘩なんてしてない」
「そっか。友達の問題じゃないみたいだね。じゃあ、もっと他のことでお悩みかな?」
「え……?」
御堂の問いにはっとして顔を上げる頼子。
「誰だって君の様子を見ればわかるよ。元気なさすぎ。いつもの天宮頼子さんはどこに行ったのかな?」
そう言って御堂は優しげなまなざしで、困惑の浮かぶ頼子の瞳を覗き込む。しかし、頼子はまたしても目線をそらし、そのまま膝の上で手の平を握り締めたまま黙り込んでしまった。なるほど、町の喫茶店の店員に気軽に打ち明けられるような話ではないようだ。
見かねた御堂は小さく息を吐き出すと、椅子から腰を上げた。
「休憩終わりっと」
そして、未だに俯いたまま顔を向けてくれない少女を一瞥し、
「何だか良く分からないけれど、天宮さん。僕で良ければ力になってあげるから、話す気になったらいつでもどうぞ。じゃあ、ごゆっくり」
そう言って、去り際に頼子の肩を励ますようにぽんと一回叩いた。
その瞬間、眼鏡の奥に隠された御堂の金色の瞳が怪しく煌めく。彼が口角を釣り上げ微かな笑いを浮かべたのを他3名の店員は見逃さなかった。
まだ核心には触れませんが、悩める乙女、天宮頼子の登場です。